第7章 Ⅴ
「君ももう耳にたこかもしれないけれど、要するに壁が問題なんだ。結局のところ、壁を壊さないとアルメルダ神国は、立ち行かないって、弟のフェルナンディは積極的に動いていてね。兄のレンフィスは、このまま現状維持で、経済を回復させたいと思っている」
「それは、知っています」
何度も出てきた話題だし、ユナは実際その壁の見学にまでエルフィスに同行したのだ。
「……それで、どうして、その……、国王陛下までが出て来て、暗殺騒動に?」
「最初は、兄のレンフィスが狙われたんだ。僕はその時、暗殺ではなくて、フェルナンディなりの恫喝だとすぐに思ったよ。殺すつもりだったら、もっと確実な手もあるだろうし。幸い、兄上はほとんど無傷だった。でも、それを知った父上の方が穏やかではなかったようでね」
エルフィスは、己の背後で空気のように佇んでいるヘラに目を向けた。
「人事院は、父上の管轄だからね。僕の秘書として送りこまれたヘラが僕に毒を盛り、マリベルまでもがガイナ教の信者であったのなら、まず父上を疑うべきなんだよ。もっとも、セルジはその可能性を失念していた。動機がないと思ったんだろうね」
「ちょっと、待ってください。じゃあ、マリベルさんと、ヘラさんはどういう関係なんですか?」
「ガイナ教の教祖は、私なんですよ。マリベルと仰いましたか。末端の彼女は、私の姿も知らないとは思いますが……」
「教祖!?」
頭が真っ白になった。
すっかり固まってしまったユナの肩を、軽くエルフィスが叩いた。
「別に、驚く必要はないよ。ガイナ教自体、父上が作り出した宗教団体だろうから。……そうでしょう? 父上」
国王は頷く代わりに、目を閉じた。
「フェルナンディは、貴方の存在を知らずに、正義感でガイナ教を保護しているだけだ。いくら、フェルナンディの力添えがあったとしても、枢密院が動いたら駆逐されてしまうし、認可の下りていない宗教団体は、資金源がないと活動できないから」
「私は、精霊魔法をもう一度復活させたかった。……あの壁を取り除くためにな」
「王族が魔術を使えないからいけないんだよ。だから、在野の素質がありそうな人間に精霊魔法を教えた。ヘラはよく覚えたけれど、壁を除くほどの実力を持つほどには至らなかった」
「それで、カナを?」
どう反応して良いのか分からなかった。
そこまでして、壁を除きたいのだろうか。
いや、しかし……。
(気安く、壁を除けなんて言ってしまったのは、私のほうだ)
おそらく、国民の大部分がユナと同じように、気軽にそう口にしているだろう。
(いっそ、すべて国民に暴露してしまえば良いのに……)
けれども、それがそう単純にいかないからこそ、この人たちはこんなに悩んでいるのだ。
「ユナ……。魔力を使わずに壁を壊す方法はね。王家筋の人間の命を捧げることなんだ」
「それは、つまり?」
「僕に死ねっていうことだよ」
エルフィスは、気安く……、散歩にでも行くような口調でユナに告げた。
口元には、淡い笑みまで浮かべている。
「……嘘?」
俄かには信じられなかった。
しかし、エルフィスはゆっくりと首を横に振り、国王もヘラも反論をしなかった。
「大神官っていう名誉職は、代々王族の人間が就くのが決まりでね。僕の先代は叔父だったな。最初、僕も叔父から告げられた時は、君と同じような反応をしたものだよ。父上のことを恨みもした。僕は正妃の子供ではないから、こんな目に遭うんだって」
「あの頃は、まだ……、私の代までは壁を存続できるのではないかと思っておった。まさか、ここまで経済不安が進むとは思ってもいなかった」
「分かっていますよ」
エルフィスは冷ややかに首肯した。
「僕も、そう。あの時は死刑宣告をされたつもりだったけれど、執行猶予は無期限だと思っていた。まさか自分が生贄になるなんて考えてもいなかったんですからね」
「私も、もう長くはない。しかし、私がいなくなった後、どうする? レンフィスもフェルナンディにも、兄弟の命を奪うような真似はさせたくはない」
「…………兄弟ね」
その暗い呟きに、ユナはひやりとした。
「まさか、エルフィス様、そんな馬鹿げたことを本気で実践するわけではないですよね?」
「何を言っているんだい、ユナ。僕はそのために存在しているんじゃないか?」
「人を殺すのが魔法なんて……、そんな」
「古代から、魔法なんてものは血生臭いものだよ。僕が死んだからって、効果があるかどうかは、僕にも分からないけれど、でも、まあ仕方ないよね。くじ運が悪かったと諦めるしかない」
感情のこもらない乾いた台詞に、ユナは絶句し、発作的にエルフィスの長い袖を掴んだ。
「私をからかっているんですか? 私の態度が悪いから、そんなことを言って、私を困らせたいんですね?」
「ユナ……、どうして君が慌てているのさ? カナちゃんは無事だったんだ。国王が保障しているんだから、絶対に無事だよ。さっき君はこの先、何が待っていても、それさえ確認できたら、後はどうでも良いって言ってたじゃないか……」
それとこれとは、随分事情も状況も異なっている。
しかも、そんな話をわざわざユナのいる前で語ること自体、悪意すら感じる。
エルフィスは、淡々と懐に手を忍ばせて、小さく折り畳まれた包みを取り出した。
……薬のようだった。
「決定打はこれでしたよ、父上。貴方がこれで僕を殺そうとしたので、僕も貴方の本気を見届けることが出来た。何しろ、この毒は僕が……、大神官が自らを生贄にして捧げる時に飲む毒ですから」
「案ずることはない。すぐに私も逝く……」
「それが……、貴方の意思なのですね」
―――それは、質問とも自己確認ともとれる、エルフィスの一言だった。
ユナは、エルフィスが開いた包み紙の中に、白い粉を発見した。
どくんと、心臓が大きく跳ねた。
(…………夢よ……ね?)
わがままで、自分勝手で、盗聴もして、不法侵入もして……、散々ユナを振り回した傍迷惑な神官王子が、紫色の瞳を細めて冷然と死を呼ぶ粉を見つめている。
自棄になっているだけだと、ユナは思い込もうとした。
父親が自分の命を狙っていたと知って、エルフィスだって動揺しているのだ、と。
すぐに「やっぱり、やめた」と意思を変えるはずだ。
この人に「死」なんて、似合わない。
しかも、それが自己犠牲なんて、絶対に有り得ない。
エルフィスは、ちらりとヘラを振り返った。
「力が及ばず、申し訳ありません。エルフィス様」
「君のせいじゃないさ」
落ち着いた笑顔は、諦念にも見えた。
エルフィスはゆるゆると、ユナに視線を戻した。
「エルフィス……様」
早く、その包み紙を捨てて欲しい。
嘘だったと、全部芝居なのだと、エルフィスが言ってくれるのなら……。
(もう少しだけ……)
エルフィスのもとで、ユナは働かせて欲しい。
盗聴は勘弁して欲しいけれど、たまにカナに会いに来る分には、文句は言わない。
だらしのない女だと言われないように、少しだけ部屋を片付けたって良い。
(……だから)
―――しかし。
エルフィスは、ユナの願いをあっさり裏切った。
無言で包みを掲げたかと思うと、勢い良く純白の粉を口の中に流し込んだのだ。
「駄目っ!」
咄嗟にユナが、エルフィスの腕を掴み、包み紙を奪い取るが、既に包みの中には何もなかった。
「なっ、何てことを……」
血走った目でエルフィスを見上げると、彼は悠然と口内のものを嚥下して……、
ユナの真横をすり抜けるように、前のめりに倒れた。




