第5章 Ⅲ
億劫だった仕事に行くのが少し楽しくなる。
随分と現金なものだ。
いつもより早く神殿にやって来たユナは、誰に言われるまでもなく掃除を始めていた。
エルフィスに対して自分が出来るお礼など、このくらいのことしか思いつかない。
神殿には専門の清掃夫はいるが、これだけ広い部屋だ。
何処か汚れている部分もあるだろう。そう思い込むことにした。
気合を入れて、無地の白いシャツを腕まくりする。
空雑巾を手に、応接用の机から、白で揃えられた調度品の数々を力任せに拭きまくる。
「よしっ」
額を拭った。
良い汗をかいた。
(私も、やれば出来るのね)
家はいまだに、大変な惨状だが、ユナがまったく片付けることが出来ないということではないようだ。
エルフィスは、まだ来ていない。
いつも、ユナが来た時には、仕事机に向かって暇そうに本を読んでいるのが常なのだが。
「そうだ。机……」
昨日は、エルフィスが座っていたので掃除できなかったのだ。
ユナは、熱心に白い机を拭いた。
何だか、かえって汚くなっているようにも思えたが、きっと錯覚だろう。
「ふう……」
窓から入ってくる涼やかな風が気持ち良い。
「あっ、忘れてた」
ユナは、ぽんと手を叩いた。
机の上だけでは、意味がないと、ユナは机の側面にも目を向けた。
……と。
「ん?」
机の二段目の引き出しから、薄い光が漏れていた。
ユナは目を細める。
上司の机を開けてみようとは、その時点では思ってもいなかった。
けれども、その光と共に、確かに伝わるものがあった。
それは……、微かだが人の声だった。
『お兄さん、誰?』
『うーん。怪しい者じゃないんだけどね。あれ、お嬢ちゃん、施設は?』
何処かで、聞いた声……。
いや、ユナが間違えるはずはない。
この声は、妹カナと……
「セルジ?」
はっとして、ユナは口元を手で押さえた。
――――どうして?
カナとセルジが喋っているのか分からないし、どうして声が聞こえて来るのか分からない。
だが……。
『忘れ物、取りに来たの』
『えっ。あ、そうなの?』
『うん。私の腕輪を取りに来たの』
『……ああ、そっか。丁度良いね。それは。――うん』
どうやら、これは今現在の二人の会話であることは間違いないようだ。
困惑気味なセルジが躊躇いがちに口を開く。
『あのー。お兄ちゃんね、その、君が神官から貰ったていう腕輪を貰いに来たんだよ』
『何で?』
『何でって? そりゃ。あの腕輪は国の至宝で……。えっーと、魔法というか』
「――――魔法?」
がたんと音が聞こえて、ユナは身震いした。
風の音ではない。
日差しの届かない日陰。
入口付近に、青年はいた。
エルフィスだ。
「……………………あ」
「―――――――――あ」
お互いに、声がはもった。
「あの……」
「えーっと」
ぎこちない空間がユナとエルフィスの前に広がっていたが、問答無用で、妹とセルジの会話は続いていた。
『その腕輪を返して欲しいのよ』
『いや』
カナは、きっぱりと否定した。
『絶対、イヤ!』
『ダメなの?』
『だって、この腕輪はお姉ちゃんがくれたんだもの。私のだもん』
『そうは、言われてもねえ』
「エルフィス様?」
小首を傾げるユナに、いつもの白皙を更に蒼白な色に染めたエルフィスが迫っていた。
「一体、これは?」
すぐさま、エルフィスは引き出しを開けようとする。
……が、その手を止めた。
『君のお姉さんを雇っているんだから、その腕輪返すくらいは……』
「ユナ!」
セルジの声を遮るように、エルフィスは引き出しを背にして立ち塞がった。
「どうしたの? 今日はこんな早朝から」
寒い微笑を浮かべているエルフィスは、いかにも怪しい。
「腕輪って……」
「ああ、掃除をしてくれたのか。有難う」
「エルフィス様?」
ユナが強い調子で詰め寄ると、エルフィスはがたっと音を立てて、机に腰をぶつけた。
「机の中に何があるのですか?」
「な、何もないよ」
そう言うエルフィスの声は、不自然に裏返っている。
「どうして、私の妹の声が引き出しの中からするんですか?」
「な、何だろうね? 意味分からないね。はははは」
(―――変だ)
日頃、鈍いユナにも目に見えて、エルフィスは不審に見える。
だから、ユナもいつもとは違い、積極的に動いた。
エルフィスを押しのけて、二段目の引き出しを開けたのだ。
…………と。
「これは?」
腕輪だ。
カナが持っていた腕輪とまったく同じ形状である。
若干異なっているのは、紋様くらいだろうか。
カナが持っているものは、唐草模様だった。
こちらの腕輪には、大輪の花が彫りこまれている。
そして、腕輪からは、臨場感が生々しい二人のやりとりがいまだに続いていた。
腕輪を返して欲しいと、懇願しているセルジと、嫌だと言い張るカナ。
平行線の会話は、決着することはなさそうだった。
「どうして?」
疑問を口にしても、答えがすぐさま用意できるわけでもない。
とりあえず、何の感情も抱くことなくエルフィスに視線を向ける。
エルフィスは暫時、目を泳がせていたが、ユナが何の反応を見せないことが、かえって不安になってきたのか、渋々口を開いた。
「…………精霊の魔法がかかった腕輪なんだよ」
この期に及んで、何の冗談かと、ユナは眉根を寄せたが、エルフィスはそんなユナの態度を見越して、説明を付け加えた。
「ユナ、精霊魔法というのはね。実在はしたんだよ。五百年くらい前まではね。でも、時代が下るに従って、なくなっていった。どうしてだか分かる?」
「…………分かりません」
「王族が奇跡の業を独占したんだよ。五百年前の国王は優秀だったのかもしれないけど、王族ばかりが独占していたら、魔法は消えて行くしかない。何しろ、王族が必ずしも魔術の才能がある人間ばかりではないんだからね。なかには、まったく魔法なんてものには向いていない人間もいるわけだし……」
エルフィスはもっともらしく、述べながらユナの手中にある腕輪を自らの手中に取り戻した。
「僕は大神官として、散逸してしまった精霊魔法に関する道具をそろえているんだ」
「では……、エルフィス様はフェルナンディ様がおっしゃった通り、やはり魔法が使えないということなのですか?」
ユナは、エルフィスにとって想定外の質問を口にしたのだろう。
エルフィスの澄んだ紫色の瞳が大きく見開かれた。
――そして。
「…………ああ」
エルフィスは優雅に頷いた。
「使えないね」
さっさと肯定すると、まだ声の漏れている腕輪を、神官服の長ったらしい袂の中に隠してしまった。
「でも、僕は壁の解除方法を知らないわけではないんだ」
「そうですか」
ユナの注目していることがずれていることに、気を良くしたらしい。
いつもの自信に溢れた態度に戻っている。
しかし、それで、うまく話をすりかえられるほど、ユナは愚かではなかった。
「……で、エルフィス様」
ユナは、窓の外に顔を出し、紫銀色の髪を躍らせているエルフィスに振り出しの一言をぶつけた。
「どうして、その腕輪を使って、私たちが盗み聞きされていたんですか?」




