第2章 Ⅳ
よく晴れた日だ。
こういう日は、洗濯物を干して、庭先で茶でも啜って優雅に過ごしたい。
もっとも、外に洗濯物を干す場所はないし、庭先で入れる茶葉もない。
そして何より、無精者のユナが自らすすんでそんなことをするはずもない。
でも……、
(もう家に帰りたい)
ユナは、空を仰いだ。
手元に展開しているタローカードの結果は、死を象徴する「死神」と、突然の事件を象徴する「塔」と、悪い誘惑を象徴する「悪魔」の三種類が見事に揃っている。
これで何度目だろう……。
(これからの私の未来は暗黒だわ……)
暇ならば、良かった。
けれども、これではただのさらし者だ。
初めての場所で、一人きり。
――占え。
と指示されても、何をどうしたら良いのかまったく分からない。
仕方なく自分の仕事運や、まったく縁もないのに恋愛運を占うしかない。
(休憩になったら、さすがに呼んでくれるわよね?)
しかし、そんなことを望むだけ絶望的な気持ちもする。
今まで、ユナも短期の仕事をしたことがあるが、最初から不審な職場は、とことん労働者には宜しくない環境だった。
がくっと頭を垂れると、一つに結っていた髪が一房落ちてきた。
なんだか、とことんみじめだ。
無気力な視線を、庭園の端に向ける。
(いいなあ……。日陰……)
日が高くなっていくに連れて、完全な日向のこの場所は暑くなってきた。
いっそ、こんなど真ん中ではなく、日陰の隅に移動させてもらえないだろうか。
そんなことを、ユナがぼんやりと考えていると、突如白い影が陽炎のように出現した。
見覚えのある影だ。
何だか、こちらにやって来るような気がする。
「えーっと?」
(あの馬鹿に派手で、いやらしいくらい真っ白で女のような男って……)
「僕だよ。ユナ」
「…………あっ?」
ユナは目を擦った。
昨日と変わらない、古代の彫刻の女神像のように麗しい男は、悪びれた様子もなくいつの間にユナの目前にしっかりと佇んでいた。
(幽霊じゃない?)
しかも、たった一人だ。
供も連れていない。
本当に、この男は、この国で三番目に偉い人間なのだろうか?
「大神官さま?」
「エルフィスで良いよ」
「エルフィス様」
「うん……」
(とうとう、幻覚かしら?)
何だろう……。
この期に及んで、この男は機嫌でも良いのだろうか?
(私がぽつんとしている姿が愉快だとか?)
「もしかして、ユナ。マリベルに、ここで占いをするようにと言われたのかい?」
「あ。はい、すいません。さぼっていたわけではないです」
ユナは慌てて、曲がっていた背中を正した。
(マリベル?)
つまり、エルフィスはここで占いをするよう命令していないということか?
(でも……)
知らないわけがない。
エルフィスが命じない限り、マリベルとて動くはずがないだろう。
閑散としている周辺をぐるりと見渡してから、エルフィスは腕を組んだ。
「椅子がないと、疲れない?」
「いえ。大丈夫です」
「―――大丈夫だなんて、思っていないくせに」
「……はあ」
何故?
エルフィスは、ユナを見透かしたような言動を取るのだろうか。しかも、それが……。
(当たっているから、怖い……)
神官というのは、人の内心を見抜く才能でもあるのだろうか。
(それは、それで何だか気味が悪いかも……)
「じゃあ、椅子は、後で必ず持って来させよう」
「はあ」
エルフィスは、一人で清々しく納得すると、何故かユナの脇に回ってきた。
「あのー…………」
無言で隣に立っている。
(な、何?)
ここで良い人を主張する作戦なのだろうか?
ユナは、どうしようもなく困惑した。
何故、お綺麗な大神官が自分のすぐ脇にいるのだろうか?
しかも、男のくせに、どういうわけか花の甘い香りがして落ち着かない。
いや、ユナは昨日のような緊張はしていない。
ただ、慣れない人が近くにいると落ち着かないだけだ。
一体……。この男は、何がしたいのだろうか。
「僕、一仕事、終わってね」
「え。あ、そうですか」
至近距離でまじまじと見つめるのもどうかと感じたユナは、前方を見据えた姿勢のままに言い返した。
「そしたら、君がここで立っていたから、何だか誘われるように様子を見に来たんだ」
「そうなんですか…………」
様子も何もないだろう。
ユナはここで、ただぽつんと立っていただけだ。
「どうしたの?」
(どうかしているのは、あんたの方だろう?)
「いえ……」
「もしかして、お腹減った?」
「えっ?」
まるで、昨日のユナを知っているような口振りだった。
(神官……、恐るべし)
やはり、昨日お腹が減ってさっさと帰ったユナを恨んでいるのだ。
だから、こんな仕打ちをして、ユナが打ちひしがれているのを覗きに来ているのだ。
(何と、性格の悪い……)
ユナも性格の悪さは人のことを言えないが、この男は神に仕えているとは思えないほどだ。
(そのちゃらちゃらした髪の長さはどうよ?)
「そうだ。お菓子でも持ってこようか」
「い、いえっ。結構です!」
それが優しさなのか、皮肉なのか取れないユナは必死の顔で止めた。
「おいしいお菓子があるんだけど?」
「大丈夫ですから」
「…………そう」
結局、エルフィスはそのまま動かない。
(一体、私にどうしろと?)
早速、ユナが「退職」の言葉を口にするのを待っているのだろうか。
(言ってやろうかしら?)
心の中だけでは強気なユナは、何度も今この時までに自分が感じた不満を頭の中で繰り返した。
こう言えば、すっきりするだろう朝から溜め込んでいた言葉の数々を、頭の中で思い浮かべるが、どうしてもユナは声には出せない。
辞めてどうするのかなんて、そこまで、ユナは考えているわけではない。
常に、自分は仕事にありつけるはずだ……という、根拠のない自信はついて回っている。
そんなことより、ただ勇気がないだけだった。
(そうよ。臆病者の小心者なのよ。私は)
自分でも感じている分、今度は心が痛くなってきた。
沈痛な面持ちで、エルフィスの存在を忘れたかのように、タローカードをお手製の巾着に戻していると……。
「あっ! エルフィス!」
これもまた、唐突に薄茶の髪をした男が突進してきた。
「ひっ!」
おんぼろな卓が壊されるのではないかと、ユナは台ごと持ち上げた。
何とか、男は卓を壊す寸前で、立ち止まった。
「何をやっているんだ! 大神官、お前の親戚だろう。何で俺に押し付けるんだ!」
「何で……って、ねえ?」
エルフィスは横目で、ユナをうかがった。
(ねえ……って、何よ。ねえ?)
焦るユナを尻目に、その紫色の瞳を追うように、薄茶の男の視線がユナに下りてくる。
エルフィスのように華があるわけではないが、実直で凛々しい面差しをした青年。
藍色の外套を纏っていても、青年の体は鍛え抜かれた鋼のようになっていることが分かる。
――神官ではない。
まず格好が違う。ゆったりとした白の衣装を幾重にも纏っているエルフィスとはまるで違う。
しかし、神殿で働いている事務員の制服とも違っているのだ。
そう、まるで……。
軍人のようだった。
証拠に、腰には、ちらりと長剣がのぞいている。
あまりにも、似合っているので、見過ごしてしまいそうだが、神殿での帯剣は禁止のはずだ。
一般人であるユナとて、知っている禁止事項である。
どう指摘して良いのか、ユナが口をぱくぱくしていると、エルフィスが手を叩いた。
「ああ。そうだった。馬鹿だね、セルジ。まだ自己紹介もしていないから、ユナが怯えてしまっているじゃないか?」
「はあっ?」
一瞬、呆けた後で、すぐにセルジはエルフィスを睨んだが、溜息と共に表情を緩めた。
「ああ、初めまして。ユナ=リンディス。俺がセルジ=アルシス。本来なら昨日あんたと、こうして会っているはずだったんだがな」
「は……、初めまして。貴方が?」
セルジといったら、大神官の補佐ではないのか?
てっきりユナは、補佐は神官だと思っていた。
「補佐は、軍人だったんですね」
「いや、違うよ」
エルフィスは笑顔で一蹴した。
「彼は一応、神官だよ。神官服が余りにも似合わなくて、本人も嫌みたいだから、軍人の格好をして神殿の番犬をしてもらっている。彼も一応王族の親類だから、帯剣は許されているんだ」
「…………なるほど」
「おいっ、一応っていうのは、何だ?」
確かに、この目つきの悪い男がエルフィスのようなひらひらした格好をして、神に祈りを捧げる様など想像もつかない。
ユナは手を差し出した。
握手を求めようとしたのだ。
しかし、セルジはユナの手を取ろうとはしなかった。
(この人……?)
明らかに、セルジは機嫌が悪い。
殺気のようなものすら感じて、ユナは逃げたくなっていた。
どうやら、この男にもユナは嫌われているようだ。
(私……、何だか、絶対に辞めないといけない気がするわ)
何故、こうも自分は毛嫌いされていないのか?
まだ仕事に就いて一日しか経っていない。
嫌われることなど、何もしてないはずだ。
涙目になる自分を懸命に慰めながら、ユナは何とか笑顔を繕った。
かくなる上は、この二人が連れ立って、とっとと退場してもらうのを待つしかない。
しかし、エルフィスは、怪しげな含み笑いを始めたかと思ったら、一瞬セルジに目を合わせ自分を指差した。
「そうだ、ユナ。占ってみてよ。僕を……」
「はっ?」
「君も暇なんでしょ? だったら、占ってみてよ。僕の……そうだね。無難なところで、恋愛運にしておこうか?」
「ななななな、何!」
ユナは千切れるくらい激しく首を横に振った。
「いえいえいえ。私如きが。何を、恐れ多いことを」
動揺して呂律の回らないユナを、真正面からセルジが涼しい緑色の瞳で観察している。
(この男を止めて欲しい)
上目遣いで訴えると、セルジは自然な動作でエルフィスの首根っこを掴んだ。
まるで、飼い猫の首根っこを掴むかのようだ。とても主従関係が成立しているとは思えない。
「一体、エルフィス。お前は、何をやっているんだ!?」
「だって、客人は帰ったんだろう?」
「ああ、それは、それは、あちらは、厳重な警備をなされているからな。お前よりははるかに安全だろうな!」
「何、焼きもちかい? 嫌だね、セルジ。とにかく、この神殿の主は僕だ。君は僕の命令に従わなければならない。そうだろ?」
「何だ。それは?」
セルジは、肉厚のある唇を噛んで抗議の姿勢を打ち出している。
――が。この男はエルフィスの部下だった。
ユナはそれを失念していた。
顔つきは変わらないものの、セルジは舌打ちした後にしゃがんだ。
「まあ、仕方ないか……」
訳の分からないことを呟いて、卓の上に肩肘をつく。
(ちょっと、待って)
どうやら、セルジは落ち着く気満々のようだ。
「ねえ、ユナ。昨日は君の腕を見ていなかったものね。実技だよ。さあ……」
「はあ」
そう言われてしまっては、仕方ない。
雇用者の指示は絶対だ。
ユナは渋々巾着の中に戻したばかりのタローカードを取り出した。