続編 7
――もう、消えてしまいたい。
後悔と絶望と羞恥で、顔を真っ赤にして、あてがわれた部屋に戻ったユナは、意外な人物がカナと共にいることに気が付いて、速やかに動転した。
「どうして、貴方がここに?」
カナを預けたのは、おかっぱ頭の神官だったはずだ。
彼のエルフィスに対する澄みきった信仰心を見たせいで、ユナは無駄なやる気に火をつけ、エルフィスと一緒に浴場などに行ってしまったのだ。
(……あの男には、神聖という言葉が無意味なようですよ)
そんなふうに、あの神官に対しては嫌味の一つでも、お見舞いしてやろうと思っていたのに、寝台に腰をかけて、優雅に微笑えんでいるのは、ユナが今二番目くらいに会いたくない人物だった。
――なぜ、ここに?
「……ヘラさん」
「久しぶりですね。ユナさん」
あっけらかんと言い放つ。
葡萄酒の入ったグラスを片手に、優雅に足を組んでいる。
彼女の膝の上でカナは気持ち良さそうに、寝息を立てていた。
黒のスカートのスリットから、すらっと長い脚がのぞいていて、白のブラウスの襟元からは、豊満な胸の谷間が垣間見えた。
肩までの茶髪が緩い波を描き、彼女がグラスを傾ける度に艶っぽく揺れる。
女のユナでさえ目をひかれてしまうのだから、男であればなおさらだろう。
――エルフィスとヘラ。
過去に二人の間に何があったのかユナは知らなかったが、たまに交わされている二人の艶っぽい会話を聞く限り、ただの上司と部下の関係ではなかったのではないかと勘繰っていた。
(……何で、今?)
間が悪いにも程がある。
もちろん、エルフィスの言う通り、上にエルフィスの上着をかぶってきたユナだったが、しかし下の服は未だにびしょ濡れであり、しかも透けているのだ。
おかしな想像を掻きたてられてしまったら、嫌だった。
「ここに神官さんいませんでした。私は彼にカナを託して行ったんですが?」
「ああ、それなら大丈夫ですわ。あれは私なので」
「はあっ!?」
――何だと?
「それはまた……びっくり人間度が高まったというか……」
ユナの中では、盗聴、盗み見と同じくらい、犯罪度が高かった。
魔法で、そんな応用ができるとは知らなかったし、やって良いことと悪いことがあるのではないだろうか?
あんなに敬虔な神官を、この魅惑の肉体美女が化けていたなんて、考え及ぶはずがない。
――見抜けるはずがないだろう?
怒りと畏れのないまぜになった目で、ユナはヘラを見下ろしたが、しかし、ヘラは悪びれた様子どころか、むしろ胸を反らせて得意げに言った。
「おかしいですね。ユナさん。私は本当に、神官に化けたわけではありません。貴方の記憶の片隅にある神官の印象を利用したまでのこと。言うなれば暗示です。以前、アルメルダの過去の魔法術の体系の話をした時に、こういった使用法があることもユナさんにはお伝えしたはずですが? 記憶にないのですか?」
そういえば、そんなことを言っていたような気がしないでもない。
「大体、貴方は……」
「ごめんなさい」
「えっ」
「私が悪いんです」
ユナは間髪入れずに謝罪した。
要するに、ユナがすべて悪いということなのだろう。
上手い反論が思い当たらないのだから、仕方ない。
どうせ、楯突いても、罵っても、力技でも口喧嘩でも勝てる相手ではないのだから、何だかよく分からないことでも、先に謝った方が断然良いのだ。
「分かれば、宜しいのです」
思いがけないほど、反省に満ちた意外なユナの姿に気を緩めたのか、ヘラは淡い笑みを口元に浮かべた。
「私も、貴方を試したことは悪いと思っていました。本当に、ユナさんは、まったく気づいていないようだったので、つい面白くなってきちゃって。でも、私が神官として話したことは全部本当ですよ」
(そうなの……かしら?)
怪しい。
でも、もう何でもいいのだ。
濡れた体のまま、廊下を駆けてきたせいで、震えるほどに寒くなってきた。
速やかに服を着替えてしまいたかった。
そのための謝罪でもあった。
くしゃみをすれば、案の定水浸しのユナの服に、今更ながらヘラが目をやった。
「あら、まあ……、ユナさん。びしょ濡れじゃないですか?」
「分かってて、言ってません?」
「エルフィス様のせいですか?」
「――な、何を?」
あまりに単刀直入すぎて、ユナは後ろにひっくり返りそうになった。
「ああ。変な意味ではないです。だって、エルフィス様が貴方に手を出したにしては、浴場に行ってからの時間が短いでしょう。どうせ貴方が自発的に、お湯の中に落ちたんでしょうけど?」
「うっ」
何で、ユナの周囲の人間は見てきたかのように、こういうことが分かってしまうのか?
それとも、ヘラは覗き見していたのか?
もう何をされても驚いてはいけない……と、ユナは肝に銘じた。
「でも、それで落ち込んでいるようでもなさそうですけど?」
まるで、ユナが挫折した職業占い師のように、ずばりと当てて来るヘラは、顔を逸らして距離をとっているユナにつきまとうように、グラス片手に後ろからついてきた。
(一体、何なの。この人?)
正確には「この人たちだった」
どうして、ユナの周囲には、はた迷惑な人達ばかりなのだろう。
勝手に、自分の内面をずけずけ口に出されることほど、嫌なことはない。
「そうですね。意外にそこまで頑張った自分に、エルフィス様が手を出してこなかったことに落ち込んでいるとか?」
「はあっ!?」
――そうだったのか?
ユナは自分の裸をエルフィスに見られて、落ち込んでいるのだと自身で思っていた。
……いや。しかし。
ヘラの言葉では、まるでユナが変態みたいじゃないか?
(襲ってきて欲しいなんて、私は馬鹿なの?)
……断じて、違う。
(……どうせ、私は魔法も使えなければ、胸だって貧弱ですよ)
先程、ユナを抱きしめていたエルフィスが、あっけないほど簡単に離れたのは、あまりにユナの胸が貧しかったからではないかと、少し疑っていた。
(顔と毛深さと、口臭でないとしたら、それしかないような気も……)
そういえば……。
過去を振り返ってみれば、いつだってエルフィスは暴挙に出る寸前で、ユナから距離を取っていた。
自分の悪戯通り事が運んでいると、楽しげにひっついていくるけれど、何処か線引きをしているようだった。
(いつも、口では訳の分からないことを言っているけれど、私のことなんて本気じゃないのよ。そりゃあ、もう最初から分かっているんだから)
だから、ヘラには、放っておいて欲しかった。
特に今は……。
彼女と自分を、どうしても比べてしまう。
やっぱり、エルフィスにはヘラのような色っぽいお姉さんがお似合いなのだ。
割り切った大人の付き合いをする方が、彼には向いているのだろう。
「ユナさん。何か勘違いしているようですけど?」
複雑な気持ちで、部屋の中をうろうろしているユナに、ヘラは大きめの手拭と着替えを差し出してきた。
ユナは探しているようで、実はまったく周囲を見ていなかったらしい。
「私、エルフィス様のことを好きなわけではないですからね?」
「へっ?」
手拭を受け取ってすぐ、懐から手を突っ込んで全身を拭いていたユナは、素っ頓狂な声を上げた。
「違うんですか?」
「ええ。だから、貴方は、変に意識しなくていいんですよ」
「……はあ」
どう答えたらよいものか……。
大体、そんな恋する乙女な話を、どうしてユナにするのか?
言葉に迷ったユナは、唇を尖らせて嫌味を吐くことにした。
「そうかもしれませんね。じゃなきゃ、エルフィス様を嗾けるような、こんな透け透けの服を私に用意しないでしょうし……」
「あっ、それは、正真正銘、古より定められている沐浴担当の神官が身に着ける衣服ですよ。もちろん、濡れても良いようには作られていますが。湯の中に落ちると想定して作られていませんから。つまり、貴方の場合は自業自得ですよね」
切れ味抜群の嫌味が、更に研磨されて、自分の方に戻ってきたような痛みだった。
そうだろう。ユナとて、好きで湯の中に飛び込んだわけではない。
やはり、ヘラにはユナごときが口では勝てないようだ。
「ちなみに、ユナさん。私が好きなのは、レンフィス様なんで、記憶に留めておいてくださいね」
「………………はあ?」
今、なんと言ったのだろう?
(レンフィスさまって、確か?)
「あっ……」
途端に大声を上げそうになって、しかし、カナの存在を思い出したユナは自らの口を掌で覆った。
(嘘でしょう?)
いきなりの告白だった。
ユナは焦って二、三歩後退する。
背中が壁にあたって、濡れた着物と更に密着する羽目となってしまった。
寒い。もう何もかもが……。
「そう……なんですか。本当に本気で?」
「ええ」
即答されて、更に驚いた。
レンフィスと言えば、アルメルダ神国・第一王子……。
エルフィスの兄ではないか?
顔はまったく似ておらず、エルフィスの兄とは思えないくらい男らしい容貌をしていたような気がするが……。
「一体、どうして、レンフィス様が?」
「子供の頃から、あの方をお慕いしているのです。ああいう朴念仁だけど、計算高い人って素敵ですよね」
「えーっと……」
同意を求められても困る。
ユナはレンフィスのことなど、何一つ知らないのだ。
会ったのは、一度か二度くらいなもので、人となりなど知りもしない。
すっかり硬直してしまったユナにヘラは強引に握手をしてきた。
「ええ。だから、仲良くやりましょう。同じ恋する者同士。協力してくださいね」
「……恋?」
「はい」
「恋って?」
(何だ。それ)
ユナの日常からもっともかけ離れた一言がとうとうお目見えしてしまった。
聞き慣れない、言い慣れない言葉に目を回していると、ほろ酔い加減に出来上がっているヘラがころころ笑っていた。
「まあまあ。ユナさんったら。その様子では、いまだに自覚もないようですね。それはそれで良いんですけど。でも、貴方の気持ちなら分かりますよ。私とエルフィス様の仲に嫉妬しているんでしょう? でもね。私とエルフィス様が軽口を叩けるのは、その程度の間柄だからです。もしも、レンフィス様の前で同じようなことが言えるのかと問われば、私には無理でしょう」
「どうして?」
「好きだからですよ」
――かあっと、聞いてるこっちの顔が赤くなってしまう。
初恋すらおぼろげ過ぎて風化してしまっているのに……。
天地がひっくり返っても、あの家で暮らしている限り、人並みの恋愛なんぞ望めないと思っていたユナが美しい女性と恋話をしている。生きていると、色々あるものだ。心底ね運命が怖い。
「……もっとも、私の場合、ただの片思いですけどね。きっとあの方は、相応しい奥方を迎えるのでしょう。今まで度重なる天変地異のために自重されていたようですけど……」
「それは、それは……」
何と慰めたら、良いのか経験の浅いユナには分かりもしない。
でも、彼女はユナの想像以上にたくましかった。
「でも、どうせ諦められそうもないですから、この際、愛人でもいいんですよ」
「……いやいや、愛人はどうかと」
「でもね。恋とはそういうものなのですよ。貴方だって、理性では割り切れない感情を味わっているはずかと思いますが? ユナさん」
「さあ、どうでしょう。よく分かりません」
「ふふふ。強がっていらっしゃるんですね。貴方は変なところで依怙地になるから……。でも、それこそが、悪影響なのかもしれません」
「はっ?」
「貴方の魔法がちゃんと行使できない理由ですよ」
意味が分からない。
言葉が理解できないのは、ユナの頭が悪いせいなのか?
「……ということで、いざという時のためにちゃんと基礎だけはやっておきましょうね」
「ヘラ……さん?」
ヘラはグラスの葡萄酒を飲み干して机に置くと、ユナの肩にそっと手を置いた。
――嫌な予感がした。
こういうユナの悪い予知だけは、百発百中で外れたことがない。
ヘラは、もう片方の手で、おもむろに部屋の済みっこを指差した。
(――ああ)
そこには、嵐で無くしたはずの魔法の教書+未知なる魔法の本が山積みになって置かれていた。
「用もないのに、私が神殿なんかに来るはずがないじゃないですか」
「……でしょうね」
「天災とはいえ、サボりは許しませんよ」
「お手数をおかけいたします」
「さあ、服を着替えたら、はじめましょう」
「はい」
ユナは、肩を落とした。
エルフィスに言われるまでもなく、引きこもり決定のようだった。