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黒帯の見舞い~守った命の分だけ、隣が死ぬ病棟の噂。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/23

安全は、誰かの不在でできている。


 黒い帯は、消毒薬の匂いまで吸って黙っていた。幅は指二本ぶん、長さは前腕ほど。乾きが速い合繊の生地は、指先の汗を弾き、結び目だけがやけに軽く、やけに固い。

 向坂悠真は、手袋越しの自分の鼓動が帯へ移っていく気配を、呼吸器の送気音の裏で聴いていた。ベッド柵の角は擦れて白い。何度も結ばれ、解かれた痕が重なって、塗装の地金が薄く覗く。


 東河医療センターの集中治療室は、昼より夜のほうが音が多い。人の声が減るぶん、機械が喋る。心電のピッ、送気のシュウ、ポンプの微かな唸り、モニターのアラートが低い音から高い音まで階段をつくる。静けさはない。静けさの形をした別の雑音が、眠らない場所を満たしている。


 誰かが言った。黒帯を結いなさい、今夜は荒れるから。

 誰が最初に言ったかは、もう誰にも分からない。分かっているのは、結んだ夜の朝に、守られた側が息をして、隣のベッドが空になることだ。

 病院はそんなものはないと言う。看護師は目を伏せる。技師は笑わない。


「兄ちゃん」

 背中で声が割れる。振り返れば、茶色いトートを両手で握りつぶした妹の陽が立っていた。面会時間はとっくに過ぎているのに、守衛を泣き落として上がってきたらしい。

「お母さん、また咳が……看護師さんが“今夜は様子見”って。兄ちゃん、黒帯って、本当にあるの」


 ない、と言うのは簡単だった。けれど昼の回診のざらつきが、悠真の胸に残っている。母・佳江の酸素は横ばいだが、呼吸回数はじわじわ増え、気道の音に湿りが混ざる。数字は“急変”の赤を呼んでいないが、身体はゆっくりと傾いていた。

「陽、あれは迷信だ」

「迷信でいい。迷信でいいから、結んで。もし助かるなら」

 妹は小さく息を詰め、言葉の最後だけ幼い。悠真は口を閉ざした。臨床工学技士として、機械が相手なら迷信を遠ざけられる自信がある。だが、数字の外にいる人間はいつも難しい。


 病室へ入る前、ICUの三浦師長が短く目を伏せた仕草を思い出す。

「向坂くん。家族には、せめて眠ってもらって」

 その言葉は、何もしないという意味にも、何かをしてもいいという意味にも聞こえた。現場の言葉は、よく二重底になっている。



祈りと結び目は、同じ指で結ぶ。


 夜勤帯の巡回がひと巡りし、モニターの光が厚みを増す。人工呼吸器の回路圧を確かめ、アラーム履歴を点検し、チェック項目の空欄を埋めていく。異常はない。異常はないが、音の間合いが変わる。機械は均質に動き、身体は不均質に沈む。


 ベッド21——母の柵。

 ポケットには、いつの間にか折り畳まれた黒い布片が入っていた。誰が入れたのかは分からない。こういう時、病院は“誰でもない誰か”になる。

「兄ちゃん」

 陽の声に、悠真はうなずいた。

「一回だけだ。誰にも見せるな」

 黒い帯を取り出す。二重にして、真結びにする。結び方は、手が勝手に知っていた。柵の角に軽く擦れ、白い跡の上に新しい黒が沿う。結び目に触れると、合繊の目が微かに軋んだ。


 結んだ瞬間、何かが劇的に変わるわけではない。数字が跳ねるわけでも、呼吸が軽くなるわけでもない。

 ただ、陽の肩が一度だけ降りた。

「ありがとう」

 その言葉は、悠真の胸の奥へ重く沈んだ。祈りは重い。祈られた側へ向かう重さと、祈られなかった側へ向かう重さが、別々の色を帯びて絡まる。


 夜は長く、同時に短い。とくに守りたい誰かがいる夜は。

 眠気の縁で、医師が一人、看護師が二人、短い会話の弾みを落としていった。巡回の車輪が床の継ぎ目で小さく跳ね、消毒の匂いが切れ目なく漂う。

 零時を過ぎても、母の心電は小さな山を等間に刻んでいた。送気の唸りが時々低くなる。咳は出ない。数字に反映されない小さな安堵が、机の端に置いた紙コップのゆらぎに似て、しずかに波紋を広げる。


 二時、ベッド22から短いアラーム。

 看護師が走り寄り、気道を確保し、医師がコールに応じる。

 ここで立つのは技士の仕事ではない。だが、隣を見ないでいることもできない。

 若い男の顔がカーテンの影に見えた。交通外傷の患者——昼に搬入された。家族はまだ来ていないという。口元に管、額に薄い絆創膏。安らかという言葉の対義語のような眠り。


 四時、アラームはさらに短く、さらに多く。

 呼ぶ声のピッチが一段だけ高い。

 五時、沈黙。

 病院の沈黙は、外の沈黙と質が違う。音が消え、音が集まる。同時に起こる。

 誰も走らない時間が、最も速く流れる。

 悠真は、黒帯に触れなかった。結び目は生き物のように細く温かい。触れれば、祈りを自分の指に移してしまいそうだった。



朝は、支払いの色をしている。


 六時、回診の足音。カーテンの向こうに朝が立ち上がる。

 ベッド21のモニターは、夜のはじめより穏やかだった。小さく山が立ち、波が続く。母は眠っている。唇に乾きが戻り、頬の色が薄く戻った。

 安堵は拒むものではないが、抱くと落とす。落とす場所が見えてしまうから、まだ抱かない。


 九時、カーテンが開く。

 隣のベッド22は空いた。白いシーツに軽い皺。清拭用のトレイが置かれている。

 午前の終わり、記録の一角に小さな文字が増える。

 死亡退院——一件。

 名前は短く、若い。日付の欄に今日の数字。時刻は黎明。

 守ったぶんだけ支払った。噂は嘘で、だからこそ現実より強かった。


 昼前、陽がうつむいて立っていた。

「お母さん、持ち直したね。……隣の人、どうなったの」

 悠真は答えなかった。答えないことが、唯一の答えになる時がある。

 陽はうなずいた。

「黒帯、外す?」

「まだ、いらない」

 口にした声が、少しだけ自分のものではなかった。


 休憩室のテレビは、遅いニュースと天気予報の境目で揺れている。紙コップのコーヒーは薄く、口の中に渋さだけ残す。

 モニターのログを引き出して、夜のアラームの時刻を確認する。

 二時十一分、二時三十三分、三時〇四分、四時五十八分。

 ベッド22のアラームの尾に、スタッフの記録が追いかける。吸引、体位変換、補助、投与。

 完璧に見える記録ほど、抜け落ちがある。完璧な記録は、現場の呼吸の速さから少しずれる。

 そのずれの中に、黒帯の影を見る癖が、病棟で共有されているように思えた。


 午後、母の酸素は安定した。

 陽はトートから折り紙を出して、黒い紙で鶴を折った。

「これ、ここに置いてもいい?」

「なんで黒」

「落ち着く色だから。……それに、ちゃんと見えるほうがいい。隠しちゃいけないものってあるから」

 陽の言葉は、幼いと大人の境界を行き来した。

 悠真は黒い鶴を棚の端に置いた。黒帯の結び目の向こうに、黒い鳥が小さく翼を立てた。



統計は、沈黙の群れの声だ。


 夜勤が明け、通常勤務の静かな雑音が戻る。

 悠真は、機器点検の合間に、カルテの裏側へ潜っていった。移送記録、ベッドアサイン表、当直割。看護師の引継ぎメモ、医師の申し送りの余白。

 偶然という言葉は、便利で曲がりやすい。偶然の顔をした意思は、現場にいつも紛れている。


 黒帯の“効果”は、黒帯だけでは生じない。

 夜勤帯に、リスクの高い患者と、支払い役にされやすい患者が隣り合う——その配置が、静かに繰り返されていた。

 当直の忙しさ、看護師の経験差、医師の判断の癖。

 統計は、誰の責任でもない顔をして、偏りをつくる。

 偏りは、祈りの形を借りて、均衡に見えるよう飾られる。


 ログの海に、ひときわ濃い影があった。

 八年前の同じ月、同じ週。敗血症が連鎖し、病棟が崩れた夜。

 その夜を境に、ベッドアサイン表の書式が変わっていた。番号の振り方、鉛筆の濃さ、上段に並ぶ名前の法則。

 夜勤中の移送が増え、隣床への出入りが多くなっている。

 黒帯が“効く”ように見えるための、静かな準備。

 誰が指示した? 誰が知っていた?

 紙に残るのは、誰でもない筆跡だ。


 三浦師長の机の前で、悠真は言葉を選んだ。

「師長。……黒帯のこと、教えてください」

 三浦は視線を落とし、ノックもせずに机の引き出しを開けた。中には何もない。空の証拠。

「向坂くん。あなたのお母さんは、今夜は大丈夫だと思う」

「そういう話をしているんじゃありません」

「分かってる。だから言葉を選ぶんだよ」

 師長は机の上の古い申し送り帳を閉じ、深く息を吐いた。

「八年前、私たちは目の前で三人を落とした。連鎖で。何かひとつ止められたはずの流れを、止められなかった。誰も死なせたくないと思うほど、誰かが死ぬ。そういう夜がある」

「その夜から、黒帯が?」

「その夜から、私たちは“結ぶ”ことを覚えた」

 三浦の声は、祈りの端を自分で踏んでいるように硬かった。

「結び目は、人を落ち着かせる。落ち着いた人は、走らない。走らなかった人は、守りたい人のそばにいられる。……それは悪いこと?」

「良いことです」

「そう。良いことだよ。だから、隣のことは、みんなで見ないようにした。見ない均衡は、続く」

 沈黙が降りた。

「誰が最初に帯を用意したんですか」

「誰でもない誰か。そういうものは、最初が曖昧なほうが、長くもつ」


 休憩室に戻ると、陽が黒い鶴をもう一羽折っていた。

「鶴って、何羽で願いが叶うんだっけ」

「千羽」

「一羽でも、だめかな」

「一羽でも、誰かの気は紛れる」

 悠真は、黒帯の結び目を見た。真結びは、簡単に解けない。解けにくいから祈りになる。解けにくいから、誰かの指が痛む。



最初の嘘は、守るためだった。


 夕方、雲が国道の上で低くなる。救急搬入口に雨の匂いが近づき、パトカーのサイレンが遠くで反響した。

 母の酸素は安定している。だが発熱が少し上がり、胸の音が硬くなった。

 陽は帰らないと言い、トートを枕にして椅子で眠った。

 巡回の医師は、眠れと言った。

 眠っている間に、何かが決まることがある。眠らない間に、何も決まらないことがある。


 三浦師長が夜勤に戻る前に、短く座った。

「向坂くん。起源の話、続きをするね」

 師長の声は低い。

「八年前、私たちは“逆祈祷”をした。喪のしめ縄を模した黒い布を、ベッドの柵に結んだ。落ちないように、という意味と、落ちるなら隣へ、という意味を、同じ結び目に入れた」

「どうして、隣へ」

「医療は、連鎖を止めるために隔離をする。だから、祈りもまた、連鎖の向きを決める必要があった。誰かの死を、誰かの隣へ押しやること。……それは、私が最初に口にした。口にしてしまえば、あとは簡単だった」

 師長は自分の言葉を噛むようにゆっくり飲み込んだ。

「運用は、すぐに生まれた。夜勤の配置、移送のタイミング、見回りの順番。黒帯が“効く”ように見えるよう、静かに整える。祈りは、見える形を欲しがるから」

「それで、守れた命は」

「あるよ。実際に」

「支払った命も」

「ある」

 師長は目を閉じた。

「最初の嘘は、守るためだった。嘘が続いたのは、嘘に守られる人が増えたから。誰もが、自分の“隣”を見ないようにした」


 廊下を、救急の担架が通った。

 雨の匂いが濃くなる。夜が深くなるというより、夜が厚くなる。

 黒帯は、ベッド21の柵で静かに結ばれたままだった。

 祈りは、ほどくより結ぶほうが簡単だ。



隣を選ぶ者は、自分の床も選ぶ。


 夜半前、母の容態がまた傾いた。

 数字に表れない揺れが、身体の下で広がる。呼吸の山が浅くなり、息の間合いが狭くなる。

 陽は目を覚まし、「兄ちゃん」と呼んで立ち上がった。

「また、結び直す?」

 黒帯は結ばれたままだ。結び直すという動詞は、祈りの強化に近い。

 悠真は、結び目から目を離し、隣のベッドを見た。今夜のベッド22には、高齢の女性が横たわっている。昼に別病棟から移ったという。家族は遠方で、明日の朝に来るらしい。


 祈りは、矢印だ。誰かへ向かう。

 矢印は、どこかから奪う。

 矢印の起点を選べば、終点も変わる。

 黒帯は、矢印の根元に結ばれている。


 悠真は、看護師詰所へ行き、当直の高崎に尋ねた。

「今夜の移送予定、ベッドの組み替え、教えてください」

「どうしたの」

「確認です」

 高崎は、予定表をひらひらと持ち上げ、目線を落とした。

「ベッド21は、家族がいて看視が効く。22は……人手が薄い時間帯は静かにしておきたい」

「静か、は、静かにしておきたい人のためにある言葉ですか」

「言い方を選んで」

 高崎は疲れた笑みをした。

「私たちは、落としたくない人を落とさないようにしてる。落としても誰にも責められない人が、夜に偏る。それがいけないなら、昼に偏らせる?」

「偏らせない方法を考えるべきです」

「そうだね。じゃあ、考えて。今夜のうちに」


 考える時間は、いつも無い。考えない時間は、いつもある。

 救急搬入口のドアがひとりでに開き、夜の湿気が短い風の形で流れ込んだ。

 悠真は、黒帯の結び目を一度見て、柵からそっと外した。

「兄ちゃん?」

「静かに」

 結び目は固かったが、指の腹で上手く回せば、祈りは解ける。祈りは思っているより軽い。

 外した黒帯を、悠真は救急搬入口へ運んだ。

 ドアの向こう、ストレッチャーが三台、壁に並んでいる。手すりに、消毒の拭き跡がまだ濡れている。

 黒帯を、一番手前のストレッチャーの手すりに結ぶ。二重にして、真結び。金属へ黒が沿い、結び目が小さく息をした。

「何してるの」

 背中で高崎の声。

「隣は、病棟だけじゃない。ここも隣です」

「誰の」

「今から運ばれてくる誰かの」

 高崎は短く息を飲んだ。

「それは、ひどい考えだ」

「ひどいです」

「やめて」

「やめたいです」

 言葉はどれも、正しくて、遅い。


 悠真は、ストレッチャーの黒帯を指で押さえたまま、救急のベルの音を待った。

 ベルは鳴った。

 救急車の赤が、雨の粒を切り刻んで、救急車は止まり、ドアが開く。

 担架が降りる。若い声が医師の名を呼び、別の声が状態を読み上げる。

 黒帯は、担架の手前で、小さな影になった。

 誰かの“隣”は、いつでも増やせる。病棟の外にも、どこにだって。

 増える“隣”は、祈りの密度を薄める。薄めれば、矢印の先はぼやける。

 ぼやけるなら、それで均衡は変わるか?

 変わるかもしれない。変わらないかもしれない。

 判断は、雨の音と同じ速度で濁った。


 戻ると、陽が立っていた。

「兄ちゃん、どこに行ってたの」

「散歩」

「結び直した?」

「うん」

 嘘は短いほど深く沈む。

 陽は、黒い鶴に触れて、小さく祈る形を作った。

 ベッド21のモニターは、穏やかな山を続けていた。



見舞いとは、誰の肩に手を置くことか。


 朝が来るまでに、いくつもの朝が通り過ぎる。

 夜の終わりは、いつも音で分かる。掃除のワゴンの車輪が床の継ぎ目で跳ね、配膳車の皿がわずかに鳴り、窓の外の光が白いだけの色で滲む。

 ベッド22の高齢女性は、夜を越えた。

 救急で運ばれた男は、夜明け前にオペへ運ばれた。

 当直表の端に、黒い鉛筆の印が小さく増えた。

 支払いの矢印は、救急のほうへ一つ滑った。

 それで何が変わったのかと問われれば、何も変わっていない、と答えるのが正確だろう。祈りの向きが変わっただけで、祈りの重さは同じままだ。


 午前、母の容態は静かに安定へ向かった。

 陽が眠り、目を覚まし、また眠った。

 黒い鶴は二羽になり、棚の角で羽を寄せ合う。

 三浦師長が巡回の終わりに、立ち止まった。

「向坂くん。昨夜、救急のストレッチャーに何か結んだ人がいるらしい」

「そうですか」

「そうやって、隣を増やしていけば、誰も隣じゃなくなると思う?」

「思いません」

「じゃあ、何のために」

「あなたに問いを返すために、です」

 三浦は笑わなかった。

「問いは、いつも眠らないね」

「睡眠不足には、黒帯が効くかもしれません」

「効かないよ。あれは、眠れない人間のための結び目だから」


 昼。陽がコンビニで買ってきた白い袋から、海苔おにぎりと味噌汁と、余計なチョコレートが出てきた。

「お母さん、良くなったら、退院したら、どこ行こうか」

「海」

「寒い」

「寒い海で食べるアイスが、いちばん美味い」

「お母さん、そんなこと言ってたっけ」

「今言った」

 二人で小さく笑った。笑いは、祈りと同じ指で作る。


 午後、病棟に知らない人たちが増えた。

 面会時間の始まり。ロビーで売っている花束が足りなくなり、売店が黒いリボンを巻いた簡易の小花を並べ始める。

 黒は落ち着く色だ。

 黒は、目に入りやすい。

 黒いリボンは、黒帯に似て、似ていない。

 似ているものが増えれば、似ていないものの輪郭は薄れる。

 噂は、形が手に入ると長持ちする。

 売店の棚に並ぶ黒いものは、単なるリボンだ。

 それでも、誰かが、それを“見舞い”と呼び、誰かが“黒帯”と呼び、誰かがただの飾りと呼ぶ。呼び方は、祈りの向きを決める。


 夕方、母の点滴が一本減り、酸素が一段下げられた。

 ベッド21の柵には、もう帯は結ばれていない。

 棚の黒い鶴が、帯の代わりに見張り番の顔をしている。

 陽が医師から説明を受け、頷き、メモを取り、頷いた。

 医師は「今夜も落ち着くと思います」と言い、三浦師長は「落ち着くようにします」と言った。

 落ち着く、という言葉が、今日だけは信用できる気がした。信用することは、時々、体温のように必要になる。


 夜になり、救急搬入口の黒帯は、いつのまにか外されていた。

 結び目の跡だけが金属に薄く残り、消毒の拭き跡が上書きしていた。

 誰かがほどいたのだ。

 誰かが結び、誰かがほどく。

 結んだ指と、ほどいた指は、別の人間かもしれないし、同じ人間かもしれない。

 どちらでもいい。結び目は、結ばれたこととほどかれたこと、その両方の重さでしか残らない。


 退勤間際、悠真は、黒帯をポケットに入れた。

 病棟に置いていけば、誰かが使う。

 持ち帰れば、誰も使わない。

 どちらが正しいとは言い切れない。

 ただ、今夜だけは、誰にも結べない場所へ連れていくことにした。


 病院を出ると、空気は昼より冷たく、街灯の下で息が白い。

 駐車場の隅に、誰かが紙を落とした。拾い上げると、小さなメモに走り書きの文字。

 ——黒帯はどこで売っていますか。

 見舞い用、と丸い字で書き添えられている。

 悠真は、紙をロビーの掲示板へ返した。

 誰かがこの問いに答えるかもしれない。誰も答えないかもしれない。

 答えのない問いは、長生きする。


 家に戻る途中、橋の上で風が強くなった。

 黒帯は軽い。ポケットの中で、布は音を立てない。

 明日も、母は生きているだろう。

 隣は、誰かが支払うだろう。

 その誰かを、明確に指さない世界を、私たちはいつまで続けるのだろうか。

 見舞いとは、誰の肩に手を置くことか。

 答えは、橋の下の黒い水よりも静かで、簡単には掬えない。


 翌朝、東河医療センターの売店に、黒いリボンの輪が増えた。

 “落ち着く色の贈り物”。

 名札の小さな文字が、見舞い客の指を誘う。

 指は結び目を作り、結び目は祈りになり、祈りは矢印になる。

 矢印の先にはいつも、顔の見えない隣がいる。


 ——黒帯の見舞い。

 守った命のぶんだけ、誰かの不在が支払われる。

 噂は静かに歩き、足跡を残さない。

 結び目だけが、金属の角に白い擦過を増やしていく。

 白い傷は、やがて黒く手垢で埋まり、次の誰かの指に滑らかさを渡す。

 そうやって、均衡は続く。

 続くこと自体が、いちばんの恐ろしさだと、誰も言わない。誰も言わないことが、いちばんよく祈りを保つからだ。


 その夜も、病棟は音で満ちていた。

 ピッ、シュウ、唸り、低いアラート。

 黒帯は、どこにも結ばれていないように見えて、どこにでも結べる場所にあった。

 結ぶ指は足りている。ほどく指も足りている。

 足りないのは、ただ、隣を見続ける視線の数だけ。

 視線は疲れる。疲れた視線が落ちる場所に、祈りはよく落ちる。

 祈りが落ちた場所が、いつか誰かの床になる。

 床には柵があり、柵には角があり、角には擦過痕がある。

 擦過痕の白さは、今も少しずつ増えている。

 それは、誰かの指の数と同じだけ増える。

 そして、誰かの不在の数と同じだけ、増えていく。

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