166 つながる、そして隠れる【アルバリエスト辺境伯】
アルバリエスト辺境伯、アラステアの手には一通の手紙が握られていた。送り主はこの国、レシロックアーサの上層部から。封はすでに切られていて、中の紙の表面を彼の視線が滑るように動いていく。たった一枚のその手紙を最初からムッとした顔をしていたが、その表情はだんだんと、呆れとも苛立ちともとれるものへと変わっていった。同室にいるペニキラと、ロスカルシェ、ガラ、ファンパブロは主である領主アラステアの表情の変化に心配と焦りを募らせて、夏樹とジュリアンは「いったいどうしたのだろう?」ととりあえず反応を待つしせい。
たった1枚でそれほど内容が書かれているでもない手紙を、彼は何度も何度も読み返して内容を理解しようと努力したようだ。少しばかり時間をかけて読み込んでから彼は手紙より顔を上げた。
「呆れてものが言えん。…いや、比喩などではなく、本当の事じゃ。実際に何も言葉が浮かばぬなんて事を経験しようとは…。我が国はまともじゃな。この国に生まれて本当に良かったと思うぞ」
はぁ、と長めに息を吐き出して深いため息を吐いた彼の手から、ペニキラがひったくるように手紙をもぎ取った。それをとがめることもしないアラステアに極度の疲労を感じ取ったガラが紅茶を入れなおすべく移動し、ティーカップを彼の目の前にそっと置く。そしてペニキラもまた、手紙を読み進めるうちに怒りからかワナワナと手が震え、テーブル手紙を叩きつけた。
「なんじゃこれは!?」
表を上にしておかれた手紙にジュリアンは視線を向けた。たたきつけた手をペニキラが引いて胸の前でこぶしを握り怒りをこらえているのを横目に見ながら内容を読み進める。夏輝もそちらをチラリと見たが、彼はこちらの世界の文字が分からない様だ。なんて書いてあるの?と言いたそうな視線をジュリアンに向けてきた。
“人間の国から通達あり
ゼリティファ女王の婚約者が魔族に攫われた。地域からしてアルバリエスト領が怪しいという。
彼の引き渡しと賠償金を要求してきたが、人間側からは「婚約者の男性」と「10代後半の人間である」という情報しか伝えられておらず、この情報が正しいかどうかもわからない。
いつも通り人間の戯言である可能性の方が高いと考えている。
そのため、一応「婚約者殿の名前を教えていただきたい」という通達だけ返したが、それ以降こちらは静観する構えである。何か意見や情報があれば至急返信されたし。”
静かに内容を読んでいるジュリアンに気づいたアラステアがのどを潤した紅茶のカップをソーサーに戻し、もう一度深くため息を吐いた。
「まさかとは思うが、人間たちは召喚した彼の名すら知らぬというのだろうか?」
そんな疑問に答えたのは手紙も読めず、何が起きているのか分からなくて手持無沙汰にしていた夏輝本人だった。夏輝はすでに『人間の国の人たちに召喚されて、周囲から勇者と呼ばれたりしていたこと、異世界(日本)から強制的に連れてこられた事、待遇は悪く無かったけれど、自由に行動はできず、軽い軟禁状態に感じていた』という事と、日本について軽く話をしてあった。簡単に言うと武器を持って歩くだけで警察というこの世界では騎士に近い組織に逮捕されるほど安全な世界であったという事だ。
「俺がこの世界に来た時、どういうわけかこの国の言葉が分からなかったのです。世界が違うのだから当然だと思って、不便だな、と思っていただけなのですが…」
「確か、ある日突然理解できるようになったと申しておったな?」
「はい。ジュリアンの話では、この世界の言葉と自分の国の日本語の意味をつなげる事が出来たから…と言われましたが、良く分からないです」
「まぁ、それは良かろう。現に今通じていて不便は無いのじゃろ?」
「はい。聞いて喋る分に問題はありませんが、読み書きはまだ全く」
「それは仕方なかろうて。突然ポンと異国に連れてこられておるのじゃ。とりあえず意志の疎通ができるだけでも十分じゃろう」
「ありがとうございます。それで、なのですが。俺が言葉が分かるようになったのがちょっと遅くて、すでに名を名乗りあう段階は過ぎてしまって居たのです」
「それで?」
「軟禁されていると感じ始めていて召喚主たちに不満も抱いていたので、俺が言葉が分かるようになった、という事を言わなかったんです」
「という事は、自己紹介もしておらぬと?」
「はい。何を言っているのか分からなくて、俺も適当に発言するくらいならと口を噤んでいたので」
普通は国に有益になる相手に、せめて自分の名前くらい教えそうなものだ。自分を指さして名を数回名乗るだけという簡単なジェスチャーで伝えることだってできるだろう。それすらしなかったという事は、夏輝をどう思っていたのか想像がつく。少なくとも「保護するべき対象」ではなかったようだ。
「して。とりあえず今話し合うべきはこの後の事じゃ。我らレシロックアーサは静観する姿勢。人間の攻撃の要と思われるナツキ殿がこちらに居るのじゃ、慌てる必要はあるまい」
「俺に何ができるのか全く分からないですけど。それよりも俺の存在を上の人に知らせるのでしょうか?…お世話になってる身で我儘を言うつもりはありませんけど」
「ワシは報告するべきかと思うておるがのぉ」
そう言いながら2人の視線はジュリアンに向かう。精霊様の意見も聞きたいと思っているアラステア、同郷のよしみで序言が欲しい夏輝。2つの視線を受けてジュリアンは腕を組んだ。
「身を隠し続けるならば、情報は漏らさないほうが良いと思います」
「ナツキ殿を隠す、ということかの?」
「はい。ですが、人1人で生きていくことは困難で、必ず他者の助力が必要となる。すでに今も、アルバリエスト伯爵にお世話になっておりますしね」
「良いのじゃ。それは私が勝手に連れてきてしまったからの」
黙って話を聞いていたペニキラが口を挟めば、感謝の気持ちを込めて笑みを送った。
「助力を請うとなれば、下手に隠し事をしては不信感を募らせるでしょう。場合によってはこの国を裏切ったとも解釈される恐れがある。ただ、今回は「探せ」という命令文じゃなかったから、言い逃れできる段階だろうけれど」
「名乗り出るなら早い方が良いって事?」
「うん。ただ、それを悪用しようと考える人が、魔族側に居ないとも限らない」
「そんなこと考えてたら動けなくなるだけだろう」
「良く分かってるじゃないか。ようは、君がどうしたいか、で良いんじゃないかな?ナツキ。探して連れてこい、又は知らせろ、っていう分じゃないんだ。こういう事がありましたよ。という連絡の手紙だ。今ならまだ、隠れることも出来る…」
と、途中でジュリアンがガタリと立ち上がった。何があったのか驚きに目を丸くして、呼吸すら浅くなっているように感じる。突然の事に驚いた一同の中で隣に居た夏輝がそっと手を伸ばした。
「ジュリアン?どうした?大丈夫か?」
しかしその問に答えない。遠くを見るように少し視線を上に向けたまま呆然と立ち尽くしたかと思えば、パッと自分の手を見つめ、身体を確認し、そして隣に居て手を伸ばしていた夏輝に気がついた。しかし声を発することなく彼の肩を両手でつかみ、顔を近づける。まるで接触してしまうのではというほどいきなり接近したジュリアンに驚いて、思わず夏輝は上体を反らせた。
「ちょ、ちょちょちょ!何?いきなりどうしたんだよ!?」
しかしまだ答えない。ジュリアンはじっと夏輝の瞳を見ていた。夏輝の瞳に映る自分の姿を確認していたのだ。そしてするりと手から力が抜けるとポフリとソファーに落ちるように腰かけた。
「つながった…?いや、勘違いか?」
鍵が回る音を聞いた気がした。船がつながる気配がした。
しかし、何かが違う。いつもと違う。言いようのない胸騒ぎに、思わず顔をしかめた。