9;不可逆信仰パラドックス
鎌首もたげた好奇心が塀の影から親子の対面を窺おうと身を乗り出した。
モデルのような体型に端整な顔立ち。間違いなしに雨宮雪乃の母親だろう。
だけど、なぜだろうか。
血の通った親子だというのに、母親だけ無機質な感じがするのは。
「ママ」
雨宮は無表情な母親にもう一度声をかけた。
「……ああ。雪乃じゃない」
それを淡白に受け止めると、彼女はところどころ塗装の剥がれた階段を下り始めた。
「雪乃ね、ママに会いたくて電車に乗って来たんだ」
「……そう」
「ママ……?」
初冬の澄んだ空気を震わす足音は特殊な楽器のようでもあった。その音符のクライマックス、二つのそっくりな横顔が鏡に写したように向かい合って立つ。
並ぶことによって違和感が如実に際立った。
彼女の母親には疲労感だけで、娘を前にしても変化はなく、久し振りの再会だというのに感情の揺らぎがないのだ。
嫌な予感がした。
「あのね、ママ……」
喜色満面で母親に語りかける娘を無視し、地面に足をつけた女性は小さく息をつくと、やぼったそうに我が子を見つめた。
「どいて」
「え?」
「今から職場に行くの。邪魔よ」
「……」
雨宮の血の気が引いていくのが遠くからでもわかった。
朝の匂いに鼻の奥がツンと傷んだ。
口を閉じたまま横によけた娘の前を、一切気にかけることなく母親は通りすぎる。
「あ……」
そのまま去ろうとする背中にいじけた視線を送っていた雨宮は、やがて意を決したように追いかけて抱き締めた。
「ママ!!」
「……」
「いっぱい話したいことがあるの! 平泳ぎが出来るようになったし、一輪車もすごく乗れるようになったんだよ」
「手を離して」
「あ、あの……ママ? どうして?」
「服が伸びるでしょ」
「ご、ごめんなさい」
およそ親子の会話とは思えなかったが
、雨宮は弱々しく手をはがした。
自由になった母親は背後を振り返ることなくまた歩き出す。
「お仕事終わったら、いっぱい雪乃のお話を聞いてね!」
「お祖母ちゃんのところに帰りなさい」
勇気を絞って投げ掛けたであろう言葉はひび割れた壁に弾かれるように無下にされた。
「な、なんで!?」
問いかけに足を止めると、ため息混じりに、母親は呟いた。
「これ以上、私の邪魔しないで」
「あ……」
雨宮は力無く項垂れた。
いま思い返しても痛ましい光景だが、事情を抱えた大人を相手にできるほどオレは賢くなかった。
頭も顔も力もない、ただの小学生になにができる?
空しいくらい子どもなのだ。
自分の力量を見誤るくらい、愚かな子どもなのだ。
だから、オレは道の真ん中に飛び出した。
「待てよ!」
第一声は酷くシンプルだった。
苛立ちに気合いを乗せて、頭に血が昇っていた。
突如現れたクソガキに雨宮の母親は若干だが驚いたように目を大きくした。
「なにこの子」
「アイツはあんたに会いに来たんだぞ!」
「……」
冷たい風が通りすぎる。
「あなたは雪乃の友達?」
「だったらなんだよ!」
「そう、仲良くね」
抑揚無く言うと無視して歩き出そうとした。「どうでもいい」としか思っていないのは子供でも分かる。
「待てって」
通せんぼするように両手を広げて進行を邪魔する。
迷惑そうに眉間に皺が寄った。
正面から見る雨宮の母親は、やっぱり美人だった。薄い化粧にほんのりと香る香水、雨宮も大人になったらこんな風になるのかな、と頭の隅で思った。
「どきなさい。忙しいの」
「嫌だ」
「そう、あなたも邪魔をするのね」
鋭利な刃物のような視線をぶつけてくる。少なくとも子どもに与えるようなものではなかった。
「ガキが親に会いに来たなら応えてやるのが普通じゃないのかよ」
この時のオレは未だかつてないくらい昂っていた。下手な敬語も忘れて言いたいことだけぶちまけていた。
「雨宮がどれだけっ……」
「親子も所詮は他人よ。フィクションと現実をごっちゃまぜにしないようにね」
「雨宮はあんたに会うためにすごい頑張ったんだ……」
「そう。大変ね。でも事情ってものがあって、従ってくれないと困るのよ」
「だったらその事情を説明しろよ!」
「子どもが知る必要はないわ。それに時々勘違いしてる人がいるけど、親子関係に無償の愛情を、誰もが感じられるわけじゃないの」
難しい言葉を多用して煙に巻こうとしているのか、とちんぷんかんぷんになりながら、頭の片隅で思った。
「私があの子に対して愛情を感じることはないわ」
「ど、どうして!」
「 私が愛していたのは夫で、その夫もただの下劣な人だったから幻滅してしまったの」
あぁ、オレはなんてバカだったのだろう。
この言葉は、オレだけじゃなく、向こうで悲しげに佇む雨宮の耳にも届いているのだ。
「……そ、」
「お金だけが目当てで、繋ぎが無くなったからいなくなった。そういう男にはならないようにね」
「……」
「もう行っていいかしら。その日暮らしのお金を稼ぐだけで手一杯なの」
「……」
「それじゃあ、仲良くね」
雨宮の母親は一切振り返らず、茫然自失の娘にも声をかけることなく、突き当たりを右折して姿を消した。
残されたオレと雨宮の間に言葉はなく、ただ初冬の空がゆっくり流れるだけだった。
すすり泣く声に気づかないふりして、オレは目を閉じてうつむいた。
どれくらいそうしていただろう。
アパートの別の住人が、集合ポストの横でうずくまる小学生女子に、ギョッとした視線を送りながら、自転車を転がして去っていった。
車輪が転がる音が澄んだ初冬の空気を切り裂く。
オレと雨宮の間に会話はなく、ただ空しさが転がるだけだった。
「ママ、どうして……」
すすり泣きの隙間にそんな呟きがあった。
それは働きに出た母親に向けられたものだったが、返事をしなければ、彼女が孤独に囚われてしまうような気がして、無い言葉を無理やり取り繕うことにした。
「大人の事情はわからないけど、子どもを思わない親はいないって、おかんが言ってたぞ」
「……」
「おとんだって、いまはたまにしか会わないけど、オレの写真を定期入れに入れてるって言ってたし、お前の母親だって、わざと突き放したようなこと言ってるだけで。……なにか事情があるんだよ、子供には言えないような」
「……そうなのかな」
「決まってんだろ。だって、お前が母親好きなのに、母親がお前を嫌いなわけないじゃん」
全部適当なごまかしだった。
向き合って見た彼女の母親の瞳には感情が一切なかった。他人から見て、そんな感じだったのだ。
感の鋭い雨宮がそれに気づかないはずがない。
オレがついたのは、実の娘を気の毒に思った、ただの、……残酷な嘘だ。
優等生の雨宮雪乃が騙されるとは思えなかったが、これ以上彼女を傷つけたくないと幼心に思ったのだ。
「なぁ、そろそろ行こうぜ」
「……行くって、どこに」
数分が経ち、しゃくりあげは治まっていないが、話せるくらいにはなったらしい。
小さくなった彼女の頭頂部を見ながらオレは正しい答えを模索していた。
「伊瀬、雪乃は、どこにいけばいいの?」
弱々しい声に普段の気丈さは一切なかった。
「帰ろうぜ」
「雪乃に、帰る場所なんてないよ」
「……」
「だって、どこにもいけないもの」
膝を抱えて体育座りの雨宮雪乃は埋めていた顔をあげ、上目遣いにオレを見た。
「知らねーよ。そんなの」
涙で滲む黒い瞳。
オレはやり場のないやるせなさで膝をおり、彼女の手首を握った。
「帰る場所がないなら行きたい場所をお前が決めればいいじゃんか」
「……わかんないよ」
「だったら行きたい場所が見つかるまで元の場所に戻ればいいだろ」
「元の場所って、雪乃の場所はここなんだもん。……ここだったんだもん!」
甲高い怒鳴り声に、電線のスズメが数羽、羽ばたいていった。
「ここだけが、……雪乃の場所だったんだもん」
「ここもお前の場所かもしれないけど、学校だってお前の場所だろ?」
腕に力をこめ、雨宮を立ち上がらせる。
「お前にはバアちゃんがいるし、それに、……オレだって味方になってやるから」
「味方って……」
「そうだ。お前が助けてって言えば、オレはなんだってやってやるよ。だから、歩こう、前を向いて、……帰ろう」
涙がたまった瞳は一瞬だけ虚をつかれたようにキョトンとし、
「……うん」
起き上がらされた衝撃からか、……一度小さく頷いた。
二人でとぼとぼと駅を目指す。
裸になった街路樹は柔らかな日差しを浴びて、久方ぶりの日光浴を楽しんでいるように見えた。
雨宮の足取りに力は無かったが、歩みを止めることはなかった。
実の親にあんなこと言われて立ち直るのは難しいかもしれないけど、彼女の心に芯ができるまでは近くにいてあげようと、未熟なりにも思ったのだ。
駅が見えるまでかなりの時間がかかった気がする。
やっぱり駅前に人気はなくて、駅員が窓口で一人暇そうに事務作業を行っているだけだった。反対のホームに停車している電車は一両編成で、乗客は誰も乗っていない。
切符を買うために駅員さんに声をかけようとした時だった。
「伊瀬」
雨宮に名前を呼ばれた。
オレは振り返り、遠くを見るような目でこちらを眺める雨宮に「なに?」と返事した。
「もしこのまま別な所に行きたいっていったら……」
不安そうに瞳をふせる。
「付き合ってくれる?」
ギュッとお腹にあてられた彼女の指が、カーディガンにシワを作っている。
「別なとこってどこ?」
昔からオレはイエスかノーの前に条件を絞り混むくせがあった。質問に雨宮はぶっきらぼうに答えた。
「天国」
「……まだ死にたくない」
「例えだよ。天国みたいなところ」
「どこそこ?」
「……北海道」
無謀だ。
ここから果てしなく遠いことくらい小学生でも知っていた。
「前にママが言ってたの。北海道は天国みたいだったって」
「海外ならともかく日本だろ。普通の町に決まってんじゃん」
「雪で上も下も真っ白な世界は、本当に天国みたいだったって」
「……」
さすがに付き合いきれなかった。
雨宮の言葉通り北海道なんて目指したら、日帰りではなくなるし、第一交通手段がわからなかった。
でも、それでも、だけど、オレは雨宮を助けるとさっき誓ったのだ。
元気一杯に「うん!」と頷けば、彼女も笑顔をなってくれる。だから、返事を……!
「……」
乾いた唇は思うように開かなかった。
無言になったオレの回答を察したらしく、雨宮は、
「そっか」
と悲しそうに微笑んだ。
「なんてね。……冗談だよ」
最近暇潰しがてらインターネットの乗り換え案内で山梨県の片田舎の駅から北海道の某駅を入力して調べてみたら、四十時間弱とニ十数回の乗り換えが待っていた。金銭的余裕もない小学生には不可能な数字だ。
当時も不可能なことくらい、わかってた。
やめるのが正解なことくらい、わかってた。
だけど、彼女を傷つけるだけはしたくないのだ。
「行こう」
「え?」
しゅんとした少女を見て、オレは答えを導きだすことができた。
「一緒にさ」
「…… ほんとに?」
「あぁ、行こうぜ、天国」
嫌になったら現実から目を背けて逃げるのはありかもしれない。
だってこれは、逃避行なのだから。




