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第2話「月光刃と兵士の義務」

フラヴィアン・シルバーハンド


 兄上のアパートは、酒井の屋敷の計算され尽くした混沌とは対照的に、まるで修道院のような静寂に包まれた聖域…わたくしの人生の不協和音の中にある、秩序と静けさの聖域でしたのに。


 けれど、今日の静寂は重く、まるで嵐の前の息が詰まるような空気のように濃密でしたわ。シーン…その静寂を満たしているのは、ペンが紙の上を滑る、あの不快で単調な音だけ。**カリカリ…**と、その音はわたくしのささくれ立った神経を逆撫でいたしました。


 わたくしは自室の机に向かい、生徒会の報告書の最終確認をしておりました。いつも通り、寸分の狂いもない正確な文字を書き連ねて。隣では、ベッドの端に腰掛けたはるちゃんが、最高の舞台女優にも匹敵するほどドラマチックなうめき声を漏らしましたわ。ぐでーっとした、純粋で絶対的な退屈から生まれた声です。


「フラヴちゃーん、なんでまだこんなことやってるのよぉ?」彼女は文句を言いながら、長い赤髪がわたくしの真っ白なシーツの上に炎の滝のように広がるまで、だらーんと頭を垂れました。「学校なんてほとんど廃墟で、キャンパスの半分は戦場跡みたいになってるのに!あたしたちがここで園芸部の予算についての書類の山に溺れてるなんて、意味わかんないんだけど!」


 わたくしは書類から一度も顔を上げず、背筋を伸ばした完璧な姿勢を保ったまま答えました。「会長としての責任は、テロ攻撃らしきものが学校の見た目を少々変えたくらいで消えたりはしませんわ、はるちゃん。やるべきことは、やらなければなりませんの。」


 彼女の返事は不機嫌なつぶやきでしたけれど、わたくしはそれを優雅に聞き流すことにしました。実のところ、この書類仕事はありがたい気晴らしでしたから。常軌を逸してしまった世界における、日常への錨となっていたのです。


 二週間。あのキャンパスでの戦いから、もう二週間が過ぎました。兄上は数日前に退院なさいましたが、まだ家には戻っていらっしゃいません。「片付けなければならないことがある」とだけ…もちろん、その内容をわたくしに話してくださるはずもありませんわ。あの、意地っ張りな方。


 でも、今日こそお戻りになる、と約束してくださいました。だからこそ、はるちゃんをここへ連れてきたのです。兄上のために、ささやかな「サプライズ」を用意して差し上げようと。何しろ、あの日、お二人がここに泊まって、兄上がはるちゃんに対して全くもって意気地なしだったあの日以来、彼は彼女と目を合わせようともせず、彼女が近づくたびにカァァッと顔を赤らめているのですから。(ふふふっ…可愛い妹君が少し背中を押して差し上げるだけですわ、兄上?)


「テロ攻撃」と申しましても、それはあくまで「公式」発表。状況を考えれば、驚くほど都合のいい嘘ですわ。講堂に爆弾が仕掛けられた、と。幸いなことに――メディアが鵜呑みにした慈悲深い嘘によれば――犠牲者はいなかった、と。攻撃があった時、学校にもその周辺にも誰もいなかった、と。


 ええ、もちろん。理香ちゃんから聞いた話では、地震かインフラの事故のせいにすることさえ考えたそうですけれど、何人かが遠くから戦いを見ていたとか。異常な光、普通の爆弾ではない爆発を。ですから、テロ攻撃という茶番が唯一もっともらしい出口だったのです。まあ、厳密にはテロ攻撃でしたけれど。ゲートの真実も、理香ちゃんが標的だったことも…全て、政治的な都合という絨毯の下に隠されてしまったのですわ。


 学校は現在、集中的な修復作業中です。来週には授業が再開されるとのこと。講堂や運動場があった場所に、煙を上げるクレーターが残っていることを考えれば、現代工学の奇跡のようですわ。再建は信じられないほど、ほとんど疑わしいほど速く進んでいます。一方、開盟大学はほとんど無傷で、ニュースで言及すらされませんでした。けれど、攻撃があったまさにその日に、卒業式が急遽そちらに移されたという事実は、ネット上で陰謀論の海を生み出しました。


「どうして学校は前もってテロ攻撃のことを知っていたんだ?」

「なんでテロリストは卒業式の最中に、空っぽの学校を攻撃したんだ?」


 **ザワザワ…**と、ネットの掲示板には答えのない質問が汚れた皿のように積み重なり、どんな公式回答も満足のいくものではないようでした。


 わたくしは携帯を手に取り、だらしない正確さで報告書を走り書きするはるちゃんからの、死ぬほど退屈そうな視線を無視しました。ニュースをスクロールしていると、とあるゴシップサイトの記事が目に留まりました。タイトルは**ドーン!**と、赤く巨大な文字で叫んでいます。


「日本の安全神話、ついに崩壊か」


 クリックしましたわ。


 街頭インタビューに答える女性が、パニックで目を見開いて話しています。彼女はここ数年の出来事を、恐ろしいほどの正確さで挙げていきました…千葉港の火災、開盟への攻撃、そして最悪の、神未来タワーの大災害を。


「怖いです」と、彼女はブルブルと震える声で言いました。「日本が、ヨーロッパやアメリカで起きたみたいに、戦争に巻き込まれるんじゃないかって…」


 わたくしは携帯を机に置きました。視線は宙を彷徨い、暗い画面に映る自分の顔は、どこか遠い他人のようでした。


(一体、何が起こっているというのです?全て、ただ理香ちゃんのためだけ?それとも、もっと何か…わたくしが聞かされていない、何かがあるというのですか?)


 ゲート…ワイト・ガントレット…テュートニック…シルバーハンド・コーポレーション…神未来…これら全ての名前…わたくしは、それらと本質的に繋がっている。ならば、どうしてわたくしは何も知らないのです?兄上たちは…どうしてこれほど長い間、全てを隠していたのですか?


 ガツン!


 その認識は、まるで平手で顔を打たれたかのような衝撃でした。


 わたくしが酒井の金色の屋敷で「お姫様」としての人生を送っていた間、彼らは戦争をしていたのです。


 はるちゃんから勇太の正体――彼がワイト・ガントレットであるという真実――を聞かされた時の、あの体が麻痺するような衝撃を思い出しました。わたくしたちがまだ幼かった頃の、彼の長い不在を。何週間も、時には何ヶ月も家を空けていたこと。その間ずっと、彼は自分のものですらないヨーロッパの戦争に参加していたのです。


 では、エドワードは?どうして彼はゲートの中でそれほど重要な存在なのです?「不敗の元帥」などという、公式には存在しないはずの称号で呼ばれるほど、彼は何者なのですか?どうしてわたくしは何も知らないのです?それが、父上と…あの女と、何の関係があるというのです?わたくし…わたくしは知らなければ…


 ズシン…


 とその重みに押しつぶされそうになりました。無意識に、ベッドのはるちゃんの隣に腰掛けます。**そっ…**と彼女の方へ体を傾け、その肩に頭を預けました。彼女の体の温かさが心地よく、わたくしの疑念の渦の中にある、確かな錨のようでした。


 ビクッ!


 と彼女は驚き、一瞬、その体が強張りました。「フラヴちゃん?」


「ただ…少し疲れただけですわ、はるちゃん」と、わたくしは目を閉じて囁きました。「少し、お昼寝をいたします。」


 彼女の戸惑いを、その筋肉の緊張を感じました。けれど、彼女は身じろぎしませんでした。わたくしを突き放すこともしませんでした。ただそこに、わたくしの内なる嵐の中の、静かで温かい支柱として、じっとしていてくれました。わたくしの頭が彼女の肩で休む間、彼女のペンは、今はずっとゆっくりと、紙の上を滑り続けていました。


(どうして兄上というものは、いつもこうも過保護でいらっしゃるのかしら…?)


_________________________________________________


竹内勇太


 喫茶店の奥の個室の空気は淀み、古いコーヒー豆の匂いと、長引きすぎた会議の緊張感が充満していた。シーン…ドアの向こうから聞こえる通りの喧騒は、まるで別世界の出来事のようだ。


 やがて、兄上の声が静寂を破った。「会議は終わりだ。」


 エドワードは立ち上がり、その威圧的な存在感で小さな部屋を満たしていた。彼の金色の瞳――俺とは違う重みを伴う、一族の血の証――が、直属の部下たちを見渡す。「私はゲート本部へ向かう。追って指示があるまで解散だ。」


 兄上が指揮するシルバーハンド社の調査は、椿理香の件と正式に絡み合うことになった。兄上の調査と、俺たちの椿さんを保護するための特別部隊、その両方に「神未来」という共通項があったからだ。今やその分派は終わり、当然の結果として、あの少女の保護も彼の責任となった。


 まことと一哉は静かに頷き、その息が詰まるような雰囲気から逃れるように、ホッとした様子で部屋を出ていった。梨花はもちろん、後に残る口実を見つけ、その瞳はすでに俺を探していた。


 彼らが出ていくと、部屋にはリーダー格と主要人物だけが残された。兄上、桜井さん、ルートヴィヒさん、木村、そして俺だ。


「何か私に特にご用命はございますか、桜井さん?」と、俺はここにいる真の上官に報告した。


 彼女は小さな円卓に座り、ルートヴィヒさんと小声で話していた。二人はまるで自分たちだけの世界に浸っているようで、過去の大きな戦いを懐かしむその瞳には、ここにいるほとんどの者には理解できない輝きがあった。


「いや、勇太くん。下がってよいぞ。」彼女は俺の方を向き、意外にも悪戯っぽい視線を送った。「君も、旧友たちと話したいことが山ほどあるじゃろう…」


 俺は少し驚いた。どうやら、彼女も昔話に花を咲かせたいらしい…そして、そのためには俺たちが邪魔だということか。


「なあ、アーロン、うちの孫がのう…」彼女の声は、滅多に見せない誇りに満ちた、懐かしむような色を帯びた。


「私の娘は、いつになったら孫の顔を見せてくれるのやら…」ルートヴィヒさんがコメントし、その声には紛れもない悲しみが滲んでいた。(いくつになっても、皆、孫の顔が見たいものなのか…ゲートの最も恐るべきクルセイダーでさえも。)


「アーロン…」桜井さんが、たしなめるように言った。「お主が娘の相手に厳しすぎるからじゃ…」彼女はコーヒーを一口啜る。そのさりげない仕草とは裏腹に、その眼差しは厳しかった。


「しかし、礼子!」ルートヴィヒさんは抗議し、危うくむせるところだった。「どいつもこいつも、娘には相応しくなかったのだ!」


「ふんっ!」桜井さんは、抑えた唸り声と共に顔をそむけた。


 その光景はあまりにシュールで、まだ完全には部屋を出ていなかった一哉が、ドアの隙間から幽霊でも見たかのように固まっていた。


「おいおい、ルートヴィヒさんのあんな姿、想像もできねぇぜ…」彼はショックで呟き、その目はブルブルと震えていた。確かに、「不滅のクルセイダー」の伝説しか知らない者にとって、過保護な祖父の姿は戸惑うしかないだろう。


「不滅のクルセイダーのイメージが…」同じく出口でためらっていた慎が、まるで子供の頃のヒーローの正体を知ってしまったかのように、心底がっかりした様子でボソッと呟いた。「地に堕ちたな…」


「あたしは可愛いと思うけどなー、おじいちゃん二人がこうやって話してるの!」梨花が、無邪気で愛らしい笑顔でコメントした。


「「婆さん(じいさん)とは誰のことじゃ(だ)!」」


 二人の伝説的なリーダーが、ユニゾンで梨花に向かって叫んだ。その声で、テーブルの上のシュガーパックが**ピリピリ…**と震えた。


◇ ◇ ◇


 俺たちは、ほとんど喫茶店から追い出されるような形だった…


「で、どうすんだ?」ドアが後ろでバタンと閉まるとすぐに、一哉が静寂を破った。


「俺は部屋に戻るわ…」慎がボソッと呟き、もう歩き出していた。


「あたしは勇太ちゃんとデートしたい!」梨花が言うと、次の瞬間、その腕が俺の腕に、まるで笑顔の食虫植物の蔦のようにギュッと絡みついてきた。


「俺は帰りたい…」俺の声は弱々しかった。ベッドに身を投げて、意識がなくなるまでアニメを見たいという欲求が、ほとんど耐え難いほどだった。


「そんなこと言わないで!」梨花は、目を閉じてプクッと頬を膨らませた。「デートしよっ!!」


「おや、そんなことをしては、花宮さんが嫉妬してしまいますよ…」あのクソ木村が、俺をまっすぐに見ながらコメントした。あの忌々しい皮肉な笑みと、挑発するような視線…奴は、どのボタンを押せばいいか正確に分かっている。


「花宮さんって誰だ?」一哉が、屠殺場へ向かう子羊のような無邪気さで尋ねた。


「ミクとどないな関係やったんや、勇太?」慎が、無関心を装った表情で俺にそう投げかけた。この野郎もだ。ただ俺をイラつかせたいだけだ。


「ミクとは何の関係もねえよ…」俺の苛立ちが、声に漏れた。


「ミクって誰ですか?」木村が、一哉の方を見て尋ねた。梨花の膨れっ面は、一秒ごとにどんどん不機嫌になっていく。どうやら、ミクの名前を出すと彼女はイラつくらしい…面白い。


「俺たちの昔のダチだよ。先輩のパートナーだったんだ」一哉は、何の悪意もなく木村に答えた。


「マジかよ、勇太!お前、とんでもねえヤリチンだったんだな!」


「うるせえ、お前ら!」


「なんでミクちゃんのことばっかり話すのよ!あたしが選ばれたのに!」梨花は、アカデミー賞ものの演劇的なドラマでむぅっと唸った。


「その技、教えてくれよ、勇太!」木村が、ほとんど跪く勢いで懇願した。


「そんなもんはねえっつーの!」俺の堪忍袋の緒が切れそうだ…


「それに、今はハルちもいるし!」彼女の膨れっ面は、耐え難いほどドラマチックだった。


「ハルち?」慎が、心底不思議そうに尋ねた。


「そうよ!ハルち!」


「ハルちって誰だ?」と俺は、罠が閉じていくのを感じながら尋ねた。


「あら、誰って?」彼女は膨れっ面をやめた。その大きな青い瞳が、絹のように滑らかな声と共に、無垢な深さで俺を見つめる。その長い銀髪が、滝のように肩に流れていた。「あなたの彼女じゃない、花宮陽菜ちゃん!」


「ゴフッ!」


 純粋な不信とストレスから、真紅の奔流が口から爆ぜた。血と羞恥の金属的な味が、感覚を支配する。


「待てよ…その名前…確か、あの生徒の一人じゃなかったか?」一哉が、顎に手を当てて考え込みながら尋ねた。


「マジかよ、勇太。今度は女子高生か?」慎が言った。その視線は、嫌悪と羨望が完璧に混じり合っていた。


「違うって言ってんだろ!」俺の血が、まだ口の端からタラリと垂れていた。


「噂によると…」**木村、このクソ野郎。**奴はそう言うと、慎を肘で小突いた。慎は、理解したように頷く。


「そうよ、勇太ちゃん!」梨花が、ぶんぶんと激しく首を振った。「彼女、あたしたちに全部話してくれたんだから!あたし、あの戦いの日に彼女と話したの!」彼女は自分を抱きしめ、うっとりと体を擦り始めた。「すっごく可愛かった!禁断の恋に悩んでて!だから、あの夜、あたしが彼女をあなたの元へ行かせたのよ!」


「お前だったのか!!!」俺は叫んだ。声が、思ったより大きくなった。


「もちろんよ!」彼女はフンッと胸を張り、誇らしげなポーズを取った。「あなたについて、たくさんお話ししたわ!あたしたち、もう友達だもん!それに、あの夜のことも話してくれたのよ、ふたりが、んーんーんーんー」


 俺は、自分の体が許す限りの速さで彼女の口を塞いだ。それでも、彼女はくぐもった音を立てるのをやめない。


「んーんーんーんー…」


「ああ…ああ…マジか?」慎が、まるで複雑な暗号でも解読するかのように呟いている。


「あいつ、彼女が何言ってるか分かるのか?」木村が、困惑して尋ねた。


「慎はそういうのを解読するのが得意なんだよ、ボディランゲージとか!」一哉が、まだ無邪気に答えた。


「今すぐやめろぉぉぉぉぉ!」頼む!早く家に帰らせてくれぇぇぇぇぇ!


「んーんー…んー…」彼女は目を閉じた。そして、俺に非難の指を突きつけた。「んーんーんーんーんーっ!!!」


「勇太、このスケベ野郎!!!!」慎が叫び、俺にも指を突きつけてきた。


「だから、そんなことは何もなかったって、誓う!!!」


 俺は絶望して梨花を見た。彼女は、裏切りと悪戯に満ちた目で俺を見ている。彼女が俺の正気を犠牲にして楽しんでいるのは、分かっていた。


「なんでだよ?!」俺は疲れ果てて、彼女の口から手を離した。


「なんでって、分かるでしょ、勇太ちゃん!」


「何がだよ?」俺は混乱して尋ねた。


「勇太ちゃん、ひどい!」彼女は、またあのドラマチックな膨れっ面に戻った。「あなたが社会復帰プログラムに行ってから、一度も連絡くれなかったじゃない!あたしのこと、完全に無視して!それに、ハルちで浮気までして!」彼女はプンプンと頬を膨らませた。


「この野郎、マジでとんでもねえ女たらしだな!!」木村が文句を言った。


「だから、違うんだって!!」俺は説明しようとしたが、声がかすれた。


「もちろん、そうよ!」


「何がだよ?」


「じゃあ、あたしたち、何でもなかったって言うの?」彼女は目を細めた。その瞳は、今や鋭い刃のようだ。俺は、完全に、詰んだ…


「正式に付き合った覚えはないが…」マジで、俺はこの会話をしてるのか?


「じゃあ、勇太ちゃん…あたしたちの子供は、あなたにとって何の意味もないっていうの?!」


「俺たちの、何だとぉ?!」俺は叫びながら、また血を噴き出した。「嘘だろ?!そんなはずない!」


「うっそぴょーん♡!」彼女はペロッと舌を出して、片目をパチッと瞑ってみせた。


「もう帰りたい…」俺は完全に敗北して、**ガクッ…**と膝から崩れ落ちた…


「なんで俺が梨花と付き合わなかったか、お前に聞かれたことがあったよな…これが理由だ…」慎が、一哉に小声で話しているのが聞こえた。


「梨花ちゃん、恐るべし…」一哉が、ようやく状況を理解して答えた。


「お前に教わるの、やっぱやめようかな、勇太」木村が呟き、一歩後ろに下がった。


「何も教える気はなかったわ!」俺は誓う、泣きそうになるのを必死にこらえていた。


「じゃあ、やっぱりお前にはその才能があんだな!」木村が抗議した。


「さてと!」梨花は、廃墟となった喫茶店の出口へと歩いて行った。「あたしに恥をかかせると、こうなるのよ、勇太ちゃん!」(誰か、お願いだから俺を殺してくれ…)「でも、ハルちに飽きたら、いつでも這って戻ってきていいからね!♡」彼女はキラッとウィンクした。殺人的で、怪物のようなウィンクだった。


◇ ◇ ◇


 昔の相棒たち、そして今の相棒たちの前で公然と恥をかかされた後だというのに、通りの空気は奇妙なほど静かだった。俺と木村は並んで歩道を歩く。午後の陽射しは弱く、薄い雲に濾されて、街を暖かくもなければ不快でもない、柔らかい光で満たしていた。人通りはまばらで、遠くの車の音が、俺の混沌とした思考に単調なBGMを奏でる。もし…胸の中でグルグルと渦巻くこの混乱がなければ、心地よい一日だっただろう。


「もう何か考えているのですか、勇太?」木村が静寂を破った。彼は俺を横目で見ていたが、その表情は読み取れない。


「ああ、前にやったことと似たようなことを考えてる。」俺の声は、自分でも驚くほどしっかりしていた。実のところ、会議が終わってからずっと、頭の中でシナリオをシミュレートし続けていたのだ。「前回はうまくいった。重要な情報を得て、攻撃を予測できた。今さら攻撃の前面を変える理由はない…」


「また僕を敵地に送り込むつもりでしょう、この野郎!」木村がそう言った。その声はふざけていたが、冗談の裏にある真実の棘を感じた。「ですが…今回は、あなたの期待には応えられませんよ。」


 その言葉が頭に届くまで、一、二歩、歩き続けた。**ピタッ…**と、俺は足を止めた。木村は気づかずに進んでいたが、俺がいないことに気づくと、横を向いた。俺の表情を見て、その顔に困惑が浮かぶ。そんなことを聞かされるとは、思ってもみなかった。今、このタイミングで。


「兄上が…なんて言ってた?」俺は再び歩き出し、彼に追いついた。今度は、もっとゆっくりとした足取りで。


「彼が言うには、ゲートが僕を処刑しないというのは非常に難しいだろう、と。ですが…」木村は**ふぅ…**と長いため息をついた。その鋭かった眼差しは和らぎ、声は穏やかで、諦観を帯びていた。「どうやら、アメリカのファントムの拠点に関する情報屋が必要なようです…」


「戻るのか?」と、俺は抑える前に聞いてしまった。


「僕の証人保護プログラムを望むなら…ええ。戻らなければなりません。」彼は俺の目をまっすぐに見つめた。あの、俺と同じくらい多くのものを見てきた黒い瞳で。「あなたの兄上は、もし僕が協力するなら、彼らに僕を『許させる』と約束してくださいました。」


「そうか…」それが、俺に言える全てだった。


 バシン!


 背中に強い平手打ちを食らい、前のめりになる。「そんな顔しないでくださいよ!まるで僕たちが友達みたいじゃないですか」と、木村は笑った。


 クッ…


 抑えた笑いが唇から漏れた。「そうだな…」俺は彼を見て、挑発的な光を目に宿した。「俺がお前を殺しかけたことなんて、まるでなかったみたいだ。」


 同じくらい挑発的な笑みが木村の顔に浮かんだが、すぐに消えた。その眼差しは真剣になり、表情が硬くなる。「勇太、僕とあなたは、とてもよく似ています。」


「どういう意味だ?」


「いいですか…」彼は後頭部を掻き、視線は遠くを彷徨っていた。まるで、言葉を口にする前に整理しているかのようだ。「僕もあなたも、キャリアの始まりと終わりで、目的が変わってしまった。」


 俺の目が、わずかに見開かれた。


「子供の頃、僕はゲートに反対していました」と、彼は告白した。「父も、祖父も…僕の家族は、巨大な軍事技術帝国のせいで、とても貧しかった。そして、ゲートは犬のように彼らを守っていたのです。」彼の眼差しは虚ろになり、遠い記憶に囚われていた。「気づけば、僕は過激派の武装集団の一員でした。そしてそのすぐ後には、月光刃げっこうじんのために戦っていました。」


 木村は灰色の空を見上げた。俺は黙ってその隣に立ち、彼の遠い顔を見つめていた。


「月光刃が崩壊し、ファントムがその座を奪い、ゲートとの衝突が激化するにつれて…僕は道を見失いました。」彼は視線を下げ、俺に突き刺した。「あなたはレッド・ファントムとして始まり、その後彼らを裏切ってクルセイダーになった。あなたも僕も、ですよ、勇太。」彼は、まるで俺の物語の全てを読み取れるかのように、俺を不快にさせる視線で見つめていた。「僕らは母体組織に忠実なのではありません。ただ、己のイデオロギーに忠実なだけです。」


 不意を突かれた。彼の分析の正確さは…戸惑うほどだった。


「だから、あなたのことが好きなんですよ」と、彼は締めくくった。「あなたはゲートの犬じゃない。ただ、都合がいいから彼らのために戦っているだけだ。」


 奴の言う通りだ。完全に。俺がゲートに味方したのは、その正義を信じたからじゃない。竹内さんを信じたからだ。彼らのために戦い続けたのは、その見返りに、弟妹たちを守るのを手伝ってくれるからだ。そして今、ここに戻ってきたのは、愛する者たちを守らなければならないからだ。俺はヒーローじゃない。


「許してほしいとか、そういうことを言っているわけではありません。僕は悪党です…もう、たくさんの命を奪ってきた。」彼の声は、重い囁きだった。「あなたと同じように、勇太。あなたは、彼らが思っているようなヒーローではない。」


 木村はため息をつき、再び背を向けて歩き出した。「ただ言いたいのは…あなたが今直面していること…ヒーローごっこに酔ってはいけませんよ、勇太。あなたがランフレッドにしたように。排除すべき脅威というものは、存在するのです。」


「分かった。その助言、心に留めておく。」


 彼は再び振り返り、手を差し出した。その眼差しは穏やかで、小さな笑みが顔に浮かんでいた。


 ゆっくりと、俺は手を伸ばし、彼の手を握ろうとした。だが、指が触れ合った瞬間、木村は俺をグイッと前に引き寄せ、ギュッと抱きしめた。固く、素早い抱擁だった。


「死ぬなよ、このクソクルセイダーが!」


 その突然の行動に一瞬驚いたが、小さな笑みが唇に浮かんだ。俺は彼の背中を軽く叩き、言った。「お前もな。死ぬんじゃねえぞ、クソファントムが。」


 木村はただ頷き、俺は彼が歩道の他の歩行者に紛れ、そのシルエットが都会の景色に消えるまで見送った。


 奴の言う通りだ。奴は悪党だ。俺たちは敵同士だった。だが、それでも、奴は自分の理想に忠実だった。


 俺は右手を上げ、手のひらを開き、それをじっと見つめた。そこを刻む線を。


(この手から、どれだけの血が流れた?何人が俺のせいで死んだ?何人が俺の決定で?何人が、俺自身の行動で?)


 記憶。あの忌々しい記憶が。


 スペインの、破壊された街。真紅に染まった薄緑のマント。デスブローに抱えられた彼。その弱々しい笑み、決して理解できないほどの穏やかさで俺を見ていた。


 俺の叫び。目の前で上官を殺された、十三歳の少年の叫び。何もできずに。


 無力感…挫折感…


 クルセイダーズ…フェーダル・ナイツ…ドラグーン…


 仲間を失った戦い…目の前で、彼らが倒れていくのを見た。


 史上最年少のクルセイダー。


 天才軍師。


 強くなるべきだった全ての瞬間に、何もできなかったというのに、これらの称号に何の意味がある?!


「全員、生きて連れて帰るのよ、ワイト…」


 隊長…俺の傲慢さのせいで…俺の弱さのせいで…


「楽しかったぜ…ジャック…」


 俺の運命を弄んだ男、インペルスの最期の言葉。俺が、ついに奴を仕留める前に。


 木村の言う通りだ。俺はヒーローじゃない。


 ヒーローは強く、威厳があるべきだ。彼らは他者を安心させ、安全だと感じさせることができる。兄上のように。


 俺はヒーローじゃない。


 俺は、兵士だ。


 そして、兵士として、果たすべき義務がある。それを実行するためなら、何を犠牲にしても。

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