第5章 Ⅰ
…………不覚だった。
あんな華やいだ笑顔を、ユナが自分に向けてくるとは、想像もしていなかったのだ。
エルフィスはユナの私生活を知っている。
怠惰で、愚痴ばかりが多く、妹中心の彼女の人間性は破滅的で、すっかり性別を失念してしまっていたのだが、ユナは女の子だったのだ。
そう……。
エルフィスはあまりにも無防備だった。
捻くれていて、エルフィスに敵意すら抱いていた少女。
その少女があんなに無邪気で、素直な笑顔を作ることができるなんて思ってもいなかったのだ。
不覚にも、不本意ながら、
……可愛い。
――と思ってしまった。
「…………ああ」
身悶えしながら、うなだれたる。
紫銀の鬱陶しい髪がばさりと、広い机の上に広がった。
力が抜け落ちていくのは、眠気のせいだけではないらしい。
(いっそ眠くて、目が見えなかったのなら良かった)
酒でも飲んで酔っていたのなら、言い訳も出来ただろう。
不自然に早い脈拍は、いまだに続いている。
ユナはエルフィスの人生にとって、ただ擦れ違うだけの人間だったはずだ。
……なのに。
エルフィスは机の二番目の引き出しから、銀色に煌く腕輪を取り出した。
『お姉ちゃん、今日良いことあったの?』
『分かる?』
仕事を終えて、帰宅した彼女の声。
腕輪から、漏れ聞こえる姉妹の会話は今日も楽しそうだ。
そして、エルフィスはそんな二人の声を聞いている自分を客観的に考えて、吐き気を覚えた。
―――心が痛い。
何処に行くのか自分でも掴めない気持ちと、今まで自分が彼女に対して行なっていたことに対する異常性が今になって、エルフィスの心を鋭い爪のようなもので引っかいた。
「おい」
仏頂面が頭上から覗き込んでいる。
自分を心配して、セルジが直ぐ傍にいてくれるのは、感謝してもしきれないくらいだ。
エルフィスにとって真の味方は、セルジくらいしかいないのだから……。
しかし、独りにして欲しいと時がある。
今がそれだ。
「何、染みったれた顔をしてるんだ? とりあえず、マリベルの方は適当に慰めてきたぞ。この期に及んで、お優しいお前は、人事院に報告して彼女を辞めさせたくはないんだろう?」
「別に優しいわけじゃないよ」
「どういう意味だ?」
いつも通りに素早いセルジの質問に、エルフィスはやる気なく答えた。
「人事院には、前の僕の秘書ヘラも一身上の都合で辞めたという話にしてある。それでいて、マリベルまで辞めたとなっては、人事院も何らかの疑いを持つかもしれない。大体、僕には違法で雇い入れているユナという子がいるんだから……」
「短期雇用ならば、人事院の許可は必要ないじゃないか」
「―――短期、ねえ」
エルフィスは呟いてから、呆然とした。
短期雇用……。
エルフィスも、あくまでそのつもりでいた。
規定期間が過ぎたら、ユナには他の職場を斡旋して、神殿勤めは辞めてもらおうと……。
しかし、それで自分は良いのか、悪いのか、今のエルフィスには判断出来ない問題に発展してしまった。
「どうしたんだ? エルフィス。難しい顔して? そんなにユナに徹夜させられたのが腹立たしかったのか?」
「…………いや」
セルジの何も知らない明るい声音に、エルフィスは短く否定した。
ゆるゆると上体を起こして、上目遣いでセルジを睨む。
「何だよ?」
エルフィスは、得体の知れないもやもや感をセルジにぶつけようかとして、息を大きく吸って、…………吐いた。
今まで、女性に関することは、あけすけにセルジに喋ってきた。
でも、言えない。
今回に限っては……。
「実は、お前に頼みたいことがある」
「ふむ?」
セルジは訝しげだったが、エルフィスは構わず、命じた。
「ユナが持っている腕輪を、可及的速やかに回収して来て欲しい」
「何なんだ。改まって?」
冷やかすように聞き返して、セルジはゆったりと長椅子に腰を下ろした。
だが、やがてエルフィスの返答がないことに気付いてから、初めてセルジは張り詰めた表情を覗かせた。
「エルフィス。お前……、今まで、腕輪を取りに行く必要はないとか言って、のらりくらりしていたよな。どうして急に腕輪を揃えるつもりになったんだ?」
「……そ、それは」
ある意味、見当違いの方で、セルジは深刻になっているようだった。
「腕輪を証拠にするっていうことか? すべてを表沙汰にする覚悟が出来たって?」
「―――まあ……、ね」
あくまで曖昧に、エルフィスは首肯した。
机に両肘をつき、真ん中で組んだ手の甲に顔を乗せる。
本当は違うのだが、誤解をしてくれているのは大いに助かることだ。
とにかく、エルフィスにとっては、これ以上、ユナの心証を害するようなことは慎みたかった。
「証拠が揃えば、お前の弟、フェルナンディは罪人になるということだが?」
「…………仕方のないことだと思う」
「明日、俺の不在時は、お前の護衛を倍にする。とりあえず執務中の危険はないだろうが、食い物には気をつけろよ」
「分かっているさ」
「特によく分からない贈り物の菓子には気をつけるよ。前もそれで危うく死に掛けたんだからな。得体の知れない毒だったんだろ?」
「…………まあ、ね。色々と調べさせて、猛毒だっていうことは分かったんだけれど、成分までは分からなかった」
エルフィスは、曖昧に微笑した。
本当は、調べさせるより以前に、盛られた毒については察しがついていたのだが、そんなことをセルジに明かしても、意味のないことだ。
「怪しいものが運ばれてきたら、ユナにでも食わせろ。アイツなら死にそうもない」
「そんなこと!」
これには、正直に自分の心情を吐露しかけて、エルフィスは我に戻って、再び深呼吸をした。
「……そうだね。そうしよう」
―――落ち着け……。
己に言い聞かせる。
(僕は悪い夢を見ているんだ。きっと、そう熱があるんだ)
どうしたって、自分がユナを気に掛けていることなんて有り得ない。
だから、きっと、倫理的な立場に急激に目覚めただけだ。
「どうしたんだ? お前、今日は一層変だぞ」
セルジは眉根を寄せて、口をぽかんと開けていた。




