090 エルフの里、そして神樹様【その昔。】
その昔。
まだ人間が魔族とが対立し、獣人の存在が知られてないくらい彼らの生活圏が明確に分かれていた時代の話。
世界を恐怖に陥れた『魔王』という存在が出現した。
「有名な昔話だよ。君は聞いたことがある?」
「最近の事ですが、そういった本を読んだ事があります。ただ、どれも子供向けの絵本だったので、只の物語…おとぎ話かと」
神樹様に導かれるままに階段を上り始めたジュリアンは、前の彼の背中を見ながら問われた質問にそう返した。この世界に暮らしていれば、親が子供を寝かしつけるときに、大人が子供をあやすときに、先生が生徒に語るように、それこそいろんな場所で聞く機会がある物語を、神樹様はまず最初に知っているか?とジュリアンに尋ねた。
そんな常識も知らない上に、何かを事情を知っているらしいその言葉に「知っている」と嘘をつくことを避けたジュリアンは素直に真実を口にする。
それを顔を向けずに頷いてから、さらに先を続けた。
魔王出現。
それは魔族の中から突如現れたとされているが、本当のところは定かではない。生物なら当然必要な両親特に母親の存在が不明だったたし、かといって孤児というにも存在力がありすぎて、だれもこの魔王が子供だった頃の事を把握していないというのが少しおかしなことに感じられた。
さらに、当時はそれこそ魔族が世界を滅ぼそうとしていると信じて人間が『魔王』なんて呼び名を付けたのだけれど、精霊種のフェンリルの様に、ごくまれにではあるが強い『魔力溜り』と呼ばれる特定の魔力が漂う場所から生命が誕生することがある。
今になって少数派ではあるが、あの存在は巨大な魔力の塊ではないか、と言う人も現れている。
ただ、魔王と呼ばれたその者は人の姿をしていて、言葉も通じたし感情もあった。そして何より強い“破壊”の意志に従って世界を蹂躙し始めたのだ。
その中には仲間かと思われていた魔族の地も含まれていた。そのことから、この仮説はかなり有力なのではないだろうか?とみられている。
「なぜ、その話を僕に?」
階段を上り、続く廊下を歩き、その間も過去の話を続ける神樹様にキリが良いと思われるタイミングで疑問を口にした。その疑問を受けながらも、案内の足が止まることはない。そして1つの扉の前に立つとそっと開いてジュリアンを中へ促す。
「魔王と呼ばれたあの強大な力。その破壊の脅威から世界を救った存在。それが勇者。…これも児童書になって世界中に話が残っているはずだ。たぶんコレを読んだんだよね?」
「えぇ。大体は魔王と勇者はセットで物語に出てきますから、事実の話なのかおとぎ話なのかの判断が難しかったですけどね」
「そうか。そうだね。…勇者はその勇気とたぐいまれなる戦闘技術で無事魔王を討伐することに成功した。物語では登場人物と言えば主人公の勇者、悪役の魔王、そしてたまにヒロインのお姫様が出てくるものもあったけれど、君が見たのはどんなものだった?」
「お姫様は出てきました。王道のヒーローファンタジーと言いますか、魔王を倒して勇者とお姫様が結婚する、といった内容でしたよ」
「うんうん。当時はそれはすごいニュースになったからね。多くの者がこの話を後世に残そうと筆をとった。そのおかげで地域や多くの物語で魔王と勇者以外の登場人物に違いがある訳だけれど…」
「当時は?もしかして貴方…」
その時代を生きていたのか?と感じた疑問を素直に質問として口に出しながら室内に入る。木をくりぬいて作られた家という事実を忘れてしまいそうな綺麗な部屋だった。その部屋には天井が無く中庭のような存在で、階段状の棚が複数存在していて植木鉢が並べられていた。植えられている物は今ジュリアンが抱えている物と似ている気がする。話の途中だったことも忘れて少なくない感動を感じて上を見れば、緑の葉と間から青い空が覗く。明るい日差しが差し込んできていて、風が木(というか家)を揺らすとサワサワと心地いい音が耳をくすぐった。
「…誰も、彼を支えた1人の存在を残さなかった」
質問の返事では無かった。呟くようにこぼれた言葉は、今まで楽しそうに話していた声色から一転して何かを悔いているような、暗い印象を受けた声に少し驚く。顔をそちらへ向ければ、まっすぐな緑色の目がジュリアンを見ていた。
「名を、聞いてもいいかい?」
神樹様の言葉に素直にジュリアンは口を開く。
「…ジュリアンです。ジュリアン・グロウ」
一瞬「おや?」と訝しむような表情をしたが、軽く首を振った後は緩く頷きを繰り返し、かみしめる様に、脳内に刻むように、名を繰り返した神樹様は微笑を口に乗せる。
「ジュリアン。君に出会えてよかった。…君だったから、森は長い沈黙を破ったんだね」
「あの、神樹様。仰っている意味が良く分からないのですが」
一人納得している様子に素直に疑問をぶつけると、神樹様は両手を伸ばした。無言ではあったが植木鉢を渡してほしいという事を理解したジュリアンはその手に抱えていた鉢を乗せる。
「魔王を倒したのは勇者だった。でも彼1人の力では、なせない偉業であっただろう」
「支えた人が、居たという事ですね」
「そうだよ。それこそ誰よりも近い場所で命を懸けて、勇者を支えた。しかし、今の人は誰もその事実を知らない」
「どうしてですか?」
「記録として残すことを拒んだんだよ。彼は極端に目立つことを避けていた。自分の手柄を簡単に他者に譲ってしまうほどに。でも今なら、その理由が分かるよ」
「理由…」
目立つのが嫌だったのか、それとも当時何か理由があったのか。思わず聞き返してしまいそうになったが、その者の背後事情というこの情報は果たして自分に意味があるものだろうか?と考えて、緩く首を振った。余計な話に揺さぶられている場合ではない。今手にするべき情報は、神樹様がジュリアンを指して言った賢者というワードの詳細だ。振った首を再び戻せば、ずっとこちらを見ていた緑の瞳と視線がぶつかる。
「彼…その勇者を支えたという人が、賢者だったのですか?」
「うん。そうだ。そして君も」
「先ほども僕をそう呼びましたね。でもそれは…違うと思いますよ」
「自覚がないだけだ。間違うはずがない」
ではいったい何をもって賢者と言ったのか。それをたずねようとした時知った声の悲鳴が聞こえた。
「うわぁあぁああ!」
「…トーイ?…すいません、先に戻ります。お話はまた後で」
いや、悲鳴というか、あまり緊迫感は感じない発声だったけれど、軽く会釈した後小さな中庭を後にしたジュリアンは来た道を颯爽と戻っていった。話は確かに続けたいし知りたいこともあるけれど、賢者と自分に何の関係があるのか?という謎よりも冬威の命の方が大切なのだ。迷う素振りすら見せずに去っていく背中。それを見送る神樹様は先ほど受け取った植木鉢をその胸に力強く抱きしめた。
「私たちが見間違うはずがない。でもまさか、会えるなんて思わなかった。…あぁ、賢者様。我らが父よ」
神樹様の言葉に同調するように、周囲の植木の葉を風がなぜて、サワサワと緑が揺れた。




