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1:夏の終わりの雪の秋の日


ちょっと自分を追い詰めてみます。

 映画や小説のようにドラマチックな恋をする人はこの世に何人いるのだろうか。

 週末テレビでやっていたベタな恋愛ドラマを観て、なんとなくそう思った。

 ちんけな自尊心が恋なんかじゃなかったと顔を真っ赤にして叫ぶけど、今でも彼女の姿がよみがえる度、すべては否定できないんだと知る。



「アマミヤユキノといいます。これから皆さんと仲良くなりたいと思っています」

 そう、たしか夏だった。小学四年生の暑い夏。

 開け放した窓から蝉時雨がなだれ込んでいたことを覚えている。

「よろしくお願いします」

 簾のように下がった髪があがり、愛らしい笑顔が咲く。

 息を飲む音が至る所で起こる。

 雨宮雪乃は可憐すぎた。

 当時、オレは、

 残暑を爽やかにする転校生という存在がクラスの団結を乱す異質物に感じたのだ。

 この嫌悪感がどこからきたのかわからないが、昔から人嫌いのイジけた性格をしていたので、彼女の取り繕った笑顔と転校生の処世術をかいま見て無条件にイラついた。


 雨宮雪乃は気品漂う物腰と端整な顔立ちで、一瞬にしてクラスの人気者になった。

 上野動物園のパンダか多摩川のアザラシだ。

 オレはその時、こいつとはクラスメイトとしての関係が得られたくらいで、これから先運命が交わることは無いんだろうな、と考えていた。


 雨宮が転校してきて一月が過ぎた頃。放課後、いつものように仲のいい友人とふざけあっていた。

 裕一の家は共働きで、親が帰ってくるまでの時間を学童で潰すことになっていた。学童クラブは地域の鍵っ子のための施設で子供を預かる保育所のようなところである。そんなことただのバカガキが知るはずもなく、ただの遊び場の一つと認識していたオレは、その日も施設内にあるトランポリンで遊んだり、小さなグラウンド場に出てエアガンを撃ち合ったりした。

 いまでも鮮明に思い出せる。

 涼風に運ばれた独特の香りの正体が、隅に植えられた金木犀だということに、当時のオレは気づけなかったのだ。

 子供の頃は自分を大人だと勘違いしていたが、振り返ってみると、やはりまだまだガキだった。その時の唯一の憂いは夕焼け小焼けのチャイムだけだったのだから。

 裕一と遊んだ帰り道「また明日」と一人になったオレは、間違えて前暮らしていたマンションに自転車を走らせてしまった。遊び疲れていたのだ。


 親の離婚に伴って一年前まで住んでた場所で、体に染み込まれた習慣というのは恐ろしい。ぼんやりした頭でドアを開けたとき、ようやく本来の違和感を取り戻したのである。


 まず感じたのは匂いだった。

 各家庭には生活の香りというのがあり、自分チのソレを正確に認知することは難しい。よく遊びに来る裕一はオレんチのことを美味しそうな匂いがすると言って笑っていたが、玄関を開けて感じたのは花の香りだった。

 次に視覚が違和感を訴える。玄関がスッキリと片付いていて、壁にはバラの絵が飾られていた。


 そうだ、ここはもう別の人の家なんだ……。

 詳しくは知らないが分譲マンションを購入した父は、信頼していた人に裏切られ住居を手放すほかなくなってしまったらしい。それが離婚を誘引する一つの原因になったらしいが、別に興味がないので深くは聞いていない。

 そういえば大人は天災や事故が起こると、すぐに「子供の心のケアが」と声を揃えるが、子供の精神はそこまでやわじゃないと個人的にはそう考える。もちろん個人差はあるだろうが、少なくとも親の離婚という問題に際し、当時の心は醒めていた。


 背後でバタンと扉が閉まった。全身がこわばる。

「帰ったのー?」

 奥から声がした。今の住人だろう。

 脳がすぐ踵を返すよう命令をだしたが、もつれた系統ではそれすらもうまくいかず、沓脱ぎに立ち尽くしてしまった。

 感傷に浸り、逃げ出すことを忘れてしまったのだ。

 リビングから顔を出した老婦人は見知らぬガキが玄関口にいることに気がつき「あっ」と小さく声をあげた。

「す、すみま」

 人見知りはするし、大人は苦手だし、ろくなところのない子供だった。人間嫌いなのはいまも変わらないが。

「すみません、あの、オレ」

「あの子の友達かしら?」

「い、いや、間違えて……」

 つかえつかえの言葉はおばあさんの朗らかな笑顔に塗りつぶされた。

「良かったわ。学校に友達いないんじゃないかと思って心配してたの」

「え」

「さぁ上がって、もうすぐ雪乃も帰ってくると思うから」

 あの子って?

 ユキノ、まさか……。

 クエスチョンマークを引きずったまま、半ば強引に手を引かれ、元・自分の部屋へ案内された。七畳ほどの洋間で子供部屋なのは変わらないらしい。

「ごめんなさいねぇ、遊びに来てくれたところ申し訳ないんだけど、いまちょっと病院に行ってるのよ。もうすぐ帰ってくると思うからそのままで待ってて」

 白髪だが、はつらつとした若さを感じさせるおばあさんだった。

 彼女は一人がけのソファーにオレを案内すると、「お菓子を用意するわね」と微笑んで子供部屋から出ていった。

 一人きりにされ、所在なくあたりを一周見渡してみた。

 整理整頓が行き届いた学習机のフックには、ピカピカの赤いランドセルが下げられている。

 女子の部屋だった。数ヵ月前まで無骨な小学生男子の部屋だったはずなのに、いまではクマのヌイグルミなんかが置いてあり、なんだか無償に悲しくなって、世界に裏切られた気がした。

 犬の遠吠えが聞こえた。

 こんなところで呆けている場合ではないと思いだす。

 奥に引っ込んだおばあさんに悟られないよう、なんとか脱出しなければ。

 決心すると、白のカーペットに置かれた自分のランドセルを背負い直し、ドアノブに手をかけた。

「ただいま」

 子供の声がした。鈴を鳴らしたような少女の声。全身が凍りつく。

 何をなすのも遅すぎたのだ。

「お帰りユキノ。お友だち来てるわよ」

「え?」

 扉の向こうのやり取りは、さながら無自覚な弾劾裁判のように聞こえ、居心地の悪さに見舞われる。

 逃げられない。

 思考回路が焼き付く。

「友達なんて呼んでないよ」

 壁の向こうの話し声が混乱を呼ぶ。正常でも鈍いオレの脳みそは、どうするかを必死で考え、通常では有り得ない選択肢を導き出した。

 ドタドタと迫り来る足音に急かされるように、クローゼットの扉に手をかけ、中に転がり込んだのだ。


 バタン。

 頭の悪い隠れ場所に飛び込むのと扉を開いたのはほぼ同時だったと思う。

「……」

 一瞬の静寂。高鳴る心臓の鼓動が外に漏れ聞こえてしまうのではないかと心配になった。こもった木の匂いが鼻孔を支配した。

「友達なんていないよ?」

 なるたけ慎重に体勢を整え直し、クローゼットの隙間から様子を窺いみる。外の灯りに一瞬目が眩んだ。

 凛とした立ち姿。

 一度も言葉のキャッチボールを交わしたことのない転校生が立っていた。

「誰も居ないよ」

 彼女は背後を振り向いてキッチンにいるであろう女性に声をかけた。

「そんなはず……」

 ジュースとポッキーが乗ったお盆を持ったおばあさんが子供部屋に顔を覗かせ、「あら?」と素っ頓狂な声をあげた。

「おかしいわね。ついさっき男の子を案内したはずなのに」

「男の子? そんな子知らない。夢でも見てたんじゃないの?」

「なんでかしら……」

 おばあさんは白髪を揺らしながら、キッチンへと引き返していった。

「へんなの」

 雨宮はあどけないようすでそう呟き、後ろ手でドアを閉め鞄を机の取手に引っ掻けた。

 ストーカーのように同級生のようすを窺うオレは、どう考えても変態だった。脱出のチャンスを掴むためには仕方がない、と割りきってみても背徳的な覗き行為に罪悪感を感じないわけがない。

 雨宮は姿見の前で後頭部の髪留めを解き、二度三度ふってから手櫛で整えていた。艶やかな黒髪が蛍光灯に照らされ天使のわっかを作り出している。

「ふぅ」

 小さな吐息を漏らすと、羽織っていた薄手のカーディガンを手に持ち、

「あ」

 こちらに歩み寄ってきた。上着を脱いだら、すぐにしまうタイプの人間らしい。外の汚れやチリがクローゼット内の他の衣服に伝染するので、収納するのはしばらくたってからの方がいい、と今なら声を大にして教えてあげるところだろう。

「……」

 がちゃりという音ともに、オレのかくれんぼは終わりを告げた。

 雨宮の澄んだ黒い瞳と目が合う。

「……」

 一瞬お皿のように丸くなった彼女の瞳が、怒りで細くなっていくのがわかった。

「あ、あの、ごめん、おれ」

 糾弾されるより先に謝罪しようと身を乗り出そうとしたオレに、

「なに?」

 冷ややかな言葉が浴びせられた。

「え」

「とりあえず出れば?」

 聞いたことのないどす黒い声がぷっくりとした唇から放たれる。フレンドリーな笑顔で教壇に立っていた転校生からはおよそ考えられない、この世の闇をはらんだかのような声だった。


「なにしてたの?」

 雨宮に座るよう促され臼緑色のクッションに腰をおろす。

 網戸から心地よい夕風が室内に流れてきている。時計の針は五時近くをさし、遠い空は紫の色合いを濃くし始めていた。

「こ、ここっ」

 喉が緊張で震える。

「ここ、前にオレが住んでた家なんだ」

「それで?」

「あの、間違ってさ、ボーとしてて、気付いたら、ここにいて」

「なにそれ」

「ほんとうなんだ。嘘じゃない」

 乾燥した空気とは対照的なジトッとした目付きで睨み付けられる。

「疲れてて前住んでた家に行っちゃったってこと?」

「そ、そういうこと」

「信じると思うの? それ」

「だから嘘じゃねぇ、って」

 自分で言ってて空しくなるくらい真実だ。

「変態」

「へ、変態じゃねぇよ!」

「じゃあなんなの」

「遊びまくってヘトヘトだったんだ。それでその、マジで悪かったって思ってる」 

「本当だったとして、なんでクローゼットに隠れてたの?」

「……焦って……」

「意味わかんない」

「ほ、本当のことなんだから、しょうがねぇじゃん」

「なんでそんなに偉そうなの?」

 もちろん罪悪感はあった。しかしそれよりも先に小学生男子の心を支配するのは女子に嘗められたくないという歪んだ虚栄心だったのだ。

「別に……そんなつもりは。その、悪かったって! 謝るしか、できないけど、さ」

「そうなんだ。それで?」

「……そ、それでって、言われても……俺が全面的に悪いし」

「用が済んだなら帰れば?」

「あ、うん。……その、今日はごめん」

 本音をいうなら彼女を怒らせてしまったことよりこの場を去れることの方がずっと嬉しかった。


 子供部屋の扉を後ろ手で閉めて、ため息をつく。いや正格には安堵の息だ。

 かりそめの平和だとしても雨宮と離れられて嬉しかったのだ。

「……」

 うつむいていたオレは廊下の色が前と違うことに気がついた。

『下の人に迷惑でしょ!』ドタバタと走り回って母親に怒鳴られた廊下は、リフォームによって新たな光を放っていた。

 まるでワックスがかけられたばかりの学校の廊下のようだ。

「学校……」

 忘れていた。

 雨宮とオレはクラスメイトだ。もし、今日のクローゼットでの覗き行為がクラスの女子の耳に入れば、オレのカーストは地に落ちるだろう。別に女子に嫌われるのは構わないが、男子にまでハブられたりしたら非常にマズい。閉鎖的な空間での嫌悪はいとも容易く伝播する。

 学校での立場を鑑みた当時小学四年生のオレは、自らの保身のために、背後のドアをノックもせずに再び開け放ったのだ。

「雨宮、今日のことなんだけど……」

 できれば、黙っていてくれない?

 クズみたいなお願いをしようと、ノックもなしに扉を開けたオレの脳は一瞬にしてフリーズした。

 白く、きめ細かな肌。

「……!」

 静寂。たくしあげられたシャツ。

「きゃあああああ!!」

 それから悲鳴。

 ドラマかなんかで死体を発見したヒロインみたいだな、と何となく思った。


「なにがあったの!?」

 先程オレを案内したおばあさんが小走りで戻ってきた。彼女は現状を一瞬で理解すると、扉の前で立ち尽くすオレを押し退けて中に入り、部屋の中心でうずくまる雨宮を抱き締めた。

「あぁユキノ、落ち着いて、彼には悪気があったわけじゃないのよ」

 雨宮は涙目でオレのことを睨み付けている。上半身裸だ。

 きっと部屋着に着替えようとしたのだろう。今日は秋の日にしては珍しく暑かったから。彼女の足元には先程まで着ていたピンクのシャツが無造作に転がっていた。

「ううぅ」

 雨宮の呻き声から目をそらす。もう遅いかもしれないが、異性の裸をいつまでも凝視してたら本当の変態だ。

 この頃のオレに性欲はほぼないに等しく、女子なんてウザい存在でしかなかったが、ブラジャーを付けていない未発達の少女の身体を始めて見て、罪悪感と沸き起こる謎の感情にただただ痺れていた。

 もしかしたら、それは未知に触れる恐怖だったのかもしれない。

 ところで彼女の背中には不可思議な模様、……文字が刻まれていた。

 詳しいデザインはもう覚えていないが、今ならそれが梵字の入れ墨だとはっきりと理解することができる。


 ともかく謝りだおして、マンションから走り出すように逃げたしたオレは、次の日の学校が鬱で鬱で仕方がなかった。

 無知の小学四年生であろうと罪の重さは十分に理解できる。オレがした仕打ちはあまりにも酷く、警察の厄介になってもおかしくないほどだ。

 恐怖だった。悪い点数のテストを机の一番上引き出しの奥に隠していたけど、それが見つかるよりもずっと。

 彼女が今日の出来事を周りの友達に教えるだけで、オレのクラスでの立場を無くなるのだ。

 矮小な存在で世間体ばかりを気にするオレにはそれが最も辛いことだった。


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