第2節『反骨と誹謗』
みなが大いに驚いたのはその翌日のことであった。なんと、昨日マリクトーンから不許を厳命されたにもかかわらず、フィナが公然と兄の遺した純白のローブを身にまとって教室に入ってきたのである。そのローブは純潔を思わせる透き通る白地に、金の縁取りがされた実に美しいもので、トマスが最後に自ら悟った愛の純真を体現しているかのようであった。
さっそく、件の少年たちがフィナを取り囲む。
「おい、フィナ。いったい何のつもりだよ。兄貴の弔いでもしてもらおうと思ってそんなもの着てきたのか?こっぱずかしい変態犯罪者の為にアカデミーが葬送の儀式なんてやるわけないだろうが!」
最初に口火を切ったのはダミアンだった。他の者もそれに続く。
「俺たち初等部では、儀式のとき以外にローブを着ちゃいけないのは知ってるだろう?さっさと脱げよ!」
そう言ってアベルが詰め寄った。しかし、フィナはその雑言を無視する。
「黙ってないで何とか言ったらどうなんだよ、フィナ。それとも何か、変態兄貴に感化されて、その下になにかいかがわしいものでも隠してるのか?あはは。」
語気を強め、嘲笑するのはダミアンだ。
「お、お願いだから、これ以上兄を悪く言わないで。兄はあなたたちが思っているような、そんなおかしな人ではないわ。私は兄を信じているの。これは兄の形見。だから、これを身に着けることで、私は兄の尊厳を守り証明したいの!ただ、ただ、それだけよ。」
意を決して、震える声でフィナが言った。そこにはすでに涙の色が乗っていて、恐怖による萎縮の中から絞り出すようにして紡がれていた。
「なんだと!貴様、いったい誰に向かってそんな口をきいているんだ!」
リーダー格のルシアンが乱暴にフィナの胸倉をつかみ、右の拳を振り上げる!その時だ。
「あなたたち、いい加減にしなさいよ!」
清水のように美しくも凛とした声がその横暴を俄かに止める。
「女の子に手を上げるなんて、あなたたちの方がよっぽどどうかしているわ!あんまりひどいと許さないんだからね!」
その声は自分の席を立つと、フィナの傍に駆け寄って来た。
ルシアンはしぶしぶその手を離す。フィナは突然の暴挙に怯え切って、その小さな肩を震わせながら、目に涙をためていた。
「くそっ、学則違反なのはフィナの方だろうが!なんで俺たちが文句を言われなきゃならないんだ。」
心底面白くないと言う風にして、ルシアンが毒づく。
「いじめも立派に学則違反よ!これ以上まだ言うなら…。」
「言うならどうするっていうんだ。親父にでも言いつけるのか!?虎の威を借るキツネめ。親父が最高評議会の新議長だからって調子に乗るなよ。僕の父さんだって常任の評議員なんだ。なんでもお前の親父の勝手にできると思ったら大間違いだからな!」
ルシアンもだんだんと言い募ってくる。しかし、その喧騒は朝の予鈴によって急な幕切れを迎えることになった。
「ちきしょう、覚えてやがれ。フィナ、学則違反は絶対に許さないからな!」
吐き捨てるようにして、少年たちは自分の席に戻っていった。予鈴から本鈴までは5分ある。
いま、ルシアン達の暴挙に割って入ったこの少女、名をルイーザ・サイファという。そのファミリー・ネームからわかる通り、現最高評議会議長の一人娘であり、極めて格式の高いソーサラー貴族の嫡出令嬢である。天真爛漫でありながら、正義感が強く、このクラスの評議員(級長のようなもの)を務めていた。ルシアン達はああは言ったが、ルイーザが最高権力者である父を頼ることはなく、クラスや学園の問題については、常に自らの努力と献身によって解決を図っていた。それは今も同じである。
*ルイーザ・サイファ。クラス評議員であり、美しく澄んだやさしい瞳をしている。
「フィナさん、大丈夫?怪我はない?」
ルイーザが優しく語りかけた。美麗なブルーサファイアの瞳は、その気立てのよさを象徴しているかのようだ。まだ震えが止まらないその声で、
「ありがとう。ルイーザさん…。」
とフィナは声を絞り出した。
「いいのよ。気にしないで。悪いのはあの子たちの方なんだから。ローブのことは、もしよかったら、あとで聞かせてくれると嬉しいな。きっと、何か役に立てると思うから。」
その言葉に、フィナは机にぽたぽたと涙をこぼしながら、小さく頷いて応える。そのやり取りもまた、続く本鈴によって遮られることとなった。
* * *
教室の扉が開き、マリクトーン教諭が入室してくる。彼女もまたすぐにフィナの異変に気付いた。その眉間が俄かに厳しくなる。
「フィナさん、それはどういうことですか?とにかく、これから授業を始めねばなりませんから、そのあとですぐに教員室に来なさい!私の忠告を無視するとは、なんということですか!いいですね!!」
マリクトーンがそう厳しくフィナを叱責したとき、ひとりの少女が手を上げた。
「なんでしょう、ルイーザさん?」
「先生、ひとことよろしいでしょうか?」
「構いません、お話しなさい。」
先ほど授業を優先してフィナとはすぐに話せないと言ったその直後に、ルイーザに対して発言を許したのは、そこに、彼女の父である最高評議会議長への忖度があったことは言うまでもないだろう。マリクトーンは、露骨に不機嫌な顔をしていた。
「先生、フィナさんにはきっと何か深刻な事情があるのだと思います。どうかご寛容な対応をお願いいたします。もし必要ならば、父に助言を求めることもできますから。」
ルイーザはそう言った。彼女が父親の名を教室で公然と出すことは極めて稀である。そのことにはマリクトーンも少々驚いたようだ。
「心得ています、ルイーザさん。気遣いをありがとう。しかし、これは昨日済んだ話ですから、お父様を煩わせることはありません。授業後にもう一度私がフィナさんときちんとお話しします。それでは、席にお座りなさい。」
「かしこまりました、先生。どうぞよろしくお願いいたします。」
ルイーザの突然の挙手で、先ほどの悶着をマリクトーンに言いつけられるのではと、ルシアン達は大いに肝を冷やしたが、そんなことをすればフィナの立場を一層悪くするだけだと重々承知しているルイーザは、敢えて何も言わずにただマリクトーンの寛容だけを求めたのである。
10月に入ったとはいえ、まだまだ暑い。しかし、時折にして秋の深まりを感じされる冷風に見舞われることがあった。窓の外では、そんな風が木々の枝をさわさわとせわしなく揺らし、そのうちの幾枚かは中空を舞っている。
その後すぐに授業が開始されたが、教室中の誰もがフィナの小さな反骨に興味を刺激されていた。いつも以上の好奇の目に晒されて、フィナは心細さに震えたが、それでも、くちびるを固く噛んで、その孤独な心痛に耐えていた。
午前一限の終わりを告げる鐘がいつもよりずいぶんと長い時間を経て、ようやく鳴った。
授業が終わるや、マリクトーンは鋭い目つきでフィナを見やると、
「いいですね、この後すぐに教員室までいらっしゃい。私は先に行っています。」
そう言ってその場を後にした。教室内は騒然としている。
席を立とうとするフィナのもとにルイーザが駆け寄ってきた。
「フィナさん、大丈夫?もしよければついて行くわよ。」
彼女は同道を申し出るが、その温情にフィナは首を横に振った。
「ありがとう、ルイーザさん。でもこれは兄の尊厳を守るためにどうしても私がしなければいけないことだから。そう決めたから…。だから、行ってきます。」
そう言って、見送るサファイアの視線を振り切るようにして、フィナもまた教室を出た。開いたドアから、乾いた風が教室に吹き込んでくる。それは不穏な肌寒さを帯びた嫌な風であった。
* * *
自分の机を平手で強く叩き、大きな威圧の音を立ててマリクトーンが言う。その音と声には、教員室中に聞こえる激しさがあった。
「どういうつもりですか!?昨日私が、ローブの着用は認められないと言明したとき、あなたは『わかりました…』と応えたではありませんか?その約束を平然と破って見せるとは、あなたのように反抗的な学徒は初めてです!」
マリクトーンは声を荒げる。
フィナはうつむいたままそれを聞いていた。
「黙ってないで、何とかおっしゃい。昨日の、私の言いつけがわかったのではなかったのですか!?」
きつく詰問するマリクトーン。しかし、その問いに、フィナは毅然と答えた。
「あれは、先生のお考えはわかりました、という意味です。それにお従いするという意味ではありません。私には、妹として、家族として、兄の名誉と尊厳を守る義務があります。みなが兄を悪く言うのをやめるまで、私はこれを決して手放しません!もう、そう決めましたから。」
その声は、小さくかすれるようでありながらも、確固たる決心と威厳を含んでいた。
マリクトーンは大きくため息をつく。
「そうですか…。私もあなたのお考えは分かりました。しかし、学則違反を公然と許すことは絶対にできません。意地を張るのは結構ですが、それはあなたのクラスにおける立場を一層悪くしますよ。それでもいいのですね?」
「はい、構いません。」
今度は、フィナは厳然と「はい」と答えて見せた。
「結構です。これ以上あなたと話しても時間の無駄のようですから、もう教室にお戻りなさい。しかし、覚えておくことです。私は断じて学則違反を許しません。いいですか、あなたの立場がどれほど悪くなろうとも私は一切関知しませんから、そのつもりでおいでなさい。よろしいですね?」
「はい。」
そう言うと、フィナは軽く頭を下げてから、すぐに教員室を出て教室に戻っていった。
* * *
教室の戸を開けるや、嫌な顔が見える。ルシアン達だ。
「おい、まだそれを着てるのか?」
アベルが藪から棒に詰め寄って来る。
「ほら、さっさと脱げよ!」
そう言ってフィナの肩口を突くダミアン。彼はどうにも暴力的なところがある。
「マリクトーン先生を困らせるなんて、お前一体何様のつもりだ!あの変態兄貴の形見だって!?笑わせるなよ。お前がそんなものを着て我を通したって、お前の兄貴がどうしようもない変態野郎であることは未来永劫変わらないんだ。いい面の皮だぜ。」
辛らつな言葉をルシアンは容赦なく浴びせかける。フィナは目に涙を浮かべ震えながらも、しかしその脅しに屈することは決してしなかった。
「あなたたち、これ以上は本当に許しませんよ!」
そう声を上げたのはやはりルイーザだ。その威厳が神々しい。
「なんだよ、ばばあ。」
「おお、怖い怖い。」
「ちっ、何だってんだ!親父の威光を笠に着やがって。お前なんか親父がいなけりゃ何もできない木偶じゃないか!それなのに偉ぶりやがって。いつかお前も痛い目にあわせてやるからな。覚えていやがれ。」
負け惜しむルシアンの声に、2限目の本鈴が重なっていく。またしても、一触即発の喧騒は授業の開始によって回避されることとなった。ほどなくしてドアが開き、2限目の担当教員が入室してくる。どうやら2限目は、魔法学部長代行であるウィザードが直々に教鞭を執るようだ。魔法学の倫理の授業らしい。
ウィザードは、トマスの形見を身に着けるフィナとその傍らで彼女を守るように立つルイーザを見て何事があったのかをすぐに悟ったようだが、敢えてそれには触れずに授業を始めた。
「どうした?クラス評議員が本鈴後に席を立っているとは珍しいこともあるものだな。もういいから早く自分の席に戻りたまえ。それから、そこの少年ら、ぶつくさいうその口を閉じてこちらに集中しろ。それでは、授業を始める。今日は…。」
こうして、午前の2限目が終わった。授業後もウィザードは何も言わなかったが、ただ一瞬、フィナに向けて視線を送り、彼女御得意の両目が動くウインクらしきものをしてから教室を後にした。
すでに時計は正午を回っており、これから昼休憩ということになる。ルシアン達の魔の手が伸びる前に、ルイーザがフィナのところに駆け寄ってきた。
「2限目はマリクトーン先生じゃなくてよかったわね。」
そう言うルイーザ。フィナは小さく頷いてから彼女に謝意を告げた。
「ところで、お昼はどうするの?教室には嫌な奴らがいるから、よかったら学食に行かない?空いてるといいんだけど…。どう?」
思わぬ誘いにフィナは大いに戸惑ったが、教室にいていいことがないのはその通りである。
「それじゃあ…。」
そう言ってフィナは席を立つ。
「ええ、一緒に行きましょう!」
ルイーザはおびえるフィナの手を取って教室を後にした。その二人の姿を6つの瞳がいまいましく見送っている。
秋の陽は少々せっかちだ。まだ正午をわずかに過ぎたばかりだというのに、すでに天頂から西に傾きかけている。乾いた風が丘の上から吹き降ろしてくるが、そこにはもう朝方の不快な感じはなくなっていた。初等部の教室から学食のある場所に出るためには、小高い丘を登って行かなければならない。
ルイーザは、フィナの不安を少しでも溶かそうとして、朗らかな笑みを満面に浮かべ、その手を引いて小径を駆け上がって行く。トマスの一件があって以来、他人とこんな関係を持つのは、フィナにとっては初めてだった。かつてはルシアン達ともそんなに関係が悪かったわけではない。あの出来事がフィナから全てを奪い去っていったのだ。その欠缺(けんけつ:欠けがあること)をルイーザの笑顔が少しずつ、光で満たしてくようである。
フィナのエメラルドの瞳が、ほんの少しその表情をやわらげる瞬間を、秋の陽は見逃すことなく、それをとらえて照らし出した。やがて2つの影は、丘の上に移っていく。
* * *
「じゃあ、いきましょう。」
「はい。」
そうして、二人の少女は学食へと入って行った。この時間は随分と混んでいるが、それでも幸いなことに手近なところに二人分の空席を見つけることができた。手荷物で席取りをしてから、二人は注文カウンターへと進んで行く。ルイーザは手堅く『フィッシュ&チップス』を注文したが、驚いたのはフィナの注文で、年頃の女の子が好むとは俄かには考えにくい、タマン地区名産の魚『アイナヌ』の唐揚定食を注文していた。
*ルイーザの注文した『フィッシュ&チップス』
*フィナの注文した『アイナヌ』の唐揚定食。渋いと言えば渋い選択である。
それぞれの料理を配したトレイを持って席に戻ると、ふたりはゆっくりと食事を始める。
「ねえ、決して悪く言う訳じゃないのよ。でも、女の子にしては珍しい選択よね。好物なのかしら?」
その生来の天真爛漫にまかせて思わずルイーザがそう訊いた。フィナはふるふると首を横に振ってからそれに応える。
「実は、兄の好物だったんです。それで、少しでも兄を偲べたらと思って…。」
その声はまだ力なかったが、それでも朝方よりはいくらか、目の前のルイーザに対する安堵の情が載っているように感じられた。
「とても大切なお兄さんなのね。」
「はい、いろいろ言われる兄ですが、私にはとてもやさしい兄でしたから…。」
「そうだったの…。」
「だから…、だから!何としても私の手で兄の名誉と尊厳を守りたいんです。いつまでも我を張っているつもりはありません。みんなが、せめて兄を悪く言うのさえやめてくれたら、そうしたら…。」
そう言って、その小さな白身魚の身をほぐすフィナの手が止まる。
「わかったわ、フィナ。約束する。私は、いつでも、そしていつまでもあなたの味方よ。きっと力になるわ。一緒にお兄さんの名誉と尊厳を回復しましょう!ルシアン達の悪口にはひどいものがあるもの。ね?」
「ありがとう、ルイーザさん。」
「ルイーザでいいわよ。クラスメートだもの。でしょ?」
「うん、あの…、ルイーザ、本当にありがとう。私のことも…。」
「ええ、フィナ。これから一緒に頑張りましょうね!」
「うん!」
彼女たちの、清廉に歌うようなその声は、料理の上であたたかいハーモニーを奏でていた。フィナのエメラルドの瞳に、久方ぶりにわずかだが生気が戻ってくる。
「おいしかったわね。」
「うん。」
「今度は私も同じのにするわね。食事はしばらく学食で取りましょう。」
「うん、そうしようね。」
そんなことを話しながら、二人は小道を駆け下りて教室に戻っていった。幸いにしてルイーザの席は、フィナの席のすぐ斜め後ろである。そのため、彼女が目を光らせておけば、ルシアン達のちょっかいをどうにかこうにか凌ぐことができるだろう。
そんなわけで、午後の2つの講義はつつがなく終わった。ともにソーサラーである二人は帰る寮棟が同じだ。赤く照らし出される石畳を歩いて共に帰寮した。
ふと教室の横脇を通った時のことだ。換気の為に少しだけ開けられた窓から、何やら甘い吐息のような声と、せわしない物音が聞こえてきる。それは、とらえようによってはマリクトーン教諭とルシアンのもののようにも思えたが、心を近づけつつある少女たちにとって、どうでもよいことであった。二人はそのまま教室棟を抜けて、寮棟へと進んで行く。
「今日は、本当にありがとう。ルイーザ。」
「気にしないで。あなたは何も悪くないもの。そしてあなたのお兄さんも、きっと、みんなが言うのとは違うのだと思うわ。それを二人して証明して見せましょう!」
「うん!」
「じゃあまた明日。」
「また明日。」
そうして、少女たちはめいめいの寮室へと姿を消して行った。
せっかちな秋の陽はどんどんと西に駆けていき、すでに境界線の裏に引っ込んでしまいそうになっている。赤と青が鬩ぎあうそのキャンバスに星の瞬きが見え始めていた。
* * *
さて、ところ変わって、ここは例の教員棟3階東側の例の角部屋の前である。服の襟元を正すようなしぐさをした後で、マリクトーンはその扉をノックした。
「入りたまえ。」
中からウィザードの声がする。扉を開けてマリクトーンは入室した。
「ああ、君か。どうしたね?立ったままというのもなんだ。こちらに来てかけたたまえ。」
そう言うと、ウィザードは室内の応接スペースの一角に席を勧め、マリクトーンが腰かけると、自分はそのはす向かいに席を構えた。
「学部長先生。」
先に口を開いたのはマリクトーンだった。
「どうしたね?」
ウィザードが応じる。
「先生はフィナのローブの件について、私に一任なされたのではなかったのですか?」
「もちろんそうだが?」
「しかし、学徒達に話を聞きますと、2限目の講義の折、フィナを注意し諫めるでもなくお見過ごしになられたとか。いったいどういうおつもりですか?」
詰め寄るようにしてマリクトーンがまくしたてた。
「まあ、落ち着き給え、マリクトーン君。なるほど、君の言うことはよくわかる。あの時、私からも相応の注意をすべきだったと、そう言うのだね。」
「その通りです、学部長。」
「そうか…。まあ、それはその通りかもしれないが。どうだろう、マリクトーン君。フィナたちは多感な時期だ。また、決心が得てして頑なになりやすい。なにより、フィナの願いはみながトマスを悪く言うのをやめること、ただそれだけじゃあないか。その決意をあのローブの着用で示しているにすぎない。」
「それは存じておりますが…。」
「つまり、フィナにローブを脱がせたければ、トマスへの誹謗中傷を、せめて君のクラスの中だけでも辞めさせればよい、ということになるのではなかろうか?違うかね?」
「それは、ごもっともですが…。規律は規律です。私に一任された以上、お力添えいただけなければ困ります。」
マリクトーンも譲らない。
「そうかもしれないが、しかし、クラス内でトマスへの誹謗中傷をやめさせるのは君の仕事だと思うが、どうだろう?そんなことにあたしが無理やり介入すれば、それこそ越権行為の何物でもないことになる。だから、私は本件を君に託し、一任したのだよ。その意図を酌んでほしいものだが。」
「しかしです、学部長。やはり規則は規則です。フィナは確かに大切な学徒の一人ですが、他の学徒もまた同様に大切であると言わねばなりません。フィナの存在がその害になるというのであれば、私は断固として毅然と振舞わなければなりません。」
マリクトーンのその言葉を聞いて、ウィザードのルビーの瞳がきらりと光った。
「他の学徒もまた同様に大切か。いや、実に立派な教育姿勢、いたみいるよ。君の学徒思いはアカデミー中が知っている。が、しかし、その愛情が少々行き過ぎている場合があることをあたしが知らないとでも思うのかね?」
今度はマリクトーンの表情が一気に険しくなる。
「おっしゃっておられることの意味が分かりかねますが。」
「まあそうだろうな。かくかくしかじかよくわかるとここで明かされても、それはそれであたしの方も困るのでな。しかし、ルシアンを手なずけるとはなかなか君もやり手だな。彼の父は、パンツェ・ロッティ教授が議長でいらした頃からの最高評議会の重鎮だ。ルシアンの、文字通り身と心を掌握しておくことは何かと便利なのかもしれんな?」
いよいよマリクトーンの表情が険しさを増した。
「お言葉の御趣旨を理解できません。何をおっしゃっておられるのですか?」
「まあ、この件については、これ以上ここで追及するつもりはないし、表立って問題にするつもりも、今のところはないから安心したまえ。君に立場があるように、あたしにも魔法学部長代行として学内での立場がある。正直に言えば、魔法学部内でそういう問題を起されるのは歓迎ではないのだよ。」
マリクトーンは何も言わないが、その表情のにがにがしさが様々を物語っている。
「ひとつだけ忠告しておこう。学徒に愛情を注ぐのは結構だが行き過ぎは困る。まして…、まあ今はやめておくか。とにかくだ、ルシアン達をよく制御したまえ。これ以上、フィナやトマスを誹謗中傷するようであればあたしにも相応の考えがある。反対に、君が彼らをよく御して、それをやめさせることに成功すれば、うるさく言わなくてもフィナは自ら再び学則に従うだろう。あたしが言いたいことはそれだけだ。よろしいね?」
「かしこまりました…。善処いたします。」
「結構。君は新議長の覚えもよい。その実、少々を別にすれば、教師としての才覚も実に優れている。そんな君の目の上のたんこぶは、目下のところ直属上司のこのあたしというわけだ。しかし、あたしにもあたしなりの矜持というものがあってな、許せないことというのもまたあるのだよ。以上だ。用が済んだのなら下がりたまえ。」
「はい、突然に失礼いたしました。」
「よろしい。ではまた明日、教員室で会おう。」
そう言うと、ウィザードはマリクトーンを部屋から出した。やがて外からドアが閉じられる。
「まったく、どいつもこいつもあんた同様に手が早くて困る。」
「心外なことは言うな!確かに、君たちからすれば、私に不埒な点が多々あったことは認めるが、私は君の言うようなことを学徒に働いたことは断じてない。あんなのと一緒にしないでくれたまえ。」
「まあ、そうだろうな。なに、冗談だよ。」
「しかし、あのマリクトーンという教諭、なかなか捨て置けんな。」
「ああ、教育熱心で能力が高いのも事実だが、こと自分の出世ということになると見境がない。あたしら教員を利用するのは言いとして、学徒を足掛かりにしようとするのは頭にくるぜ。」
「同感である。」
大きく白く輝く月明かりに照らされて、光る魔法石のくっついた不思議なしゃべる人形。ウィザードはかつてパンツェ・ロッティであったそれとそんな会話を繰り広げている。子弟の間で、静かに夜が更けていった。
* * *
しかし、ウィザードの説得は、悔しくも、全く裏目に出てしまう。ルシアン達のフィナへの仕打ちが如実に悪化したのはその翌日からのことだった。その背後にマリクトーン教諭の影があるのは、誠に遺憾ながら疑いようがない。ルシアン達は、決して自分たちが咎められることはないという一種の確信を得て、教室内でその行為を無制約にエスカレートさせていった。
その日から、頻繁にフィナの持ち物がなくなる事態が頻発し、また時に、彼女の机の中に刃物が入れられたりと、一線はもはや軽々と越えられるに至った。有力者の息子であるルシアンに周りの学徒達の多くは唯々諾々と同調し、みなでフィナを無視する、口を利かない、仲間に入れないという陰湿を平然とやってのけるようになる。そんな中、ルイーザだけは、いつもフィナの傍らにいて、懸命に彼女を守っていた。さすがに、現議長の愛娘に手を出すわけにはいかない、そんな誰かの思惑によって彼らが「よく制御」されていたことは、まったくもって間違いのない事実であった。
その様子を知ったウィザードは、怒りに震えたが、しかし、冷静に事態打開の方法を思案した。ただ、これ以上悪化して、フィナに深刻な実害がおよぶ事態だけはなんとしても避けなければならない。そのため、ウィザードはシーファを介して『アカデミー治安維持部隊』の一班を秘密裏に動かし、初等部混成学級棟の警備を強化させた。
「よく制御せよ」というあの警告が、かくも裏目に出るとは、ウィザードは深く悔恨したが、しかし、あの時はそう言うのが最善であったこともまた確かである。マリクトーンの行き過ぎた行状について最高評議会に告発することも考えたが、その難しさについて実体験を有していた彼女は、現時点ではそれを慎重に見送っていた。
忸怩たる思いに苛まれながらも、時計だけは残酷に時を刻み続けている。
Echoes after the Episode
今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。今回のエピソードを通して、
・お目にとまったキャラクター、
・ご興味を引いた場面、
・そのほか今後へのご要望やご感想、
などなど、コメントでお寄せいただけましたら大変うれしく思います。これからも、愛で紡ぐ現代架空魔術目録シリーズをよろしくお願い申し上げます。




