第7節『止められぬ時の歯車』
「いらっしゃい。」
『アーカム』を訪れた一行を、少年アッキーナが出迎えてくれた。
「今日はどうしましたか?」
その問いにはウィザードが応える。
「実は、アッキーナ。アカデミーで大変なことが起きた。すまないがエバンデスさんを呼んで欲しい。大至急で頼みたい。」
「わかりました。すぐにお呼びしますから、ちょっと待っててくださいね、っと。」
そう言って、アッキーナはいつものように店の奥へと姿を消した。しばらくしてから、エバンデス婦人を伴って店に戻って来る。
「みなさん、よくいらっしゃいましたね。今宵はまた、いかがしましたか?」
キューラリオン・エバンデス婦人が皆に訊いた。
「この方から重大なお話があるでやんすよ。」
カウンターに腰かけていたライオットがそう話を切り出す。
*パンツェ・ロッティの欠片を婦人に見せるライオット。
「まぁ、パンツェ。あなたも来ていたのね。」
「キューラリオン、実に久しぶりであるな。」
「ええ、そうね。」
「キューラリオン、君には実に多くのことを謝らねばならない。若い時からずいぶんと迷惑をかけ、また嫌な思いをさせてしまった。とても許してくれと言える立場ではないが、せめて謝罪だけはさせて欲しい。本当にすまなかった。」
実に真摯な調子でエバンデス婦人に謝意を告げるパンツェ・ロッティ。
「もういいのですよ。パンツェ。あなたと私の人生が交差することはなかったけれど、それでもあなたはあのときからずっと私の大切な友人です。わだかまりはもう解けたではありませんか。これからは友として、新しい時を過ごしましょう。」
キューラリオンは美しい声でそう応えた。
「ありがとう、君にそう言ってもらえると、私は救われた気がする。」
「私こそ。パンツェ、またあなたに会えてよかったです。どうでしょう?奥様をお呼びしましょうか?」
「いや、それは後でよい。リセーナとはこの後でゆっくり会うことにする。それよりも、まずは重要なことを話し合わねばならない。それで、すまないがここにユイアという名の暗黒魔導士がいるであろう、彼女を呼んではくれまいか?」
「わかりましたわ。アッキーナ、頼めるかしら?」
「もちろんです、マダム。」
そう言って、アッキーナは再び店の奥へと姿を消す。
「みなさん、折角ですからなにか召し上がりますか?」
そう問う婦人に、さっそくライオットが応えた。
「あっしとアニキは今年にかけてやっと飲める歳になったでやんすから、ビールを頼むでやんす。」
「おい、ライオット、大丈夫なのか?俺はまだ飲んだことはないんだぞ。」
「大丈夫でやんすよ。せっかく飲めるようになったものを、飲まないのはもったいないでやんす。」
そう言って、ライオットはいつものようにからからと笑う。
「あなたはどうしますか?」
エバンデス婦人がウィザードに訊くと、彼女はワインを注文した。
「ビール2つに、ワインですね。しばらくお待ちくださいね。」
そう言うと、今宵は婦人自らが飲み物をみなに振舞ってくれる。
* * *
そうこうしているうちにも、アッキーナがユイアを伴って戻って来た。
「こんばんは、みなさん。何か大変なことがあったようですが、どうしましたか?」
ユイアことウォーロックがみなに訊ねた。
「詳しい話はパンツェ教授がするっすよ。とにかくなんか大変みたいっす。」
飲みなれない苦いグラスを傾けながらライオットが言う。
*みなの前に久しぶりに姿を現したユイアことウォーロック。
「君か、久しぶりであるな。」
「ええ。教授、お久しぶりです。苦い初恋からはもう自由になりましたか?」
「ああ、すべては君とキューラリオンのおかげだ。感謝している。」
「それはよかった。今は、というよりずっと前から素敵な奥様がいらっしゃるのですから、大切にしないといけませんよ。」
「わかっておる。それよりも、だ。」
パンツェ・ロッティが肝心なことを話し始めた。
「キューラリオンにもよく聞いて欲しい。どうやら魔王の復活を目論んでいる不届き者がいる。非常に忸怩たることながら、年若い学徒の心の座が囚われてしまった。これ以上の事態の悪化を防ぐために、我々は最善を尽くさねばならないだろう。」
『アーカム』の店内に、鋭い緊張が俄かに走った。いつも余裕を失うことのないエバンデス婦人が、いつになく険しい顔をしている。
*いつにない険しい表情を見せるエバンデス婦人。
「それは本当なのですか、パンツェ?」
「冗談や酔狂でこんなことを言わぬ、キューラリオン。残念ながら事実であり、残念極まることに無辜な若者の魂が今、彼奴の手中にある。我々は何としてもその魂を魔王の邪悪から解放せねばならない。」
「その通りですわね。で、この子にどうしろと言うのですか?」
「魂の座を絡めとられてしまった少女、その名をルイーザ・サイファという。まだ年端も行かぬ12歳の少女だ。彼女は絶体絶命の状況で、親友を救うに必要な力を得るために、そうとは知らぬまま魔王の誘いに心を開いてしまった。なんとも言えぬ悲劇である。」
「その通りね、それで具体的には?」
「ああ、それだ。とにかくも、ルイーザが魔王の半身たる邪神『セト』との接触を果たさないために、常時の監視をしなければならない。しかし、我々ではそれがすこぶる難しいのだ。」
「なるほど。それでこの子にと、そう言うわけですね。」
「その通りである。事は急を要する。頼まれてはくれないかね?」
「もちろんです、教授。そのルイーザさんを魔王の魔の手から遠ざけなければなりません。私の知るところでは、『セト』復活のためには多大な犠牲と生贄を要します。彼女が守ったというその親友が、今度は毒牙にかかる可能性も十分にあり得るわけですから、ルイーザさんたちを守るために、喜んで協力しましょう。」
「そう言ってくれると実にありがたい。君の力なら、『監視の瞳』を使って容易に遂行可能であろう。万一の時にはすぐに我々に知らせて欲しい。」
「わかりました、教授。まずは、ルイーザさんの寮室を教えてください。今晩から早速監視を開始します。協力して、彼女と『セト』の接触を阻止しましょう!」
「実に結構。君の叡智と力を信頼しておる。」
「ええ、力を尽くします。」
「ところで、もうすぐ修学旅行だ。あちこち出向くから監視し辛くなるだろうが、どうかよろしく頼むよ。」
そう言うと、ウィザードはウォーロックに深々と頭を下げた。
「今更何を他人行儀なことを言ってるのよ。『いろいろなんとか』してあげるわ。まかせておいて。」
「おいおい、あんたまでずいぶんと昔の話を引っ張り出してくるんだな。勘弁してくれよ。でも、頼りにしているぜ。」
「任せておいて!」
神秘の空間を覆っていた緊張感は幾分か和らいだようである。しかし、そんなとき、ふとパンツェ・ロッティが言った。
「今、もうすぐ初等部の修学旅行だと言ったな?今年はどこに出かける予定なのだ?」
その問いにはウィザードが応える。
「バカンスをかねてな。今年はアンタエオ・アイランドにある『聖天使の墓標』を訪れることになっているよ。」
「なんだと!!それは本当であるのか!?」
俄かにパンツェが声を荒げた。
「いかん、実にいかんぞ。」
その声には明らかな焦りが見える。エバンデス婦人もまた、険しい表情に戻っていた。
「どうしたってんだよ、教授?あそこはただの観光地だぜ。なにせ、昨年マークスのくそ野郎が大暴れしてくれたせいで今年は『ホエール・アイズル』に行けないからな。仕方なくそこに決まったんだよ。一体何があるって言うんだ?」
そう訊くウィザードに、パンツェが応えた。
「君たちが知らぬのは無理からぬことであろうが、あそこは古代神話の天地創造に関する場所で、こともあろうに邪神『セト』を祀る『アシウトの祭壇』があるのだ。」
その言葉に、場が俄かに騒然となる。
「『アシウトの祭壇』?何だいそりゃ?あそこにあるのは、天地創造を成し終えた創造の天使が眠る『聖天使の墓標』だけじゃないのか?邪神の祭壇なんて聞いたことがないぜ。」
「それはやむを得まいな。そこに眠る『聖天使』というのは、太古に起こった黄昏の時代に邪神『セト』と壮絶な戦いを繰り広げた末、遂にそれと相打ちになってそこに眠る存在なのだ。生命と引き換えに打ち滅ぼした『セト』と共にな…。『セト』の復活を永劫防ぐために、その墓標たる『アシウト』の祭壇の上に、封印として『聖天使の墓標』は作られたのだ。つまり…。」
「つまり、修学旅行自体に、ルイーザが『セト』と接触する危険が多分にあると、そういうことだな!」
ウィザードが声を大きくした。
「その通りである。どうやらアカデミーの中枢に、これらの一連を手引きしている存在があると言わねばならぬだろう。君はその影の存在について急ぎ調べたまえ。」
パンツェがウィザードに厳命する。
「と、言ってもだな、教授。あまりに漠然としすぎて手がかりがなさすぎるぜ。もちろん最善は尽くすが…。」
「君らしくない泣き言はよしたまえ。事態はそのうち動きを見せるであろう。とにかく、アカデミーの行事設定に関与できるそれなりに高位の存在だ。私の代からの有力評議員に目を光らせるのは有意義であろうな。」
「わかったよ、やってみる。それじゃあ、ユイアはルイーザの監視を、あたしは評議員を見張るということから始めようじゃないか。」
ウィザードの方針は固まったようだ。
「そうであるな…。とにかく、修学旅行中は学徒の監視にはいつも以上に神経を使わねばならぬ。引率の中でも特に信頼のおける者の力を借りたまえ。」
「わかったぜ。とにかく『聖天使の墓標』には、歴史学習以外の目的では学徒を一切近づけないように全力をつくすよ。」
「それがよい。ぬからぬようにしたまえよ。」
「ああ。大人の邪な都合で、これ以上学徒が傷つくのはもうたくさんだからな。」
そう言い終わると、ウィザードはグラスに残る赤ワインを一気に飲み干した。
飲みなれないビールを嗜んだキースとライオットは肩を寄せ合ってすうすうと寝息を立てている。この魔法世界では、満16歳からビールとワインに限って一定量の飲酒が法的に認められるが、この二人には少々早かったようだ。ウィザードは、その二人に、自分のローブをかけてやった。
神秘の空間で、時がゆっくりとしかし確実に刻まれていく。
* * *
ところ変わって、アカデミー。
あの驚愕の騒乱と大捕物のあと、結局にして今年の『全学魔法模擬戦大会』二日目のエキシビションマッチは、そのまま午後の部は中止となり、多くの学徒達を落胆させた。しかし、それはやむを得ない管理層の判断でもあったと言わざるをえまい。
はじめは、補導という形で愛息子のルシアンに公然と恥をかかせたウィザードらに対し、昔からの有力評議員であり、ルシアンの父でもあるロフォイ・マクスウェル卿から何かしらの報復があるものと、ウィザードは警戒を強めていたが、同卿が優先したのは、なぜか『著しい職務懈怠』のかどで逮捕に至ったマリクトーンの釈放と、復職であった。そこにルシアンの懇願があったことは想像に難くないが、しかし、なぜそれを最優先にする必要があったのか、どうにも釈然としない面が残る。
政府警察機関は違法犯のみを取り締まりと逮捕の対象にするが、アカデミーの自治組織である『アカデミー治安維持部隊』は、違法だけでなく職務懈怠のような不当も職務執行の範囲に収めていた。今回のマリクトーン逮捕はまさに、そうした「不当」な職務懈怠を理由とするものであったが、違法行為以外に不当行為も取り締まることができるというその柔軟さは、同時に、アカデミーの自治を掌握する権力の恣意的な思惑によって、時に「不適切に」処分が覆される機会を残すという、統治上の脆弱性を孕む構造ともなっていた。
結局、ロフォイ・マクスウェル卿の具申を受けたゼン・サイファ最高議長は、いじめの再発を防ぎ、生徒たちをよりよく導くことができるのであれば、という条件付きながら、結局その主張を丸呑みにしたのである。
すなわち、まだ若く未熟なマリクトーン教諭を釈放して復職させる代わりに、全体的なクラス統治の水準と安定性を確保し、かつ同時にクラス管理全体を最高評議会の監視下に置くためにベテランの教諭を副担任につけるということで、一応の解決が図られたのだ。このような、超法規的な措置がまかり通ることは、アカデミーの構造的問題といえる部分でもある。
特に、ルイーザの父でもあるゼン・サイファ議長は、非常に民主的かつ進歩的であり、特に公正を重んじる柔軟な考え方の持ち主であった。しかし、それ故にこそ、時には法的適正よりも実質的妥当な解決を重んじようとする傾向があり、こうした独善的な措置がしばしば行われた。その功罪はいまだ明確ではないが、最高議長の絶大なる権力が、善し悪しはともかく、こうした「恣意的」統治を可能にしていたことは事実である。
ところで、ロフォイ評議員の提案によってマリクーン教諭に付されたのは、教職経験の長い45歳のベテラン教諭で、その名をヴァネッサ・グレイブスという。実は、彼女は最高評議会におけるロフォイ評議員の秘書でもあり、その彼女を副担任としたことに関し、ロフォイ評議員の側に何らかの思惑があるのだろうことには疑いの余地がなかった。しかし、思いがけず差し伸べられた助け手による釈放と復職の機会を得られたマリクトーンが不服を唱えることなどあるはずもなく、11月に控える修学旅行に向けて、2人担任体制はつつがなくスタートを切ったのである。
*ロフォイ評議員の秘書でもあり、マリクトーンの補佐役として副担任に就任したヴァネッサ・グレイブス先生。齢45歳のベテラン教諭である。
* * *
大会後、教員間においてだけでなく、学徒達の間にも、関係性をめぐる顕著な変化が垣間見られるようになっていた。いじめの中心人物であったルシアン、アベル、ダミアンの3人がルイーザに手酷い敗北を喫したことで、学級内における彼らの影響力は一挙に薄れ、加えて、ルイーザのあの恐るべき威容と圧倒的な力を目撃した学徒達は、そもそもルイーザに畏怖の念を抱くようになっており、少なくとも、公然にフィナをいじめ、その兄であるトマスを悪く言う者はもはやいなくなっていた。
当初の目的を達成し、外形的にではあるにしても、兄の名誉をこれ以上公然には傷つけられることのなくなったフィナは、決意の表れであったローブの着用を既にやめていたが、それとは入れ替わりに、今度はルイーザが、「フィナを守るための勝利の証」であるとして教室内でのローブ着用を主張し始めたのである。
模擬戦大会で勝った方がその主張を通してよい、というのが約束であったから、誰もルイーザに逆らう者はいなかった。というより、約束云々の前に、周囲の学徒達はルイーザの、かの日の姿を明らかに恐れていたのである。
しかし、いずれにせよ、あの大会における劇的な逆転劇の後で、クラス内における力関係は完全に逆転し、フィナはようやくにして、過剰な緊張と恐怖を毎日のように強いられる困難から遂に解放され、普段の生活の中にも笑顔が戻るようになっていた。
ルイーザもまた、大会当日に見せたその異常性を思わせることは基本的にはなくなっていたが、ただ、ルシアン達件の3人に対しては、明らかに彼らを見下した尊大な態度をとるようになり、時が11月に至る頃には、3人はすっかりルイーザの舎弟になり果てていたのである。
「ねえ、ダミアン。悪いけど、学食まで行ってフィナと私の分のお昼を買ってきてちょうだい。気の利いた飲み物と一緒にね。」
そう言うのはルイーザだ。
「と言っても、ルイーザ。僕一人で二人分のお昼を運ぶのは無理だよ。」
おそるおそる、ダミアンはそう返答する。
「あなた、私にそんなことを言っていいのかしら?一人で難しければ、ルシアンかアベルを連れて行けばいいだけでしょう。まったく、使えないんだから…。とにかく、急いでくれないと困るわ。フィナも私も早くお昼にしたいのよ。お願いね。」
「…わかったよ。アベルと行ってくる。」
そう言って、しぶしぶ教室を出て行くダミアンとアベル。実はあの日、不良行為はダミアンの独断専行であると主張するルシアンをアベルが否定したことで、少年たちの間にも微妙な亀裂と緊張関係が生じていた。特に、ダミアンをかばうよりもマリクトーンの擁護を優先したルシアンの立場は殊更悪くなり、孤立を避けるためにはルイーザに取り入りへつらうしかないという、非常に繊細な立ち位置に置かれている。
「ねぇ、ルイーザ。あんな無理を言ってはだめよ。二人で一緒に学食に行けばすむことなんだから。その方が楽しいし…。」
こうした状況を必ずしもよしとしない心優しいフィナはそう言った。
「あら、フィナ。何を遠慮する必要があるっていうの?あいつらがあの日あなたにした非道から考えれば、これくらいじゃ償いにもならないわ。大丈夫、約束したでしょ?私はいつでもあなたを守る。だから心配しないで傍にいてね。」
「うん…。」
二人がそんなやり取りをしているところに、ダミアンとアベルが学食から帰ってくる。ルシアンが彼らから昼食を受け取って、フィナとルイーザの前に供していた。
「いいよ、ルシアン。自分たちでやるから。」
フィナはそう言うが、ルイーザは違うようだ。
「ちょっとダミアン、いま何月かしら?」
「11月だけど…。」
「それがわかってるなら、レモン水はないでしょう?私は気の利いた飲み物を頼んだのよ。それなのにレモン水なんてあり得ないわ。すぐにもう一度行って、ホット・ココアを2人分買って来てよ。」
そう言ってはダミアンを威圧するではないか。フィナはもうよせという調子で、ルイーザのローブの裾を引っ張るが、彼女は意にも介さない。
「さっさといかないと、ひどいわよ。」
声のトーンをルイーザが険しくする。それがよほど怖いのだろう、ダミアンはすぐに教室を出て行った。
「ごめんね、フィナ。気の利かないことで困ったことだわ。あの愚図を待っていると食事が冷めてしまうから、ひとまずいただきましょう。」
そう言うと、ルイーザは昼食の包みを解いた。
「うん…。」
フィナもそれに倣って同じようにする。
二人で摂る食事は決して嫌ではない。ルイーザはその実、フィナや周りの学徒達には従前と何ら変わらぬ優しさと天真爛漫さで接してくれる。しかし、彼女の、ルシアンら3人とマリクトーンに対する態度には、フィナ自身が時々空恐ろしくなるものがあった。
息を切らし走って戻ってきたダミアンに礼を言うでもなくホット・ココアを口にするルイーザの顔を、まるで別人と食事を摂っているかのように落ち着かない心持ちで、フィナは見つめていた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう…。
窓の外を吹きゆく11月の風が、あたかも、フィナの心の中で吹きすさんでいるようであった。
こんな、穏やかさと違和感が同居する日々がしばらく続いた後の、そんなある日のことである。
* * *
ヴァネッサ副担任とともにマリクトーンが教室に入ってきた。今日は、修学旅行に向かう準備のための、最後の学級会活動が行われることになっている。
「みなさん、学級会を始めましょう。私語をやめて席についてください。」
以前なら、その一声で水を打ったように教室は静まり返ったものだが、今はそうはいかない。数名の学徒達はなお自席を離れたまま、私語に花を咲かせるばかり。
「みなさん、学級会をはじめます。席に戻りなさい!」
いささか語気を強めてもみたところで、状況は変わらない。件の逮捕劇の後、数名の学徒達は明らかにマリクトーンのことを侮り、彼女に対する敬意をすっかり失っていた。しかし、そのための副担任である。
「おい、そこの貴様ら!先生のお言葉が聞こえないのか?さっさと席に着け!」
そう言って、ヴァネッサは手にした鞭で床を強く打つ。さすがに、アカデミー最高評議会の肝いりでこのクラスに派遣されてきた彼女にはみな一目を置いているようで、そそくさと自分の席に戻っていく。そしてようやく、教室内に静けさが戻った。
「まったく、貴様らは力で示さんと言うことをきけんのか!いいか。これから修学旅行についてマリクトーン先生から大切なお話がある。静かに聞くように。…。では、マリクトーン先生、お願いします。」
「ありがとうございます、ヴァネッサ先生。では、今日は来週出発の修学旅行について、最後の連絡を行います。重要なことがたくさんありますから、聞き漏らさないようにしてください。」
「はーい。」
気の抜けた返事が返ってくるが、それを鞭の音を伴う無言でヴァネッサが諫めた。
「来週はいよいよ修学旅行に出掛けます。行き先は先日お伝えした通り、『アンタエオ・アイランド』のリゾートで、1日目は、そこにある『聖天使の墓標』を訪れてこの魔法社会の創生の歴史を勉強します。2日目は1日中自由行動で、ホテルのビーチ、または海水浴場での海水浴が可能です。その他、ショッピングモールに買い物に出る、班ごとにその他の観光地を観光してまわるなどしても構いません。
ただ、安全のために、プールの使用と海水浴については、事前登録制となります。それで、今日は、2日目の自由行動について、みなさんの希望をお聞きします。挙手で教えてください。ホテルのプール利用を希望する班はありますか?」
その問いに対して手は上がらなかった。
「そうですか、プール利用の希望者はこのクラスにはなしということですね?」
その確認に対しても、以前のような明確な返事が返されることはない。
「では次に、海水浴です。海水浴を希望する班はどれくらいありますか?」
その問いには応答があり、クラスのほとんど全ての班が挙手をした。どうやらみな、秋の海水浴というちょっと変わった体験を心待ちにしているようだ。その意志表示をした班の中には、フィナとルイーザ、ルシアン達の所属も含まれている。
「わかりました。それでは、いま挙手をしたみなさんは、自由行動日程を島のプライベート・ビーチで過ごすということで登録しておきます。手を上げなかった班は、プール活動と海水浴には参加できないことになりますが、よいのですね?」
やはり、明確な返事はない。数人の学徒は何やらにやにやくすくすとやっている。それを見かねたヴァネッサが、再び鞭で床を2,3叩いてから言った。
「貴様らは満足に口もきけんのか?マリクトーン先生がお訊ねであろう。手を上げなかった班の者はプールと海水浴には参加できない。それでよいのだな?」
「はい。承知しております。」
ようやくにして返事がされる。
「結構、最初からそのように答えよ。」
「申し訳ありません、ヴァネッサ先生。」
「謝罪する相手が違う!」
「はい、申し訳ありませんでした。」
マリクトーンの威信はもはや見る影もなかったが、ヴァネッサのそれは十分に健在だ。マリクトーンも安堵の表情を浮かべている。
「それでは、マリクトーン先生、続きをどうぞ。」
「ありがとう、ヴァネッサ先生。それでは、次に所持品と所持金についてです。まず海水浴に参加する場合、水着や浮き輪などはホテルで購入することもできますが、そこは魔法社会を代表する高級ホテルですから、それなりに高価な品物が揃っています。ですから、水着などについては持参をお勧めします。また、持参可能な所持金については上限が設定されています。違反は厳しく罰せられますので、しおりをよく読んで、間違いのないようにしてください。」
それを聞いて学徒達はしおりを開き、該当ページをいろいろと確認していった。
「それから。魔法学部長先生から、特別の注意が追加されています。今回の歴史学習の目玉である『聖天使の墓標』ですが、そこには、歴史学習のために全員で向かう場合を除いて、自由時間も含め学徒達だけで赴いてはいけません。学徒だけでの訪問は厳に禁止されていますから、その厳重注意を必ず守ってください。」
ところが、その発言にどうしたことかルイーザが目くじらを立てるではないか。
「しかし先生。そうは言っても、あそこは今回の歴史学習における最重要の場所です。それを集団行動以外で訪れてはいけないというのは納得がいきません。それは学習に向かう学徒の自主性への侵害ではありませんか?」
マリクトーンにそう問い質したのだ。
「それはわかりますが、魔法学部長先生から厳命されていますから、守ってもらわなければ困ります。その他の諸注意事項とともに新しく追加になったしおりの最後のページに、最重要事項として一覧になっていますから、きっと遵守してください。」
「嫌だと言ったらどうなるんですか?」
ルイーザは露骨に食ってかかる。返事に窮するマリクトーンの様子を察して、ヴァネッサが代弁した。
「貴様!どういうつもりか知らんが、最重要事項を守れないと言うのであれば、貴様を修学旅行に連れて行かないまでだ。一緒に行きたければ厳守したまえ!」
「はい、失礼しました。」
その場ではルイーザの方が譲って見せる。隣の席にいるフィナは、なぜルイーザがそれほどまでに『聖天使の墓標』に関心を寄せるのか、その思惑を図りかねていた。ただ、ルイーザが、ごく最近になってその場所に並々ならぬ関心を寄せていることは間違いないことで、フィナはそのことが気がかりでならないでいる。
「二日目は夜も自由行動です。夜の自由行動については、これから班ごとに計画書を作成してもらいます。」
マリクトーンがそう言うと、書記の学徒が用紙を配布した。各班で討議が始まる。
「フィナは何か希望がある?」
ルイーザが訊いた。
「ううん、別にないわ。ルイーザは何かしたいことがあるの?」
「実は、ちょっとね。これについては私に任せてもらっていい?」
「それはいいけど…。」
「じゃあ、私がちょっとしたサプライズを用意するわね。」
そう言うと、ルイーザは配布された計画表に一言『肝試し』とのみ記入し、詳細については空白のままそれを提出した。当然ながら、それを受けとった、マリクトーンはともかくヴァネッサからはやり直しの指示があるものとフィナは思っていたが、あにはからんや、当のヴァネッサはそれを一瞥すると一瞬表情を僅かに変えただけで、何も言わずに他の班が提出した計画表の上にただそれを重ねてすませた。
「計画の変更は、今週末までできます。もし変更の希望があれば、予備の計画表に記入の上、申し出てください。」
マリクトーンの声は小さく、返事も当然のようにすぐには返らない。
「返事をしろ!」
ヴァネッサに檄を飛ばされて、ようやく教室内から、承知した旨の意思表示がなされる。
それを確認した後で、教師二人は、教室を後にした。
* * *
「ヴァネッサ先生、お力添えありがとうございます…。いろいろ申し訳ありません…。」
教室から教務員室に向かいながらこぼすように言うマリクトーン。
「元気をお出しください、マリクトーン先生。ご心配には及びません。私とマクスウェル評議員はいつでもあなたの味方です。評議員の御子息のルシアン君も、クラスの内側から今の空気を変えるよう尽力してくれるでしょう。ですから、まずはあなたが威厳と自信を取り戻さなければいけません。今回の修学旅行がその絶好の機会となるように願っています。お力添えしますから、どうぞ、お気落としなく。」
学徒達に対するのとはまるで違う柔和な声色でヴァネッサが言う。
「本当にありがとう、先生。頼みにしています。」
そう言って二人は教務員室に急いでいった。
週が明ければ修学旅行が始まる。『セト』を封印する祭壇が隠されているという『アンタエオ・アイランド』、そしてそこにただならぬ興味をよせるルイーザ。何事もなくルイーザが魔王の思惑から解放されることを、ウィザードたちはただひたすらに願い、とにかくできる限りの手を尽くしていた。運命の歯車が静かにきしみ始める。
秋がゆっくりと深まっていった。
Echoes after the Episode
今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。今回のエピソードを通して、
・お目にとまったキャラクター、
・ご興味を引いた場面、
・そのほか今後へのご要望やご感想、
などなど、コメントでお寄せいただけましたら大変うれしく思います。これからも、愛で紡ぐ現代架空魔術目録シリーズをよろしくお願い申し上げます。




