3:薄く高く見上げた空に
暇だと答えていたら、どんな展開が待ち受けていただろうか。
「暇ならさ、遊びに行こうよ」
雨宮の願いを聞き届けるのは、親友である裕一へ対する裏切りなのだ。
小学四年生の男子には独自の世界があり、そこへ他人の、ましてや異性である雨宮を迎え入れることはできなかった。もちろん二人きりで遊ぶなんて論外。
「や、やだ」
様々な因縁から断るのも気が引けたが、苦手な人と一緒にいたくないのは誰だっておんなじだろう。
「そう」
拒否の理由を聞かれたら何て答えていただろうか。ともかく彼女は思った以上にあっさりと引き下がった。
顔をしかめるでも、舌打ちするでもなく、至って平穏な顔つきのまま身体を反転させると、なにも言わずに家のドアを開けて中に入っていった。
バタンという音とともに、薄暗い共用廊下に取り残されたオレは、しばらくエレベーターの前で放心していた。一抹の罪悪感を抱えながら。
意地を張らずに仲間に加えてやれば、そういうことをぼんやり考えながら学童に向かう。裏門の柿の木の下で裕一と落ち合い、場所を移動した。
商店街を抜けた先のイチョウ並木を「銀杏くせぇ!」と連呼しながら自転車で疾走し、十五分ほどして目的地の安らぎ橋に到着した。
誰が見つけたのだろう。
地層が剥き出しになった部分から貝の化石がごろごろ採れるのだ。
橋のたもとに自転車を停めたオレたちはそのまま小さなスコップを持って乱暴に地面をえぐり始めた。
昔はきっと、下を流れる珠川がこの辺りまで覆っていたのだろう。採れるのは石灰に似た白いアサリみたいなクズ化石ばかりだったが、それでもオレは楽しかった。
いつか恐竜の化石が採れると信じていたから。
次の日学校で会った雨宮は平然としていた。
オレから話しかけることもなければ、彼女が話しかけてくることもなく、そこに特別な感情を抱くはずもなかった。
それから一ヶ月が過ぎ、暦は十一月に代わった。
金木犀の花も抜け落ち地面にオレンジ色のカーペットを敷き始めた頃。
移動教室で理科室に向かう途中、他クラスの裕一とすれ違ったので、軽く手を挙げて話しかけた。
「放課後久しぶりに白川でも探検しようぜ」
白川は県をまたいだ先にある丘陵地帯のことで、たくさんの自然が残る子供のオアシスである。
そういう自然観察的な活動にたまらなく惹かれたのだ。本当に幸せだった。
オレに自然に触れあう機会を多く与えてくれたのが、裕一だ。物知りで、この辺りの地理に詳しいデキる男。
この日も探検に乗り気で舵を取ってくれると信じていた。
だけど子供時代の冒険は突然終わりを告げるものなのである。
「ごめん、塾に行かないと」
コンマ数秒遅れて彼の発言がオレの心を揺さぶった。どういうことかわからない。
「え、お前通ってたっけ?」
「うん、一週間前くらいから」
クラスの何人かが通っていたのは知っていたが、裕一は無縁だと漠然と信じていた。酸っぱい唾が口内に溢れる。
「ど、どこの?」
「馬賀駅前の脳宴研って塾なんだけどさ」
「あそこかよ、いいよ、そんなのさぼっちゃえよ」
「そういうわけにもいかないんだよ。実はもう何回かサボってるし、こないだ親にばれて、すんごい怒られて。それにさ、今年で学童使えなくなるし、託児所代わりにしたいんじゃん?」
「学童って五年までだっけ。でも別にお前は塾行かなくても成績悪くねぇしさ」
「まあ親としては納得できないとこもあるんでしょ、たぶん」
塾にやれば妄信的に頭がよくなると信じる心理が理解出来なかった。
子供の世界を引き裂くのは得てして無自覚な大人のお節介なのだ。
喪失は幼い精神に多大な負荷をかける。その後の理科の実験のマグネシウムリボンよりも、オレの心は言いし得ない空しい光を放っていた。
放課後、家に帰ってもやることがないので、その日に出された計算プリントを居残って片付けることにした。前の席の栗田にゲーセンに誘われたけど、他の友達と遊ぶ気は、なぜだろうか、まったく起きなかったのだ。別に友達が少ないわけではないが、裕一との時間が長すぎて、他の人と一緒にいても楽しいと感じることがなくなってしまったのだった。
これは、裏切りではないか。
プリントの角に押し当てたシャーペンの芯はグズグズと崩れて最後にはポキリと折れてしまった。
「施錠したいんだけど」
いきなり話しかけてきたのは、教室の後ろのほうに立って澄まし顔でこちらを眺める雨宮だった。感傷に浸る間もない。
「なんでお前いんの?」
びっくりしたことを悟られないよう努めて平穏な声を出す。
「今日日直だから」
「あー鍵を閉めたいのね」
「そういうこと」
日直には教室を施錠し職員室に鍵を戻す仕事が与えられていた。最近友人にこの話をしたら、そんな習慣はないと笑われたが、うちの学校だけなのだろうか。
「わりぃ。今出る」
解きかけのプリントをランドセルにつめて立ち上がった。当時クリアファイルなんて知らないから、プリントはいつもランドセルの底でクシャクシャになってしまうのだ。
「そうだ、雨宮宿題やった?」
「……まだだけど」
「なんだよ。問三が解けないから教えて貰おうと思ったのにさ」
「問三ってどんなの?」
「なんかセーホーケイがボコッてなってるやつ」
「たぶん二回に分けて解くんじゃないかな」
恥ずかしながら算数が大の苦手だった。もっと真面目に取り組んでいれば、理数系に悩まされることもなかったんじゃないだろうか。
「宿題やってたの?」
雨宮は淡白な声音で聞いてきた。
「あぁ、やることないし暇だから」
「なんで? 三組の子と遊びに行くんじゃないの?」
「塾があんだってよ」
「そうなんだ」
興味なさげに呟くと、遠くを見るように目を細めた。早く施錠したいという無言のアピールだと気づくのに、いかに鈍感だろうと時間はいらない。
連れだって教室を出る。雨宮は静けさ漂う廊下で施錠をしっかり行うと「さよなら」とぼそりと呟いて職員室のほうに向かって歩き始めた。
「あ」
窓の向こうの紅葉が視界の隅で秋の世界を彩っている。転校初日、夏の眩しい日差しのなか、酸っぱいブドウと斜に構えた運命がそこに立っていた。
「そういえばお前どっか悪いの?」
言葉選びのセンスの無さは言うまでもないが、空っぽのオレにしては悩みに悩んで導きだしたクエスチョンだった。
「なんで?」
下駄箱に近い位置に職員室はある。だから下校しようと思ったら、必然雨宮と方向が同じになるのだ。
沈黙が気まずいので数メートル先を歩く小さな背中に声をかけた、そういう言い訳を脳裏で繰り返す。
「前あったとき、なんか病院行ってるっていってたから」
「別に悪くないよ。病院はたまに通ってる程度」
「悪くなきゃ病院行かないだろ。でも一人で病院行けるなんてすげぇな」
「伊勢は行けないの?」
「一人で行ったことないな。耳鼻科はあるけど」
「意味わかんない」
立ち止まって振り向いた。廊下を包む秋の気配が静かに色を変える。
面白くもない冗談にクスクスと微笑むと彼女を見て、花咲く笑顔ってのはこういうののことを言うのだと思った。
「で、でも一人でおじいちゃんチ行ったことあるぜ」
「へぇ。おじいちゃんチってどこにあるの?」
「隣の県だけどさ、電車乗り継いで二時間くらいのとこ」
「すごいじゃん」
なにぶん小学四年だ。それだけのことで得意になった。
「一人で行動できるんだね」
「でも病院は一人じゃ行けねぇな」
「ふふ、じゃあ病院に関しては雪乃のほうがスゴいね」
「病院に関してだけな」
校庭ではサッカーボールを追いかける児童の声が響いていた。なんでもない記憶だけは鮮明に残っていて、景色を無駄にカラフルにする。
「そういや女子っていつもなにして遊んでんの?」
ちんけな好奇心だった。非常に分かりやすい男子と違い、女子独特のミステリ部分を見抜くことは難しい。だから前触れもなく、ふと頭をよぎった質問をしたのだ。
「なんだろう。雪乃はあんまり他の子と仲良くないから」
「そうなのか。転校生だと色々あんのかね」
上履きのゴム跡が廊下に黒い線を引いている。視界の隅でそれを捉えた。
「……プールのときに見られたから」
「なにを?」
「背中の……」
雨宮は立ち止まってオレを睨み付けている。
彼女がなにを言っているのか一瞬わからなかったが、すぐに彼女の背中にある文字のイレズミのことを思い出した。
「あぁ、アレ」
「やっぱ見たんだ。変態」
「ち、ちげぇよ! たまたまだよ! 」
「もういいよ、べつに」
「でも見られたからってなんで仲良くなれねーの?」
「え、だって刺青だよ?」
「イレズミ? かっこいいじゃん」
「かっこいい……」
少しオレンジがかった陽光に照らされて、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「かっこいいんだ」
「うん。まじかっこいい。うらやましい」
「そう、かな」
「オレもやりたいんだけど、ぜってぇ親が許可してくんないよなぁ」
「ふふ、やらない方がいいよ」
流されるように平凡というレールを歩いてきた今じゃ口にできない憧れだ。ピアスでさえ開けたことがないのに。
「あ、職員室にいくから」
いつの間にか下駄箱前に到着していた。乾燥した砂とホコリの臭いが鼻につく。帰宅の臭いだ。
「おう。また明日な」
「うん。じゃあね」
機嫌良さそうに彼女はフリフリと手を振った。
傘立てに放置されたビニール傘でさえ、その日は夕日に照らされて美しく見えた。




