第4章 Ⅱ
「何やっているんだろう。……私」
ユナは小声で自問しながら、踊り場に置かれている女神像を何度も雑巾で拭いていた。
とりあえず、神殿内のエルフィスが目の届くような範囲を掃除して回っている。
仕事に戻れ……ということなのだから、清掃を再開しろという意味なのだろう。
螺旋階段の三階。
エルフィスの執務室から、雑巾を片手に降りて行って、ようやく一階まで辿り着いた。
……気が重い。
一階といえば、ユナが初めて訪れた時に案内された総務係の部屋がある。
マリベルの拠点だ。
出来ることなら、避けてしまいたいが、もしも逃げてしまったら、後でどんなことをエルフィスに告げ口されるか知れない。
正直、辞めるつもりなので、人の評価などどうでも良いはずなのだが、そこは、馬鹿正直なユナである。
このまま素知らぬふりで、総務係の部屋を素通りすることは出来なかった。
(はあっ……)
仕方ない。
溜息を深呼吸に変える。
肩に力を込めて、扉を叩き、部屋の中に入っていく。
「失礼します」
おそるおそる部屋の内部に足を踏み入れると、書類に筆を走らせているマリベルがいた。
一応、仕事をしているらしい。
どんな仕事なのか、ユナにはまるで見当もつかないのだが……。
ユナの存在には、気付いているのか、気付いていないのか、返事がないのでユナは、片っ端から雑巾で拭いて回る。
エルフィスの執務室くらい広い大部屋だったが、マリベル以外は、人がいない。
無人の机を拭くのは、気疲れしないので、ユナには有難かった。
「…………失礼しました」
さあっと、仕事を片付けて素知らぬふりして部屋を出て行こうとしたユナだったが……
「リンディスさん」
ぎくりと肩を震わせた。
「はいっ」
上擦った声で、返事をする。
--と……、
マリベルは淡白に
「私の机を、まだ拭いていないようですが?」
返してきた。
(こわっ……)
背筋が寒い。
どうも、この女性は苦手だ。
相手が自分を嫌っていると気付いてしまっている点で、どう対応して良いのかユナには分からない。
ユナがもう少し負けん気の強い性格だったら、喧嘩をすることも出来るのだろうが、鈍い上に、言い争いになったら勝ち目もないと、自分でも悟ってしまっている点で、既にマリベルには、負けている。
ユナはぎこちない足取りで、窓際の整理整頓が行き届いているマリベルの机に向かった。
マリベルは立ち上がって、ユナを待ち構えている。
その割には、机上には今までマリベルが向かっていた資料と、飲み物が放置されたままだった。
(私にこれを、どけろと?)
不平不満を笑顔で封じて、ユナはぎこちない手つきで、机の資料を手に持って片手で雑巾掛けをしようとした。
……その瞬間だった。
「あっ」
ユナの手も確かに当たった。
しかし、明らかに片手を机に置いていたマリベルの手が滑った。
マリベルの机上。
飲み物が並々と入っていたカップが綺麗に逆さになった。
いや、実際力をこめて器をひっくり返さなければ、そうはならないだろうというくらい、見事な零れ方だった。
みるみる液体は、マリベルが睨めっこしていた資料を黒く染め上げた。
「ああっ!」
金切り声が総務の部屋全体を暗く包み込む。
ユナは、呆然とするだけだった。
マリベルは、叫んだ。
「この資料、明日提出なのにっ!! どうしよう!!!」
(―――何? この状況……)
ともかく、これで否応なく自分は退職させられるのだろうと、ユナは一人冷静に考えていた。