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第9話「先生と生徒」

竹内勇太


 それは記憶のようだった。意識の縁を漂う、遠く、ポカポカと温かい記憶…だが、俺の記憶じゃない。俺にこんな記憶があるはずがない。


 優しい腕が俺を抱きしめ、知らずに感じていた寒さを追い払うように、骨の芯まで染み渡るような温もりだった。彼女が口ずさむ穏やかな音、言葉のない旋律は、甘く心地よかった。長い黒髪が絹の滝のように肩にサラサラと流れ落ち、そしてその瞳…彼女の金色の瞳は、朝日のように温かかった。彼女は子守唄を歌っていた。世界のすべての空虚を埋めるようなメロディーを。


「私の小さなジャック」彼女の声は…蜂蜜のようだった。彼女は、その腕に抱かれた俺に話しかけていた。


 突然、赤ん坊の甲高い泣き声がその静寂を切り裂いた。オギャー、オギャー! 彼女は俺をそっと床に降ろした。俺はまだ覚束ない子供の足でよろめきながらも、白い木製の揺りかごに向かって駆け出した。彼女は俺の後ろを歩いてくる。その動きは優雅そのもの。彼女はとても美しく、心地よく、そして…愛らしかった。揺りかごから、彼女は自分と同じ黒髪の赤ん坊を抱き上げ、その泣き声をなだめるように優しく揺らした。


「大丈夫よ、フラヴィアン。ママはここにいるわ」


 だが、別の泣き声が部屋の隅から聞こえてきた。


「アレクサンダー!」彼女の声が震え、初めて絶望と疲労の色が滲んだ。


「母さん、俺が!」金髪が目にかかる年上の少年が、もう一つの揺りかごに駆け寄った。彼は二番目の赤ん坊を抱き上げ、彼女の元へ連れてきた。そして、俺が理解する前に、優しい手が俺を抱き上げるのを感じた。


「ジャック、おいで」甘く、懐かしい声。まるでずっと昔から知っていたような。腕の下にその手を感じた瞬間、俺は無意識に振り返った。あの少年と同じ、長い金髪の少女。彼女は俺を女の人の元へ連れて行く。彼女はフラヴィアンをなだめようとし、金髪の少年は泣き止まないアレクサンダーを揺らしていた。


 なぜだか分からないが、俺は泣いている赤ん坊に手を伸ばした。彼はその小さな手で俺の指を掴んだ。


「誰?」その声は…俺の声…子供っぽく、好奇心に満ちていた。


「この子はアレクサンダーよ、ジャック。あなたの弟」金髪の少女は微笑みながら言った。


「アレ…フラヴィアンみたいに?」


「ええ。フラヴィアンみたいにね!」彼女は笑って答えた。


「ふふふ…」黒髪の女の人の忍び笑いが、俺たちを包んだ。彼女は俺たち四人を見て、その微笑みは穏やかで優しかった。とても温かく、熱く、そして…奇妙だった。


 これは夢か?それとも悪夢か?


 俺は目を開けた。見慣れた大学の医務室の白い天井が、俺を見下ろしていた。**ズキッ!**と激痛が全身を走り、戦いのことを残酷に思い出させる。だが、そんなことはどうでもよかった。あの夢…夢に決まってる、そうだろ?あれが記憶だなんてありえない。あの女…あの優しさ…


「俺の母親が、あんな風だったなんてありえるかよ…」俺は虚空に向かって呟いた。


 ___________________________________________________


花宮陽菜


 外では雨が**トントン、トントン…**と、絶え間なく冷たい音を立てていた。


 コントロール室内では、サーバーの低い唸り声と、あたしの不規則な呼吸音だけが響いている。


 空気は埃と静電気の匂いがした。あたしは回転椅子にぐったりと身を任せていた。体中が痛み、目の前にある十数台のモニターを睨みつけすぎて目がヒリヒリする。そこでは、三年生の卒業式が続いていた。笑い声、拍手、スピーチ…あまりにも普通で、奇怪な光景。


(なんて悪趣味な冗談なの…)


 外では、世界が粉々に引き裂かれたばかりだというのに、ここではパーティーを鑑賞している。


 三十分。


 藤先生は、戦い全体がたったそれだけだったと言った。三十分。まるで一生のように感じられた時間。叫び声、爆発、そして焦げた金属の匂いの滲んだ時間。


 監視モニターには、卒業式の招待客には見えない真実が映し出されていた。大学の本館、あたしたちの砦は、まだ建っている。でも、それはただの外見だけ。


 講堂、壮大なイベントホール、学校の裏の緑のグラウンド…すべてが煙を上げる瓦礫とねじれた金属の山に過ぎなかった。大学のいくつかの階も廃墟と化していた。


 メンテナンスドローンがロボットのアリのようにせっせと働き、学校の複雑な防衛システムが、まるで不可能なパズルのピースのように各階を動かしている。まるで、汚れを絨毯の下に掃き隠すように、戦いの傷跡を新しいコンクリートと鋼鉄の層で隠していく。


 あたしたちが見たこと、感じたことを消せるかのように。


 突然、卒業式のホールが上昇を始めた。壁が震え、一瞬のうちに、あたしたちは建物の最上階にいた。ガラスの天井が開き、月が雲間から顔を出す夜空が現れ、細かい霧雨が降り注いで、床に落ちた星のような反射を作り出していた。下にいる生徒たちは、うっとりとため息をついた。


(なんでみんな、うっとりできるのよ。ゆうくんが…)


 あたしたちの後ろに彫像のように立っていた藤先生が動いた。その白髪がモニターの光で輝く。彼は桜井理事長のそばへ寄った。彼女はダークブルーのドレスを直している。


「礼子、お主のスピーチの時間じゃ」先生は、嗄れているが穏やかな声で言った。


 理事長はため息をついた。その芝居がかった仕草も、肩の緊張を隠せていない。「まさか、この全ての後でこれをやらねばならんとはのう」彼女は呟いたが、すぐに表情を引き締めた。彼女の微笑みは穏やかで、墜落寸前の夜の手綱を正確に握る者のそれだった。


 彼女は立ち上がり、コントロール室を出て行った。卒業式へ向かい、ステージに上がる。その声は固く、温かく、生徒たちに新しい始まりや、挑戦を乗り越えること、そして決して壊れない絆について語りかけた。一言一言が、あたしたちへの暗号のようだった。


 あたしはもう、見ていられなかった。


「フラヴちゃん、理香ちゃん…行こう」あたしは囁いた。


 あたしたち三人の誰も、パーティーに残りたいとは思わなかった。どうして残れるというの?


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 そこは医務室じゃなかった。戦後の光景だった。消毒液の匂いがあまりに強くて涙が出そうになる。それに血の金属臭と、オゾンの奇妙な電気臭が混じっていた。心電図モニターのビーッ、ビーッという音が不吉なBGMを作り出し、時折低い呻き声がそれを遮る。簡易担架が全てのスペースを占めていた。


 シロイちゃんは怪我をしていたけど、安静にしていれば回復すると言われた。この悪夢の中の、ほんの、ほんの小さな安堵。でも、ロニン、あのピンクのマントの騎士は…同じ幸運には恵まれなかった。彼の戦いは壮絶で、しばらく入院して療養することになる。


 藤先生が、廊下を通ってあたしたちを他の皆の元へ案内した。友美さんはベンチに座っていた。腕は吊り包帯をされ、青黒い髪は汚れ、乱れていたけれど、それでも疲れた笑みをあたしたちに向けようとしていた。そして斎藤さんは…本物のミイラみたいだった。映画に出てくるような。頭からつま先まで包帯で巻かれ、口まで覆われていて、動くたびに小さくううっと呻いていた。


「なんでそんなお葬式みたいな顔してるのかしら?」


 あたしたちの家庭科の先生、安藤先生の声に、あたしたちはビクッとした。彼女の緑がかった髪が青白い顔を縁取り、金色の瞳は相変わらず鋭かった。


「先生、大丈夫なんですか?」フラヴちゃんが、嗄れた声で尋ねた。


「ただの擦り傷よ」安藤先生は肩をすくめたが、一瞬、壁に寄りかかった。「もう、こういう戦いには慣れてないのよね、かしら」


 友美さんが弱々しく笑った。「それ、すっごく分かります」


 斎藤さんがまた呻いた。**ググッ…**と、不満げに。友美さんは笑う。「ここにいるべきでしょ」。また呻き声。安藤先生が穏やかに言った。「あなたたち二人とも、休むべきだわ」


(なんで彼女たち、彼が何を言ってるか分かるの?!)


「わたしがこの子たちを家に送るわ」安藤先生はそう言って、振り返った。


「アヤメ、それはわしに任せておくれ」桜井理事長だった。そして、彼女と一緒に…さっきの金髪の男性。背が高く、肩幅が広く、金色の瞳。そして、このカオスの中では場違いなくらい自信に満ちた笑み。彼には、そこにいる全員を黙らせるような、権力のオーラがあった。


「ゴールデンタイガーが残りを引き受ける」理事長は言った。


 男性は一歩前に出た。その声は、あたしに鳥肌を立たせるほどの固さで響いた。「ゲートとの事務処理は私が解決します。ゴールデンタイガーの隊長として、この作戦の全責任を負いますので」


 金髪の男性は大げさな笑みを浮かべ、怪我を無視して斎藤さんを片腕で抱きしめた。


「廉士くん!久しぶりじゃないか!」


 斎藤さんは、包帯がはち切れんばかりの甲高い苦痛の叫びを上げた。「兄じゃん!」


 兄さん?!


 彼は斎藤さんを解放し、今度はフラヴちゃんをまっすぐに見た。その声色は変わり、信じられないほど優しくなった。「今日、電話をくれてよかった、フラヴ」


 理事長の顎がガクンと落ちた。「お主がテュートニックを呼んだのか、フラヴィアンくん?」


 フラヴちゃんは頷き、涙が頬を伝った。「勇太はゲートのエージェントですから、彼もそうかもしれないと…」彼女はためらい、金髪の男性を見上げた。声は囁きのようだった。「理事長が兄の計画に従うよう命じた時、わたくし…エドワードに電話しましたの」


 エドワード?


 フラヴちゃんは彼に駆け寄り、その目は安堵と罪悪感で輝いていた。「ごめんなさい…わたくし…」彼女はどもったが、彼はただ彼女の黒髪をくしゃくしゃにしただけだった。その真剣な眼差しは、信じられないほど優しいものに変わっていた。「お前を叱って、こんなことに巻き込んだ勇太を殺してやりたいところだが…お前のことを誇りに思うぞ、フラヴ」


 彼女は泣き崩れ、彼を強く抱きしめた。「お兄ちゃん!」


 ガーン!


 あたしの頭の中で、ピースが轟音と共に組み合わさった。エドワード。エドワード・シルバーハンド。ゴールデンタイガーの隊長。テュートニック。ゆうくんとフラヴちゃんのお兄ちゃん。


 胸が締め付けられて、息ができなくなった。フラヴちゃんが、お兄ちゃんに電話して…彼女が、あたしたちを救ったんだ。


 戦いは終わった。でも、戦争は…戦争は、まだ始まったばかり。あたしは理香ちゃんを見た。彼女は両手を固く握りしめ、金色の瞳は床に固定され、自分自身の恐怖の中に迷い込んでいた。


 そして、最悪なことに…デスブローが敗れ、テュートニックのようなクルセイダーチームの隊長が介入し、神未来との繋がりはほぼ確実…全てが変わった。ゲーム盤がひっくり返った。ゲート、組織全体が、今や鷹のような目で理香ちゃんにガンと注目している。


 この暗殺未遂は…終わりじゃなかった。


 本当の狩りの、始まりに過ぎなかった。そして理香ちゃんは…まだ、獲物だった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


竹内勇太


 うめき声と共に、俺は体を無理やり起こした。筋肉という筋肉が抗議の声を上げる。壁を支えに、ゆっくりとドアまで歩いた。答えが必要だった。ランフレッドの体はどうなった?大学の方は?奴らはドローンを全部倒したのか?他に誰か怪我をしたのか?卒業式は…行われたのか?知る必要があった。


「どこへ行くつもりだ?」無骨な男の声が俺を止めた。


 横を向く。椅子に座り、ランプの弱い光の下で本を読んでいたのは、石田先生だった。白髪が混じり始めた黒髪に、鼻からずり落ちそうな眼鏡。


「番犬のつもりか、あんたは」皮肉が、抑える前に口から滑り出た。


「なんだとぉ?!年上への敬意はどうした、小僧!」先生は唸り、**バタン!**と力強く本を閉じた。


「悪かった…」俺はため息をつき、手で顔をこすった。「この数時間…クラクラだったんでね」


 石田先生も、疲れたようにため息をついた。彼は再び本を開く。「今、兄貴を探しても無駄だ。この時間なら、もう全員帰っただろう」


 壁に目をやり、時計を探す。午前2時34分。作戦開始は18時半。八時間近くが経っていた。奴の言う通りだ。それでも…


 俺は病室のドアを開けた。廊下は静まり返り、非常灯だけが辺りを照らしている。そして、彼女たちを見つけた。ベンチに座り、壁にもたれかかり、肩を寄せ合っている。一枚のシーツに包まれ、深く眠っていた。フラヴィアンと、陽菜。俺より先に、誰かがもう彼女たちを見つけていた。


 ドアを後ろで閉め、動かずにいた。奇妙な重みが、もう長いこと感じていなかった重みが、肩にのしかかる。このカオスの中で、あまりにも穏やかに、あまりにも純粋で無垢な彼女たちを見つめていると。


「よう…」


 よく知る声が、廊下に響いた。左を見る。自販機の湯気の立つコーヒーを手に、壁に寄りかかっていたのは、エドワードだった。


「兄上…」


「お前も寝てなくていいのか?」と彼は尋ねた。声は軽いが、その金色の瞳は俺を分析していた。


 無視した。「なんでこいつらがここにいるんだ?」


 彼は片眉を上げた。「おいおい…『お兄ちゃん、久しぶり!』じゃないのか?」


「先に俺が寝るべきか聞いたのはそっちだろ。それに、俺がお前をそんな風に呼ぶとでも思ってるなら、夢でも見てろ」


「相変わらず冷たいな…お兄ちゃんの心を砕く気か!」と、彼は大げさなドラマを演じた。


「うるさい!」思ったより大きな声で、思わず叫んでしまった。


 俺の叫び声に、一人がもぞもぞと動いた。シーツの下から手が伸び、目をこする。そして…


「……ゆうくん?」陽菜の眠そうな声が、廊下に響いた。


 俺は無理に平静を装った。「こんばんは、花宮さん」


 彼女は**ガバッ!**と一瞬で立ち上がり、シーツが床に落ちた。そして俺の前に立ち、その緑の瞳を心配そうに大きく見開いていた。「ゆうくん!大丈夫なの?!すっごく心配したんだから!あたし!あたし…」


 わざとらしい、芝居がかった咳払いが彼女の言葉を遮った。俺たちは二人ともエドワードを見た。彼はいたずらっぽい笑みを浮かべ、コーヒーを一口飲んでいる。イラッとする。


「お二人さん、邪魔だったかな?」


「あ、あ、あ、あたし!」陽菜はどもり、顔が真っ赤になった。


「くたばれ」と、俺は奴に唸った。


「はいはい、プレッシャーはないからな…」彼は立ち上がり、椅子の横にコーヒーカップを置いた。そしてフラヴィアンの元へ歩み寄り、その顔を優しく触れて起こした。


「フラヴィアン、起きろ。勇太が起きたぞ」


 彼女の金色の瞳がゆっくりと開かれ、ランプの黄色い光が反射する。その瞳は、まっすぐに俺を捉えた。そして、次に感じたのは、彼女の体が俺にぶつかる衝撃と、絶望的な力で俺に絡みつく腕だけだった。


「兄上ぇぇぇん!」


 抱きしめ返してやりたかった。謝って、もう大丈夫だと言ってやりたかった。だが…肩と肋骨に痛みが爆発した。


「フラヴ、それじゃまた殺しちゃうわよ…」エドワードが楽しそうに言った。


「ゆうくん!」俺が顔を歪めるのを見て、陽菜が叫んだ。


「兄上、ごめんなさいですわ!」


「だ、大丈夫…だ…」体中が痛む。俺は床に崩れ落ち、痛みにのたうち回った。まるで体を真っ二つに折られ、何十本もの刃が内側から突き刺さるようだった。「とにかく…なんでまだここにいるんだ?」


「ええと…それは…」フラヴィアンが、気まずそうに話し始めた。


「お前を見るまで帰らないって、聞かなかったんだ」エドワードが彼女の代わりに答えた。


「そうか…」


「よし!もう見たな。帰るぞ。勇太は休む必要がある」


「まあ、それについては—」と俺は、立ち上がろうとして言った。


 だが、あのクソ兄貴が俺を遮った。「報告と尋問は、安静にする必要のない奴らのためだけだ!」


「はぁ?!」


「命令だ、寝ろ」


「なんだ、その命令は?」


「お前の上官からの命令だ」


「全く意味が分からん…」


 兄が近づいてきて、俺を病室のドアへと押し戻した。「さっさと寝ろ、この頑固者!」


「待て!めちゃくちゃ痛えんだよ!」


 フラヴィアンがエドワードを捕まえて俺への拷問をやめさせた後、二人は去ろうと振り返った。フラヴィアンはまだ謝っていたが、何のために?俺は廊下を歩いていく二人を見つめた。だが、そこにいたのは二人だけだった。


「それで?君は一緒に行かないのか?」と、俺は後ろに残った人影に尋ねた。


◇ ◇ ◇


花宮陽菜


「あ、あたしは!」彼の言葉はあまりにも突然で、何て答えたらいいか分からなかった。心臓がドキッと跳ねた。


「君?」彼の金色の瞳が半眼になり、あたしを疑っている。


「あたしは…」視線を逸らし、顔が熱くなるのを感じた。今までここにいたのは…もちろん、フラヴちゃんと一緒にいたかったから!でも、もう一つ理由が…でも…勇気がない…


「彼らと一緒に行かないのか、陽菜?」


 陽菜…


 なんで今、そんな声で、あたしの名前を呼ぶの?!


「ゆ、ゆ…勇太…」


「なんだ?」


「来週…学校が始まる…」


「ああ、それがどうした?」彼は、純粋に混乱した顔で尋ねた。


「…勇太は、学年が終わるまでしか先生じゃないって言った…」彼の目が大きく見開かれた。「…それで…今…勇太は、前みたいに、ただの大学生に戻るって…」


 彼の口が震え、金色の瞳が大きく見開かれているのが見えた。でも…その瞳には、いつもの完璧な輝きはなくて…どこか、くすんでいた。


(今だ)心臓が胸の中でバクバクと音を立てる。(今、彼が言うんだ。もう先生じゃない、ただの大学生に戻って、あたしの人生から消えるって…喧嘩も、授業も、バカな冗談も、あたしを助けてくれたことも…二回も…キスも…全部、ただ終わっちゃうの?思い出になるの?嫌。絶対に嫌だ)


 もし今言わなかったら、一生後悔する。たとえ彼が「ノー」と言っても、たとえ不可能でも…彼は知らなきゃいけない。絶対に!


 あたしはごくりと唾を飲んだ。その音が、静かな廊下に響き渡る。彼に視線を戻した。そして、持てる勇気の全てと、持っていない勇気さえもかき集めて、あたしはついに…


「勇太!あたしのこと、彼女にしてください!」


 彼の表情がカチンと硬く、硬直して、生命を失った。その瞳は一瞬、罪悪感に満ちて逸らされた。だが、すぐにまた、あたしをしっかりと、真剣に見つめ返した。あたしが愛するゆうくんの目じゃなかった。先生の目だった。エージェントの目だった。


「すまない…花宮さん」


 体が凍り付くのを感じた。胸に鋭いズキンとした痛み、説明できない痛み。


「あの日の木村との戦いの後…ゲートは、この学校でのクレリックとしての、常勤教師の職を俺にオファーしたんだ」


 彼の目は真剣だった。でも、悲しげだった…


「俺はもう、代理教師じゃない。本物の教師になったんだ。そして、教師として…」彼の眼差しはさらに真剣に、皮肉っぽくなり、そして今、あたしの魂を貫くかのようだった。「俺は、自分の生徒と関係を持つことはできない。すまない…」


 何て答えたらいいか、何を言えばいいか、どう反応すればいいか、分からなかった。ただそこに突っ立ったまま、彼を見て、無反応で、必死に涙をこらえていた。


 彼は一瞬視線を逸らし、病室のドアの方を向いた。


「はるちゃん!早く行くですわよ!」フラヴちゃんが廊下に現れ、あたしを呼んだ。彼女は立ち止まり、あたしたちを見た。「あれ?どうしましたの?」


「何でもない!」あたしは、思ったよりもしっかりとした声で答えた。「今行くよ、フラヴちゃん」ゆうくんを無視して、彼女の方へ向き直った。


「じゃあね、勇太」

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