エスペラントにもできないこと
「先日、あなたの部屋を掃除していたら見つけました」
そう書かれた手紙と共に母から送られてきたのは「たからばこ」とマジックで書かれたクッキー缶だった。
色がかすんだフタ。
開けてみると好きだったアニメのキャラクターカードやラムネのビー玉、母の使いかけの口紅が出てきた。
あの頃の私のたからもの。
懐かしさとくすぐったさに自然と笑みがこぼれてくる。
でも、1つだけ異色のものを見つけて私の瞳は止まった。
滴型のターコイズの石が一つついたゴールドのブレスレット。
幼いたからものの中であまりに大人びた宝物だった。
手に取り持ち上げる。
瞳に映るターコイズ。
鮮やかな空色。
途端、私は思い出した。
そうだ、これは「空の人」がくれたものだ。
小学3年生の夏休み。
我が家に1週間だけ兄の友人が遊びに来た。
歳の離れた高校生の兄が短期留学先で出会ったお友達。
アメリカの友達だった。
「はじめまして」
金髪の髪を揺らし、そう言って笑ったその人。
その瞳は吸い込まれるような青色で。
私はこの人の目には「空」が咲いていると思った。
「ゆき、何してるの?」
空の人は私によくそう訊いた。
母の鏡台の前で一番可愛らしい髪型を考えている時。
中々上手くいかず泣きそうになっていると綺麗な三つ編みをあんでくれた。
私と同じくらいの妹さんによくしてあげているんだと言って。
私はこれは世界で一番可愛らしい髪型だと思った。
自由研究で空を観察している時。
面白い形の雲を見つける研究。
ベランダで空を見上げて一緒に雲を探した。
空の人は面白い雲を見つける天才で「魚釣りをする少年(幻の魚を釣って驚いている姿)」や「ねぼうしたくま(目覚まし時計を見て慌てる姿。好きなくまとの初めてのデートの日)」といった雲を見つけてくれた。
不思議なことに彼がそう言うとそんな形にしか見えなくて、私はケラケラ笑いながら何枚も何枚も写真を撮った。
暑い暑い夏の中。
私と空の人はたくさんの一緒の時間を過ごし、たくさん笑った。
そうして当然のように私は彼のことが大好きになった。
彼の瞳の空に私が映る。
それが嬉しくて嬉しくて。
私を見て、もっと見て。
何度も何度もそう思った。
そうして好きで好きでたまらなくなった時、彼が帰ってしまう時がやってきた。
明日、空港にみんなで行くからね。
母にそう言われてどうしようもない寂しさにおそわれた。
どうやったらこの気持ちを伝えられるだろう。
お風呂の後、自分の部屋で便箋を前に悩んだ。
どんな言葉で伝えればいいだろう。
彼は日本語がとても上手だけれど、私の言葉と彼の言葉は同じくらい強いものなんだろうか。
コンコンとノックする音が聞こえた。
「はい」
返事をすると彼が入ってきた。
「ゆき、何してるの?」
いつものように笑ってそう訊いた。
私は少し迷って、自分の前の便箋を見せた。
アルファベットやひらがなやカタカナでぐちゃぐちゃになった便箋だった。
彼はじっとその文字たちを見て、優しく微笑んだ。
私の頭をなでる。
「ゆきはエスペラント語って知ってる?」
「えすぺらんとご?」
聞き慣れない言葉に私は首を傾げた。
彼は言った。
「言葉はむずかしい。僕は今、日本語を勉強しているけれど、分からない言葉もたくさんある。ゆきも英語は分からないよね」
私は頷く。
そうだ、私は彼の母国の言葉が全く分からない。
例えばここで彼が英語で話し出したら、私は彼と会話出来なくなるだろう。
彼は私が便箋に書いた拙い文字を一文字一文字なぞった。
「自分の気持ちを伝えたいのに、相手の気持ちを知りたいのに分からない。それはとても辛いこと。だから、自分の国の言葉以外に誰もが知っているもう一つの言葉があればその辛さを減らすことが出来る。エスペラント語はね、覚えやすさを大切にした、人が作った言葉なんだよ」
もう一つの言葉。
母国の人以外に気持ちを伝えられる言葉。
私は空の人の瞳を見た。
その日も彼の瞳には空が咲いていた。
私はまっすぐに彼の目を見つめて伝えた。
「じゃあ、えすぺらんとごで「愛してる」はなんて言うの?」
彼は驚いた顔をした。
瞳の空が大きくなる。
その後、困ったように笑った。
「……それは、今のゆきには教えられないよ」
右手の人差し指が唇の前に立てられる。
秘密だよと。
私の身体がカッと熱くなった。
バカにしていると思った。
私のこの気持ちをこの人はバカにしていると。
「もういい……」
背中を向けて拒絶した。
彼の戸惑いを感じた。
それでも私は振り返らなかった。
もうこれ以上伝えることはないと思った。
空の人は少し考えると「おやすみなさい」と静かに部屋から出て行った。
次の日、私は彼と一言も口をきかなかった。目を合わせなかった。
いいかげんにしなさい。きちんとお別れしなさい。
母にそう言われてもそっぽを向いて口をとがらせた。
私は怒っていたのだ。
同時に怖かったのだ。
必死になって消そうとしているこの気持ちは、口を開けば、目を合わせれば、きっといとも簡単に溢れ出してしまうだろうと分かっていたから。
空港についても同じだった。
母の後ろに隠れ、背中を向ける私。
別れの時は近付いてきて家族一人一人にお礼と別れの言葉を彼が告げる。
私に近付いてくる。
ひざまずき、私の左手を優しく握る。
さわらないで!
そう言おうと思ったけど言えなかった。
彼が私の手首に何かをつけたから。
「なに、これ……」
今までつけたこともないようなゴールドのブレスレット。
ぶかぶかのブレスレットだった。
彼はニッコリ笑った。
「ゆきにあげる。君が好きな僕の瞳と同じ色だよ」
そう言って彼が指差したのはブレスレットについたターコイズの石で。
彼の瞳と同じ空色をしていた。
「……大きすぎるよ、これ」
明らかに大人用のブレスレットは手を揺らしただけでくるくるまわった。
彼は微笑んだ。
「もし、これがぴったりになるほど大きくなってもあの言葉を知りたいと思ったなら、僕に手紙を書いてくれる? そうしたら今度はきちんと教えるから」
「……愛してるって?」
「うん、愛してるって」
申し訳なさそうに私の両手がぎゅっと握られる。
「ゆき、傷つけてごめんね。でも、その言葉はね。伝えることも受け取ることも大切にしないといけない言葉だから。今は秘密にしたいんだ。……許してくれる?」
私は彼の瞳を見た。
大好きな大好きな空色。
手首のターコイズを見た。
彼はいつこれを買ったのだろうか。
私が好きな色を私に贈ろうと思ってくれたのはいつだろうか。
私はきゅっと唇をかみ、コクンと一つうなずいた。
こんなの許すしかないと思った。
彼は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
くしゃくしゃと私の頭をなでる。
私はその手をきゅっと握ると掠れた声で言った。
「最後にみつあみして?」
朝、鏡台の前で自分でした三つ編みはぐしゃぐしゃで私は世界で一番可愛くない髪型をしていたから。
彼は空を細め、世界で一番可愛らしい髪型にしてくれた。
ブレスレットを左の手首にはめてみる。
今の私にぴったりのサイズ。
くるくる回ることもない。
そうして、ターコイズを見上げながら理解する。
あの時、彼が教えてくれなかった理由を。
あの時の私は真剣だった。
でも、その「愛してる」は幼すぎた。
エスペラントを、もう一つの言葉を使っても、伝えきれない受け止めきれないほど拙く強すぎるものだった。
だから、彼は教えてくれなかったんだ。
私は兄に電話をかけた。
あの人に手紙を書かなければいけない。
書く言葉は決まっていた。
私はこう書くつもりだ。
空の人へ
私はあなたを愛していました。
ありがとう。
ぴったりになったターコイズのブレスレットの写真を一緒に添えて。