第4章 Ⅳ
白と金を基調にしているエルフィスの仕事部屋は、相変わらず、この世とは思えない豪奢な雰囲気をかもし出していた。
(これも夢なのかしら?)
徹夜のせいで、足元がふわふわしているユナは、ぼんやりとしながら、部屋の中央に歩を進める。
この広い部屋を、昨日ユナは懸命に掃除していたのだが、その必要は最初からないのは自覚していた。
大理石の床は埃一つないほど、磨き上げられていて、部屋の端を貫いている柱は透き通った床を映し出していた。
エルフィスの応接用の机の隣に植わっているするりと長い観葉植物は、天窓から差し込む日差しに照らされて、きらきらきと輝いていた。
きっと、その直ぐ傍には、日差しに負けないくらい、華やかな容貌の主のご尊顔がある……――はずだった。
「あれ?」
しかし、仕事用の椅子に座っているエルフィスを消すように、女性の後ろ姿がユナの目に飛び込んできた。
すらっとした長身と茶髪。
見違えるはずがない。
「マリベルさん?」
振り返ったマリベルは、口元を少し緩めたが、目は厳しいものだった。
もっとも、その仕草は、ユナが朝一番で彼女に会った時よりはましな対応だ。
下手に出るユナを高慢に見下した挙句、ここぞとばかりに嘲笑していた。
あの……、マリベルの本性は忘れられない。
ユナは人知れず、小さく息を整えた。
(ああ、そっか)
そうして、ユナは思い至った。
(辞めさせられるんだ。私……)
マリベルがエルフィスに告げたのだろう。
ユナのせいで、大きな仕事が駄目になってしまった……と。
昨夜徹夜して、読める文字はそのまま転写し、駄目になってしまった文字は辞典から何とか引っ張り出して、復元をさせたつもりになっていた。
マリベルに提出した代物は、確かに痛々しいものだった。
文字は汚いし、紙も寝そべりながら書いていたので、少しよれていた。
しかし、一応、ユナは朝一番に仕上げた。
マリベルは今日提出だと叫んでいたのだから、己の尊厳に賭けても、今日中に仕上げようと努力するのではないかと考えていた。
ユナはエルフィスに呼び出されることは覚悟していたが、今日の仕事終わり頃か、明日の朝か……。
もう少し遅めだろうと思っていたのだが……。
運命の瞬間というのは、存外あっけないものである。
何が告げられるのか、分かっているだけに緊張で竦みそうになる足を、何とか奮い立たせて、数歩踏み出す。
自分から辞めようと考えていたくせに、辞めさせられると分かった途端、これからの金がない惨めな生活が現実を帯びて、いきなり襲い掛かってくるというのも、おかしな話だった。
しかし、ユナを見るなり、憎たらしいくらい快活に笑ったのはエルフィスだった。
「何だい、ユナ? 深刻な顔して」
「はっ?」
この状況で笑えというのだろうか。
どう頭を絞っても、エルフィスがユナまで呼び出したのは、解雇通告のためとしか思えない。
(辞められて良かったねっていうこと?)
エルフィスの腹が探れないでいると、直ぐ脇にいるマリベルも落ち着かない様子で腹の前で組んだ両手を何度も組みなおしていた。
「あの……」
口火を切ったのは、マリベルだった。
「どうして、私とユナさんが呼び出されたのでしょうか?」
(えっ?)
ユナは何度も目を瞬かせた。
マリベルにもよく分からないらしい。
……ということは、マリベルがエルフィスに頼んで、ユナを辞めさせようとしているわけではないようだ。
エルフィスは、心底眠そうな半目で、口だけ動かした。
「分かっているんでしょう? マリベル」
(何が?)
思わず問い返したいところを、ユナはぐっと我慢した。
マリベルの血色の良い顔から、みるみる血の気が失せていくのが分かる。
しかし、それでもマリベルは気丈に言い返した。
「何のことでしょうか?」
「まあ、いいさ」
薄気味悪い笑みを浮かべたまま、目を瞑ったエルフィスは、いきなり目を開くと、今までの脱力した様子ではなく、今までに見たことがないほど厳かな気配を放ちながら、早口で捲くし立てた。
「国立神殿では、アルメルダ神国創建五百年を記念して、その偉大なる軌跡を連綿と未来に伝えるため、アルメルダ古語の編纂を推し進めてきた。……けど。僕は、今そのような事業を行う余裕は我が国にはないと判断した。よって、当面この事業を凍結することに決めた」
「…………なっ!」
すぐさま、反応を示したのはマリベルだった。
「しかし、エルフィス様! この事業は何年も前から国の緊急雇用対策として……」
「無意味な雇用対策なんて、クソ食らえだよ」
とてもその美しい顔が絶対口にしないような雑言をたたきつけて、エルフィスはすぐさま反論しようとしているマリベルを遮り、苦言を重ねた。
「結局のところ、編纂事業は、神殿の職員が通常勤務の傍らでやっている状態じゃないか? 国庫から搾り出した金は、一部の貴族や私服を肥やしている役人達が財布の中に仕舞いこんでしまっている。このための雇用なんて嘘でしょう? 僕は編纂事業で新たに雇われたという人間を見たこともないし、聞いたこともない」
「それは、これから雇用する予定なのだと?」
「どちらにしても、薄給なのは目に見えているよ。それに、どうせ募集条件は緩くして、就職希望者だけ呼び寄せておいて、ほとんど雇用しないつもりなんでしょう? とりあえず、雇うつもりだというフリさえしておけば、国王は安心してくれる」
エルフィスは、とうとう押し黙ったマリベルに透き通った宝石のような紫の瞳を向けた。
「僕も、為政者の側に立っている人間だ。今まで、この仕事に対して、思うところがありながら止める勇気がなかったことは悪かったと思っている」
「……エルフィス様」
マリベルは静かに首を横に振った。
「あえて、そんな理由を使って、私を納得させようとされているのですか?」
「マリベルは納得してはもらえないのかい? ユナは納得してくれたでしょう?」
「えっ? ええっ?」
(な、何で?)
驚いたユナは一歩退いた。
てっきり、クビを言い渡されるだろうと踏んでいたユナの思惑は何処かずれていたらしい。
エルフィスはそんなユナの動揺を知ってか、知らずか、感情をこめながら、話を進めていた。
「不況の大打撃をまともに食らっていたのは、君じゃないか。何度も架空募集の求人に引っ掛かっては落ちて、泣き寝入りしていたんでしょ」
「は……はあ」
もっともらしく、エルフィスは言う。事実ではあるものの、ユナは一度もそんな話をエルフィスにしたことはなかった。
(どうして、知ってるの?)
ユナの怪訝な眼差しに気付いたのか、エルフィスは咳払いをして、一呼吸置いた。
「とにかく、マリベル。ユナに、一言謝る程度のことは出来ないのかい?」
「―――あっ」
その一言で、ようやく、ユナは状況を把握した。
やはり、マリベルは昨日わざと原稿に茶を零したらしい。
それをどういうわけか、エルフィスは知っているらしい。
少しだけ嬉しいような、でも、このままでは済まないような、複雑な気持ちがユナの心の中で揺れていた。
マリベルは、一筋縄ではいかないし、ユナよりも弁が立てば、容姿も美しい。
きっちりと頭のてっぺんで、一つに束ねられた髪は、今日もほつれ毛など見当たらない。
それに比べて、下で一つに結わっているものの、徹夜明けで着の身着のままで、やってきたユナは、髪はぐしゃぐしゃだし、服装もよれよれの上着とくちゃくちゃのスカートである。
(このままでは、いかないだろうな)
エルフィスは情報を聞いて、マリベルを裁こうとしているようだが、美人には弱いエルフィスだ。
結局、ユナのせいで終わる可能性の方が高いような気がする。
――信用できなかった。
案の定、マリベルは気丈に答えた。
「エルフィス様は誤解されています。私は昨日、ユナさんにあともう少しで完成予定だった原稿にお茶を零されて、昨夜必死でアルメルダ古語の翻訳をしたのです。先ほどエルフィス様に提出した原稿はそれなのですよ」
「大変だね。徹夜は辛いよ。本当……」
エルフィスは、ユナを一瞥した。その視線を感じ取ったユナは素直に首肯してしまった。
徹夜は辛い。
まさしく、今のユナはそんな状態だ。
「ユナさん!」
「はい?」
急にマリベルに呼ばれたユナは、頭の重みから、ずっと下を向いたままだった顔を、ぱっと上げた。
「私の言っていることは、間違いではないですよね?」
「は、はいっ」
(……あ)
しまった。
つい、勢いで肯定してしまった。
直後に後悔したものの、もう遅い。だいたい、ユナが否定できる立場でもないのだ。
(もう、どうでもいいや)
言い争うのは、面倒である。
どうせ、結果的にはこの仕事は辞めるのだから、精々、ユナのせいにすれば良いとも思った。
しかし……。
意外なことに、ユナを辞めさせることが出来る絶好の機会を、エルフィスは行使しなかった。
「あの量を一晩で完成させるなんて、もし事実であれば、君は素晴らしい職員だね」
冷ややかに呟いたのだ。
(有り得ない)
呆然とするユナを尻目に不機嫌を隠そうともせずに立ち上がったエルフィスは、突如大きな声を上げた。
「セルジ、扉を開けろ!」
「セルジ様……?」
ユナがゆっくりと振り返ると、両開きの扉の右側の方が魔法にかけられたかのように、重そうな音を立てて開いた。
外にいたセルジが、室内に足を踏み入れる。
しかし、扉は閉まらなかった。セルジが外側に開いた扉が閉まらないように、腕を組んで寄りかかっていた。
エルフィスは穏やかだが、淡々とした声音でマリベルに告げた。
「下がって良いよ、マリベル」
「エルフィス様!」
マリベルは、明らかに動揺していた。
恐らく、エルフィスは自分の言葉を信じると思っていたのだろう。
それが、こんなふうに冷たく突き放されてしまったのだ。
扉をわざわざ開けさせたのは、彼女に有無をも言わせないためだろう。
「あの!」
だから、まだ何か反駁の言葉を探しているマリベルに対して、エルフィスは容赦がなかった。
「君の言い分は良く分かった。とにかく編纂事業は凍結する。いいね」
丁寧な言葉遣いではあったが、エルフィスが彼女を信用していないことはユナにも伝わってきた。
もう、駄目だと観念したのか、マリベルは、渋々歩き出した。
その背中に、駄目押しのようにエルフィスの一言が襲った。
「マリベル。君は、もっと大人の女性だと思っていたのに。……本当に残念だ」
こちらを見ることもなく、マリベルは更に肩を落として、部屋を出て行く。
重い扉のくせに閉まる時は、音もなかった。
いつもに比べて極端に出番の少ないセルジは、マリベルと共に去って行ってしまった。
何か彼女に言いたいことがあるのかもしれない。
―――しかし。
(ちょっと、待って?)
怒涛の展開だった。
一体、何が起こったのか……。
もう一度、ここで再現してもらいたいくらいだった。
広い煌びやかな部屋に残されてしまったユナは、目前で嫌味なくらい優美に佇む青年に、目が点になっていた。呟く台詞は、一つしかない。
「どうして?」
答えを求めたわけでないのに、無駄に反応が良いエルフィスは、これもまた大げさに嘆いてみせた。
「本当に、ユナは僕を誤解しているよね? 僕がただの女好きに見える?」
(――はい……)
ユナは現実世界では首を横に振り、心中では激しく首を縦に振っていた。
エルフィスの性格は誤解ではなく、確信しているつもりだった。
だが、今の出来事が夢ではないのなら、エルフィスの言う通りなのだろう。
「確かに、僕が今回の件を穏便に済ませたかったのは事実だよ。君には悪いと思ったけれど、傷は最小限に留めたいと思っていた。だから、マリベルに非があったとしても、編纂事業を凍結することで、すべてを終わりにしたかったんだ。勿論、口にしたことは嘘ではない。僕は元々編纂事業には反対だったんだ。……でも」
エルフィスは語るだけ語って、小さく溜息を吐いた。
「思った通りにはいかないものだね。仕方ないとはいえ、僕のこれからと君のこれからを考えたのなら、彼女とは良い関係でいたかった。でも、僕はこの神殿の大神官だからね。彼女の傲慢を黙認するわけにもいかないでしょう」
「はあ……」
いつもと違い、少し充血したエルフィスの目が真摯な色を帯びると、綺麗なだけではなく、一本筋の通った青年に見えてしまうから不思議だった。
(変だな)
ユナは目を擦った。
動悸がするのは、寝不足のせいに違いない。
エルフィスは、机の引き出しから、ユナにとって見覚えのあるものを丁重に取り出した。
「それは!」
――今朝方まで、ユナの腕の中にあった原稿だった。
「どうして、エルフィス様がそれを?」
「僕を誰だと思っているんだい」
……と、エルフィスは得意げだったが、ユナもさすがにその原稿が何処からやってきたのか分かった。
ユナの汚い字がびっしりと書かれた原稿、ユナが保持していた時よりも、薄汚れて、くしゃくちゃになっていた。所々破れてもいる。
――きっと。
(屑箱の中にあったんだ……)
そうして、エルフィスが丁寧な文字の分厚い原稿と、ユナの原稿を机上で並べた瞬間、今まで中心にいながら実態を掴むことが出来なかった事実がユナの中で一つにまとまった。
マリベルは完成させた原稿を予め持っていたのだ。
そして、今朝エルフィスに手渡したのだ。
だが、エルフィスはどういうわけかユナが書いた原稿を屑箱から拾っていたらしい。
おかしいと感じたエルフィスは、誰かに事の詳細を調べさせたのかもしれない。
そして、真相に気付いた。
(でも、どうしてだろう?)
「私には、分かりません。マリベルさんがちゃんと提出したのなら、何もここまで大騒ぎしなくったって良かったのではないですか?」
ユナの汚い原稿など、どうでも良いはずだ。
なかったことにも出来ただろうし、知らないふりをすることだって可能だ。
それに、マリベルもまさかあんな分厚い辞典のすべてを、二つ分用意することは、大変だったらしく、ユナが持ち帰った訳文は、辞典の半分くらいまでしか訳されていなかった。
きっと、途中で自分がやっていることが面倒になったに違いない。
だからこそ、ユナは徹夜でとりあえず終わらせることが出来たのだし、エルフィスがマリベルの悪戯だと判断すれば、それまでだったはずだ。
大神官であるエルフィスに披露するには、あまりにも痛々しい文字の数々だ。
急に恥ずかしくなったユナの手を制して、エルフィスはその原稿を手に取った。
「これは、僕が預かっておく。君が頑張った成果でしょう」
「で、でも」
思いがけない温かい言葉に、ユナは喜ぶというより戸惑うばかりだった。
「本当は、君の訳文を採用したってよかったんだ」
「は?」
(それは、さすがに……)
冗談もはなはだしいと、ひきつった笑みを浮かべる。
だが、エルフィスは、神官らしい柔らかな物腰でしっかりと指摘した。
「何故、君はそうやって自分のことを貶めているんだい? どうしてそう言われて、素直に頷いて、笑うことが出来ないの?」
「それは……」
そうかもしれない。
エルフィスの言葉が嘘だろうが、本当だろうが、朗らかに笑って礼を言うくらいの度量が何故自分にはないのだろうか。
(きっと……)
長年、ユナがいろんなことに失望しながら生きてきたせいだ。
自分でも可愛くない性格だと、分かっている。
もっと、笑って泣いて、他人に対して壁を作らないで、自分をさらけ出して素直に生きていくことが出来たのなら、どれだけ素敵だろうかと……。
エルフィスの言い分は、もっともだ。
「有難うございます」
ユナは初めて心の底から、エルフィスに感謝した。
この青年が……。
国内で三番目に地位のある大神官が、屑箱に入っていただろうユナの原稿を手に持っても、平然としているのだ。
もっと、汚物のような目で原稿を見遣るのだろうと予測していたのに……。
だから……、
「じゃあ、にっこりと笑ってみせてよ」
そんな無理な要望にも、真面目に応えてみようと、裏表のない精一杯の笑顔を、ユナはエルフィスに何とか送ることが出来た。




