続編 6
「ユナっ!」
エルフィスの叫声がはるか遠くに聞こえる。
幸いなことに、体は何処も打っていないようだ。
そこそこの深さがあって良かった。
お湯を掻き分け、勢いよく顔を出すと、すぐ目の前にエルフィスがいた。
エルフィスも、すぐさま温泉の中に飛び込んでくれたらしい。
「大丈夫?」
ユナが立てないと見越したのか、エルフィスが背中に手を回して、抱き起こした。
「だ、大丈夫ですから。恥ずかしいですから。はっ、放して」
「君の恥ずかしさは、今に始まったことじゃないじゃないか。ああ、すっかりびしょ濡れになっちゃった」
「申し訳ありま……。あれ?」
謝罪をしようとして、ユナは目を丸くした。
とっくに目隠しは、湯の中ではずれてしまっていた。
エルフィスの身体が至近距離でよく見えるのだった。
――で。
そして、気づく。
彼が裸でないことを……。
エルフィスは、しっかりと湯浴みようの白服を着ていた。
白い長着は水を含んでも透けていない。
一体、これは…………。
「どうして?」
「えーっと、特に、聞かれなかったから……かな?」
「はあっ!?」
あっけらかんとなんということを言うのか。
今まで何のために、ユナは目隠しをしていたのか……。
(話さなかったけ?)
「……そんな、酷いですよ。私が何のために、こんな目隠しまでして、裸を見ないように頑張ったと思ってるんですか」
「でもさ、ユナ。普通は想像つくものでしょう。僕、大神官だよ。建前上は、衆人に肌を晒すのは禁忌だ。そうじゃなきゃ、まずセルジが君をここに通すのを止めているはずさ」
「それは……」
「神殿内で、いきなり裸で君の前に登場する勇気は、さすがに僕にもないかな。頑張ればできるかもしれないけど」
「頑張らなくていいです」
「だから、裸じゃないんだ」
……確かに。
エルフィスの言う通りだ。
……そうだった。
ユナは、エルフィスのことを「大神官」として意識していたはずではないか?
大神官の沐浴の手伝いという儀式めいた仕事が、どうして公衆浴場で父の背中を流した思い出と繋がってしまったのか……。
自分がすべていけない。
それは十分に分かっている。
だけど、感情は収まってくれなかった。
「……エルフィス様は、結局、そうやって、私を誤魔化すんです。そうなら、最初に一言私に言ってくれたら、良かったじゃないですか? やっぱり、ひどいですよ」
「いや、あまりにも君が可愛いから、つい……ね」
「ほら、またそんなふうに私をからって」
「いや、本当のことなんだけど」
「………………」
可愛い……?
(嘘つき神官め)
本気でないと分かっていても、その一言で、何もかも許せそうになってしまう自分が怖い。
更に、図らずも、飛び込んでしまったお湯が気持ち良いのも、悔しかった。
ユナの予想通り、風呂場は広かった。
洗い場と温泉の境には丸石が敷き詰められているが、目に見える景色はまるで、湖のようだった。湯殿を取り囲む松明の炎が昼間より明るく周囲を照らしていた。
古式ゆかしい浴場の全景と、薔薇の花弁だらけの目前の対比に、ユナは目を凝らして見入っていた。
顔が火照って仕方ないのは、花の香りに酩酊しているせいだと言い聞かせていたが、多分それは違うのだろう。
絶対、無闇に近いこの男のせいだ。
「――でもね、ユナ。やっぱり、僕はこんな面白いこと絶対に止められないと思うんだ。何度でも同じことをするだろうね。実際、もう少し君を上手く宥められたら良いかなって、反省はしているけれど、自分が悪いなんて、これっぽっちも僕は思っていないんだ。だから、それに関しては、ごめんね。ユナ。一応、謝っておくよ」
「それは、どういう?」
「分からない? でも、直接的に言えば、君はまた怒るでしょう?」
「何だかよく分かりませんが、信用はできません」
「じゃあ、こう言えば分かってもらえるかな。僕は君の面白さをかっているんだ」
「………………まったく、嬉しくないです」
「口説いても怒るのに、この表現でも駄目なのか。困った娘だね。本当に君は」
(口説く? 私を?)
一体、いつユナが口説かれて怒ったのだろう。
駄目だ。
真に受けないで努力より先に、彼とは永遠に会話が成立しないことが理解できて、ユナはかえって冷静を取り戻していった。
「もう、いいですよ。エルフィス様。全部、私がいけなかったんだと分かりましたから。ともかく、ここから上がりましょう。まず、いい加減、私から放れて……」
「何で?」
さも当然の如く、首を傾げられて、ユナの方が面食らった。
「何でもです。エルフィス様用の湯殿なのに、私がいつまでも、浸かっているわけにはいかないでしょう? こんなこと誰かに知れたら」
「恐れ多いとか? ははは。そんなことないって。僕自身に何か力があるわけじゃないんだから。これは事件だよ。もう浸かっちゃったんだ。ユナもゆっくりしていけばいい」
「そういう問題ではなくてですね」
なぜ放れろと言っているのに、近づいて来るのだろう。
エルフィスの意外に逞しい胸板を、ユナは必死に押し返して抵抗するが、悲しいことに、彼はびくともしなかった。
「必死になって、可愛いなあ」
「何をするんですか?」
こちらの焦燥感たっぷりの表情とは逆に、エルフィスは悠然と笑い……、
「うぐっ」
更に強く抱きしめてきた。
(何なのよ。もう……)
たまに、嫌がらせのように、ひっついてくることはあるが、厚い布越しだから、まだマシだった。
今は、たった一枚の薄い布越しだ。
その先の肌にじかに触れ合っている感じがした。
エルフィスの息遣いも、鼓動も温もりも刺激的に伝わってくる。
意識してしまうと、もう動けなかった。
ユナは身じろぎすら出来なくなってしまい、ただ彼の腕の中で狼狽えるだけだった。
……慣れていないのだ。
「エルフィス様は、おかしなことをしないって、ついさっき仰ったばかりですよね?」
「そうだったね。覚えているよ。実際、僕も今の今まで、する気もなかったんだよ。本当にね」
じゃあ。
……今はする気満々ということなのか。
「ほら、食事の時です。皆の前で神に誓って仕事以上のことはしないと仰ったはずです」
「ああ、でも、誓うも何も、神自体、この世にいないじゃないか」
「ええっと……」
……コイツ。大神官にあるまじき言動をしやがった。
エルフィスの言葉を聞いたら、さっきの真面目な神官がどうにかなってしまうかもしれない。
「でも、エルフィス様。大神官の沐浴というのは、神聖な儀式だと神官から聞きました。 ……だから、こういうのは」
「そうだね。下々の者はそう思ってるかもしれないね」
「エルフィス様は、沐浴に人を近づけない方だとか?」
「ただお風呂に入るのに、余人がいたら寛げないでしょう?」
「……女の人も近づかせないって……」
「そう。…………確かに、君が初めてだな」
怖いから喋り続けているのに、耳元で囁かれて、背筋がぞくりとした。
狙っているのか?
この男はわざとやっているのか?
「……勘弁してくださいよ」
「嫌だ」
耳元から間髪入れずに、ユナの濡れた首筋にエルフィスの柔らかい唇が滑ってきた。
(ひぃぃぃぃっ!)
悲鳴を上げた方が良いのか迷って、硬直しているうちに、しかし、エルフィスはユナの肩を掴んで
…………そして
「――――…………っ」
舌打ちとも、つかない小さな声を発した途端、一気に体を引き放した。
「…………エ、エルフィス様?」
やっと解放してくれたのは有難かった。
抱きしめられた時、心臓が壊れると思ったくらい、ユナは未知の感覚に戸惑ったのだ。
……けれど。
(どうしてだろ?)
今まであんなにひっついて離れなかったエルフィスが急によそよそしくなった。
ユナを残して、そそくさと一人、洗い場まで戻ってしまう。
(ようやく、正常な精神状態に戻ったのかな?)
ユナにつきまとっていたことを、後悔しているのではないだろうか?
至近距離で見たユナの顔が悪かったとか、毛深かったとか、口臭が酷かったとか……。
(嫌ね。私ったら……)
考えているだけで、ユナの血の気がひいてきた。
何で自分は、こんなにも衝撃を受けているのだろうか?
(あれ? 本当にどうしたんだろう。私?)
何で、こんなに苦しいのだろう?
自分が自分で分からない。
一人で百面相をしていると、エルフィスは濡れた髪をかきわけて悩ましげな息を吐いた。
「……ユナさあ」
「はい?」
「今日はもういいよ。脱衣所に僕の上着があるから、それを羽織って、ひとまず部屋に戻った方が良い」
「でも、私はエルフィス様の沐浴を……」
「大丈夫だよ。いつも一人でやっていることなんだから。結局、僕は君がここに来て、少し舞い上がっていただけなんだ」
「……そう、ですか」
出会った頃のような、冷たく突き放すような言葉に、ユナは愕然となった。
「…………承知しました」
か細い声で首肯すると、肩を落としながら、水を縫うように洗い場に進む。
ユナが迫るのを見定めたように、エルフィスがくるりと背中を向けた。
もうユナを、見たくもないということなのだろうか。
(そうよね。満足に背中を流す程度も出来ない馬鹿なんて……)
少し鼻がつんとした。
今までのエルフィスが変だったのだ。
しかし、近づいて行くうちに、ユナにもエルフィスの表情が分かった。
エルフィスは、ばつが悪そうにうつむいて、頭を掻いていた。
「ユナ。あのさあ」
「何でしょうか?」
「…………あの。本当に言いにくいんだけど」
何だろう。
ブスとか、毛深いとか、口が臭いとか……?
いよいよ現実味が帯びてきた。
身構えていると、エルフィスは耳まで真っ赤にして言い放った。
「君、服が透けて、全部丸見えなんだよ」
「えっ?」
ユナは一瞬呆けてから、ようやく自分の上から下を見ていった。
「なっ!?」
「でも、大丈夫。ユナ、落ち着いて。僕は少ししか見てないから」
…………つまり、少しは見たんじゃないのか?
それを悟った瞬間。
ユナは今度こそ、胸元を押さえて、浴場いっぱいに悲鳴を轟かせたのだった。




