第4章 Ⅲ
「お姉ちゃん、今日もお仕事辞められなかったの?」
「まあね。どうも隙がなくて」
ユナは、自分の方こそ隙がないといった神経質な口調で、背後に立つカナの質問に答えた。
「お姉ちゃん?」
可愛い妹は心配そうに、ユナを覗き込んでいる。
「心配ないわ、カナ。明日には辞められそうな気配よ。必然的に」
「ひつぜん?」
首を傾げているだろうカナの姿をユナは振り返らない。
いつものユナだったら、ここでひしとカナを抱擁していただろうが、今日は本当に余裕がなかった。
積み上げていた占い関連の書籍を、すべて床に払って、足蹴りして、私物を巻き込みながら部屋の隅に持っていく。
そして、どんと中央に置いたのは、ユナが持っているどの書籍よりも分厚い辞書二冊だ。
『古代アルメルダ語辞典』と『古代アルメルダ人の手記』である。
霞んでしまった文字は判読しにくいが、確かにそう書かれていた。
今はもう遠い世界。
古のアルメルダ人が記した文章と、その古語を纏めた辞典。
本来、神殿外の持ち出しは禁止の辞典だったが、勝手にユナは持ち出してしまった。
必死だったのだ。
「お姉ちゃん、何するの?」
言いながら、ユナと揃いの黒いワンピース姿のカナが辞典に手を触れて、頁をめくる。
ユナは、ぱらぱらと垣間見えた辞典の小さな文字を目で追いながら、軽く目眩を感じて、こめかみを押さえた。
手元には、茶で汚してしまったマリベルの訳文がある。
ほとんど解読不能になってしまった文章は、『古代アルメルダ人の手記』を現在のアルメルダ神国の言葉に翻訳したものだったらしい。
(いくらなんでも明日なんて……)
「カナ、お姉ちゃんはこれからお仕事なのよ」
「今から!? だってもう夜なのに」
「仕方ないのよ」
「何で?」
「何でかしらね? お姉ちゃんにも分からないわ」
本当に、ユナには分からなかった。
一体、何がなんだか。
どうして、自分がこんなことをしているのか……。
別に、マリベルにどうしろと言われたわけでもない。
ただ、散々その原稿を仕上げるためにかかった苦労を語られ、怒りに満ちた瞳を投げつけられただけだ。
…………怪しい。
と、ユナは読んでいる。
わざとじゃないのか?
あの時、茶を零したのはユナではない。
――マリベルなのだ。
彼女が心底、ユナを追い込もうとしているのなら、そんな稚拙な作戦の一つでも立てるかもしれない。
迫真の演技力にも、拍手ものだ。
ユナに落ち度はない。
いつもは、おっちょこちょいなヘマをするけれど、今回は違う。
そう、主張することがユナにも出来た。
だけど…………。
それでも、ユナは汚れてしまった原稿と、原稿の元になった手記と、古代語の辞典まで持って帰って来てしまった。
もしも、マリベルがユナを嵌めようとしているのなら、それこそ、このまま泣き寝入りで辞めさせられるのは、嫌だったのだ。
(古代アルメルダ語なんて、まったく分からないけど)
―――やるしかない。
ユナは、腕まくりをした。