057 牙、そして刃【風が2人の間を駆け抜ける】
風が2人の間を駆け抜ける。先ほどまでのホノボノとしていた空気を押し流し、ピンと緊張の糸が張り詰めた。風は流れているのに、空気はまるで換気されていない密室のように臭いをとどまらせている。原因は、臭いを放つものが側にあるせいだろうか。姿は見えないが濃く漂う臭いがその存在を確かに証明しているようだった。
立ち止まったシャロンを振り返った冬威は、視線を左右に振って周囲を確認した後で再び進行方向へ顔を戻す。
「これは、いつも通りなの?」
人間か魔物かは分からないが、何かが傷つき血を流している。そんな雰囲気に幾分か声が固くなると、シャロンもぐるりと周囲を見てから顔を前に戻して冬威の後ろ姿を見る。武器である杖を両手で構えて、警戒とすぐに攻撃に移れるように注意しながら口を開いた。
「おかしいわ。確かに、負傷者が出ることはある。だって討伐作戦だもの、全員無傷で完全勝利、というのは難しい。でも…今回は何かがおかしい。地図では、ここはまだレッドラインに入っているか、いないかという位置のはずよ」
「このにおいの発生源が魔物の死体って事は?」
「なくはないわ。でも魔物はどんなに小さくても討伐すれば素材として使えるし、血の匂いでほかの魔物をおびき寄せる可能性があるから、完全に放置する前に臭いけしを行うはずなのよ」
「なるほど。今更だけどさ、そのラインって、いつも大体同じような場所にひかれるの?」
「そうね、一応目撃情報などを使って位置取りはしているけれど、大体同じようなラインになるわ」
一応周囲を調べてみる。探索系のスキルは出現していないので、鑑定を重ねがけ。しかしやっぱり鑑定では限界があり、周囲の木々が詳細に分かっただけにとどまる。やっぱり、耳が良いジュリアンの方が周囲の状況把握には適しているようだ。小さく息を吐き出して振り返れば、まっすぐにこちらを見ているシャロンの瞳とぶつかった。
「ねぇ、基本的な事聞くけどさ、ラインって領域の端って事?それとも前線って事?」
「…魔物が発見された一番街に近い位置だから、前線、に当たるかしら。でも大規模な討伐作戦でぶつかる位置はもっと奥だったはずよ」
「奥?」
「人間の軍と同じ。ラインに近い魔物は斥候っていうか、歩兵っていうか…とにかく、本陣はもう少し奥まったところに固まってるって感じ」
今更ながら尋ねた後。気まずい沈黙が一瞬落ちるが、シャロンはすぐに説明を落とした。と、シロがグルルと警戒の為に喉を鳴らしたのに反応して身をひるがえす。お互いがお互いに背を向けて、先輩であり戦闘経験が冬威よりは豊富のシャロンが冬威のそばににじり寄って背中を合わせるように立った。
「どうした?シロ、何かいるのか?」
視線はせわしなく周囲を見ながら、自分には分からない何かを感じ取ったらしいシロに声をかける。しかし当然返事が返ってくることはない。だが、確かに何かを感じているようでうっそうと茂る森の奥を睨んでいる。2人は一度顔を見合わせてからシロが警戒している方に身体を向けて、そのうえで周囲に目を走らせた。
「確認するけど、このにおい、…血…だよね?血の匂いに似ている何か、じゃないよね?」
「…そうだと思うわ」
「魔物のかな?それとも誰か、怪我してるのかな?」
「分からないわ。でも今は…」
もしかしたら、魔物の臭いは独特な物だったりするのかもしれない、とか、血と勘違いさせるような何かかもしれない、とか。やや現実逃避気味にボソボソと小声で話をしていた時、ガサリと草が擦れる音がした。弾かれるようにそちらを向いた2人は、木々のおかげで薄暗い森の奥に、こちらをまっすぐに見つめる金の瞳を発見した。
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「はぁ…はぁ…」
ここは先ほどの草原よりは少し森に近づいた場所。頑張って1歩を踏み出そうとしていたジュリアンは、ふと足が普通に動くことに気付いた。きっと冬威が立ち止まったか、速度を落としたかで、過剰に奪われていた足の力が回復したのだ。…いや、取り戻したというべきか。これをチャンス!と走り出すが、あと少しで森に入るという時に、またグンッと足が重くなった。何かを見つけ、走り回っているのか。それとも何かに見つかり、逃げ回っているのか。呼吸も次第に荒くなる事を考えて、激しい運動をしているのだろう。きっと非常事態に陥っているのだと判断した。
駆けつけたいのはやまやまだが、今自分が動かない方が冬威にとっては良いかもしれない。そう考えて素直にストンと地面に膝をつく。そして光の紐が続く森の中を見つめた。
「いかがした、ジュリアン殿」
最初はプルプルしていたが、突然走り出して、今度は荒い呼吸を繰り返しながら座り込んでしまったジュリアンに、傍にいたザウアローレが声をかける。声にそちらを見上げると、どことなく彼女は心配そうに眉を下げていた。
「もしや、持病でもお持ちか?」
「いえ…あ、いや、そんなもの、かもしれません」
「その状態では戦えないだろう。町に戻るなら肩を貸すぞ?」
「ありがたいお言葉ですが、今は…」
そう言って顔を森の方に戻せば、ザウアローレもそちらを向いた。毎年恒例のレッドラインの討伐作戦。確かに地面が揺れるという事は初めてだが、それほど心配することだろうか?と腕を組んで考え込むと、必然的に胸を抱きかかえて。女性の象徴が強調された。
「…この辺で大きな個体というと、どんな魔物が居ますか?」
「この辺で?森の中ならグリーンボアが一番大きいだろうか…いや、ブルーベアも同じくらいか。草原では君が連れてるウルフタイプが一番大きいかもしれない」
ジュリアンは説明を受けて脳内に記憶した魔物図鑑のページをめくる。その名のとおり、グリーンボアはイノシシ、ブルーベアはクマの姿で、どちらも大きい物は体長4メートルを超すと説明に書いてあったはずだ。まぁ、そこまで成長するのも稀ではあるらしいが。
「それは4足歩行ですよね」
「基本はな。ブルーベアは後ろ足で立ち上がったりもするが」
「…では、4足歩行で、地面に擦るほど長い尾をもつ魔物はいますか?」
「何?」
声に森をみていた視線を下げてジュリアンを見れば、彼は地面両手をつけて顔を伏せていた。手に触れる下草から森の中を探っているのだが、ザウアローレには体調不良が悪化しているようにしか見えず、思わずその場に膝をついてジュリアンの顔を覗き込む。
「ジュリアン殿、体調がすぐれぬなら無理せずに…」
戻った方が良い。そう言おうとした時、森の中から空気を揺らし、腹に響く鋭い獣の鳴き声が響き渡った。




