第2章 Ⅲ
大神官の仕事は、変則的である。
お飾りの地位だと、エルフィスだって分かってはいるが、いきなり来訪者がやってきたりすると、苛立たしくもある。
しかも、それが断れない自分の身内であるのなら、尚更だった。
「いっそ、神殿から姿を消していれば良かったな……」
エルフィスは、巨大な礼拝堂で祈りを捧げているふりをしながら、嘯いた。
その背後には、武人そのままの格好をしている補佐兼護衛役のセルジもいる。
「まあ、そう言うなって自分の兄貴じゃないか?」
「セルジ。お前は身内だからこそ、面倒という言葉を知らないかい?」
「それは、俺へのあてつけか?」
エルフィスとセルジは従兄弟同士だ。
エルフィスの母親の姉がセルジの母である。
兄弟のように育ち、成人しても尚、セルジは護衛としてエルフィスの近くにいる。
(正直、うっとうしい時もあるけど……)
ただ、母が違う兄と弟よりは、親しみを感じていた。
「もうそろそろ、おいでになるだろうな。お前の兄上様は……」
「基本的に予定時間通りに来る人だけど、訪問がいつもいきなりなのが面倒だよ」
「唐突にもなるだろう? 特にあんな一件があった後だ」
セルジが言いながら、後ろを向いた。
エルフィスは気付いていながら、前方の祭壇から目を放さなかった。
両開きの扉が厳かに開放され、一筋の光が滑り込む。
従者の先導に、当然のように従いながら、緑の外套の裾を割って、黒髪の男がやって来た。
「久しぶりだな。エルフィス」
すぐ背後まで、近づいてきたのなら、エルフィスも知らないふりは出来なかった。
「お元気そうで。兄様」
昼間でも無数の蝋燭に囲まれて、薄暗い大神殿。
国立神殿の奥に設けられている聖地は、アルメルダ国で一番尊く、権威のある建物で、執務を行なう本館からは分からないくらい遠く離れているし、高位の神官でなければ足を踏み入ることも出来ない場所だ。
(ここだけが、別世界のように古臭い場所……)
エルフィスが大嫌いな……、しかし一生離れることのできない場所だ。
エルフィスの兄、この国の第一王位継承者のレンフィスは微笑していた。
耳を隠すように、顔の下くらいまで髪を伸ばしているが、後ろ髪は短い。
水色の細い瞳が特徴的な人だった。
がっちりした体格は、エルフィスのように女性的な体形とはまったく造りが違っていて、身長もエルフィスの頭一つ分高い。
母親が違うせいだろうか、並んでいても、兄弟と指摘されたことは一度もない。
エルフィスは、自分の美貌に自信を持っていた。
この顔で、得することもあれば損することもあったからだ。
しかし、レンフィスは性格をそのまま顔に表したかのように優しい面立ちをしていたが、特に美麗だとか、見た目が良いとか、そういう顔ではなかった。
凡庸……。
そう、陰口を叩いている一派がいることをエルフィスが知らないわけではない。
そして、その一派が自分を担ぎ出そうとしていることも、エルフィスは把握している。
(まったく、頭が痛いことばかりだ)
しかし、レンフィスはエルフィスの苦労などまるで素知らぬ顔で、きょとんとしていた。
「どうした。エルフィス、元気がないようだが?」
「いいえ。僕は兄様の健やかなお顔を拝見できて、嬉しい限りですよ」
「健やか……か」
「はい」
意味深に呟く、兄の憂いを機敏に感じ取ったエルフィスは、わざとらしく莞爾した。
「兄様が襲われたと耳にしてから、僕はずいぶんと気を揉んでいましたからね」
「別に、あのくらい軽傷だ。階段を踏み外した程度だ」
「でも、宮殿の階段から突き落とされそうになったことには間違いない」
「子供の悪戯だろう」
「宮殿の中で、貴方に対して悪戯したくなるような輩がいたら、困るのです」
「エルフィス。どうして、よりにもよってお前にばれてしまったんだろうな」
「俗世と離れているので、情報だけはちゃんと仕入れるようにしているんですよ」
エルフィスは飄々と告げた。
情報といっても、すべて女性との会話の中で仕入れたものだが、それはあえて言わないことにした。
「私はな、お前にだけは苦労をかけたくないと思っているのだがな」
レンフィスはセルジとよく似た溜息を吐くと、眦を下げた。
「お前は私の弟だ。わざわざ危ない真似をしなくても良いのではないか? 事を公にして、王宮警備隊にまかせたらどうだ?」
「貴方の弟だからこそ、僕はこの事件に関わらなければならないと思っています」
「……エルフィス」
宮殿で何者かに突き落とされた際、幸いレンフィスは無傷だった。
何者かの悪戯……。
それで、済まされないのは、立て続けにエルフィスも狙われたからだった。
(ヘラがなあ……)
毒を盛られたことは、兄にも神殿の者にも知らせていない。
ヘラの関与は、決定的にはなっているが、逃げられてしまっては意味がない。
しかも、ヘラは精霊魔法という古の業を使ったのだ。
「やはり、壁のことだろうか?」
「……でしょうね」
エルフィスは、頭上にそびえる巨大な金色の十字架を見上げた。
神殿では、主神アルキスと共に、歴代国王も祀っている。
壁を張ったのは、五百年前の国王ルーガスだ。
「昔、我が国は戦争回避の手段として、大きな壁を魔法の力で張りました。それを壊そうという動きがあるのは確かです」
「壁は必要ないか……な?」
「僕は、まだ必要だとは思いますけどね。あの壁の外にこちらから出られれば良いのでしょうが、我々は外国の様子すらまだ知らない。そんな状態でいきなり壁を開放してしまったら、大変なことになってしまうでしょう」
「では、何故?」
「この不況で、外に出れば金が入って来ると安易な考えを持つ者がいるからでしょう。もっとも、いろんな考えを持った輩がいます。犯人探しは慎重にならなければならないでしょうね」
「…………そうだな」
レンフィスは顎に手を当てた。それなりに考えているらしい。
(兄様は、素直だから良い)
エルフィスは、レンフィスを面倒だと感じてはいるが、嫌いではない。
よくあの宮殿で育って、性格が曲がらなかったと感心もしている。
むしろ、厄介なのは……。
「兄様……、父上の容態はどうなのですか?」
エルフィスは、再び手を組んで神に祈るふりをして、神妙な口振りで尋ねた。
「相変わらずだよ。良くも悪くもないと言ったところか。大丈夫だと仰ってはいるが、ちょっと動いただけで、すぐに体調を崩される」
「そうですか。一度お見舞いにうかがいたいと思っているのですが……」
憂いを含んだ表情を作りながら、そんなことはまったく思ってもいない自分にエルフィスは気付く。
エルフィスはあまり父親と話した記憶がない。
親子として愛情をもたれているのかどうか、確かめる以前の問題だった。
その点、レンフィスは次代の国王候補として、父に手塩をかけて育てられた。
(もっとも、そのおかげで、心優しく模範的に育ってしまい、面白みのない男になってしまったけど)
「仕方ないさ。お前も忙しいんだ。見舞いになんかに顔を出したら、叱られる。そこまでお加減が悪いわけではないからな」
「有難うございます」
エルフィスは、当然のように待ち受けていた兄の言葉を受け流した。
聞きたいことは、そんなことではないのだ。
「兄様。…………フェルは、宮殿に顔を出していませんよね?」
「彼も忙しいのだろう。何しろ、アルメルダ近衛軍の長官だからな」
「そうですか」
適当に相槌を打ちながら、エルフィスは弟フェルナンディのことを考えていた。
最後に会ったのは、去年の春だっただろうか?
おそらく、レンフィスもエルフィスと一緒で、春以降会っていないに違いない。
「書簡では、やりとりをしているんだがな……」
「何事もなければ良いのですけどね……」
「やはり、護衛をつけるか?」
エルフィスは、何処までもお人良しなレンフィスの垂れ目に一瞥送って、苦笑した。
(そういう意味ではない)
エルフィスは、弟の身を案じているわけではなかった。
「その必要はないでしょう。あちらはそういうことが本業なのですから……」
「そうか。長官……だものな」
レンフィスは、エルフィスが事件を表沙汰にしたくない理由も、質問の意図すらも分かっていない。
(それでいい)
「エルフィス……」
レンフィスはぶるっと肩を震わせた。厚手の外套を纏っていたが、それでも大神殿は冷えるらしい。
エルフィスは、薄手の神官服だったが、幾重にも着ているので、そんなに寒さを感じなかった。
「ここは、少し寒いな。外に出ないか。エルフィス?」
「しかし、兄様、外は危険ですよ。機密性の高い施設だからこそ、ここを貸しきったのです」
「別に、大丈夫だろう。今日はセルジも私の従者もいるし、それにこの外套には覆い(フード)がついている。頭から被れば、私が何処かの宗教人だとでも思うだろう」
レンフィスは、エルフィスの背後に侍るセルジに視線を送る。
セルジが根負けしたように、頷いていしまったので、エルフィスは、レンフィスに従わないわけにはいかなくなってしまった。
渋々、エルフィスは了解した。
「しかし、宗教人とは……」
宗教団体の承認も、大神官であるエルフィスにとって、仕事の一つだ。
国教ルビ教以外は邪教の烙印が押され、枢密院お抱えの神兵に駆逐されてしまう。
だが、ルビ教の神々に即している宗教ならば、開くのは自由であり、認可さえもらえれば国に保護してもらうことが出来るのだ。
ルビ教の主神アルキス以外にも、アルキスの母や、妻など、特定の神を崇拝する宗教は流行っている。
経済不安ということあって、庶民はアルキスだけの信仰では駄目だと思っているらしい。
おかげで、エルフィスは適度に忙しいのだ。
「では、兄様、少し庭を歩きましょうか?」
「庭?」
「今の時分、季節の花が綺麗なのですよ」
―――今日は、ユナが来ている。
実際、エルフィスはユナが気がかりだった。
急なレンフィスの訪問で、マリベルに適当に託してきてしまったが、あの少女のことだ。盗み聞きしてしまった内容を照らし合わせると、何をしているものか……、得体が知れない。
いくら何でも、兄に引き合わせるつもりもないが、初勤務の様子をちらりとうかがってみたいと好奇心が募っていた。
(庭園からなら、内部の様子も多少は分かるだろうし……)
おそらく、ユナはマリベルが指示する総合窓口にいることだろう。
マリベルは適当に雑用を言いつけているに違いない。
「それはいいな」
単純な兄は、すぐに了承した。
「おい、エルフィス?」
「ああ、そうだ。忘れてた」
セルジに肩を叩かれて、エルフィスは思い出したかのように振る舞った。
「……兄様。精霊魔法に精通している人物は、王室以外の人間にもいるものですか?」
「どうして、そんなことを訊く?」
レンフィスは、あからさまに眉を顰めたが、エルフィスは無視して、勝手な講釈を展開した。
「精霊魔法は、主神アルキスに取り巻く七十二の精霊を操る魔術ですよね。ですが、五年前のルーガス国王の御世から徐々に失われていった。我々王族以外には……」
レンフィスもそこまで聞くと黙っていられないのか、口を開いた。
「ああ……。神殿が火事になって、貴重な書が焼けてしまったからな。口伝で伝えられたのは王室関係者のみのはずだ」
「――そうですか」
(……やはり)
「もしかして、エルフィス。それは私とお前を狙っている者に関係があるのか?」
レンフィスは何も知らないようだった。
エルフィスは、レンフィスの純粋な瞳から逃れるように歩き始める。
「個人的な興味ですよ。兄様。お気になさらずに」
前を進むセルジが神殿の扉を開いたのと同時に、レンフィスが片目を瞑った。
きらきらと眩しい春光が、エルフィスの白ずくめの格好を煌びやかに染めあげていた。