6:ひみつきち
月曜の朝に憂鬱が広がっていた。
生欠伸を噛み締めながら席につき、一日の始まりをうつむき加減に迎える。
今日の日直は前の席の栗田で、明日の順番のことを思うと溜め息が出る。
小四の憂鬱なんて、大人から見れば下らないの一言かもしれないが、当時はソレが世界のすべてだったのだ。
担任が教室に入ってくると同時に 、立ち歩いていた生徒は駆け足で自分の席に戻り始めた。
隣のクラスだと先生が来る前に着席していないと怒鳴られるらしいが、うちのクラスは、担任が無気力だったお陰で、生徒の個性が健やかに育てられていた。
「起立」
「気をつけ」
「おはようございます」
「着席」
の、四連単の挨拶が済み、高松先生がクラス名簿を気だるそうに開く。
すごくどうでもいいことを思い出したが、オレは転校生が来るまでずっと出席番号一番だった。
「雨宮雪乃」
静寂。
「雨宮、いないのか?」
無音。
手も上がらなければ、返事もない。
「……伊瀬晴太」
その日一番最初に返事をしたのは、
「はい」
雨宮ではなく、オレで、元気よく、とはかけ離れた声量で返事をしながら、斜め前に視線をやって、本日の欠席者一名を知ったのだった。
どうしたのだろう。
「雨宮から連絡もらってるやついないか」
全員分の名前を読み上げた後、先生は眉間に皺寄せながら大声をあげた。
誰の手も挙がらない。
無断欠席らしい、どうしたのだろうか。
寝ぼけ眼に昨日の光景が蘇る。
白い扉を閉める小さな手。目が合い赤くなった雨宮。
児童心理科、つまりは心療内科。おおまかな意味くらいは知っていた。
当時は子どもが抱える諸問題に対するフォローが万全とは言えず、うちの小学校にスクールカウンセラーという職業の人が派遣されたのは六年生の頃だった。
雨宮が外部でお金を払って、心理相談をやっているということは、環境に対して不満を感じているということだ。
なんなんだろう。
乏しい脳ミソでは、納得できる答えにたどり着くはずがなかった。
「まあいい。一時間目は算数か。教科書開いて待ってなさい」
高松先生はそう言うと、教室から出て行った。
一部生徒の無断欠席なんてよくあることだけど、優等生の雨宮となると室内は少しざわついた。
鎮静化していた過去の噂を蒸し返すやつなんかもいて、とんだ飛び火を不愉快に思ったことを覚えている。
何分もしないうちに高松先生が戻ってきて、
「蕁麻疹が出てしまったらしく病院に寄ってから来るそうだ。さ、一時間目始めるぞ」
プリントを一番前の席に配り始めたところで、チャイムが校内に響きわたった。
オレは、手元の割り算なんかより謎のジンマシンというモンスターについて想像を巡らせていた。
先生の言葉通り、雨宮は中休みに登校してきた。
「ユッキー大丈夫? 風邪引いたの?」
中澤が甲高い声で雨宮に声をかける。雨宮の頬には大きな白い湿布を貼られており、小さな輪郭の彼女にはひどく不釣り合いだった。
「ううん、風邪じゃなくてアレルギー。私、人より皮膚が弱いらしいから」
そ知らぬ顔で雨宮と中澤の会話を聞きながら、名前の通り白い肌は確かに刺激に弱そうだ、とボンヤリ考えた。
「えー、アレルギー? 大変じゃん。大丈夫なの?」
「ちょっと肌が荒れちゃただけだよ。ありがとう、心配してくれて」
数日前『別に友達じゃない』と言っていた中澤の声が耳に甦る。
それなのに今は誰よりも心配の声を挙げている。女子ってほんとによくわからない。
「生理じゃね?」
前の席の栗田が下品な笑みを浮かべながら、振り向いて囁いた。
「なにそれ?」
「はっ」
無知なオレを小馬鹿にするように栗田は鼻を鳴らしただけだった。
誰かに好かれるのは嬉しいけど、異性と会話なんて滅多にしないし、自ら進んで話しかけるわけでもない、そういう一日をいつも通りに過ごす。
授業が終わり、家に帰って、母親がパートから帰ってきてないことを密かに喜び、携帯ゲームのスイッチを入れる。母親にゲームをしてるところを見られると口煩く注意されるからめんどくさいのだ。
三十分くらい冒険を進めたところで、室内にインターホンのチャイム音が響いた。当時モニターなんてモノはないから、すぐに玄関に移動して、小さく扉を開ける。無警戒もいいところだが、ドアスコープに背が届かないのだから仕方ない。
隙間に見えたのは雨宮の端整な顔立ちだった。
「家出してきた」
「は?」
開口一番、オレの意識はおいてけぼりにされた。左手から響くゲームサウンドが現状に違和感を与える。晩秋の風が雨宮の長い髪を揺らす度に、なんだか変に緊張してしまった。
「って、え?」
なんで俺んちに来たのか、とか、昨日のあれはなんなのか、とかいろんな疑問で頭が一杯になったが、一番最初に口をついたのは、彼女がした目先の発言に対してだった。
「家出って? はぁ、なんで?」
雨宮は力ある瞳を少しだけ伏せて、頬に貼られた大きな湿布に手をかけ、ぺりっと捲った。
赤く腫れた頬。
ジンマシンなんかじゃない、くっきりと人の指の形が出ている。
誰かに叩かれた痕。
誰に?
「……だから、」
雨宮は再び湿布で痕を隠すと、さっきとは違って消え入りそうな声で続けた。
「家出した」
「えっと」
いつか観た夕方のテレビニュースを思い出す。
「ぎゃくたい?」
保護者が子供を殴り付けることを虐待と称するならば、雨宮の頬の赤いスタンプは間違いなくそれに該当するだろう。
「違うよ。怒られただけだから」
「でも普通殴るか?」
「おばあちゃんに叩かれたのは初めてだし……、困らせたから」
「あの人に叩かれたのか? 困らせたってなんで?」
「……ママに」
「……」
「ママに会いたいって、言ったから」
「それで叩かれたの?」
雨宮は小さく一回頷いた。
「おかしいだろ。母親に会いたいって、めちゃくちゃ普通のことじゃんか」
「ウチはちょっと特殊だから」
エントランスでポストを開け閉めする音が聞こえてきた。集合住宅は少しの音が大きく響く。
オレは口をすぼめて「意味わかんねぇよ。そんなことないだろ」と呟いたが、雨宮は首をふって否定するだけだった。
「それでね」
一転明るい声で彼女は続けた。
「伊瀬にお願いがあってきたの」
「なにさ」
「雪乃、しばらく家出するから、秘密基地を使わせて」
竹藪のなかの秘密基地を彼女に紹介したことを思い出した。夏場は蚊が多くとてもじゃないが過ごせないが、いまの季節なら防寒対策に気を配れば一晩くらいなんとかなりそうだ。
「それは構わないけど。……家出ってまじですんの?」
「うん。毎日する」
「ん?」
毎日家出ってどういう意味だ。
「放課後、二時間くらい毎日家出してから、なに食わぬ顔で帰るの」
「……それ家出って言わないよ」
「ううん。家出だよ。プチ家出。ほんとに家出するのは二週間後。それまでに準備を整えるの」
「ほんとの家出って……」
「伊瀬、協力して」
雨宮は微笑んだ。
「駆け落ちしよう」
駆け落ち。
の意味を知らなかった。だから小学四年生男子のオレはてらうことなく首を捻った。
「駆け落ちってなに?」
「男女が二人で旅することだよ」
「はぁあ?」
自分で顔が真っ赤になるのがわかった。
「ぜってぇやだ! 別にお前と旅してもなんもおもしろくねぇし」
「伊瀬、電車に乗れるんでしょ? 一人で」
「そうだけど」
「だったら協力して。雪乃が一人で電車に乗れるようになるまで」
「あんなんクソ簡単だぞ。べつに教わらなくても大丈夫だろ」
「家出中は目立ちたくないの。失敗できない」
不思議な理屈だ。
「そっか、言葉を間違えたね。これは、えーと駆け落ちじゃなくて」
雨宮はにっこり笑みを浮かべて、手を叩いて言った。
「逃避行!」
後押しするものはなにもなかったが、 わからない。
この時、オレはなんて返事をしたのかどうしても思い出せないのだ。
だけど、なんでか、わからないが、
オレは雨宮の家出に付き合うことになったのは確かだ。
計画の全容はこうだ。
家出をするのは、二週間後の十一月二十一日。
それまでの間に、お年玉を下ろし、電車の乗り方を調べ、誰も知らないどこか遠くの土地に行く。
嬉しそうに語る雨宮の瞳はいつも以上に輝いていた。
「遠くってどこだよ」
腑に落ちない点が一つあった。
所詮子どもの世迷い言、漠然とした計画なのは言うまでもないが、貯金をおろして宛どない旅に出るのはいくらなんでも無計画すぎる。
「遠くは遠くだよ。誰も知らない天国みたいなとこ」
「そんなん日本にはねぇよ」
「あるよ。あるんだもん。天国よりも遠くて、素敵な場所」
「だから、どこだよ、それ」
「……北海道」
「嘘つくな」
「ほんとーだもん」
「オレならまだしも、優等生気取りのお前がブラブラと旅に出るなんて変だろ。それで本当はどこに行くつもりなんだよ」
「ひ、秘密。だって雪乃が居なくなったあと、おばあちゃん、きっと聞き込みをするでしょ。その時に伊瀬がばらしちゃうと台無しだもん」
「わかった。母親に会いに行くんだろ」
「……」
雨宮は悔しそうに下唇を噛んだ。ご名答、ってことだろうか。
案外こいつはわかりやすい。
「そんで母親ってどこにいんの?」
「山梨県」
「山梨……」
って、どこだっけ?
ない頭を絞って、社会科で習った日本地図を思い浮かべる。
あ、すごい遠い。
階段に響いていた足音が徐々に大きくなってきて、時折スーパーのビニール袋が擦れる音が響く度、ひしひしと嫌な予感が渦巻いた。
オレと雨宮は互いになにも言わず見つめあっている。
気まずさしか感じない。いや、現状もそうだが、その後の未来予想で。
「ちょっとごめんなさいね」
母親だった。無論、オレのだ。
おかんの突然の登場に、雨宮は顔をあげ、目を丸くした。
「あら可愛い。晴太の同級生?」
「あ、はい」
「ふーん、美人さんね。将来はモデルかアイドルね。遊びに来たの?」
「い、いえ、違います。その、伊瀬くんの忘れ物を届けに来ました」
「あんたまた忘れ物したの? 人に迷惑かけて、まったく」
おかんは呆れ顔でため息をついた。勿論雨宮の出任せだが、誤魔化す気にもなれなかった。
なによりもおかんが見られて恥ずかしかった。
オレの母親はお世辞にも美人とは言えないタイプで、授業参観のときとか張り切って化粧したり、服装のセンスが壊滅的にダサイ、テンプレート的なオバサンだった。
同級生ではっきりとオレの母親を知っているのは裕一くらいだが、それをよりにもよって雨宮に見られたのは子供心に恥ずかしかった。
「飴食べる?」
「あ、ありがとうございます」
「いいのよぉ」
ビニール袋からフルーツのど飴を取りだし、メロン味を強引に雨宮に渡すと、おかんは興味津々といった表情で続けた。
「ねぇ名前はなんていうの?」
「あ、雨宮雪乃といいます。よろしくお願いします」
「雪乃ちゃんって言うんだ。ごめんね、いつもウチの子が迷惑かけて」
「そ、そんなことありません」
「せっかく来てくれたんだし、ケーキでも食べてかない?」
「ありがとうございます、でも、す、すみません、あの、このあと用事があって、これで失礼します」
「あらそう、残念。また遊びにきてね」
「はい」
彼女は目だけで謝ってきたが、べつにどうでもいいとアイコンタクトで返事する。
雨宮はオレとおかんに背中を向けると、ゆっくり階段に足をかけた。
「晴太、また勝手にゲームやってたわね」
「あ!」
右手に握られた携帯ゲームのことをすっかり忘れていた。
「あんたいい加減にしなさい、あれほど勝手にやっちゃいけないっていったのに」
「や、だって、その」
沓抜で怒られる。おかんの怒号を浴び、冷や汗を垂らすをオレを、閉まりかけのドアの隙間から雨宮が物憂げな瞳で見ていた。
バタンとドアが閉まる。
おかんの手によって携帯ゲームはその日のうちに隠され、オレが出来る唯一の遊びは宝探しだけになった。




