074 堕ちる、そして落とされる【ザウアローレが】
ザウアローレが掲げたバスケットを軽く振ってからふたを開く。その中身はサンドイッチと果物といった軽食だったが、ふたを開けた瞬間にシロとクロが唸って顔を背けた。いきなりの変化に驚いたジュリアンは地面に膝をついて様子を見るために身をかがめる。
「シロ?…クロも、どうかした?」
「あぁ、すまない。このサンドイッチに使用してある材料…おそらく、ハーブのせいだろう」
心配そうな彼の声に、ザウアローレは少し苦笑いを浮かべてそう謝罪した。しかし、バスケットのふたはそのままでその籠を冬威に差し出す。
当然困惑して受け取ることを躊躇うが、そんな冬威にザウアローレは安心させるように笑いかけた。
「大丈夫だ。体に毒になるようなものは入っていない」
「え、でも…」
「私たち魔獣部隊の人間は、遠征の際にこういった食べ物を用意するんだ。相手を寄せ付けないようにするため、と言われているが、実際にこのハーブ、栄養価が高いんだよ」
「そ、そうなの?」
若干タジタジになりながらも、ザウアローレの言葉に納得して見せた冬威。ただ、手を伸ばすことは依然として躊躇われたために、差し出されたバスケットをとりあえず受け取るだけにとどめる。
そんな2人のやり取りを横目に見ながら、ジュリアンは何となく苦しそうな感じのシロとクロの背中をそっと摩った。
「大丈夫?」
「キューン…」
『問題ない。が、なんなのだこの臭いは』
「におい?ローレさんが言ってるハーブってやつかな?僕には特に何も…」
小さく鼻を鳴らしてジュリアンは“におい”を集めようとしてみるが、なんの変化もとらえることが出来ない。その様子に背けていた顔を戻したクロはまっすぐとザウアローレを睨んで、グルグルと警戒の声を漏らした。
あの時、魔獣部隊の出入り口付近で彼女が話を立ち聞きし、何を考えていたかという事をクロはジュリアンに話していなかった。どうせ人間の問題で、竜とフェンリルである自分たちには関係ない、何かあっても簡単に対処できると判断したためだ。しかし、今になってそれは間違っていたのではないかと思わざるをえない。
『嗅覚が人間と我らとではレベルが違う。こういう場面も仕方ないと言えば仕方無いのかもしれん。だが…あの女は危険だ。自分の欲に、振り回されている』
「欲?」
『…えぇい、詳しい話は後だ、今はこの臭いのせいでこの場に居るのも辛い。…だいいち、アヤツは魔獣を従える者なのだろう?それなのにこんな匂いをさせていたら、従えたモノからも避けられるだろうに!遠出するなら、なおの事。連れに嫌われるような事をするものなのか!?…もしかして、あの女はそのことを理解しておらんのではなかろうな!?』
確かに、と頷いたジュリアンは、ソロリと立ったまま話をしている2人を振り返った。冬威もさすがに、シロとクロが嫌がっている様子を見せているため、原因らしいサンドイッチを食べることは拒否したようだ。そんな彼に「では水だけでも」と飲み物を進めているザウアローレはどことなく嬉しそうな顔をしているように見える。
そんな様子がこれまでの彼女とは何かが違うように感じて、不気味な雰囲気を感じてゾワリと肌が粟立つ。腕を摩って誤魔化そうとする前に、まさに“グリン”という効果音が合いそうな勢いで彼女がジュリアンの方を向いた。
「…っ!」
悲鳴の声を出さなかった自分をほめてあげたい。しかし、ビクリと反応してしまったのは仕方ないだろう。それほどまでに、今までの彼女とどこかが違い、恐怖を感じるのだ。
「ジュリアン殿」
「な、なんでしょう?」
名を呼ばれては無視は出来ない。自由に動けない様子のシロとクロに近づいてほしく無くて、呼ばれた事もあり立ち上がったジュリアンは自ら歩み寄って距離を詰めた。
「別れの品として、良い物を持ってきたんだ。ぜひとも活用してほしい」
そう言って、ザウアローレは自分のポーチ型の鞄から2つの紐を取り出した。嬉しそうな顔で差し出す様子にその手を払いのける事が出来ず、とりあえず受け取ることにする。そっと手を出してみれば、ザウアローレは2本のうち1本をジュリアンの手に置いた。
そして触れて気づいた。撫でてみれば革製品らしく、しっかりとした作りをしている。パッと見は紐に見えたが、それは短いベルトのような形。金具のところに模様があり、何らかの魔道具なのではと推測できるが、この長さで2本。まさかシロたちの首輪か?
その疑問が表情に現れていたらしい。クスリと目の前のザウアローレが笑みをこぼした。
「ジュリアン殿の国では魔獣を従えるのに特別な処置や目印といったものは必要ないのかな?」
「え、いや、それは…」
詳しく知りませんとは何故か言えずに言葉を濁す。しかし彼女は返事は特に期待していなかったようで、気にした様子は見せなかった。
「この地は魔獣部隊の本部があるから、人が魔物を従えている風景は一般的なものとして浸透している。だが、ほかの場所では必ずしもそうとは限らないんだ」
「…それは、確かにそうかもしれないね。魔物は人間から見れば、害獣であると認識される場合は多い」
「そう。だから、町に魔物を連れて行くことを拒絶されることは珍しくない。まだ荷車を引くための草食タイプなら別なのだが、君の連れの様に外見から肉食タイプと分かる奴は、特に警戒される」
「想像できるよ」
「だからこその、首輪なんだ」
「…人間の下についている、と知らせるための物なんだね」
「そうだ。そして首輪は、いざというときに主たる人間が魔物を簡単に処分できる安全装置もかねている。これがあるからこそ、人間はある程度譲歩して町に迎え入れてくれるだろうし、従えている魔物の安全も約束されるんだ」
「…」
「君の旅の無事を祈って、良い物を用意させてもらったよ。彼らにつけてあげてくれないか?」
ザウアローレの言葉は十分納得出来るものであった。しかし…
「(何故だ?…なんだか、嫌な予感がする…)」
地球であっても、飼い犬に首輪をつけることはごく一般的な事だ。彼らにおしゃれの一環として、つけてあげる事には抵抗はないのだが、この手渡された首輪がダメなのか、彼らに同意を得ていないから嫌なのか、視線を首輪に落として迷うよに首輪を弄ぶだけで、ジュリアンは動こうとしない。
視線を落とすそんな彼を見ていたザウアローレは一瞬冷たい視線で睨んだ後で、冬威を一瞥した。
水をもらった冬威は、空腹を紛らわせるために何度か自分でボトルからコップに継ぎ足してそれなりの量を飲んでいる様子。話を聞くために傍に来ているが、顔はうつむき加減で話をキチンと理解しているのかは分からない。しかし、それを確認してザウアローレはにやりと笑い、ジュリアンに向き直った。しかし視線は彼を通り越して、その後ろでいまだ辛そうな様子の2体の魔獣へ向けられる。どちらかというとシロの方が珍しさは上だろう。だが、すでにジュリアンと一緒に歩き回っていて、彼の主が誰であるか、町の人間にも知れわたっている様子。であるならば。
「初めてでつけ方が分からないかな?では、手本を見せてあげよう。まずは、慣れないうちは暴れるだろうからちょっと乱暴だけど押さえつけるようにして…」
「え、あ、待ってください!」
サッとジュリアンの横を抜けたザウアローレはまっすぐクロに近づき、立ち上がっていたクロにまたがるように足を回して地面に押さえつけた。普段ならば簡単に払いのけるだろうクロなのだが、この時ばかりはまるで見た目通りの動物の様に、ぺたりと関節を折って地面に伏せの状態で押さえつけられてしまう。
『ぐぬぅ!…くそう、こんな人間の一撃など、普段はどうという事は無いのに…』
「クロ!」
『おそらくこの臭いだ!身体にうまく、力が入らぬ!』
「キューン」
馬乗りになった彼女は、力弱く抵抗するクロに持っていた首輪の1本を巻き付けようと腕を回した。当然抵抗するために暴れるが、やはり力が入っていない。魔獣部隊としてこういう事に慣れているのか、サッと一周してしまった首輪を見て、慌てたジュリアンはとっさにその金具部分を掴んで完全に装着されるのを妨げた。
その瞬間、彼女が忌々し気に舌打ちを鳴らす。
突然の変貌に驚くが、とりあえず今は彼女の行動を止めなくては、と口を開いた。
「待ってくださいザウアローレさん!首輪は僕が、徐々に慣らしてから…」
「そんな悠長な事を言っている場合か?旅がどれほどの物になるのか分からないが、ここから発って一番近い集落まで2日程度だ。その間に野生の魔物が首輪に慣れるとでも?」
「それでも!無理やりさせるのはダメだ。なんなら僕だけ、この子達と一緒に町の外に居たって構わな…」
言い終わる前に。
ジュリアンは強い衝撃を頬にうけて思わずその場に転がった。一瞬呆けてしまったが、すぐにザウアローレに強い力で払われた腕が顔に当たったのだと理解する。
その彼女を尻もちをついた状態で見上げれば、勝ち誇ったような顔で笑っていた。
「悪いね。君たちの都合なんて、構わないのさ。ただ、この子は置いて行ってもらうよ」
転がった拍子に手が首輪から離れてしまっていた。慌てて身体を起こすが、その動きを止めたのはなんと傍にいた冬威だった。
“ドサリ”
何かが落ちるような音がして、思わず音のした方に顔を向けると、冬威がその場に倒れていた。ただ、まだ辛うじて意識はあるようで、何故倒れてしまったのか分からないといった顔をしつつも、重いのか、痛いのか、しきりに頭を振っている。
「トーイ!」
「ジュ…ン…な、なんか…身体が…」
何が起きた?先ほどまで彼は普通に元気で、ザウアローレから…水を…
「…あの水!?」
手はクロの方へ伸ばしたまま、上体を冬威の方へと傾ける。
いや、待て。クロに首輪が装着されるのを防ぐ途中だったはずだ。
でも、冬威は何故倒れた?毒か?ならば彼の治療が先だろう。
だが、毒であるなら何の種類であるか、それを知るのはザウアローレだけだ。
やはり彼女をとらえる事を先に…
突然の事態にテンパったジュリアンは判断を下すまでに数秒の時間を有した。
それでもすぐに復活した彼はさすがと言ってもいいだろう。
しかし。
“パチリ”
乾いた金属音。
それで行動が遅かった事を理解した。
完全に装着された首輪。
すると金色だったクロの瞳が、じわじわと赤い色に変わっていくのが見て取れる。
「クロ…?」
「グルルル」
こちらを威嚇するように喉を鳴らした様子に思わず名を呼んだジュリアンだったが、今度はただ呆けている場合ではないとすぐに行動に移した。まずは立ち上がって冬威に近づきながら、転がっていたバスケットを力いっぱい蹴っ飛ばす。
臭いがわずかに和らいだのか、冬威を助け起こそうと手を貸している間に、シロも足元に駆け寄ってきた。
「トーイ!しっかり、大丈夫?」
「頭が重い…」
『ジュリアン!』
切羽詰まった様子のクロの声が脳に響く。何気に、名前を呼ばれたの初めてじゃないだろうか?なんて場違いなことを考えてしまうほど、現実逃避してしまいたいマズイ状況だ。
『今は、逃げろ。すぐに、抜け出す』
「クロ!」
会話が聞こえない周りの人間からしてみれば、クロは警戒の唸り声を上げているようにしか見えない。それはまるで飼い犬…飼い猫?…に噛み付かれて慌てている主にでも見えたのだろう。ザウアローレが面白そうに笑い声を上げた。
「うふふ、これでこの子は私の物だ!さぁ、最初の仕事を一緒にこなそう。お前の元主、あれの始末だ。…なに、足手まといという荷物もあるんだ。簡単だろう?」
そう言って、ザウアローレは人差し指をまっすぐジュリアンに向けた。




