第1話
私は、小さな船に乗って、灰色の海を渡っている。中央には、白いプラスチックの椅子が3脚背中合わせで合計6脚並んでいる。黒ずんだ緑色の床は、足跡だらけだ。おまけに、デッキの柵も、椅子の鉄の脚も、赤茶色に錆びている。屋根代わりの白いビニールも薄汚れていて、それに雨の当たる音が響いている。
私は、冷たい椅子に、身体をもたせ掛けるように、座っている。私の右の椅子には、母が座っている、母の右の椅子には、「それ」が入った黒いボストンバッグが置いてある。
今朝私は、叫び声で眼を覚ました。
朝と言っても、この時の私には、朝や昼や夜の区別どころか、概念すらなかった。私が住んでいた部屋は、カーテンが閉めっぱなしで、常に薄暗かったし、私はその部屋から、出たことがなかったからだ。
私は、毛布にくるまって、畳の床に直に横になって、眠っていた。叫び声で、うっすらと眼を覚ました私の前には、透明のパックに入った、腐りかけの南瓜の煮物があった。床から起き上がると、チラシや空の弁当箱が散乱し、ゴミの詰まった袋が、部屋中に積み上げっていた。黒い虫が、何匹もたかっていた。
ガラッと、風呂場の扉が開く音がした。母が出てきた。母は、薄紫色の長袖のワンピースを着ていたが、裾と足がビショビショに塗れていた。両腕に、バスタオルでくるまれた、楕円形のものを抱いていた。顔は、色褪せた茶色く長い髪のせいで、よく見えなかった。
母は、ゴミ袋の山の中から、ボストンバッグを引っ張り出して、タオルにくるんた「それ」を詰め込んで、チャックを閉めた。まるで、見たくないものかのように。
次に、母は私に、ピンク色のダウンコートを着せた。そして、自分もベージュのトレンチコートを羽織って、ハンドバッグとボストンバッグを持ち、
「コトコ、行くわよ」
と言って、私の手を引っ張った。母の手は、ひどく冷たかった。
コートと同じ、ピンク色のスニーカーを履いて、玄関を出ると、外は静かに雨が降っていた。母は、右手にビニール傘をさし、右肩にハンドバッグを掛け、左手にボストンバッグを持ち、黒いハイヒールを履いて、コツコツと音を立てて、アパートの階段を降りていった。私は、慌てて付いていった。
初めて部屋の外に出た私は、好奇心と恐怖で、周りをキョロキョロとした。雨、曇り空、冷たい空気、匂い、コンクリートの地面、木や花、家屋やコンビニ・・・本当は、ひとつひとつをじっくりと観察したかったのに、母がどんどん歩いていってしまうので、置いていかれないように、必死で歩いた。
母の足が早いので、私は母のさしている傘の中に、なかなか入れず、髪は濡れ、コートは雨の水を含んで重くなり、スニーカーの中に水が入り、歩く度にグシュグシュとした。母は、そんな私の様子には眼もくれず、ただ前だけ向いて歩いていた。
歩いているうちに、家屋や店は無くなり、樹木などの自然が目立つ道路になっていった。私は、歩き疲れたのと、スニーカーに入った水のせいで、冷たさで足の指の感覚が無くなっていた。いったい母は、どこへ行こうとしているのか。私は、不安になった。
そう感じていた時、サッと樹木の道路が開けて、海が目の前に広がった。その海は、灰色で、静かに波打っていた。雨の降る音と一緒に、パシャパシャと波が当たる音がした。海を見るのも、もちろん初めてなので、私は思わず立ち止まったが、母が歩き続けるので、慌てて付いていった。
しばらく歩くと、「○○島行き船乗り場」という、文字の色褪せた看板があった。そこからは、コンクリートの道路が、海に突き出ていた。突き出た場所には、古びたベンチと、自動販売機があった。
私達は、ベンチと自動販売機のある所まで歩いた。母は、濡れたベンチに、ボストンバッグを置くと、自動販売機で、温かいカフェオレを買った。缶を開けて、勢いよく自分で飲むと、フーッと長い溜め息をついた。そして、缶を私にの前に突き出した。私は、それを手に取った。冷えた手に、熱い温もりが染み入ってきた。口を付けて、ゆっくり口の中に流し込んだ。それは甘くて苦くて、そして温かかった。冷えきった身体に染み渡り、なんとか命が持ちこたえたような気がした。
カフェオレを飲み終えた時、ボーッという音が、海から聞こえた。振り返ると、小さな白い船が、こちらに近づいてきた。白いと言っても、船体の所々が、ペンキが剥がれ、赤茶色に錆び付いていた。
船が、どんどん近づいてきて、最終的に私達のいるコンクリートの道路で止まった。そして、船の中から、年老いた小柄な男の人が、身長ほどもある鉄のなにかを、ゆっくり持ってきて、船から下ろした。それは、階段になった。
母は、ボストンバッグを持ち直し、船へ向かった。私は、缶を地面に捨てて、母に付いてあった。
船に乗ってから、どれくらい時間が経っただろうか。景色は、灰色の海と、雨が降り続ける灰色の空で、ずっと変わらない。母は、何も言わず、ずっと同じ姿勢でいる。まるで、雨と寒さで、銅像にでもなってしまったかのように。
私は、本当はデッキに近づいて、初めて見る海を、じっくり観察してみたかった。しかし、身体中が雨を吸って重くなっているし、こんなに大量の水に飲まれてしまったらと思うと、怖かった。仕方なく、水を吸ったスニーカーを、少しでも乾かそうと、椅子に座って、足をブラブラと揺らした。
ちっとも乾かないスニーカーにウンザリしていると、ボーッと船が鳴った。ずっと動かなかった母が、スッと立ち上がり、ボストンバッグを持った。私も、母を真似て立ち上がった。船が向かう先に、小さな島が見えた。島は、霧で覆われていた。海から、その島だけ浮き上がっているようだった。
船が止まり、私達は島に降りた。一面が霧に覆われていて、今まで住んでいた場所より、もっと寒かった。海は、相変わらず静かに波打っていた。私は、寒さに震えながら、母のさす傘に入った。母は、私には眼もくれず、再び歩き出したので、私はスニーカーをグシュグシュ鳴らしながら、付いていった。
島は、私が今まで住んでいた場所より、自然が多く、家屋や、古い商店がポツリポツリと、道路沿いに並んでいた。人の気配は、ほとんど感じられなかった。皆、雨や寒さを避けるために、家に閉じ籠っているようだった。
母としばらく歩いていると、灰色の建物が見えた。屋根の上に、十字の飾りがあり、大きな扉と、小さな窓が付いていた。
母は、その建物の扉の左横まで歩くと、ボストンバッグを地面に置いた。
「コトコ、この横に座りなさい」
母は、私にそう命じた。私は、言われるがままに、ボストンバッグの横に、地面に尻を付けて、体操座りをした。
母は、傘をさしながら、しばらく私を見下ろした。長い髪に覆われたその顔には、なんの感情も読み取れなかった。眼も眉も唇も動かさず、ただ無表情だった。
そして、母は私に背中を向けると、コツコツとハイヒールを鳴らして、歩いて行った。その背中には、「付いてきちゃダメ」という気配がして、私は立ち上がれなかった。母は、私からどんどん離れて行き、やがて霧の中に消えていった。
残された私とボストンバッグに、雨が容赦なく降ってきた。私は、寒さと服が雨を吸った重みで、うまく思考が動かなくなっていた。ただ、眠くなっていくばかりだ。
眠い、もう眠ってしまおう。私は、横にあるボストンバッグに、身体を寄せた。
私が、ボストンバッグに身体を委ねた時、バッグの中で、何かがかすかに動いた気がした。そして、かすかに「ああ・・・」という音も聞こえたような気がした。私は起き上がり、震える手で、チャックをゆっくり開けた。
それは、バスタオルでくるまれた、薄茶色い塊だった。でも、ただの塊ではなかった。私と同じように、頭と、2本の腕と、2本の足が付いていた。頭には、薄い髪の毛と、小さな眼と鼻と口が付いていた。ただ、私と違うのは、足の間に、小さな突起物が付いていた。
私は、恐る恐る、その塊の腹と思われる部分に、手を触れた。生温かく、ふやけてブヨブヨとして、雨で塗れていた。小さな口をかすかに開いて、「あ・・・」と声を出した。
私は、ボストンバッグに覆い被さった。これ以上、雨に打たれてはダメだ、そう思った。私には、生きるとか死ぬとか、そんな概念はまだなかった。ただ、この子を守らなければ、確かにそう思ったのだ。
背中が雨に打たれて、どんどん重くなっていく。私は、ボストンバッグを抱きながら、ゆっくりと意識を失っていった。




