続編 9
ヘラから言われずとも、ユナとて多少は危機感を抱いて勉強をするつもりだった。
つい先日の嵐の際には、至らない自分に落ち込んだばかりだった。
亡くなった両親のためにも、異常気象を巻き起こす原因となっているこの国の「壁」を壊したい。
そのために、魔術は覚えたいと思っている。
……だけど。
ユナは超人ではない。
一日に理解できることは、恐ろしく少ない。
それが常人の半分くらいな勢いだということも、つい最近確信してはいる……。
――でも、それを周囲は信じてくれない。
ユナが手抜きをしていると感じてしまうようだ。
ヘラはこんなことも出来ていないのかと、ユナを睨めつける。
たとえば、教書のここまでを今日中に学んでおくように……と指示されても、ユナには最初の一行目からさっぱり分からないのだ。
大体、アカデミーの生徒にも教えていないような国家の最高機密を、まともに学校も出ていないような小娘に学ばせようとしている時点で、間違っているのではないか……。
いや。
すべて言い訳なのだ。
自分のことなのだから、すべて、分かっている。
……恐ろしいくらい、ユナの頭が悪いのだ。
出来が良くない相手に、天才がいくら親身に教えを施したところで上手くいくはずがない。
そして、勉強と仕事、妹の面倒……。何もかもを背負うには、ユナはあまりに体力気力共に不足していた。
(……疲れたなあ)
……毎日がいっぱいいっぱい。
地面に這い蹲うようにして、何とか生きている人間に対して、愛だの恋だの……。
「ばかげてる……」
(そんな余裕あるわけないじゃないの……)
金持ちと天才と体力のある方々は余裕があるから、そんな余計な心持ちに気づいてしまうのだ。
貧乏人の愚か者は、息を吸うだけでやっとだ。
毎日、同じ事を繰り返すだけでも大変な労力なのに、そんな心の付属品と戯れている暇なんてあるはずもない。
何が「恋する者同士」だ。
生きているうちに、そんな色めきたった感情に、ユナが遭遇するはずなどあるはずがない。
あんなエロ男のことなど、まったく意識の欠片もしていない。
エロフィスなんて、それこそ神によって裁かれれば良いのだ。
「あれ? お姉ちゃん。ご本が反対だよ!」
「えっ。あらあら。そうだったかしら」
可愛い妹のカナにまともな指摘を受けて、平然を装いながら、上下逆だった教書をユナは戻した。
しかし、教書を開いている両手には、不自然なくらい力がこもる。
(何よ。何よ……)
例の沐浴事件から七日が経った。
あの夜、恥ずかしさと痛ましさからエルフィスの訪問を受け入れることが出来ず、ヘラに任せてしまったユナだったが、「また来る」との意味深な一言に朝方まで慄いたものだった。
お休みの挨拶がなかった時点で、恐ろしかったのだ。
……しかし、思わせぶりな台詞を投げ捨てて行ったくせに、エルフィスはユナの部屋には来なかった。
ヘラがいるせいだと思ったが、翌日ヘラがユナのもとを去っても姿をあらわさなかった。
……そして、時間が経っていった。
あれから一度もユナはエルフィスには会っていなかった。
――何故?
隣の部屋で寝起きしていて、職場も同じなのに、たったの一度も顔を合わせないというのは一体どういうことなのか。
ユナは被災した自宅の状況など色々聞きたくて、エルフィスと顔を合わさなければならなかったのだが、ユナがどんなにエルフィスに会おうとしても、彼を一目見ることすら叶わなかった。
答えは簡単だった。
エルフィスがユナを避けているのだ。
食事の時も、仕事の時も、風呂の時だって……。
すべて、ユナとは被らないように、わざとしているのだ。
どうして、そんなことをするのか?
あの夜、ヘラにまかせてユナが顔を出さなかったことを、恨んでいるのか?
(そんなに小さい男だったのか。アイツは……)
ぐぐぐぐっ……と。
新品の教書がユナが強烈に握りしめていったために、指の形に折れていった。
しかし、お世辞にも自慢できない貧相な裸を見られて、平気な顔でのこのこ会えるほど、素晴らしい精神力をユナは持ってなどいない。
笑顔で「見ちゃいや……」とでも言えば良かったと?
(これも私が悪いわけ? 私のせいなの?)
分からなかった。
当の本人が出て来ないのだ。
とっちめることも出来ない。
そして、ユナはエルフィスに対する噂を今日出社した神殿で手に入れた。
「エルフィス様は、新しい女性に夢中みたいよ」
こそこそと小声で囁き合ってはいたが、あれはユナに聞かせるためにわざとやっていたのだろう。
今まで、国立神殿の優秀な女性たちは、ユナがエルフィスのお気に入りだったのが気に入らなかったのだ。
マリベルがいないのも災いした。
恋するフェルナンディの影響で改心したマリベルは、表立ってユナを馬鹿にはするが、裏でこそこそ噂話をするような女性ではなくなっていた。
しかし、マリベルは嵐の被害状況を確認するために、都を出立したエルフィスの弟・フェルナンディを心配して、有給使って追いかけて行ってしまった。
こうして、ユナはエルフィスに捨てられた女としての称号と「ざまあ見ろ」という女達の蔑視を共に手に入れたわけだ。
(いやいや。捨てられたもなにも……)
何か始まっている間柄でもないのだが……。
「お姉ちゃん、本が本でなくなっていってるよ」
「あらあら。いやだわ。どうしたのかしら。私?」
にっこり微笑んでみたが、顔がひきつってしまった。
ともかく、仕事から帰ったら勉強だ。
食事を作らないだけマシなんだから、エルフィスのことは忘れて、真剣にやらなければならない。
(真剣に……)
出来るのだろうか?
雑音が大きすぎる。
ユナにはむいていないのだ。
不器用なのだ。
たった一つのことしか集中できない。
……だから。
「ユナァァァァッ!」
廊下からこだまするセルジの怒声。
「あああ……」
―――頼むから、静かにしてよ……。
もう、頭がどうにかなる寸前だった。




