第九話 「フォスタシス」
ランタンを握り締めた右手は、目を覆うような輝きで辺りを鈍い紫色に染める。
「眩しっ」
反射的に目を細める。
僕と同様急に視界が明るくなった事に驚いたのか、煤は捏ねるような手の動きを止めると歯を剥き出しにして「ぼうっ」と鳴く。
紫の輝きが拳へと沈みきる前に、蓋雫さんは地を蹴った。長いコートがバサバサっと風に揺られ主人を追う。
三メートル近くの距離を数歩で駆け抜け、勢いのまま右手を下から斜めに振りあげる。
その手には、引き伸ばされた紫光が刀の形を結び、刀身を鈍く輝かせていた。
煤は慌てて体を後ろに逸らしたが完全には避けきれておらず、刀身に触れた輪郭が揺らめく。
体制を崩し無防備になった奴の腹へさらに潜り込むと、振り上げた手を翻し今度は叩きつける様に振り下ろした。
一際大きな鳴き声と金属音が辺りに響き渡り、振り下ろした筈の刃は動きを止めていた。
止められた刃に、押し切る事が難しと見切りをつけた彼は再び地を蹴り大きく跳躍すると後ろに距離を取る。
「チッ」
今の二撃で仕留めるつもりだったのか、蓋雫さんは舌打ちをする。
奴の左前方には先程地面に溢していた黒い砂が重力に逆らう様に浮き、歪な形の砂壁を作っていた。彼の刃を防いだらしき部分は斜めに凹んでおりキラキラと輝いていた。
反撃開始とばかりに奴がその特徴的な脚を踏みしめると地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
爆音と共に地面を伝ってくる振動が、腹の奥を叩く。
ーーあの足で蹴られたら……
喉が鳴る。
煤は再び地面を足で打ち高く舞い上がる。夜の闇に奴の存在が溶けた。
ーー逃げた……?
次の瞬間、蓋雫さんの真上に奴が姿を現す。
考えるより先に口が動いた。
「危ないっ!!」
しかし、僕の心配もよそに彼は体を軽く捻るだけで事もなさげに受け流す。寧ろ、相手の勢いを使って今度こそ刃を深くその身に沈める。
自重で真っ二つに切られて行くその様子はスローモーションの様に脳裏に焼き付く。
「っ、これがフォスタシス………」
刃を滑り落ちた煤は周囲の闇に溶け込む様にサラサラと消えていった。
今起きた光景から目が離せなかった。
ランタンの力、命の軽さ、そして恐怖ーー
たった数分の出来事が僕の中で大きく渦を巻く。恐怖と興奮に包まれたこの体はブルリと震える。
未だ耳元で鳴り続ける心臓の音に落ち着く為の深呼吸をする。すると、緊張が解け次第に足の力が抜け切り、自転車にしがみつく様にへたり込む。
「大丈夫か」
蓋雫さんは一歩も動かず此方に声を掛ける。その姿から先程までの激しい戦闘の面影など一切見受けられない。
彼が刀を一振りすると刀身から紫光が溢れその身を縮めて行く。光が収まる頃には見覚えのあるランタンが握りしめられていた。
緑に光るそれを彼は上着に掛け直すと、僕に手を差し伸べた。
「立てるか?」
その声の優しさに、やっと体に震えが走り始める。
抑えようにも止まらない震えに苦戦していると蓋雫さんは僕の様子に気付いたのか、
「少し疲れた。休憩する」
と、距離を空けて隣に座った。
緑に揺れるそれを、無意識に目で追う。
「……ランタン緑じゃなかったんですね」
「ああ」
途切れた会話を続ける気など起きなかった。




