第2話
私は、ボストンバッグに入っていた、薄茶色の塊を腕に抱いて、静かな雨に打たれていた。なぜか不思議と、寒くはなかった。むしろ、暖かかった。手の中の塊は、グッタリとしていた。お願い、死なないで。私は、その塊をギュッと抱きしめ、雨から守ろうとした。そんな夢を見ていた。
意識が少しづつ戻ると、身体が暖かく、左手だけがスースーとした。左手を少し動かすと、腕の部分がムズムズとした。うっすらと眼を開け、左を見ると、腕から細いチューブが伸びていて、その上を見ると、半透明の液体が入った袋があった。
眼をさらに開けると、白い天井が見えた。私の周りは、白いカーテンで覆われていた。いつもの固い畳でも、薄っぺらい毛布でもなく、フワフワとした場所に横たわっていた。服は濡れていなくて、乾いた白い浴衣のようなものを着ていた。横になっている場所も、身体に掛かっているフワフワした布団も、全て染みひとつなく、白かった。
ガラガラという音と、パタパタという音が聞こえた。カーテンが開き、白い服を着た、若い女の人が顔を出した。
「あら、起きたのね。良かった」
彼女は、ホッとしたような笑顔を見せて、私のそばに寄ってきた。
「大丈夫?どこか、痛いところとかはない?」
彼女の口調は、おっとりとして優しかったが、なにを言っているのか、分からなかった。私は、言葉をほとんど知らなかった。
「あなた、名前はなんていうの?」
私は、言葉が分からないのが、なんだか恥ずかしくて、右手で布団を、口元まで引き上げた。
「じゃあ、パパやママから、なんて呼ばれてた?」
それなら分かる。私は、コトコと呼ばれていた。
「コトコ・・・」
「え?」
「コトコ」
「コトコちゃん?素敵な名前ね。今時珍しい、古風な名前だわ」
彼女はそう言って、私の頭をそっと撫でた。私は、コトコというのが、名前だということを、初めて知った。
「ちょっと、お医者さんを呼んでくるわね。大丈夫、怖くないから」
彼女はそう言って、カーテンの外に出ていった。
私は、再び天井を見つめ、「コトコ・・・コトコ・・・」と、自分の名前を確かめるように、小さく呟いた。
またガラガラという音と、パタパタという音とともに、カーテンが開いた。さっきの白い服の女の人と、少し年上の男の人が入ってきた。
「コトコちゃん?大丈夫かい?ここは病院だよ。病院って知ってるかな?」
さっきの女の人と同じように、男の人も優しく、ゆったりとした話し方だった。でも、やはりなにを言っているのか、分からなかった。
「私は、ここのお医者さんなんだ。この女の人は看護師さんだよ。起きたばかりの時に悪いけど、ちょっと身体を見せてもらっていいかな?」
なにを言っているのか分からないが、危険はないような気がしたので、とりあえず私は頷いた。
男の人は、笑顔で頷くと、布団をめくり、私の服をはだけさせた。そして、銀色のイヤフォンのような物を耳に付け、その先に伸びている丸い物を、私の肋骨が少し浮き出た胸やお腹に、何度も当てた。少し、くすぐったかった。女の人は、私の左腕のチューブを外し、「ちょっとチクッとするけど、我慢してね」と言った。先端が細い針になったチューブと液体の入った袋が用意されており、針を私の左腕に刺した。わずかにチクリと痛みが走った。針を刺すと、白いテープのような物で、それを固定した。
「はい、おしまい。よく泣かなかったね。お利口さんだ」
男の人は、ニコニコしながら、私の服を元に戻し、私の頭を撫でた。
「今夜はもう、ゆっくり眠っていいからね。ひとりで寝れるかな?」
私は、なんとなく頷いてみせた。
「そっか、お利口さんだ。もし、どこか痛かったり、怖いことがあったら、ここのボタンを押してね。看護師さんが来てくれるから。じゃ、おやすみ」
男の人はそう言って、立ち上がった。女の人も、「おやすみ」と言って、二人はカーテンを開けた。その時、私はボストンバッグの中の薄茶色の塊のことを思い出した。
「あ・・・あぁ・・・」
私は、思わず声を出した。
「ん?どうしたの?」
二人は振り向いて、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「やっぱり、ひとりで寝るの怖い?」
女の人の言葉は分からないが、私が求めている言葉ではないことは分かった。私は諦めて、首を横に振って、布団を顔まで被った。
「疲れちゃったわよね。ゆっくりおやすみなさい」
女の人は優しくそう言って、二人が離れていく気配がした。ガラガラという音がし、部屋は静かになった。
布団から顔を出し、私は天井を見つめた。あの塊は、どこにいるのだろうか。どうか、穏やかで暖かい場所にいますように。私は、祈りながら、眼を閉じた。サーッと、雨の降る音がかすかに聞こえた。
次の日から、私は病院での検査と、警察と名乗る大人達に、話を聞かれる日々が、しばらく続いた。
検査は、医者や看護師に促されるままに受けたが、警察と名乗る大人達は、なにを言っているのか、さっぱり分からなかった。
「コトコちゃん、誰とこの島に来たの?」
「コトコちゃん、パパやママはどうしたのかな?」
「コトコちゃん、バッグに入ってた赤ちゃんは、誰なの?」
大人達は、次々に私に質問を投げ掛けたが、言葉の分からない私は、ただベッドに横になり、白い天井を見上げていた。大人達の口調は優しかったが、表情は残念さと諦めが滲み出ていた。私が、答えられないと分かると、渋々と帰っていった。
皆して、私に様々な問いを投げ掛けるが、誰もボストンバッグの中の茶色い塊について、教えてくれなかった。私も、そのことを大人達に聞く術を持っていなかった。
検査や取り調べが落ち着いた頃だった。私は、いつものように、ベッドに横になり、茶色い塊がどうなったのか、ボンヤリと考えていた。
ガラガラと病室のドアが開く音がして、控えめにカーテンが開いた。
「コトコちゃん?」
入ってきたのは、母よりも少し年上に見える、男の人と女の人だった。私は、また警察かとウンザリした。
「コトコちゃん、急に入ってきてゴメンね。どうしても会いたくてね」
男の人の方が、申し訳なさそうに笑って言った。背が高く、痩せていて、眼鏡をかけていた。全体的にスッキリとした印象の男の人だ。女の人の方は、男の人より頭ひとつ分ほど背が低く、黒い髪が肩まで伸びていて、顔は品の良い化粧がされていた。私の母とは、まるで違うタイプだった。
「僕は、早坂直之というんだ。この人は、奥さんの怜子。僕達は夫婦なんだ。分かるかな?」
言っていることは分からないが、医者や警察ではないことは、なんとなく分かった。
「コトコちゃん、クッキー好き?私、コトコちゃんの為に、焼いてきたの。点滴ばっかりじゃ、お腹空いちゃうでしょ?お医者さんは、もう食べてもいいって言ってるから」
女の人が、ハンドバッグから、透明なセロファンに包まれた、クッキーという薄茶色の物を取り出した。女の人が、セロファンを開けると、嗅いだことのない、甘い香りがした。渡されたクッキーを口に入れると、サクサクとして、甘くて濃厚な味と香りが、口の中に広かった。私は、夢中になって食べて、5枚あったクッキーは、一瞬で無くなった。
「そんなに美味しかった?嬉しいわ、また焼いて持ってきてあげるからね」
2人は、愛おしそうに私の頭を撫でたり、口元のクッキーの欠片を取ってくれたりした。
「コトコちゃん、元気になったら、弟ちゃんと一緒に、うちにおいで。僕達は、君達2人のパパとママになりたいんだ」
男の人が、私の目線まで頭を下げて、優しく笑いながら言った。私は、首を傾げた。
「私達と家族になりましょう。ね?」
女の人も優しく笑いながら、私の頬を撫でた。細くて、温かい手だった。
「カゾク・・・?」
「そう、家族よ。4人で楽しく、幸せに暮らすの」
「ヨニン・・・?」
「パパとママとコトコちゃんと弟ちゃんと、4人よ。きっと楽しいわ」
「オトウト・・・?」
「コトコちゃんと一緒に、赤ちゃんがいたでしょ?今は、別の部屋で寝てるけど、元気にしてるから、安心してね」
女の人が言っている言葉は分からないのに、私は、あのボストンバッグに入っていた薄茶色の塊が、無事でいることを理解することができた。そして、それがオトウトという名前がついていることも。
左目から、生暖かい液体が出てきて、頬を伝った。口に入ると、それは塩辛かった。
2人は、そんな私の様子を見て、戸惑ったように顔を見合わせた。すると、女の人が近づいてきて、私の頭を優しく抱き締めた。
「大丈夫よ。これからは私達が、守ってあげるからね・・・」
女の人の声は、少し震えていた。




