第9話「監視者の代償」
竹内勇太
…そして、奴らは行ってしまったか。何てサーカスだ。
俺は、恵の混沌としたエネルギーに引っぱられて、ショッピングモールの人ごみの中に消えていく三人を見送った。こめかみがズキズキと痛み始めるのを感じながら、ため息をつく。どうして状況がここまでこじれた?俺の任務は単純だったはずだ。花宮さんの調査を兼ねた「授業」。それが、どういうわけか、この目撃者だらけの悲惨な「デート」に変わってしまった。
カフェのトイレから戻った時の、俺の苛立ちを思い出す。マネージャーが不機嫌そうな顔で文句を言ってきた。「あなたのお友達が、代金を払わずにテーブルを散らかしたまま出て行った」と。最高だ。子守りに加えて、今度は俺が associação による詐欺師扱いか。勘定を払い、奴らの散らかしたもののために頭まで下げさせられた。
ショッピングモールにいる三人のことを考える。フラヴィアンのゲーム、恵のふわふわとした静けさ、そして花宮さん…あの頑固さと、なぜか俺をイラつかせる脆さが混じった少女。ありえない、問題だらけのトリオだ。
その時、記憶の断片がガツンと頭を殴った。今日、歩いている最中に、奇妙な男を見た。見覚えがある気がする顔だが、いつ、どこで見たのか思い出せない。場違いなディテール、システム上のノイズ。その時は気にも留めなかったが、今になって、不快なほど鮮明にそのイメージが蘇る。
・・・
数分後、俺はショッピングモールのロッカー室にいた。消毒液の匂いがする、冷たくて無機質な場所だ。彼女たちに会う前に、自分のバックパックと花宮さんのバッグをロッカーに預けておいた。金属のドアを開けると、キーという音が静寂に響く。
彼女のバッグを手に取った。例の菓子屋まで届けてやるべきか。ある意味、彼女は俺の責任下にあるのだから、それが正しい行動だろう。チッ…面倒くせぇ。
そう思った瞬間、俺のスマホがけたたましく鳴った。画面を見る。「フラヴィアン」。俺は、全く気乗りしないまま、通話ボタンを押した。
「なんだ」
「ユウタ」向こうから聞こえる彼女の声は、苛立っていた。「それで、あなたの『デート』を取り戻せたようですわね、です?彼女を失ったかと思いましたわ」
「何の話だ?」俺の声は、自分でも思うより冷たくなっていた。
「あら、とぼけないでくださいまし!彼女はただの生徒だとかなんとか、戯言を並べていたくせに、結局は…」
「フラヴィアン、何があった?」俺は、彼女のゲームに付き合う忍耐力も尽きて、話を遮った。
一瞬の沈黙。「あら?陽菜さんが男にグイッと引っぱられていくのを見ましたのよ!てっきり、あなたがたの痴話喧嘩のあと、ドラマチックにあなたの『お姫様』を取り戻しているのかと思いましたわ!違ったのですか?」
引っぱられた?俺じゃない…
その瞬間、世界がピタッと止まったように感じた。彼女の言葉が引き金だった。そして、俺の頭の中で、パズルのピースがカチカチと、目まぐるしい速さで組み合わさっていく。
花宮さん。あの路地裏。
俺が叩きのめした連中。
あの夜、晒された俺の正体。
任務。桜井さんの命令…『調査しろ』。
あれは無差別な襲撃じゃない。そして、これも…偶然じゃない。報復だ。あるいは、もっと悪い、罠だ。そして、餌は彼女。
クソっ…油断した。奴らは、俺のせいで危険に晒されている
「…とても分かりやすいのに、まだ隠そうとなさるなんて、全く…」フラヴィアンの声がまだ続いていたが、俺の耳にはもう届いていなかった。
俺は彼女の言葉の途中で、ガチャンと電話を切った。
ロッカー室の静寂が、耳鳴りのようにうるさかった。
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花宮陽菜
心臓が喉の奥でドクドクと、狂ったみたいに鳴っていた。あたしは囲まれてる。四人の男たちに。二人が前に、二人が後ろの出口を塞いで。ここはジメジメしてて、カビ臭い。ショッピングモールの中のはずなのに、狭くて薄暗い通路…どこかの倉庫みたいだ。遠くからブォンと車の音が聞こえるから、駐車場の近くなのかもしれない。
どこ、ここ?!何なの、この人たち?!
「だから言っただろ、こいつで間違いねぇって!」あたしを掴んだ、頬に傷のある大男が言った。「長い赤毛、それにシルバーハンドの娘と一緒にいただろうが。こいつしかいねえ!」
「黙れ、この馬鹿野郎!」もう一人、もっと頭の切れそうな細身の男が、大男をバシッと殴った。「俺たちが探してる女は、黄色い目をしてるんだ!こいつの目は緑だろうが!もっとよく見やがれ!人違いだ!」
人違い?黄色い目…フラヴィアン!狙いはフラヴィアンだったんだ!その事実に血の気がサッと引いた。全身を氷みたいな恐怖が支配する。
「じゃあ、こいつ、どうすんだよ」あたしの後ろにいた男の一人が尋ねた。
「人違いの女を依頼主に突き出すわけにはいかねえだろ」と、その相方が答える。
前にいた、さっきまで喧嘩してた二人が、あたしをゴミでも見るような目で見た。「始末するしかねえな」と、傷の男が言った。
あたしの血が凍った。始末する?
「簡単に『始末する』なんて言うな」頭の切れそうな男が、苛立った声で言った。彼はこっちに向き直る。あたしの口は粘着テープでガッチリ塞がれていて、痛いし、息も苦しい。あたしは必死に首を横に振った。何も言わない、何も言わないから、と目で訴える。
男はあたしに近づき、ニヤリと皮肉っぽく笑った。「こいつは誰にも何にも言わねえよな、だろ?」
あたしは、自分でも驚くほどの力で、ブンブンと首を縦に振った。パニックで息が詰まりそう。
「見たか?」男は他の仲間たちに言った。あたしの全身を、安堵の波が駆け巡った。でも、その安堵は、一秒も持たなかった。「こいつを北海道まで運べ。向こうの売人に渡しちまえ。奴らなら、うまくやってくれるだろう」
世界がガラガラと崩れ落ちた。息ができない。北海道?人身売買?!う、嘘…いやあああ!
その時、**バキッ!**という鋭い音が通路に響いた。
四人の男たちがハッとして、一斉に音のした方を向いた。暗い通路の向こうから、一つの影が走ってくる。左から右へ。その目は大きく見開かれ、その表情は怒りでも自信でもなかった。ただ純粋な、必死の形相。
ゆうくんだった。
あたしの視界の中で、すべてがスローモーションになった。彼はこっちを見ずに、ただ通路を駆け抜けることだけを考えているみたいだった。でも、ほんの一瞬、彼の視線が横に流れた。
そして、あたしの目と、カチッと合った。
その瞬間、何かが変わった。彼の必死だった表情が、消えた。代わりに現れたのは、あたしを四人の男たち以上に震え上がらせる、純粋で、静かな怒りだった。
瞬きする間に、スローモーションは終わった。ドカッ!バキッ! ゆうくんは、言い争っていた二人の男に飛びかかり、回し蹴りで一人ずつ、まるでゴミか何かのように蹴り飛ばした。一人は鈍い音を立てて壁に叩きつけられる。
「この野郎!」後ろにいたもう一人が、サイレンサー付きのピストルを抜いた。プシュッ!低い発射音。ゆうくんはそれをヒラリとかわし、男の腕を掴んで捻り上げ、腹部にゴッと重い一撃を叩き込んだ。男は息を詰まらせ、銃を落とし、反対側の壁にガンッと叩きつけられた。
その時だった。あの危険な男、リーダー格の男が、ゆうくんの背後に現れた。
雄叫びと共に、男が放った拳は、ゆうくんではなく、床を殴った。ゴオオオオン! 耳を塞ぎたくなるような轟音と共に、コンクリートが蜘蛛の巣状に砕け散る。ゆうくんはギリギリのところで後ろに跳んでそれをかわした。
「エクソギアか?」ゆうくんが息を切らしながら言った。
男はニヤリと笑った。彼の両腕を、奇妙な金属が覆っている。**ギュイイイイイン!**という甲高い音と共に、金属の板がドリルのように高速で回転し始めた。男はゆうくんに突進し、ゆうくんは追い詰められ、壁に穴を開ける猛攻をひたすら避けるしかない。すごい…なんなの、この戦い…!
ゆうくんは避け続けていたが、ついに壁際に追い込まれる。男は勝利を確信して笑い、回転する拳を彼の腹部に叩き込んだ。ゆうくんがグッと呻く。
だが、彼は倒れなかった。男は混乱した。「岩みてえに硬えだと?!」
「よそ見するな!」ゆうくんの声は、低く、鋭かった。彼は男の首の後ろに腕を回してガッチリと組み付き、そのまま鼻に膝蹴りを叩き込んだ。ゴッ! 男はフラッとよろめき、鼻から血を流す。ゆうくんは、とどめを刺すために戦闘態勢に入った。
でも、男はガクンと、突然床に崩れ落ちた。カーン!
気絶していた。
彼の後ろに立っていたのは、あたし。震える手で、床に落ちていた錆びた鉄パイプを握りしめていた。あたしにできたのは、それだけだった。
ゆうくんは唖然として、あたしを信じられないという顔で見ていた。
あたしは、息を切らし、恐怖で震えながら、口のテープもそのままに、彼を見た。
そして、グッと親指を立ててみせた。
彼は一瞬、パチクリと瞬きした。そして、ホコリと瓦礫の中で、小さく、ふっと、笑った。
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竹内勇太
四人の敵。三人は雑魚で、もう床の上だ。四人目、エクソギア持ちも、今は無力化されている。支援は要請済みだ。
俺の思考は、冷たく、臨床的だった。まるでミッションレポートだ。呼吸は荒く、体は痛むが、頭はすでに状況を処理している。俺は花宮さんを見た。混乱のさなか、いつの間にか口のテープは剥がされている。衝撃で麻痺し、泣き叫んでいるだろうと予想していた。だが、彼女は…落ち着いている。落ち着きすぎている。
普通の学生なら、こんな反応はしない…生死をかけた戦いを見て、俺に親指を立ててみせた。一体、何なんだ、あれは?彼女は本当に…『インクイジター』なのか?なぜ奴らは彼女を?いや…俺たちを?
思考が断ち切られた。エクソギアの男が、装備のドリルを失いながらも、呻き声をあげて起き上がろうとしていた。
俺は躊躇しなかった。素早い動きで、男の襟首をガシッと掴み、ドンッと壁に叩きつける。もう一人のチンピラから奪ったピストルを、男の顔面に突きつけた。
「あなた方は誰?なぜここに?誰の差し金?」俺の声は、我ながら冷酷に響いた。
男は血を少し吐き捨て、答えない。
俺は男の頭を再び壁に叩きつけた。ガン!男が苦痛に叫ぶ。視界の端で、花宮さんがビクッと怯えるのが見えた。無視する。
「もう一度聞きますよ」俺は、さらに低い声で唸った。「誰?なぜここに?誰が…」
男は顔を上げた。血に汚れた唇に、皮肉な笑みが浮かんでいる。
背後に、動き。
「ゆうくん!」花宮さんが叫んで、警告しようとする。
ズドン!
銃声が狭い通路に響き渡った。だが、俺は目の前の男から視線を逸らさない。持っていた銃を持つ腕が、まるでそれ自身の意志で動いたかのように、後ろを向く。箱の中から武器を取ろうとしていたもう一人の男が、床に崩れ落ちる。その肩からは、ダラダラと血が流れていた。
俺は、掴んでいる男の額に、さらに激しく銃口を押し付けた。
「誰だと聞いている!なぜここにいる!誰が…!」
銃口を男の顎の下に移動させ、顔を無理やり上に向かせる。
「あなた方を送ったのですか!」
男の目に、ようやく恐怖の色が浮かんだ。彼が大きく目を見開いた、その時だった。俺は、横にあった薄汚れた暗い窓の反射に、見た。
花宮さんの顔。純粋な恐怖に歪んでいる。
そして、その隣に映る、俺自身の顔。あの眼。俺が必死に心の奥底に葬り去ろうとした、あの眼。
冷たく、空虚な怒り。
殺人者の眼。
俺の肺から、空気がヒュッと消えた。俺は男を離した。男は、まるで中身のない袋のように、ドサリと床に崩れ落ちた。
重く、息苦しい沈黙が戻ってきた。俺はゆっくりと、まだガタガタ震えながら俺を見つめている花宮さんの方を向いた。
「すまない…」俺の声は、掠れていた。「君は…僕のこんな面を見るべきじゃなかった」
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四人の敵。三人は雑魚で、もう床の上だ。四人目、エクソギア持ちも、今は無力化されている。支援は要請済みだ。
俺の思考は、冷たく、臨床的だった。まるでミッションレポートだ。呼吸は荒く、体は痛むが、頭はすでに状況を処理している。俺は花宮さんを見た。口のテープは剥がされ、彼女はショッピングモールの外にあるベンチに座っている。
怯えているだろうと思っていたが…あいつは、これを上手く受け止めすぎている。普通の学生なら、ショックで泣き崩れているはずだ。それなのに…親指を立ててみせた。一体、何なんだ、あれは?彼女は本当に…『インクイジター』なのか?なぜ奴らは彼女を?
ゲートの男たちへの報告を終え、俺は花宮さんの元へ向かった。彼女の身柄は俺が引き受けると伝えてある。それが俺の責任だ。俺はベンチの横で立ち止まったが、座らなかった。
「あたし、これからどうなるの?」彼女の声は小さかった。
「いや、僕がここにいる限り、君が馬鹿なことを言ったり、したりしなければ、何もない」
「馬鹿なこと…」彼女はボソッと呟いた。そして、くるりと俺の方を向く。その緑の瞳には、予期せぬ炎が宿っていた。「馬鹿なことって、例えば、自分の正体を一般人に明かすとか、そういうこと?ねえ、教えてよ、『秘密のスパイ』さん?」
チッ…(このガキ…)俺は苛立ちを抑え、彼女を黙らせる。「僕はスパイじゃない」
「嘘つき」彼女はプイッと顔をそむけた。「あなたの言うことなんて、全部嘘なんでしょ。『友達に嘘はつきたくない』だなんて、よく言えたもんだわ、この嘘つき」
俺の中で何かがカチンと来たが、深く息を吸い込んで、その感情を押し殺した。俺は彼女の隣に腰を下ろす。
「あれは嘘じゃなかった」俺の声は、自分でも驚くほど疲れていた。「僕が大学生だってことも、父がイギリス人で母が日本人だってことも、本当だ」
彼女はプクッと頬を膨らませた。「ふーん、信じてあげる。それなら、『僕の名前は存在しない』って話も、筋が通るもんね」
俺は彼女の方を向いた。彼女は俺の視線に気づき、気まずそうに横目でチラリと見た。「それも嘘じゃない。本当のことだ。僕は…自分の名前を捨てたんだ」
俺の声のズシリとした重みに、彼女は気づいたんだろう。「あ…ごめん」と謝ってきた。「いや、君が謝ることじゃない」
二人は黙って、ショッピングモールの駐車場を出入りする車を眺めていた。やがて、花宮さんが沈黙を破った。
「なんであたしが攫われそうになったか、理由、分かる?」
「さあな」
「でも、何か知ってるんでしょ?あなたは、学校に何かを『調査』しに来たって言ったじゃない」
(こいつ…)俺は彼女を観察した。彼女の瞳は、ただの好奇心だけじゃない。探るような、試すような光がある。やはり『インクイジター』としての疑いは、まだ捨てきれない。
「もし教えてくれたら、あたしも秘密のスパイになれる?」
「僕はスパイじゃないと、何度言ったら分かるんだ」
彼女はフンッと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。「じゃあ、教えない」
「本気で言ってるのか?」
「本気よ。あたしを秘密のスパイにしてくれるなら、教えてあげる」
俺は苛立ちを隠さずに、深いため息をついた。「君が『秘密のスパイ』になるのは無理だ」
「じゃあ、絶対に教えない!何があっても、ぜーった…」
「君を、使える」俺は彼女の言葉を遮った。
彼女は目をカッと見開いた。「つ、つ、使う?!ど、どういう意味?!」顔がボーッと赤くなっていく。
「情報屋として、君を使うということだ」俺は呆れて言った。
「あ…」彼女は安堵のため息をついた。
「それで、奴らが言っていたことを話せ」
「…あたしが捕まったのは、髪が赤いからだって。でも、あたしは『間違い』だった。あたしの目は緑だけど、奴らが探してた子の目は黄色だって言ってた」
黄色い目…?ここで?今このタイミングで?黄色い目と赤い髪?誰だ、その条件に当てはまるのは?情報が曖昧すぎる…
「人違いだったんだな」
「当たり前でしょ、バカ」
その言葉に、俺の中で何かがプツンと切れた。立ち上がって、もうこれ以上付き合っていられないと言う。「もういい。君とはやっていけない」
「待って、ごめんなさい!」彼女は慌てて立ち上がった。「協力するから!絶対、その人を見つけるのを手伝うから!」
俺は立ち止まった。もう一つの目…俺の他に…花宮さんは、確かに勘はいい。正しく使えば、役に立つかもしれない。
俺は彼女の方へ向き直った。彼女はまだ、自分がどれだけ役に立つか、必死にペラペラと喋っている。
「分かった」俺は彼女の言葉を遮った。「君の助けを受け入れよう。ただし、行儀良くするならな」
「子供扱いしないでよ!」
「はいはい、子供じゃないな」
彼女は口をムッと結び、拳をギュッと握りしめた。俺はそれを見逃さない。
「あなた、一体何者なの?」
「答えられない。だが、『秘密のスパイ』というのも、あながち間違いじゃない。スパイじゃないがな」
彼女は震え始めた。「ゆうくん…あ、あたしは…あたし…」
「あたし?」と俺は尋ねた。彼女は何も言えない。唇が震え、俺から目を逸らしている。
今日の昼間のことを思い出す。エメラルドのような緑の瞳が、俺を見つめていた。バラ色の頬、肩に落ちる赤い髪、その横で揺れる紫のメッシュが、彼女の瞳を際立たせていた。
これは何だ?花宮さんは、やはり『インクイジター』なのか?それとも、ただの一般人か?もし彼女がエージェントなら、俺の『情報屋』にするのは危険だ。だが、それでも、俺の目の届く範囲に置いておける。あの眼…彼女は、本当に…?いや、これも彼女の『キャラクター』かもしれない。インクイジターとしての。
…確かめてやる。今、ここで!
「花宮さん…」俺は彼女を呼んだ。そして、彼女に向かって、一歩、また一歩と歩き出した。彼女は怯えて後ずさり、やがて背中が壁にドンとぶつかった。
「怖がる必要も、隠し事をする必要もない…花宮さん」
彼女は何か言おうとするが、口から出るのは不成形な音だけだ。俺は続けた。
「ハルちゃん…いや、君が『ユウ』は自分だけのものだと言ったな。なら、僕も僕だけのものが欲しい…ルナちゃん…」
俺は彼女の顎に手を添え、自分の顔の高さまで、そっと持ち上げた。
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花宮陽菜
(やばい、やばい、やばい、やばい、近い、近い、近い、ちかーーーーーーい!)
ゆうくんの顔が、数センチ先にある。真剣で、強烈な金色の瞳があたしを捕らえて、分析して、心の中まで見透かそうとしてるみたい。あたしの頭はもうぐちゃぐちゃで、まともな考えなんて一つも浮かばない。近すぎる。世界が全部消えて、そこにいるのは、あの顔と、あの眼差しだけ。
「ルナちゃん…」
彼の声は低く、その囁きにあたしの背筋がゾクッとした。
それが、あたしの限界だった。パニックが爆発する。
「せ、先生!だめです、あたしたちは、歳が…!」
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竹内勇太
あの言葉。最悪のタイミングで、最悪の言葉。彼女の叫び声は、ショッピングモールの駐車場の入り口に響き渡った。
すぐに、視線が俺たちに集まる。車に行き来していた人々が、足を止め、好奇心と非難が混じった目で俺たちをジロジロと見ていた。
「先生?」と、ある女性がひそひそ話すのが聞こえた。
「あの女学生に手を出そうとしてるのか?」と、男の声がする。
「誰か、警察を呼べ!」
違う!そうじゃない、この馬鹿どもが!
俺は心のなかで絶望的に叫んだ。花宮さんを見ると、彼女は両手で顔を覆い、おそらく、地面に穴が開いて自分を飲み込んでくれることを願っているだろう。
説明している時間はない。状況は制御不能になりつつあった。
俺は花宮さんの腕を掴んだ。「行くぞ!」
彼女を引っ張り、人々の間をすり抜け、がむしゃらに走った。俺たちの慌ただしい足音が、非難の囁きと共にコツコツと響く。
……………
俺たちは、大通りから外れたどこかの道端で立ち止まった。空は深いオレンジ色に染まり、沈みゆく夕日がビルをメランコリックな光で照らしている。二人とも、肩で息をしながら、ハァハッと必死に呼吸を整えていた。
「あたしの…バッグ…」彼女が、か細い声でぜいぜい言いながら言った。「ロッカーに…」
「ああ、分かってる」俺も息を切らしながら答えた。「僕が取ってくる。ここで待ってろ」
俺が行こうと背を向けた瞬間、彼女の手に腕を掴まれた。軽くて、ためらいがちな感触。彼女の方を見た。
「どうした?」
彼女は顔を赤くして、恥ずかしそうに俺から目を逸らした。「ありがとう…」と、彼女は呟いた。「助けてくれて…」
一瞬、驚いた。怒りも、パニックも、非難も…すべてが消え、そこにあったのは、純粋で、臆病な感謝だった。
「僕は、自分の仕事をしただけだ」俺の声は、自分でも思うより硬く響いた。
(仕事…?)
俺の仕事。笑わせるな。
俺の任務は単純だったはずだ。この学校に来て、ゲートに関連する、桜井さんでさえ正体を掴めていない未知の脅威を調査する。それだけだ。そして、彼女、花宮陽菜は、この盤上のただの駒のはずだった。監視対象の、可能性のある『インクイジター』。冷徹に分析し、必要なら切り捨てるべき変数。
だが、どの時点で、任務はこれになった?どの時点で、「ターゲットの監視」が、「試着室での喧嘩」になり、「ドレスを買い与える」ことになり、「怒れる群衆からの逃走」になった?
俺は制御を失った。
彼女は知っている。あるいは、知っていると思っている。「秘密のスパイ」。彼女は、俺の複雑で危険な現実を、少女漫画の陳腐な設定に変えてしまった。そして、そっちの方がマシなのかもしれない。だが、真実は、彼女は俺を守ろうとして、自ら首を、考えるだけでも吐き気がするような世界に突っ込んできたということだ。
そして、その責任は俺にある。
あの鏡に映った顔…殺人者の目を。俺が昔の名前と一緒に、心の奥底に葬り去ろうと誓った、あの化け物を。彼女は、見てしまった。すべてが終わった後、彼女が最初にしたことは、まるで俺を誇るかのように、あのバカげた親指を立てることだった。
面倒なガキだ…そして、予測不能だ。
これからどうする?敵は本物だ。奴らは俺の正体を知っているか、少なくとも、俺がどこにいるかは知っている。俺の周りの人間を把握している。もう「調査」は終わりだ。静かな戦争が始まった。そして、俺の任務には、頑固で、無鉄砲で…そして、驚くほど勇敢な一般人が、くっついてきた。
彼女は『インクイジター』じゃない。俺は彼女が何なのかは分からないが、俺の勘、俺を何年も生かしてきたその直感が、彼女は見た目通りの存在だと告げている。歩く問題児だと。
歩く問題児…なぜか、俺はその問題児を守る義務があるように感じている。
俺の仕事は彼女を救うことなどではなかった。俺の仕事は調査することだ。
だが、結局は、同じことなのかもしれない。
彼女を守ることが、任務になった。
クソっ…