5:遡る覚え書き
細く線になった雲が夕陽を浴びて光って見えた。東の空は夜に染まり、紫の色合いを濃くし始めている。目立ち始めた街灯に交じるよう一番星が輝いていた。
「伊瀬はなんで引っ越したの?」
塗装がはがれた歩道橋を隣同士でゆっくり歩く。手すりに放置された飲みかけのペットボトルが道路を走るトラックの振動で中身を小刻みに震わせていた。
「おかんとおとんが別れたんだ」
「別れたって、……」
「離婚ってこと」
「そう、なんだ」
昔は至るところに歩道橋があったが、近年はバリアフリー化の観点で数を減らしているらしい。現に彼女と歩いたその歩道橋も今では地下通路に代わってしまった。
浅い階段を下りながら彼女は静かにうつむいた。
「うちも……」
彼女の家にいた老婦人を思い出す。母親とは考えづらい年代だった。
「伊瀬はどっちに引き取られたの?」
「オレはおかんの方」
「お父さんと離れて寂しくない?」
「別に」
元から会話の多い家族じゃなかった。気まずさを感じるほどではないが、これと言って特別な感情を抱いたことはない。いまも、むかしも。
「そういう雨宮はどうなんだよ」
「雪乃は……」
信号で立ち止まり、彼女はちらりとオレを見た。走り抜けていく車のライトが、表情を瞬間的に切り取っていく。
「やっぱり寂しいよ。でも会っても後悔するだけだから」
「それってどういう……」
「青だ」
「え?」
彼女の行く先に青信号が点っている。淡いライトに照らされて白い肌を際立って見えた。
「じゃあね。また明日」
「あ、ああ。またな」
寂しげな笑顔が夕暮れに消えていく。どこか遠くでカラスが鳴いた。
小学生の一日は非常に濃厚だ。真新しいことに直面する機会が多かったからか、あの頃は今よりもずっと視界がクリアだったような気がする。
本で読んだことがあるが、精神年齢の折り返し地点は十九才になるらしい。それ以降は極限まで薄めたカルピスみたいなものなのだ。
とはいえ自分が特別だと信じて疑わなかった小学四年生の人生が素晴らしいものだったかといえば、そうでもない。
思い返してみても理不尽だと感じることはあったし、他人を酷く憎んだりもした。
幼年期は誰もが無粋な承認欲求を持ち合わせ、無邪気を武器に他人を傷つけたりしたのだ。
雨宮と下校した次の日、刃は容易く向けられた。
『イセと雨宮、ケッコン式はいつですか????』
黒板に大きく書かれた汚い白文字に寝起きの頭がフリーズした。
迂闊だった。
男子と女子が一緒に帰ったら冷やかされるに決まってる。相手は面白ければ他人を傷つけてもかまわないという思考回路の小学生たちなのだ。
背後でクスクスと笑い声がする。いびつな混声二分合唱だ。
昨日のこと、誰かに見られていたのか。
なにか反論しなくちゃ、と必死に考えてはみるが、笑い者にされてる現状で背後を振り向くのが非常に恐ろしかった。オレは口を開くことさえできずに黒板消しを握ると素早い動作で文字を消した。
誰が一体こんなことを。
すでに登校している雨宮を流し目で見ると、当事者とは思えないほど涼しい顔で読書していた。
なんだか無償に腹が立った。
「……」
恐らくこの落書きをしたのはクラス一おちゃらけた男子の志茂田に違いない。底意地の悪そうなニヤケ面を掃除用具入れの前で披露する志茂田よりも、我関せずといった顔の雨宮のほうに、なんでかわからないが腹が立った。
「ねえ昨日のことってほんと?」
掃除中、教室の机を片側に寄せるオレに、中澤が自在箒の柄に顎をのせて声をかけてきた。返事をするのが億劫だったので、口を閉じたまま作業を続ける。
「無視かよ」
「……うるせぇな」
「ねぇねぇ、ほんとなの?」
噂好き特有の鼻につく猫なで声で中澤は目を細めてオレの耳元で囁いた。
「二人は付き合ってるの?」
「ちげぇって。昨日はたまたま帰り道が一緒になっただけだし」
「でも二人が手を繋いでるの見たって人がいるんだけど」
「見間違いじゃねぇの?」
「ふーん……」
心底うざったかった。中澤はまた薄気味悪い笑みを浮かべて続けた。
「ユキはやめといた方がいいよ」
「え?」
「アイツ、やばいから」
寒気がした。
二人は仲が良い親友のような関係ではなかったのか。こんなところで陰口を叩くような歪んだ友情関係になってしまっているのか。
「やばいって、なにが?」
女子はほんとによくわからない。パニックに陥る頭とは裏腹に冷静な自分が舌を動かした。
「背中にイレズミがあるの」
「……」
「ヤバイ人だよ。ヤクザの娘なんだって」
「そうかもな」
「女子はみんな知ってるよ。男子は伊瀬にしか言ってないけど、ユキには近付かないほうがいいよ。消されたくなければ」
「それ雨宮が自分で言ったの?」
「自分で言うわけないじゃん。私のお母さんが言ってたの。ユキはヤバイって」
「まじで?」
「伊瀬も気を付けなよ」
中澤は独善的に頬を吊り上げて走り去っていった。
教室は喧騒に覆われている。舞い上がった埃に咳き込んでしまった。
本当だろうか。
今も昔も暴力団についての知識なんざないに等しいが、現実はフィクションのように義理と人情を重視していないことくらい知っていた。
まあなんにせよ、関係ない。
無理矢理そう思い込んでも心にかかったモヤモヤが晴れることはなかった。
認めよう。
雨宮のことが気になっていたからこそ、オレは。
オレは、そのあと何をすべきか、頭でなく衝動で動いたのだ。
やっぱり、否定できないじゃないか、と過去の自分がいまの自分に語りかけてくる。
あとの行動は単純だった。
雨宮が本を読んでいた事を思い出し、図書室で彼女を待ち伏せすることを思い付いた。
壁一杯の本が威圧感を持ってオレを出迎えてくれた。放課後の図書室は静謐な空気に包まれていて過大なプレッシャーを与えてくる。
我ながら回りくどいと方法だと思うけど、教室で話しかけでもしたら周りにとやかく言われるのが目に見えている。放課後の図書室だからこそ誰にも見られず会話ができると考えていた。単細胞にもほどがある。
ドアについた鈴の音がした。華奢な身体が隙間から現れる。彼女は慣れた手つきで司書の先生に返却本を渡すと、新しく借りる本を選び始めた。
児童文庫の棚だ。
オレは静かに移動して、彼女にしか聞こえない声量で囁いた。
「あのさ」
雨宮はビクッと手を震わせた。驚きを孕んだ瞳がオレを捉える。
「……なに?」
黒い瞳が射し込む夕陽を宿して輝いていた。
「お前ヤクザの娘ってほんと?」
ストレート。
何もかもスキップした質問だ。
他人を慮る性格ではないものの聞き方というものがあるだろう、と少し反省している。
「誰がそんなこと言ってたの?」
冷たい目をして雨宮はオレを睨み付けた。
「いやなんか小耳に挟んだんだよ。誰かとかは忘れたけどさ」
「中澤さん?」
「別に誰だって良いだろ」
「そうだね。どうでもいいね」
彼女は手に持った本を閉じると乱暴に本棚の隙間に突っ込んで踵を返した。
「待てよ!」
「なに? 帰りたいんだけど」
「なにじゃねぇよ。質問に答えろよ」
「何でそんなこと知りたいの?」
「なんだって良いだろ。知りたいから聞いたんだよ」
「関係ないじゃん。伊瀬には」
耳が赤くなっていた。瞳孔が開いている。
「ああ、関係ないね。ただ興味持ったから聞いただけだよ」
「だったら教えてあげる。私の親は別にヤクザじゃありません。満足?」
投げやりな解答だが、嘘は言ってないだろう。真っ直ぐな瞳、それが嘘であろうはずがない。
「そう、なんだ」
知り得た解答をぼんやりと咀嚼するオレに、雨宮は背を向けて図書室から出ていこうとした。
なにをするでもなくそれを見送ろうとした口から、無意識のうちに呟きが漏れる。
「そりゃ、そうだよな」
「……なにが?」
足を止めて振り向いた。
低学年が絵本で騒いでいる。ページを捲る音がした。古書の匂いが鼻につく。
「関係ないもんな」
「どういう」
言いくるめられたのだろうか。
そもそもなんで彼女に話しかけたのか、やっぱり分からない。
「親がなんだろうと関係ないのと同じだな」
「……」
雨宮は無言で図書室を出ていった。
図書室はいつのまにか静寂とは無縁の世界になっていた。
それから暫く彼女と口を利くことはなかった。
肌寒さが厳しくなり、半袖がぼちぼち厳しくなって来た日曜日のある日。オレは裕一と駅前のゲームショップで五枚一組のワンパックからレアカードを何とか見つけ出そうと努力していた。キラカードは少し分厚いとか固いとか、よくある噂の検証だ。
塾で忙しい裕一と連れだって遊ぶのは久しぶりのことだった。
なんとか指先に意識を集中して、レアカードを探り出そうとするオレの傍らで、
「あれ伊瀬のクラスの女子じゃん」
裕一は自動ドアの先の少女を指差して小さく声をあげた。ガラス越しの横顔が目に入る。
「ほんとだ」
「たしか夏休み明けに来た転校生でしょ。どこ行くんだろうね」
いつか見た布の手提げ鞄を肩にかけ、澄まし顔で人混みに紛れていく。店内に響く聞いたことのない昔の曲が、なんだか微妙に合っていた。
「さぁな」
彼女はオレに見られていることに気付かず、そのまま真っ直ぐ歩いていった。
店を出てすぐに裕一と別れた。これからアイツは塾に行くらしい。二年後受験を控えた裕一に、オレと遊んでいる暇などないのだ。
どうでもいいがオレが購入したパックの中身は雑魚だった。裕一の方には主人公が扱うレアが含まれていて、少しだけ妬んだのを覚えている。
同じ値段なのに価値が違うのは、実にバカらしい事だと思う。だけど、デッキにその日手に入れたカードが加わることはなかった。
適材適所という四字熟語があるが、自分より優れたものがいれば当然そちらが優先され、残された弱者は惨めな劣等感しか感じさせてくれない。現実とはそういうものなのだ。
裕一と別れ、そのまま帰宅する気にならなかったので、休日で賑わう駅前をブラブラと歩き回ることにした。
思えばあの頃はいつも変化を求めて出歩いてた気がする。退屈な日常を壊してくれる一撃を望んでいたのだ。
でも、訪れるのは決まって時間の無駄という文字列だけだった。
駅前に小さな商業施設がある。五階建てで、都会のソレとは比べ物にならない貧相なデパートメントストアだ。
地階が生鮮食品売り場、一階、二階が衣料品、三階が本屋やCDなどの娯楽品、四階がレストラン街で、五階には眼科や歯医者などが集まったフロアと、どこの地域にもあるような小さな施設だった。
暇を持てもてあましたオレは、エレベーターで五階に上がり、裕一から借りた漫画をソファーに座って読むことにした。続きが気になって仕方なかったのだ。
診療患者専用とかかれたソファーは他のフロアの質素な木製ベンチと違いフカフカでゆったりと寛げる仕様になっていた。
デパートで鬼ごっこをした時、この廊下の端で、息を潜めてニタニタした事があるから知っていた。
日曜日の午後はどこの医療施設もしまっており、罪悪感を感じることなくソファーに腰掛けることができる。優先席でそ知らぬ顔をするクソガキだ。
手に持った巻が最高の盛り上がりを見せたところで終わりを迎え、続きを取り出そうとビニール袋をガソゴソとあさる。その音が静寂が保たれた廊下に異様に響き一人で驚いてしまった。
廊下のどん詰まりは直角にカーブしており、診療室とかかれたドアが無機質に存在していた。
ノブにはラミネート加工されたワードアートで『診療中です。お静かに願います』と表記された看板がかけられており、横の白い壁のホワイトボードに具体的な診療時間が書かれていた。
扉が小さく開いた。ノブにかけられた看板が微かに揺れている。図書館での光景を思い出し、違和感にとらわれる。
手提げ鞄を提げた少女が小さくお礼を言いながら出てきた。
彼女は後ろ手でドアを閉めると白い廊下に小さな吐息を吐いてエレベーターホールに向かおうと正面を向く。
目があった。
彼女は目を見開き、驚きの表情を隠すように口許に手をやった。オレは、なにも言えずに漫画を持ったまま固まってしまった。こんなところで雨宮と会うなんて思ってもみなかったからだ。
彼女は恥ずかしそうに紅くなると口を真一文に引き結んで足早に廊下を去っていった。
間抜け面のオレは一人残され、当時の視力2.0を絞って彼女が出てきた扉の横の壁の文字を読んでみた。
児童心理科と書かれていた。




