105 クリエイト、そして変身【“コンコン”】
“コンコン”
軽いノックの音が室内に響く。
が、激しい…って程激しくはないのだけれど、絶え間なく言葉のやり取りが続く言い争いが続いている内部には音が届いていない。扉の前に来ている存在も、中の声が漏れているのかこの程度の音では聞こえないだろうと思ったらしく、今度はもう少し強めにドアがノックされた。
「…あれ、誰か来たみたい?」
「おや、音が聞こえませんでしたね」
いち早く気づいたのは湯呑を両手で抱えていたジュリアンだった。彼が一番ドアに近い場所に座っていたせいもあったのかもしれないが。彼の声に視線をドアの方に向けた神樹様だったが、立ち上がって迎え入れるまでもなく、ドアを見るのとほぼ同じタイミングでそっと扉が開かれ、その隙間から白い物体が飛び込んできた。
シュタッと音が聞こえそうな動きで室内に飛び込み、キョロリと1度だけ首を回して中を確認。そして、そちらへ視線を向けていたジュリアンと目が合うと、かぱっと嬉しそうに口を開けて床を蹴りその腹に突っ込む勢いでとびかかってきた。
「居たー!!」
「うわ、あちっ!!」
「わわっ!?ちょ、ちょっと待って!お茶がこぼれるから!」
いったいどこに言っていたのか、フェンリルのシロが満面の笑みでダイブ。イメージは腹に抱き着く感じ。
しかし、首を回してそちらを向いていたジュリアンは、ほぼ側面後ろ側からシロの突進を受けて、持っていた湯呑からお茶がこぼれ、隣にいた冬威に被害が飛んだ。
半分ほど飲んでいたので熱湯を頭から被るような参事にはならなかったが、シェルキャッシュとの言い合いで意識が向いていないところにお湯が掛かって、無駄に驚いて思わず立ち上がってしまった。
「うわぁ!ごめんトーイ!大丈夫?何か拭くものを…」
「ちょっと、大丈夫ですの?…お、大げさに驚きすぎですわよ?」
「そうだ、火傷してない?あまり熱いお湯じゃなかったと思うんだけど」
「あ、あぁ。平気。驚いたから思わずリアクションとっちゃったけど、思ったほど熱くなかった」
思わずシェルキャッシュもそんな事を口にしてしまうほど、冬威のリアクションは大きかった。しかし、濡れた部分も広く無く、お茶もそれほど熱くはなかったのでやけどなどはしていない様子。とりあえずホッと安堵したジュリアンは、そこで手にしていた湯呑を置いて腹部に引っ付いているシロを見た。両手があれば腹部から背後に手を回して抱き着いているだろうシロは、ジュリアンの膝の上に乗りあがってグリグリと頭を擦り付けている。突然いなくなって寂しかったのだろうか?そんな様子に頭ごなしに怒る気持ちがしぼんでいけば、そっと頭を撫でるために頭部に手を置いた。
「まったく、いきなり危ないだろう?シロもトーイに謝って…って、あれ?そういえばさっき喋った?」
「うぇ?…あ、そういえばこいつ…」
思わずスルーしてしまいそうになったが、そういえば今までシロは犬の様に鳴く事しかしていなかったはずだ。クロの様にテレパシー的なものが使えた様子もなかった。あれ?気のせいだろうか?と思いながらシロの声が聞こえた?という疑問の色が強い視線を冬威に向ければ、彼も困惑したような目をジュリアンに向けていた。しかし2人の間で会話が始まる前に、つぶらな瞳でジュリアンを見上げたシロが口を開く。
「だってだって!ずっと探していたんだもの。落っこちちゃったとき助けてあげられなくて、クロが来るまで我慢してて、いざ探しに行くぞ!ってなったのにこの森おかしくて風の動きが上手く聞こえなくてぇ!」
ハクハクと動く口からは、意味の分かる言葉が出てきている。思わずチラチラとシロと冬威を見比べていたジュリアンだったが、冬威の驚くその表情に彼に、空耳だったりテレパシーでの会話ではなく、声がきちんと出ているという事と理解した。
「…喋ってる?シロ、今まで喋ってなかったよな?それともクロみたいに、こっそりジュンには声聞こえてたの?」
「いやいや、シロの方は知らない。喋るって事実も、声を聴いたのも今初めて確認した。嘘じゃないよ」
クロが竜だという事実を隠していて何となく気まずくなったのだ。それにシロが話すという事実まで隠していたとなるとへそを曲げるだけでは済まないかもしれない。いったい何が起きてこうなったのか。オロオロ、あわあわとする2人をそのままで、扉から新たにトズラカルネとクロが入ってきた。
クロはいつになっても戻ってこないシロを探しに出かけて、帰ってきた時にドアノブをひねって扉を開いたのはトズラカルネだったようだ。
「神樹様、仰っていた通り黒い獣が里に来たので、こちらにお連れしましたが…大丈夫だったのですよね?」
問いかけは神樹様に向けているが、視線は腹部にシロを引っ付けているジュリアンと冬威に向けていた。見た目はペットと飼い主に見えなくもないが、もしかしてストーカーのような存在だったのだろうか?引き合わせるべきではなかったのだろうか。そんなことを考えているらしいことが顔で分かる。神樹様は笑って軽く手を上げた。
「大丈夫、彼らの仲間みたいだよ」
「それならばいいのですが。…ですが、ウルフ系にも見えますが、見たことのない魔物ですね。特に人の言葉を理解するなんて」
「魔物ではない。あやつはフェンリル、風の子よ」
神樹様の側に立ち止まったトズラカルネを追い越しながらクロが言葉を発すれば、勢いよく振り返って目を丸くした。
「フェンリルですって!?…まさか、そんなのって…」
「伝承では過去の存在、幻の妖精、もしくは作られた生物とでも言っていたか?」
「いえ…でも、それなら、なぜ今まで誰もその存在を確認できていなかったのです?そして、なぜ今…」
「それは、彼らが勇者と賢者という存在だからだろうね。世界が動き始めたんだ。きっと何かが、起きる前触れなんだろう」
クロとトズラカルネの言葉に神樹様が割り込んだ。
何か、とは何なのか。分からないがその言い方にはあまりいい印象を受けない。黙ってしまったトズラカルネに向かって鼻を鳴らしたクロは、顔をシロたちに向けた。
「全く、少しは落ち着いたらどうなのだフェンリルよ」
「だって心配したんだよぉ。それにフェンリルじゃなくてシロはシロだよ!ジュリアンがくれた大切な名前なの!クロだってクロでしょう!?」
「そもそも我らには名前など必要ないのだ。その固体を識別する方法を無意識に知り、不便もなく生活してきた」
「でもそれだとジュリアンたちには分からないじゃない!」
「能力がはるかに劣る人どもとなれ合う事すら稀だったのだ。仕方なかろう?」
「じゃあ今は必要だよね。ジュリアンたちと一緒に居るもん!」
「だが、お前は人では無かろうが」
「やだぁ!」
まるで駄々っ子。
思わず苦笑いを浮かべてしまった一同だったが、その顔は次の瞬間に光輝いたシロに驚愕に変わる。
なんだ?と叫ぶ暇もなく、ジュリアンの膝の上にのしかかっていたシロは光を放ちながら姿を変え、光が落ち着いたときにはこげ茶の髪と瞳をもつ人型になっていた。
「…!?」
しかも女性。
今まで体毛で隠れていた身体は、滑らかな肌色に変わっている。当然服はない。長い手足はスラリとしていて、腰はきゅっと引き締まっており体の曲線美が美しい。そして腰部分にまとわりついて屈んでいる状態だが、身長は高めに感じる。
何となく幼い様子を感じていたので変わっても幼女とかかと…なんて一瞬現実逃避しかけてしまった。
身体の不具合のせいで欲情はしないジュリアンだが、此処は一般常識として顔を思いっきり勢いよく反らすと、その行動が理解できずに頬を膨らませたシロが覗き込むように移動しようとした。
「まって、まって!シロだよね?変化、変身っていうべき?…したんだよね?」
「むー。何なの?ジュリアン。こっち見てよぉ!」
「色々突っ込みたいことはあるけれど、とりあえずトズさん!助けて!」
「え、あ、わかったわ!」
慌ててひっつかみ部屋から連れ出すトズラカルネ。彼女たちが部屋から出ていくまで、ジュリアンは目をつぶっていた。
「まさか、人型にいなるなんて」
「魔物が擬態し姿を変えるなど珍しい事ではあるまい」
「でもまさか、シロが女性になるなんて。…あ、人間になれることを不審に思ったわけじゃないよ」
「性別など精霊には必要がない。ただ、お前が雄だから、対になれる雌に変わったのだろうな。同性の相棒はすでに存在しているようだし」
「それって冬威の事?…そっか。でも、何となく子供っぽいと感じていたのに、見た目人間の10代後半くらいじゃなかった?姿もコントロールできるの?」
「釣り合いたいとは思ったかもしれんが、あれはあやつが生きた時間が反映されていると思われる。魔物の成長は早いが、精霊の成長は緩やかだ。生まれながらに絶対の力を持ち、天敵も少ない。その環境でゆっくりと成長していくものだったらしいからな」
「なら、なおさら子供、もっと小さい子になると思うんだけど」
「では、生まれて間もないというわけでは無いのかもしれんな。あの身長170はあったか?」
「…嘘、そんなにあった?それだと僕より大きいよ」
「では、それだけの月日を1人で過ごしてきたという事だ」
「1人で?」
「であった時に仲間が居なかったのだろう?フェンリルは魔力だまりから生まれる。必ず両親が居るわけでは無く、先に生まれた仲間がいないなら、ずっと1人であったと想像するのは簡単だ」
「ずっと、1人で…」
ゆっくり成長するだろうフェンリルが身長170センチ、見た目15歳ほどになるまでずっと一人だった。それはどれだけの年月を必要としたのか、正確には分からない。
ただ見た目以上に幼い精神に少しだけ痛ましさを感じたジュリアンだった。
クロとジュリアンの会話の間、ずっと黙っていた冬威は、出て行ったシロの姿を追うように、扉をジッと見つめていた。
人間になったことは驚いた。しゃべったこと以上に驚いた。しかし、困惑しているのはそのせいではない。
「あの姿…春香?いや、まさか…」
シロの姿が、知っている人物に似ていた。
偶然かもしれない。ギュッと体の横でこぶしを握るが、モヤモヤする気持ちは晴れることはない。そっと視線を落とした冬威の様子に、気づいている人はいないようだった。
そんなことを考えているうちに再び戻ってきたシロは、簡単なワンピースを借りたようで見れる姿にはなっていたが、それ以降もジュリアンに引っ付いて回るシロ。はたから見るとカップルというよりは妹の世話をするお兄ちゃんって感じ。
「あぁ!シロ、ちゃんと前見て!」
「あわわわ。2本足って大変だね…」
「だからって人間の姿で4足歩行とかやめてね」
「むむ!ジュリアンすごい。頭の中が読めるんだね」
「…常識…教えるべき?だれが?誰が?…いや、僕はこの大陸に疎い…やっぱ誰かの助けが…」
そんなこんなであっという間に日が暮れる。
シロがジュリアンと同じベッドに入ろうとひと悶着あったが、昼間のやり取りで大体対応を勉強したらしいトズラカルネが引っ張って行ってくれた。
今は族長の家の1室を借り、ジュリアンと冬威の2人がそれぞれ当てがわれたベッドに座って向かい合っている。何だかんだで落ち着いて2人で話す時間は、今日は初めてかもしれない。
「はぁ…」
「お疲れ、ジュン」
「まさか、シロが人型になるなんて。…それにしても、トーイ何かあったの?」
「え?なんで?」
「言いたくないなら別に良いけど、ちょっと静かだったかな?って思ったから」
少しだけ考えて、冬威は口を開いた。ジュリアンはすべてを知っているんだ。今更隠し事なんてしても意味がない。
「似てるなって、思ったんだ」
「似てる?シロが?」
「うん。そう。シロが、春香…一緒にこの世界に来た、女の子に」
「そう、言われれば…」
冬威ほど親しいわけでは無く、姿もチラリとしか見ていないジュリアンは、言われるまでピンと来なかったようだ。だが、確かに髪色、髪の長さ、身長などのパーツが似通っているかもしれない。
「声もさ、犬の姿の時はあまり感じなかったんだけど、人になったら春香のまんまっていうか。それで少し、驚いたっていうか…」
冬威の胸の内を察して、ジュリアンは心配そうに冬威を見た。
何て声をかけるべきだろう?「大丈夫」なんてありきたり。だからと言って「勘違いだよ」なんて言えないし「気にするな」っていうのも無責任っぽい。
慰める言葉を探して黙ってしまったジュリアンに気づいて、冬威は笑った。
「偶然かもしれない。そうじゃないかもしれない。原因は分からないし、何でもかんでもジュンを責めたりしないよ」
「トーイ…」
「もう寝よう?明日はちゃんと移動の準備して、学校行かなきゃなんでしょ?」
「うん、そうだね」
「なんでジュンがそんな辛そうなのさ。…俺は大丈夫。だから今日はもう休もう。明日も早いよ」
「…分かったよ」
空元気?そうかもしれない。
でも、冬威が大丈夫と言っているなら、それを信じよう。
仕方ないな、と笑って見せてからジュリアンは部屋の明かりを落とした。