あなたには二度と会いたくありません。
――また来た。
こちらに向けられる視線をかわして、私は知らぬふりをする。
今年に入って、一体何度目だ? 毎回会うたびに言ってやるのに、あの男はまるで懲りていない。
「すいません」
彼は、いつものように頭を下げる。失敗して上司に叱られているサラリーマンみたいだ。
目の前で申し訳なさそうにする男性を見て、私は溜息を吐く。「すいません」の言葉も、いい加減聞き飽きた。
ざっと室内を見回すと、他にも常連の顔がちらほらと確認された。
まったく。どうしたものか。もしかして、私が悪いのか?
若干の責任を感じないでもなかったが、私は普通に仕事をこなしているだけだ。マニュアル通りに、一寸の狂いもなく。それなのにこうした狂いが生じるのは、きっと彼らの方に問題があるのだろう。私はそう、自分を納得させる。
現に今、こちらの話を真面目に聴いているのは何人だろう。
いち、に、さん、……と、目だけで数えるのは人の顔。正確に言うと、顔を上げている人間の数だ。
――十二人か。
全体の半分以下。あとは寝ているか、別のことに夢中になっているか――その、どちらかだ。
ああ、と私は思う。彼らの内の何人かとは、また直ぐに相まみえることになる。近いうちに、必ず。それを思うと、酷く憂鬱な気分になった。
起きている人数が全体の三分の一以下になり始めた頃、ようやく終わりの時間が見えてきた。ちなみにあの男は、一度も顔を伏せることなく、前を見つめている。
――また、だ。
この視線が、正直私は苦手だ。人を落ち着かなくさせる眼差しがあるとしたら、それは間違いなくこの男から発せられているものだろうと思う。
見られているのは、「私」ではない。「前」だ。彼は、教室の「前」を見ているに過ぎない――毎回自分に言い聞かせるのは、同じこと。これは、平常心を保つためのまじない。
ふう、と私は呼吸を整えた。そろそろ終えなくてはならない。
一分、いや一秒でも延長すれば、彼らの態度が悪くなっていくことを知っているからだ。それこそ、一秒経過するごとに。
だから私は、余計な事は一切口にせず、教本通りの内容を、教本通りの予定で終えた。
「本日の講習は、以上です」
一際通った声で宣言すると、途端に顔が上がる。見慣れた光景に、もはや何も感じることはない。
最後に、私はいつもの台詞を言おうと息を吸った。
私が彼ら――いやあの男に、この言葉を掛けるのは何度目だろう? もう覚えていない。
それでも私は、言ってやる。何度でも言ってやる。
「私は、あなた方が二度、ここに来られることを望みません」
努めて優しく。
努めて婉曲的に。
「もうお会いすることがないよう、祈っております」
丁寧な言葉と穏やかな口調で、私は言う。
寝ている女性にも。
タブレット端末をつついている男性にも。
一人一人の顔を見て、言い含めるようにして。
誰一人として目を合わせることがない中、左側――廊下側に座る一人の男性とだけ、はっきりと目が合ったのが分かった。
――ああもう、見るな。
そうやって真面目なふりをして、どうせまた来るんだろう?
二度と来るなと言ったところで、それを聞いてはくれないんだろう?
私はさっと目を逸らし、教室の中心を見て続ける。
「では、もう結構です。お帰りいただいて構いません。お疲れ様でした」
これも、いつもの台詞。そして、彼らが最も必要としているだろう言葉でもある。
それを口にした途端、耳障りな音が教室を占めた。椅子を引きずる音だ。
一斉に立ち上がり、私の方を一度たりとも見ることなく、去って行く人たち。私はその光景を、やはり何の感情を抱くこともなく、ただほんやりと視界に入れた。
次から次へと、我先に退出する受講者を見送り、私は教本を片付け始める。彼らに配布した『安全のしおり』の余りも、一緒に手に持った。
視界に、一人の人物を捉えながら。
――早く帰れ。
しかしその言葉は届かない。当然だ。言葉に出すことはおろか、そちらを見ようともしていないのだから。
すっと、その人物が近付いてくるのがわかった。来た、と思う。
受講者は皆帰った後の教室。しかし彼だけは残っている。私は彼が何をしようとしているのか、知っていた。
また、言うのだ。いつものように。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる男性。そんなことをされれば、もはや彼を「空気」として扱うことはできない。必死で見ないようにしていた人間を、私はしぶしぶ視界に収めながら、先ほどの言葉を繰り返した。
「もうお会いすることがないよう、祈っております」
瞬間、彼の顔が歪められる。あまり見たくない類の表情だった。
何か悪いことをしたような気になって、私はふいと背を向けた。いつもは最後に退出する教室を、今日だけは最後から二番目に出て行く。後に、あの男を一人残して。
――なんで、あんな……!
廊下を歩きながら、私は苛立っていた。内心、毒づく。
そんな顔をするな。こっちは善意で突き放してやっているのに。ここに来るということが、どういうことなのか知っているくせに。
ああもう。馬鹿だ。あいつは馬鹿だ。もう二度と来るんじゃない!
そう。私が彼に言いたいことは、ただ一言。
「あなたには二度と会いたくありません。」
その意味を、彼は理解しているのだろうか?
休日の町は、何故こうも人が多いのだろうか。
人でごった返す大通りを、私は足早に通り抜ける。日頃の鬱憤を晴らすためショッピングに来たものの、これでは逆にストレスが溜まりそうだ。つい先ほどまでの、快適な空の旅が懐かしい。
箒を左手に持ち替えて、私は素早く周囲を見回す。早く駐箒場を探さないと。いい加減、腕が痛い。
――と、何か足に当たるものがあった。
「った」
衝撃はそれほどなかったが、反射的に足を押さえる。直後、派手な音をたてて倒れたのは、一本の箒だった。
――誰だ。こんなところに無断駐箒したのは。
イラっとしながら、私は倒れた箒を持ち上げる。片手で持つにはやや辛い、重量タイプのものだった。
通報してやろうか――そんな考えが頭をよぎる。
公道に無断で箒を停めるのは、道路交通法違反だ。見つかれば、減点二。点数が溜まれば免停にだってなる。
でも。
――面倒だな。
私は、箒を元あった場所に立てかける。
結局は放置することにした。せっかくの休日を、こんなことで潰すのは勿体ない。それに何より、仕事が増えるかもしれないのが嫌だった。
点数が溜まれば、違反者たちが講習にやって来る。違反者講習、もしくは免停講習と呼ばれるものだ。
軽微な違反行為で累積点数が六点に達した者が受ける、というのは自動車と変わらない。異なっているのは、講習さえ受ければ、軽いものに限り交通違反の前歴がチャラになるということだ。
これには色々と理由があるのだが、ともかくこうした制度により、教習所は日々大賑わいを見せているというわけである。講習さえ受ければ免停にならないのだから、そうする人間は多い。しかも前歴がチャラになるのだから、再犯率も高い。
何とかならないのだろうか、この制度。
違反を無視した私は、そそくさとその場を立ち去った。職業上、こういった場面を人に見られたくない。
混んでいるし、一旦上空にでも逃げようか――そう思って見上げた途端、「あ」という声が漏れた。見知った顔が目に入ったような気がしたからだ。
急いで後ろを振り返る。
――あれは……?
つい先日、「もうお会いすることがないよう、祈っております」と言ったばかりの相手ではないか。
その男性は、いかにも初心者といった様子で箒を掴み、低空飛行を続けていた。速度はおそらく最低速度以下。つまり、スピード違反だ。
しかも、左右に振れながらの蛇行飛行。いつしか彼の周りには、誰もいなくなっていた。危険人物だと判断されたに違いない。
――下手過ぎる!
あれでは、間違いなく教習所行き確定だ。賭けてもいい。来週あたり、「すいません」といいながらやって来るに決まっている。どこにかって? 勿論、私の勤める教習所に、だ。
簡単に免停にならない分、教習所には頻繁に同じ人物が現れることがある。そうした、いわゆる常連客の一人が、あの男だった。
見ていられない。あの様子では、事故を起こすのも時間の問題だろう。
ちょっと違反点数がつくぐらいならいいが、生命に関わる怪我でもされたら大変だ。そしてその確率は、極めて高い。よくぞ今まで五体満足でいられたな、と密かに私は感心した。
私は急いで、歩道から箒道に移った。歩道では、箒に跨ってはいけないという決まりがある。
前後左右を確認。人が周りにいないことを確かめてから、箒を起動させる。普段はロックをかけておいて、いざ乗るときに解除するのだ。
焦る気持ちを抑え、心を落ち着かせて魔力を注入する。これには少し時間を要するが、私は比較的早い方だと思う。十秒もかからないうちに、箒が上に跳ねた。
――かかった。
ぐわん、という感覚とともに、身体が宙に浮かぶ。慣れた浮遊感は心地良い。
統計によると、この乗箒直後が、最も事故の起こりやすい時らしい。例えば上空確認を怠って、背後からきた箒に突き飛ばされるとか。
例えば操作を誤って、転落してしまうとか。
上空を確認すると、幸い混んではいなかった。地上とはえらい違いだ。
魔力の量を調整し、ゆっくりと高度を上げていく。
これが、自転車や自動車に代わり、今や「個人に一本」と言われた〈飛行用箒〉である。
最低速度以下の箒と、最高速度ぎりぎりの箒。
私があの男に追いつくのに、さほど時間はかからなかった。数十メートル先にその姿を捉え、慎重に距離を詰める。
その時、横から突風が吹いた。
――こんな時に!
柄を持つ手に力を込め、全身で箒を支える。突風に煽られて転落、という事故も少なくなかった。
あの男は大丈夫だろうかと前方を窺うと、
「あっ」
大きくよろけた彼の姿が、目に飛び込んできた。そのまま、オフィスビルの壁に激突する。
ごん、という金属音が、風に乗って耳に入ってくる。箒がぶつかった音だ。
私はとっさに、駄目だと判断した。僅かだが柄が曲がっているのが見える。初心者があれを制御するのは、かなり骨だろう。
予想通り、箒は曲線を描きながら下降していく。その上に、人間を乗せたまま。
「スピードはそのまま、魔力だけ注いでください!」
もたもたしている暇はない。前方の男性に向かって、私は叫ぶ。風で声が通りにくいことが分かったので、大声を出した。
その言葉に、目下墜落中の彼は首だけを後ろに回す。顔は恐怖で歪んでいるものの、冷静な判断までは失っていないようだ。
彼に減速を促し、私は急降下して横につけた。
「掴まってください」
「あ、あなたは――」
「早くっ」
ごちゃごちゃ抜かすんじゃない。とっとと手を出せ。
そんな心の声が聞こえたのか、彼は恐る恐る手を差し出してくる。私はその手を強引に掴んで、彼を引き寄せた。
「わわっ」
間抜けな声を上げる男性。いちいち反応するな、鬱陶しい。
きっと睨んでやると、彼は慌てて口を閉じた。
彼を自分の後ろに乗せてやると、私はゆっくりと高度を落とした。私のは二人乗りのできる箒だが、さすがに人間二人と壊れた箒一本では、重量オーバーだ。魔力が尽きる前に、早く降りよう。
「すいません、すいません」
後ろで謝罪が聞こえる。それを聞き流しながら――だって、どう返していいのか分からなかったのだ――私達は無事、着地した。
「ようやく理由が分かりました」
「え、」
「あなたは、どんくさいのですね」
地上に降りてはや一時間。事情聴取をして分かったことは、免許を取得してから二年以上経っているということだった。
それで、あの運転。なんというか、センスがないにも程がある。本当に教習所で実技試験を受けたんだろうな。私は実技担当ではないが、自分の職場に一抹の不安を覚えた。
私の率直な意見を、彼はさして驚きも怒りもせず、「はい」と頷いて答える。
「たぶん、そうなんだと思います。昔から運動音痴ですし、魔力も大して高くないですし。あとは……そうですね。元々向いていないんでしょうね」
それ言っちゃおしまいだろ。何という身もフタもない発言を……。というか、自覚があって、今まで運転を続けていたのか!?
私の「有り得ない」的な表情を読み取ったのか、彼は慌てて付け加える。
「いえ、それでも人身事故は起こしたことがないんですよ。毎回、スピード違反をとられるくらいのもので……」
「ああ、あれですか」
そりゃ、とられるわな。
「はい。ですから、大丈夫だと思っていたのですが――」
「では先ほどの、あれは?」
「え!? ええ、まあ……はい……たまに、あります。で、ですが、他の方に迷惑をかけるようなことはなくてですね! いつも自分一人でやってると言いますか――」
「つまり、一人で事故を起こしている、と」
「あ……はい。すいません」
彼はばつが悪そうに俯く。これは警察沙汰にしていないな、と直感的に思った。これまで自己解決――もとい、もみ消してきたに違いない。
はぁ、と思わず漏れた溜息に、男性はまたも「すいません」。その態度が、妙に私を苛立たせた。
「――見ていられません」
「え、」
「この後、時間はありますか」
「え、あ、は、はい。あります、あります。一人身ですから、何時まででも……」
そうか。一人身なのか――って、そんな情報はどうでもいい。余計なことを言わないでほしい。
表情が若干不自然になっていくことを自覚しながら、私はその提案を投げかけた。
「私で良ければ、個別にお教えします」
「え、」
目を見開いて固まる男性。
またしても「え、」か。他に言うことはないのか。バリエーションの少ない奴め。
「言ったはずです。あなたには二度と会いたくありません、と」
「え、」
今度はきょとんとした表情。それを見て、私は気付く。
違った。さっきのは思っていることだった。口にしているのは、「もうお会いすることがないよう、祈っております」だった。
が、この際どうでもいい。内容は大して変わらないのだし。
「講習を受ければ、確かに違反の前歴は取り消されます。――が。だからと言って、毎回免停講習に来られては迷惑です」
「そう、ですよね……。すいません」
「ですから、もう二度とあなたが講習に来られることがないよう、お教えします。思うに、あなたはもっと実技を学ぶべきです。教習所では、座学が主で実践的な練習はできないでしょうから、教習所以外の場所で練習の機会を得てはどうでしょうか」
一気に捲し立てると、彼は驚きつつも小刻みに頷いた。分かっているのか、分かっていないのか。
私の心境に気付いているのか、気付いていないのか。
「毎回ああでは、心臓がいくつあっても足りません」
「は、はい?」
「……心配、です」
「すいません、今、何ておっしゃいました? よく聞こえなかったのですが……」
私の声が小さかったのか、それとも雑音に掻き消されたのか――どちらでも良い。どちらにしろ、私は二度その言葉を口にする気はなかった。
先の提案に彼は驚きを隠せないようだが、私は別に突拍子もないことを言ったつもりはない。
だってそうだ。考えてもみろ。
もし今後、彼が教習所に来ることがあれば、それはそれで複雑な気分だろうし、かといって姿を見なければ、事故にあったのではないかと考えるだろう。
そんな、面倒くさいことは御免だ。
これは、いわば私の精神的・肉体的な負担を減らすための提案なのである。
「ですから、今後は私が個別にお教えします。よろしいですか?」
私はもう一度、彼に提案を――イエス以外の返答を許さない、もはや問いとは呼べないような問いかけをした。
あの場所では、あなたには二度と会いたくありません。
その意味を込めて。