瑕疵のない部屋
都心から電車で二十分、駅から徒歩圏内のマンションの2DK。築年数はそれなりだが、内装はリフォームされたばかりで清潔感がある。唯一の違和感は、家賃が他の部屋より五千円ほど安いことだった。これはいわゆる事故物件かと思ったが、そこまで極端に安いわけではない。間取りは同じなのに。
「何か告知事項とかあるんですか?」
不動産屋の担当者は、私の問いに淀みなく答えた。
「いえ、ございません。自殺も事件も、孤独死の一例もございません。設備の不備もなし。強いて言えば、少しだけ日当たりが悪い時間帯があるくらいでしょうか」
ではなぜ安いのだろう。念のためインターネットをあれこれ調べても、地元の掲示板を漁っても、そのマンションの名前が挙がっている痕跡はなかった。内見をしたところ近隣住民も普通の人だった。
そして私はささやかな幸運を掴んだ気分で契約書に判を押し、その部屋で新生活を始めた。
恙無く八ヵ月が過ぎた。ダンボールをすべて片づけ、家具の配置も定まり、部屋はすっかり私のための城となった。仕事から帰ってビールを飲み、微睡みの中に沈む。そんな平穏な日々はしかし、唐突に終わりを告げる。
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
静寂を切り裂く電子音に、私は跳ね起きた。時計を見ると時刻は午前三時。
寝ぼけ眼でインターホンのモニターを確認したが、そこには誰も映っていない。夜の廊下がノイズの混じったモノクロ映像の中で虚無を晒しているだけだった。
「……悪戯か」
溜息をついてベッドに戻る。翌日も、その翌日も、それは繰り返された。
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
決まって三回。決まって午前三時。不気味な符号に背筋が粟立つ。警察に相談したが、不審な足跡も防犯カメラに映る影もない。
管理会社に問い合わせれば「機器の故障でしょう」とインターホンを新品に交換してくれた。だが、新しい機械になっても三日目の夜には再び三回のチャイムが鳴り響いた。
私はノイローゼ気味になり、ついにあの不動産屋を再訪した。
カウンターの奥で、契約時と同じ男が私を待っていた。私のやつれた顔を見るなり、彼は隠しきれない疲労と諦めが混じった表情で、「やっぱり、出ましたか」と呟いた。
「出た? あれは幽霊なんですか? 事故物件じゃないと言ったでしょう!」
私の怒鳴り声に、彼は静かに首を振った。
「幽霊なら、お祓いもできたでしょう。でも、あれは違うんです。あの部屋は、『そういう場所』なんですよ」
不動産屋の言葉で想像されたのはネットでよく聞く類いのいわくだったが、彼が語った真実は、怪談よりも冷酷なものだった。
そのマンションが建つ地盤は地下水脈の影響で極めて僅かな、しかし一定の周期で変動する傾きを持っている。深夜三時、気温が最も下がって大気が安定する時間帯。冷気が建物の鉄筋を収縮させ、微々たる歪みを生む。
「地盤の傾きと鉄筋の噛み合わせ、夜風の通り方、それに湿気。それらが奇跡的な……いえ、悪魔的なバランスで絡み合う瞬間があるんだろうということです」
歪みはちょうど私の部屋の壁面にあるインターホンの配線基板を数ミクロンだけ圧迫する。金属が冷えて縮み、建物の重みが特定の支点に集中し、風圧がトドメを刺す。
「その結果、スイッチが三回だけ接触不良を起こすんです。何度取り換えても、構造そのものがスイッチを押す指になっている以上、逃げようがない」
これまで複数の専門家を呼んで調査を繰り返したが、多くの要因が複雑に絡み合って発生する現象であるせいで、何を直せば収まるという問題ではないらしかった。
私は呆然とした。
「なら、それを告知事項にすべきじゃないですか。深夜のインターホン。紛れもなく心理的瑕疵じゃないか」
不動産屋は力なく笑った。
「できませんよ。だって、壊れていないんですから。建築基準法にも違反していない。死者も出てない。ただ『条件が揃うと音が鳴る』という自然現象です。いつ鳴り止むかも、いつから鳴り出すかも、科学的な証明は難しい。そんな曖昧なもの、契約書に書けないんですよ」
そう言われれば二の句が継げない。契約書は確定的なことを書くものだ。安いキャッチコピーではないのだから。
たとえば「夜中の三時にインターホンが鳴るかもしれませんが、鳴らないかもしれませんし、それは幽霊ではありません」なんて説明をしたら――かえって不穏で、大家から苦情がきかねない。
私は渋々と部屋に帰り、起きたままその時を待ってみた。
午前三時。風が建物を撫でる音がする。コンクリートが、冷気によって微かに軋むミシッという音が壁の向こうで聞こえた気がした。
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
それはこの建物が生きている証の鼓動のようだった。故障ではない。霊障でもない。ただの物理現象だ。だからこそ、これを止める方法はどこにも存在しない。
私は、この何の変哲もないで、毎晩三度のチャイムによって睡眠を削られ、ゆっくりと狂ってゆくしかないのだった。
事故物件ではありません。ただ、お部屋が時々、あなたに話しかけてくるだけです。




