僕は異世界で勇者にはなれないけれど
生きていたって仕方がない。
そんなことを考える時間が日に日に増えていって、気が付いたら橋の上にいた。
車道を走る車のライトが歩道の僕の姿を照らして、すぐに通り過ぎて行く。
辺りは真っ暗で、こんな時間に橋の上を歩いている人間は自分一人しかいない。車の通りもまばらだ。
ここから川に飛び込んでも、きっと誰にも気付かれないだろう。
欄干から身を乗り出して、橋の下を流れる川を見つめる。夜の空の色を映した水の色は真っ黒で、底は見えない。
ふと、この水の底が別の世界に繋がってはいないだろうか、などと非現実的なことを考えた。
川に飛び込んで辿り着いた世界で、人生をやり直すのだ。
だけど別の世界に行ったところで、都合よくやり直すことなどできるのだろうか。
僕は特別な才能もない、ただのしがないサラリーマンだ。
いや、今はサラリーマンですらない。
職を失った。恋人にも捨てられた。貯金もほとんどない。
現実の世界でこの有様だと言うのに、着の身着のままで別の世界に行ったところで、上手くやれるはずがない。
現実逃避の妄想すら満足にできなくなっている。
もう死ぬしかないな、と思った。
車が通っていないことを確認して、欄干を乗り越えた。
途端に吹き付ける風が強くなったような気がして、不意に落ちてしまわないように後ろ手で手すりにしがみ付いた。
改めて川を見下ろす。結構な高さだ。
ここから飛び込めば間違いなく死ぬことができるだろう。だけど川の水は冷たいのだろうな、溺れて死ぬのは苦しいのだろうな、そう考えるとあと一歩が踏み出せなかった。
楽になるためにここまでやってきたけれど、楽に死ねるという訳ではなさそうだ。
しかしもうここまで来てしまったのだ、もう引き返せはしない。
深呼吸をして心を落ち着かせる。
せめて川に落ちるまでは心穏やかでいようと、現実を見ないように目を瞑った。
その時、声が聴こえた。
言語として認識できない声。少なくとも、僕には何と言っているのか解らない言葉だった。
後になって思うと、それは助けを求める声だったのだろう。
けれどその時の僕には、その声が「あなたはこんなところで死んではいけない」と言っているように聴こえた気がしたのだ。
僕は目を開けた。
そして導かれるように、その声のする方へ向かって一歩を踏み出した。
*
あれから、いくつかの年月が流れた。
いつかはこんな日が来ると覚悟はしていたけれど、ついにこの日がやって来た。
目の前にはあの日初めて出逢った女の子がいる。
自殺を考えたあの日、橋の上で聴いた声は彼女のものだった。
あの日からずっと、僕たちは一緒にいた。
毎日顔を見てきたけれど、今日の彼女はいつもと違って見えた。
今日の彼女は今まで見てきた中で、間違いなく一番綺麗だ。それが嬉しくて、照れくさいようで、少し寂しくもあった。
彼女は僕の姿を見るとしとやかに微笑み、それから泣き出しそうな顔になった。
「そんな顔をするなよ。今生の別れじゃないんだ、会おうと思えばまた会えるじゃないか。ああ、ほら、折角綺麗にしてもらったのに」
「……そうだよね。涙は、もう少し後に取っておかないとね」
ハンカチを手渡してやると、彼女は化粧を落とさないよう慎重に溢れかけた涙を拭った。
「ありがとう」
ハンカチの礼かと思ったが、そうではなかった。彼女は言葉を続ける。
「あの日、私の声の気付いてくれて。あの日私のことを見つけてくれたから、今の私があるの。本当に、本当にありがとう」
その言葉に、今度は僕の方が泣き出しそうになる。
「礼を言いたいのは僕の方だよ」
あの日彼女に出逢えたからこそ、今の僕がある。
出逢った瞬間、この子を守ってやらねばならないと思った。
くだらない理由で死を考えていた自分がバカらしくなって、もう一度頑張ってみようと思えるようになった。
この子のために、生きようと思えた。
決して楽な道のりではなかった。だけど、一度だってこの選択を後悔したことはない。
この日を迎えることができて、僕はとても幸せだ。
だから、心からこう言える。
「あの日、君に出逢うことができて本当に良かった」
出逢った時はまだ赤ん坊だった彼女は、こんなにも美しく立派に成長した。
その姿を見ることができただけでも、生きていて良かったと思うには充分過ぎるくらいだ。
彼女は涙を堪えた笑顔でもう一度礼を言った。
「今まで私を育ててくれて、本当にありがとう……お父さん」
今日は、僕の娘の結婚式だ。