エピローグ
エルフィスは、少しだけ小綺麗になっていたユナ宅の台所をがさがさと、漁り始めていた。
「喉が渇いたんだけど、カップはないの?」
「ちょっ、ちょっと、エルフィス様。私がやるので、やめて下さい」
「君は、頭を痛めているじゃないか。休んでないと駄目だよ。えーっと、カップ」
「探しても無駄ですよ。家にはカップなんてないんですから」
「……君、お茶……飲まないの?」
「お皿で一杯」
「………………皿? どうして、そんなことに?」
「―――自分でも、謎です」
本当……、いたたまれない。
ユナは、後頭部のたんこぶとは違った意味で、頭が痛かった。
お見舞いと称して、わざわざ休日の自宅にまで押しかけて来たのは、過剰だが親切の範囲に入れても良い。
カナが施設に行っている時間というのも幸運だった。
カナが家にいれば、エルフィスを帰そうとはしないはずだ。
だけど……。
(この人がこんなに邪魔なのは、どうしてだろう?)
「エルフィス様、私、精霊魔法について、少しは勉強していますよ。給料分くらいは頑張りたいな……と思っているんです」
「そう? そろそろ、抜き打ちでヘラが教えに来るそうだから、その前に君に教えてあげようと思ったんだけど」
「げっ!?」
「まあ、勉強しているのなら僕がわざわざ教える必要もなかったということかな?」
「いえ、と、とんでもない」
ユナは慌てて、愛想笑いを作り上げた。
実際のところ、レンフィスから大量の教本が貸し出されたが、仕事時間以外、まったく勉強していない。
(元々、勉強って苦手だし……。まだ頭痛いし)
しかし、逃げたくても辞めたくても、国王まで出てきてしまったのだから、ユナの一存だけでは、どうにもならなくなってしまった。
辞めたいと言い出したら、今度こそ本当に殺されてしまいそうだ。
「まっ、いいか」
エルフィスは、仕方なさそうに台所の隣にあった水瓶の水を手で掬って飲んだ。
(大丈夫かしら?)
日頃、神殿の綺麗な地下水を口にしているのだ。
そこらへんを流れている川の水なんて、エルフィスには合わないに違いない。
ユナがどきどきしていると、エルフィスは気にしたふうでもなく
「今度、神殿で使っている余剰なカップを持ってこよう」
そら恐ろしいことを言ってのけた。
やけに、機嫌が良さそうだ。
最近ずっと、エルフィスは楽しそうだ。
ユナには、エルフィスが何を考えているのか、さっぱり分からない。
ただ、一つ悟ったのは、休日の昼下がりというユナにとって格好の昼寝時間に、この青年は、神殿に帰ろうという意思がまったくないらしいということだけだった。
エルフィスは、ずんずんと部屋の奥に進んで行く。
ここ数日、フェルナンディをはじめ、マリベルや、エルフィスの部下がユナの自宅を片付けてくれたのだが、元々物が溢れているのだ。
綺麗さっぱりというわけにはいかない。
(本当、恥ずかしいな。まったく……)
一応、いつ誰が訪れるか分からない危機感と、羞恥心は抱いているので、最近、ユナは少しだけ掃除と、普段着の質向上に努めるようになった。
……だが、家捜しされたら、たまらない。
微妙な均衡で、積み立てられているのだ。
ちょっと触れただけでも、物が傾れて、この家を覆いつくしてしまうだろう。
「確か……」
エルフィスは、戦々恐々しているユナを尻目に、無造作に積み上げられている書籍の中から、ユナ愛用のタローカードを取り出し、床にあぐらをかいた。
……居座る気、満々だった。
「君が占ってくれたんだよね。僕の恋愛運」
言いながら、タローカードの札を選んで見覚えのある配置に並べていく。
以前、ユナがエルフィスを占った時のものだった。
散々の言われようだったので、どういう札が出たのかを、ユナもよく覚えていた。
「今更……。もうどうでも良いではないですか」
しかし、エルフィスはやめようとはしなかった。
仕方なく、ユナは床に座り、つきあうことに決める。
「まず、「塔」の札だったね。あの時、確かに僕はどん底だった。ヘラには裏切られたし……」
「やっぱり、ヘラさんに興味はあったのですね」
「だけど」
エルフィスは強引に話を変えた。
「未来は「恋人」だ。僕の未来は絶好調ということでしょう?」
「…………そうですね」
ユナは、呆れ混じりに頷いた。
「君が見てくれた僕の未来の恋人は、「愚者」「隠者の逆位置」「力の逆位置」「吊られている男の逆位置」「戦車の逆位置」で一見痛々しくもあるけれど、まあ……、逆手にとってみれば、僕の恋人は、自分に自信が持てないけれど、責任感の強い、ひたむきな女性という解釈も出来る」
「――そうでしょうか」
小首を傾げるユナの近くに、エルフィスは切った札の中から表向きに一枚の札を置いた。
「ほら」
「これは……」
ユナは正位置に出たその札の名前を呼んだ。
「世界……」
裸の女神が杖を持って、一面の明るい花の中で悠然と微笑している。
「世界」の札といえば、タローカードの最後の札であり、一番良い札とされているものだった。
(この人……)
ユナはわざとエルフィスがその札をそこに置いたのだと、気づいてはいたが、彼の真意は分かっていなかった。
「良かったですね、エルフィス様。何か良いことがありそうで……、ヘラさんが帰ってくるんじゃないですか?」
「………………何、その痛い反応?」
「反応って?」
ユナは、ぶるっと腕を擦った。
いつもの首を覆っている仕事用のシャツではなく、胸元が開いた半そでだった。
寒がりのユナはいつも厚着をしているのだが、片付けをしてくれた誰かがユナの厚手の服を何処かに仕舞ってしまったようで、なかなか発見出来ず、それでいて無精者のユナは、適当に仕舞ってあったこの服を着てしまったのだ。
(いい加減、着替えたいな……)
「あのー。エルフィス様。そろそろ戻られたらどうでしょう? 大神官って、色々と休みの日も仕事があると聞きました。皆さんが心配してますよ」
「心配? 君は僕の傷ついた心の心配をしてくれないの?」
「はっ?」
「まったく、呆れてものが言えないよ」
(これは……)
ある意味、重症だ。
ユナのタローカードを巾着の中に仕舞いながら、呆れて物が言えないわりには、ぺらぺらとエルフィスは喋り続けた。
「本当に、君は鈍感に磨きがかかっているよね。この上ないほどに。それは素なのかい? それともワザとなのかい?」
「私は……」
(私だって……)
何となくだが、エルフィスの言いたいことは、ユナにも分かっている。
だが……。
エルフィスが殊更女性を褒め称えるのは、社交辞令のようなものだろうし、冗談としても、どうやって流して良いのか、対処法が見付からないのだ。つまり、そういう艶っぽい会話に免疫がないのである。
(大体、この人が私なんかを相手にするわけがないし……)
心底、そう思っているから、ユナは自信を持って顔を上げることも出来ない。
エルフィスは、これみよがしに息を吐いて、肩を落とす。
「こんな狭い部屋で二人きり。少々、部屋の条件は良くないかもしれないけど。それでも……年頃の男女が二人でいるのに、……何も出来ないなんてね。この僕が」
(男女……?)
とりあえず、ユナは女扱いされているらしい。
自覚をすると、体中が熱くなった。
(私、何て格好してるんだろ)
部屋着なので、洒落っ気はないが、黒のシャツの胸元は大きく開いていて、体の線がはっきり出ている。
いつも一つに結っている髪は起きたばかりなので、まだ結わってもいなかった。
いくらなんでも、こんな格好をしていて、ユナが男性に見えるということはないはずだ。
(そうだ。こいつは女であれば、誰でも良いんだわ)
エルフィスの護衛は、馬車の中だ。
ユナは、初めてエルフィスと二人きりでいることを意識した。
今までこんなことはなかった。
神殿にいる時は、部屋に二人きりであっても、広いので密着した雰囲気はなかったのだ。
「つ、つまりですね。、私……は、エルフィス様が言っている冗談は、難しくてうまく対処できないのです。その、真に受けてしまう人間なので」
「真に受けたら、いいじゃない?」
「何を言っちゃってるんですか?」
(有り得ない)
「私が男性だったら、絶対に嫌です。だって、こんな家に住んでて、怠け者のくせに、自尊心だけは高くて……こんな」
「君は自分自身が信じられないんだね。だから、僕のことも信じようとしない。だけど、大体、それは君の評価で、僕の評価ではないからね。それに、君はやろうと思えば出来るわけだから、自分を卑下する材料にはならないでしょう? これからは一国を救う予定なんだよ」
(そんな大々的に言わないで欲しい……)
落ち着いたエルフィスの過激な物言いに、頭の整理がつかないで黙っていると、続きを待たないエルフィスの言葉が返ってきた。
「強引? そういうのは嫌いかな。……でも、君はこのくらい強引じゃなきゃ、僕のこと興味の一つも示してくれないでしょう」
――そうかもしれない。
ユナは、粛々と顔を上げた。
エルフィスもユナを見つめている。
魅惑的な切れ長の紫色の瞳の中に、ユナが小さく映っていた。
(駄目だ……)
そのまま、吸い寄せられそうになっている己を警戒して、ユナは声を張り上げた。
「私、カナが……、遅いので、迎えに!」
そそくさと、その場から逃れようとユナは立ち上がる。
しかし、急げば急ぐほど、足取りは不確かになった。
ぎこちなく数歩進んで、案の定というべきか、やはりというか、お決まりのように本につんのめって、ユナの体は、前のめりに傾いた。
「わっ!」
「まったく……」
綺麗な登場の仕方で、後ろからユナを支えたのは、これもまた予想通りエルフィスだった。
「君は、素直なのか捻くれているんだか、よく分からないね。無関心かと思うと、僕の言葉で激しく動揺したりする」
「すいません」
エルフィスの腕ががっしりとユナの腰に回されている。
(転ぶより、厄介かも……)
ユナは、絡みついているようなエルフィスの手を丁重にどけようとした。
「これは……、ちょっと」
早鐘のような鼓動がエルフィスにばれるのは、絶対に嫌だ。
(もしも……)
これで、素直にエルフィスの懐に飛び込むことが出来る女性だったら……。
あともう少し、自分に自信を持てたのなら、それも出来るのかもしれない。
エルフィスが自分を馬鹿にするわけがないと、信じることが出来るのかもしれない。
でも……。
今のユナには、まだ無理だ。
何とか離れてもらいたいと、赤面したままの顔を後ろに向ける。
再び、目がかち合った。
「…………あ」
何とも言えない雰囲気に、ユナが抱きかかえられた小動物のように、緊張で固まっていると、エルフィスはさっとユナから遠ざかった。
「―――えっ?」
今までの経験によると、ユナが実力行使をしない限り、エルフィスは放してくれないのが当たり前だった。
(――……赤い)
仰ぎ見たエルフィスの横顔は、ほのかに赤い。
勘違いかと、一歩ユナの方から近づいてみようと足を傾けた。
―――その時だった。
「おおっ、そこでカナに会ったぞ!」
自分の家のように、セルジが家の中に入ってきた。
セルジの後に続いたカナがセルジを真似てユナの元にやって来る。
「おおっ。そこでヘラ姉さんに会ったろ!」
「…………えっ?」
ユナの顔が凍りついた。
カナの言葉使いの乱れよりも、はるかに由々しきことだった。
今、エルフィスから聞いたばかりだ。
抜き打ちといっても、明日以降だと思っていたのだ。
「お久しぶりです。エルフィス様。ユナさん。ユナさんは勉強の方ははかどっていますか?」
黒い覆いを取って、美貌を露わにしたヘラは、同性のユナにも嫣然と微笑した。
「…………ええっと」
元来、嘘がつけないユナが迷っていると、顔には似合わない早口でヘラは言った。
「壁には、ひびが入っていますが、早く取り除かないと、また更なる天変地異が起こるかもしれないのです。そしたら、大勢の方の命がまた奪われます。私には無理なんです。だから、貴方には真剣に習って頂かないと」
「……はあ」
確かに、由々しき問題だとユナも自覚しているが、それで今までの自分の生活が変わるかというと、劇的に変わるわけでもない。
「魔力を向上させるために、集中方法としてアルメルダの経典くらいは暗記しないといけませんよ」
「……わ、分かりました」
ヘラの威圧感に圧倒されたユナが何度も首肯すると、ヘラは懐から見覚えのあるおぞましいものを取り出した。
―――腕輪だった。
例の唐草模様の、ユナとカナが盗聴されていたものである。
「ああ、これ!」
カナが瞳を輝かせる。
「懐かしいな」
セルジがしみじみと呟いた。
「元々、これで盗聴されるのは僕の予定だったんだよね。ヘラは、どうしてこの腕輪を僕の所に置こうとしたわけ? そんなことしなくったって……」
「この腕輪の使用目的自体分かっていなかったのです。魔道具が近くにあると、魔力が開眼するという噂を思い出して、陛下がとりあえず、エルフィス様のお側においておけるものを、宮殿の宝物庫から選べと仰ったものですから……」
「…………つまり、意味がなかったと?」
「まさか、声が聞こえてくるなんて思いもしませんでしたよ。……でも、今回は丁度良い有効活用を知ることが出来て、良かったです。もしも、経典を覚えられなかったらユナさんの家に、もう一度これを置かせて頂こうと思って」
「それって、法律違反なんじゃ……」
「国家の危機に、私生活の自由はないと陛下は仰せです」
「………………覚えます」
ユナは、半泣きになりながら、急いでレンフィスから貸し出された教本をひもといた。
「じゃあ、僕が泊り込みで付き添おうか?」
「帰って下さい。エロフィス」
少しだけ素直になろうと、ユナは容赦なくエルフィスに突っ込んだ。
やはり、自分が書いた中でこの話は色々と感慨深かったので、残しておこうかと思いました。
仕事の面接で感じた、いろいろな感情を込めてやろうと、一気呵成に2週間で書きました。
〆切が迫っていたから執筆自体は大変でしたが、彼らのキャラは濃く、とても楽しく書くことができました。
それまで、少し恥じらいながら書いていた少女小説を、真正面から書いていこうと考えたのも、この話からでした。
今回、少しだけ手直ししてみましたが、まだまだ修正は必要だな……と思いました。
無駄に長い投稿生活の中で、初めて友達に褒めてもらえた話だったような気がします。
ここまで、このような拙い話を読んで下さった方、思い出して頂けた方が万が一いらしたら、自己満足の代物ではありますが嬉しい限りです。
お付き合い頂き、有難うございました。