第3章 Ⅴ
褐色の肌に、赤茶の髪色。単身痩躯の青年は仮面のような微笑で、部屋の中にやって来た。
颯爽とした身のこなしと、漆黒の外套は、いかにも武人のようだ。
剣は持っていないものの、剣を抜けば手強いだろうことは、ユナにもすぐに分かった。
兄弟でどうしてこうも違うのか。
体形から髪色まで異なる兄弟が見つめ合っている。
その表情も両者は違っていた。
エルフィスは悠然と、フェルナンディは強張った顔つきだった。
「お久しぶりです。兄様」
エルフィスは、だらしなく腰掛けた長椅子から立ち上がることすらしない。
だから、立ち上がりかけたユナは不自然な中腰の姿勢のまま、しずしずとエルフィスの隣に着席するしかなかった。
エルフィスは口元に笑みを浮かべたまま、物憂げな視線を弟に送った。
「久しいね、フェル。最後に会ったのは、去年の国の祭典での席だ」
「そういえば……そうでしょうか」
エルフィスの合図で、白革の長椅子に一人どっしりと向かい合うように腰をかけたフェルナンディは、直後に出された琥珀色の茶を口に含んだ。
溜息を吐く。
……そして。
「そちらの人は?」
ようやく、ユナの存在に気付いたらしい。
エルフィスと距離を置いてちょこんと座っているユナを面倒そうに指差した。
ユナは、その侮蔑を含んだ視線と目を合わせたくなくて、ひたすら膝に置いた手を握り締めていた。
「わ、私は……」
(いっそ、出て行きたい)
冷や汗をかきながら、自己紹介をするべきか迷っていると、エルフィスが長椅子の背に腕を伸ばして、大きな欠伸をした。
「彼女は僕の新しい秘書だ。気にしなくて良い」
(……はっ?)
ユナは思わず口の中で叫んでしまったが、フェルナンディには届かなかったらしい。
「秘書……。この人が? 人事院が採用したのですか?」
「人事……」
「何を惚けているの、ユナ。君はそこを経由して僕の所に来たんじゃないか」
とうとう疑問を口に出してしまったユナに、怖いくらい優しい顔をエルフィスが向けた。
「人事院は、国王の管轄。僕は神官の任命権は持っているけど、それ以外の採用に関する権限は持っていないんだ。つまり、僕の身の周りにいる神官以外は、皆人事院を通して僕のもとに運ばれて来る」
「アルメルダ国は法治国家ですから、権力が集中しないようにしているのですよ」
フェルナンディが割り込んできて、無理やり話題を戻した。
「今回の人は、また随分毛色が違うので一体どうしたのかと?」
「さあ、父上の趣味なんじゃないの?」
(いや、何か……、もう何もかもが違っているんですけど)
目で必死に訴えるユナだったが、フェルナンディには気付かれず、エルフィスがとっとと話を進めてしまった。
「…………で。随分、月日が経っているけど、どういうつもりなのかな。何か僕に用があるんでしょ?」
「ちょっと、待ってください。兄様、その話の前には、まず人払いをしたいのですが」
フェルナンディは声を潜めて、ユナを一瞥したが、エルフィスはかほども取り合わなかった。
「彼女は、僕の秘書だよ。どうして退散させる必要があるの?」
「しっ、しかし。私も自分の配下は連れていません」
「何? 部外者に聞かれてはいけないような話なわけ?」
冷めた兄弟だ。
カナとユナとは対極にあるといっても良いくらいだ。
しかも、エルフィスのこの態度。
ユナのような他人よりも、弟に対して親しみを持てないらしい。
フェルナンディは言葉には出さないものの、表情にありありと、怒りをこめて温かい茶を一気に飲み干した。
「重要な話なのです」
「では、是非ともユナにも聞いてもらおう」
「いや、私は……」
(聞きたくもないし……)
ユナは首と同時に両手も横に振ったが、やはり自分の意見など誰も聞いていないようだった。
「分かりました」
フェルナンディは、勝手に納得すると、鋭い錆色の瞳をエルフィスに送った。
「先日、レンフィス兄様がこちらに来たと聞きました」
「どうして、知っているの? あれはお忍びだったはずだけど?」
「これでも、自分は近衛隊の長官ですよ。それくらい調べています」
「ふーん。しかし、郊外で暮らしいてるお前に情報が筒抜けでは、僕も考えてしまうな」
エルフィスは、適当に相槌をしながら意味ありげに机の中央におかれている茶菓子を手に取った。ユナも食べたことがないものだった。
さくさくした生地に高価な砂糖がふりかけられている。
それを、音を立てて食べながらエルフィスは言った。
「確かに、兄様はお見えになったけどね」
「…………やはり」
「別に意味はないさ。僕の仕事ぶりを眺めに来たみたいだよ」
(仕事ぶりって……)
ユナは呆れながら、エルフィスの口に収まってしまった菓子を眺めていた。
「私はある件で、レンフィス兄様がこちらにいらっしゃったのだと思ったのですが?」
「何それ?」
フェルナンディは、無頓着に訊くエルフィスではなく、ユナを睨みつけながら半ば自棄気味に言い放った。
「ガイナ教……、絡みではないのですか?」
「どうして、そう思うの?」
「それは……」
エルフィスは寄りかかっていた椅子の背から、やっと上体を起こした。
「心配はいならないよ。ユナには事情を説明している。お前が言いたいのは「壁」のことだろう?」
「エルフィス兄様」
直接的な一言に、面食らっているフェルナンディを放置して、エルフィスは中央の菓子をつまんで、ユナに一つ手渡した。
「どうぞ」
「あ、有難うございます」
ユナは勢いで受け取ってから、動揺しつつ菓子を口に運んだ。
美味しい……けど、そんなに物欲しそうな顔に見えていたのなら、辛いところだった。
エルフィスは、暢気な口調で話を再開させた。
「お前も知っていると思うが、レンフィス兄様は、「壁」を存続させようというお考えだ。お前はどうやら「壁」は不要だと考えているようだけど?」
「私は……」
「知っているさ。僕とお前は近くにはいないが、僕のもとにも、それなりに情報は入ってくる。お前は、「壁」を壊したいんでしょう」
(どうしよう……)
ユナは、口に入れた菓子が喉に詰まりかけていることと、聞いてはいけない話を耳にしている罪悪感から、耳朶を赤く染めた。
フェルナンディは、実直に頷いた。
「今……、国民は貧しさに喘いでいるのです」
「幸い、まだ野垂れ死にしている人はいないようだけど?」
「それも時間の問題ですし、実際死者はもう出ているかもしれません。王政は国庫を開放して国民に施していますが、度重なる天災で農作物は値上がりし、物価が急激に上がっています。そろそろ限界がやってくる」
「でも、まだ何とかなっているし……。壁を壊してどうするの? 外国が怖くて壁を作ったのに開けてしまったら、待っていたとばかりに外国に攻められるかもよ?」
「…………その時は、私が叩きます」
「たいした自信だね」
エルフィスは、呆れ半分の眼でフェルナンディを見つめていた。
一瞬、フェルナンディの容貌に子供のようなあどけなさが浮かんだが、すぐに消失した。
再び、感情の読めない無機質な空気を纏ったフェルナンディが言った。
「もしかして、エルフィス兄様は「壁」を取り払う方法をご存知ないのでは?」
「えっ? そうなんですか」
「ユナ」
喉のつっかえも取れて、爽快感と共に叫んでしまったユナに対して、エルフィスは片眉を吊り上げた。
「それ、何処で聞いたの?」
「皆が噂しています。国王が慎重論を唱えるのは仕方ないにしても、エルフィス兄様が頑なに壁に拘るのは、代々、大神官に口伝されるという「壁」の解き方を知らないのではないかと?」
「根拠は乏しいけれど、面白い噂だな。それは僕も知らなかった」
「魔術が衰退したのと同じ理由です。貴方は魔法も使えないだろうし、当然、魔法で築かれた「壁」の解き方も知らないのだろうと……」
エルフィスは押し黙った。
(そうなのか……?)
国民のほとんどは、「魔法」が存在しないことを知っている。
かつて、存在したというのも眉唾な話だと囁いているくらいだ。
しかし、偉大なる国王が「魔法」で築いたという「壁」は現存していて、その解き方は当然王族が知っていると思い込んでいる。
言葉がないのは、事実なのか。
エルフィスの答えを待っていると、軽やかに重い扉が開いた。
ほとんど蹴破ってきたような勢いで、セルジがいた。
「失礼します」
「もう、失礼しているよね。セルジ」
エルフィスは軽口を叩くが、セルジはいつもの軽薄な笑顔を引っ込めていた。
「急にいらっしゃるとは思ってもいなかったので。まさか、ガイナ教の喧伝活動の日に合わせて来たわけではないのでしょうけど……」
「貴殿は、一体何が言いたいのですか?」
無愛想な顔に、苛立った動作で外套をひるがえして、フェルナンディは立ち上がった。
「別に、他意はありませんが?」
「他意とは?」
しかし……。
「いえ、結構」
フェルナンディは一方的に打ち消した。緩やかに扉に向かって歩を進める。
「帰るの?」
「気分を害しました」
「お前は一体、何をしに僕の所に来たのさ?」
「弟が兄に会いに来るのに、理由がいるのですか?」
……言われてみれば。
ユナが説得力に感心していると、エルフィスは負けじと言い返した。
「しかし、お前は兄弟よりも他人の方が大切なんじゃないのかな?」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。一つ忠告しておくけれど、つるむにしても、女性には気をつけたほうが良いと思うよ」
「馬鹿な」
フェルナンディは、言下に一蹴した。
「それを言うなら、エルフィス兄様のほうが問題でしょう。女性には騙されないように」
「ふっ」
――と、笑いを吹き出しそうになったユナは、咳払いで何とかごまかした。
そのまま、フェルナンディは去って行く。
まったくもって、ユナには理解不能の兄弟像だった。
(もっとも、王族の兄弟間のつきあいなんて興味もないけれど……)
エルフィスは浮かしかけていた腰を、再び椅子に戻してぐったりとなった。
「ああ、疲れた」
「すまない。遅くなった」
セルジは大股でこちらにやって来る。エルフィスは額に手をあてて、天井を仰いでいた。
「別に、お前のことなど、あてにしていないよ」
「最後の捨て台詞はともかく。これは絶対、ワザとだぜ。フェルナンディは今日ガイナ教が抗議活動すること知って、俺が忙しくなることを予想して、こちらに来たんだ」
「そこまで、狡猾かね?」
「お前の弟だからな」
当然のように、フェルナンディの座っていた側の長椅子に腰を下ろしたセルジは、エルフィスの隣で存在感なく直立しているユナに初めて気がついたらしい。
「――あれ?」
手にしていた菓子を、ぽとりと机の上に落とした。
「何で、ユナがここにいるんだ?」
(それは、私が知りたい)
困惑しているユナに追い討ちをかけるように、エルフィスは言った。
「協力してくれて有難う、ユナ。掃除に戻って良いよ」
(何だと……?)
ここまで、付き合わせておいて何を言う。
(人を物のように扱いやがって……)
しかし、腹立たしく感じながらも、これ以上物騒な話に、付き合わされたくはない。
ユナはたかが庶民で、何となく雇われた人間だ。
しかも、もうじき辞める人間でもある。
話は……、複雑なようだ。
「……承知しました」
大人しく従ったユナは、足早に部屋を後にした。