第5話「バレンタインのサーカス」
花宮陽菜
二月十三日。花宮家のキッチンは甘い戦場だ。溶けたチョコレートの香りが、笑い声やからかいの声と入り混じって、ふわふわと漂っている。
あたしの指がぷるぷると震える。チェリー入りのビターチョコレートで最後のハートを形作り、淡い光の下でキラキラ光る赤い紙で包む。これは彼のためのもの。ゆうくんのための。
女の子たちやママ、学校の友達には何十個もトリュフを作ったけど、これだけは…これだけは違う。まるで、あたしの心そのもの。脆くて、無防備で、明日には渡される準備ができている。
(もし笑われたら?)
(あの死んだ魚みたいな目でため息をつかれて、「花宮さん、面倒だな」って言われたら?)
想像しただけで、胸がキュッと締め付けられる。
ゆうくんは要塞だ。その壁は高すぎて、意地っ張りのあたしでも登れない。最近は少し柔らかくなった気もする。声のトーンも前みたいに刺々しくない。でも、やっぱり彼は完全な謎のまま。お台場のこと、あの路地裏のこと、それに、あの女の子のことも話してくれない。――白いコートと蛇みたいな笑みを浮かべた、理香ちゃんのこと。どうして彼は彼女と一緒にいたの?あの日、何があったの?聞こうとしても、彼はいつも「面倒くさい」って感じで話をそらして、あたしは白状するまで彼を揺さぶりたくなる。
この不安の海に溺れずに、どうやってこのチョコレートを渡せばいいんだろう?
「春姉、またボーッとしてる」
沙希の声が、いつものように鋭くあたしの思考を断ち切った。
あたしの妹。風に揺れる青い髪と、海の秘密を隠しているかのような緑の瞳。彼女はチョコレートで汚れたスプーンをあたしの方に投げてきた。沙希は自分のトリュフを作りながら、「世界のどこか別の場所にいたかった」と言わんばかりの不機嫌な顔をしている。
「ボーッとしてなんかないわよ!」
あたしは言い返して、スプーン一杯のチョコを投げ返す。それは末っ子の百合子に当たりそうになり、彼女はキャッと叫んでママの後ろに隠れた。
ママは穏やかな笑みを浮かべて、アルミホイルを切りながら首を横に振る。「陽菜、沙希、キッチンを抽象画にしないでちょうだいね」
その時、お父さんが入ってきた。長い紺色の髪をした、引退した相撲取りみたいにがっしりした巨人。「なんだ、この匂いは?」彼の声が轟き、その目は期待で輝いている。「陽菜、お父さんのチョコはどこだ?」
あたしは顔を赤くして、腕を組んだ。「お父さんのために作ったんじゃないもん」。彼があまりに悲劇的な顔をするので、もう少しで折れそうになった。
でも、沙希がため息と共にあいだに入った。「はい、お父さん」彼女は残りのチョコが入った容器を投げてよこした。「残り物だけど」
お父さんは容器を開け、一口食べると泣き始めた――もちろん、大げさな嘘泣きだ。「ああ、我が沙希…なんて寛大な子なんだ…」彼は宝物のように容器を抱きしめながら、鼻をすする。
長い赤髪の百合子が叫ぶ。「百合子も欲しい!」
沙希は呆れたように目をくるりと回し、彼女にひとかけら渡した。そして、一瞬ためらってから、あたしの手にもチョコを押し付けた。「はい、春姉。ベタベタしないでよね」
**ズキン!**あたしの心が溶けた。「沙希ちゃん!」あたしは彼女を抱きしめる。彼女は押し返そうとするけど、逃がさない。「世界一の妹だよ!」彼女はぶつぶつ文句を言っているけど、頬は赤くて、本気で怒ってはいない。
ママが笑い、お父さんがまた嘘の涙を拭う。その時、あたしは気づいた。*沙希がチョコレート作り?*彼女、直美ちゃんとか、なぜかゆうくん以外とはほとんど話さないのに?これはチャンスだ。
「沙希ちゃん」あたしはいたずらっぽく笑いながら言った。「そのチョコ、誰にあげるの?恋してるんでしょ?」
彼女は紫色になって、目がヘッドライトみたいに大きく見開かれた。「うるさいな、春姉!」軽いパンチが腕に当たるけど、あたしは離さない。「義理チョコよ!友達が作るって言ってたから、借りを作りたくないだけ!」
「本当?本当に誰もいないの?」あたしは笑いながら彼女を締め上げた。「白状しなさい!」
彼女はもがきながら叫ぶ。「誰もいないって言ってるでしょ、このしつこい!」
でも、あたしは離さない。「沙希ちゃん、お姉ちゃんはすごく誇らしいよ!学校に友達ができたんだね!」沙希はすごく内気で、孤独だ。あたしたち家族以外には、直美ちゃんしかいない。彼女が少しでも心を開いていると知って、胸が温かくなった。
お父さんとママ、百合子もハグに加わり、沙希はパニックになった。「離してよ、このバカたち!」彼女はあたしとお父さんを叩き、ママと百合子はもう輪から外れて、そのカオスを見て笑っている。めちゃくちゃだけど、不思議な安らぎを感じる。明日、あたしはゆうくんに立ち向かう。その前に自分が溶けてしまわないといいけど。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
待ちに待ったバレンタインデー。教室は笑い声と色とりどりの包装紙が擦れるカサカサという音で、めちゃくちゃな状態だった。この日は開盟高校をハートと告白のサーカスに変えてしまい、あたしはその渦の中心にいた。ゆうくんへのチョコが入ったカバンを、まるで手榴弾みたいに握りしめて。
あたしは集中しようとした。赤い髪が揺れ、耳の後ろに留めた紫のメッシュが首筋をくすぐる。でも、教室の反対側での会話に気を取られてしまった。
「マジで、高橋さん、俺、今日チョコいっぱいもらうぜ!」魁斗くんが机に寄りかかり、ピンク色の髪が窓からの光で輝いている。青い瞳は自信に満ち溢れていた。彼は腕を組んで、したり顔で笑う。「女子は俺の魅力に逆らえないんだよ」
サーモンピンクの髪をいつもの赤いリボンでサイドポニーにした直美ちゃんが、オレンジ色の瞳をくるりと回した。大きすぎる制服が肩から滑り落ちる中、彼女は彼に鉛筆を向けた。「夢見てんじゃない、魁斗くん。あんた、義理チョコの一つももらえないっしょ」
「義理?!俺が?」魁斗くんは胸に手を当て、大げさに傷ついたふりをした。「見てろって、高橋さん。全部運ぶのに袋がいるくらいになるからな!」
あたしは耐えきれなかった。小さく笑って、青い紙に包まれた二つの小さな包みを持って近づいた。「実はね、魁斗くん、あなたの言う通りだよ」いたずらっぽく笑いながら、彼にチョコを差し出した。「はい。義リチョコ。調子に乗らないでよね?」
魁斗くんはパチクリと瞬きし、目が大きく見開かれた。そして、まるでワールドカップのトロフィーみたいに両手でチョコを受け取った。「花宮さん!君は…君は天使だ!」彼は満面の笑みを浮かべ、顔が裂けるんじゃないかと思うほどだった。目がキラキラしている。「誰かが俺の価値を分かってくれるって、信じてたんだ!」
直美ちゃんはふんと鼻を鳴らして腕を組んだけど、あたしはもう一つの包みを彼女に差し出していた。「それで、これは直美ちゃんの。ハッピーバレンタイン」。ウインクすると、彼女は赤くなって、包みを受け取る指がためらっていた。
「はるちゃん…あの、さ…」彼女は口ごもり、カバンに手を入れて、不器用な包みを取り出した。「あちしも、作ったんだ。大したものじゃないけど…はい」。彼女は、曲がったリボンのついたラップに包まれた手作りのケーキをくれた。「借りを作りたくないだけだからね?」
「直美ちゃん!」あたしは彼女に飛びつき、強く抱きしめた。「最高だよ!」彼女は「ベタベタしないでよ」と文句を言ったけど、頬を赤らめて笑っていた。
魁斗くんは、まだ自分のチョコを大事そうに持ちながら、子犬のような目で直美ちゃんを見た。「俺のは、高橋さん?どこ?」
彼女はただ冷たい視線を送った。「あんたにあげると本気で思ってんの?」と直美ちゃんは言った。
「花宮さんはくれたのに」と彼は言い返した。
「あちしのは残り物だったからだよ、魁斗くん…」あたしは得意げに言ってやった。彼は悲しそうに、そして負けを認めて頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
生徒会の昼休みは、フォーマルさとカオスのミックスだった。部屋は古い紙とコーヒーの匂いがして、机には書類の山。副会長として、あたしはみんなにチョコレートを配りながら、カバンの中で時限爆弾みたいに鎮座しているゆうくんへのチョコの重みを無視しようとした。会長のフラヴちゃんは、長い黒髪がカーテンのように滑らかに落ち、丁寧なお辞儀でチョコを受け取った。その金色の瞳がキラリと光る。
短い金髪と青い瞳のアレクサンダーくんは、ただフンと鼻を鳴らし、コメントもなしにチョコを取った。栗色の髪が肩で揺れる星野さんは、はにかんで微笑み、白い髪と青い瞳の宮崎くんは優しくお礼を言った。
いつも完璧なフラヴちゃんが、みんなを驚かせた。カバンからトレイを取り出したのだ。「わたくしも、何か持ってまいりましたわです!」と彼女は柔らかな声で言った。彼女は手作りのチョコがけクッキーを配り、一つ一つに繊細な模様が描かれていた。あたしは自分のを受け取って、うっとりした。「フラヴちゃん、これ作ったの?きれい!」真面目な彼女が、こんなに可愛いものを作れるなんて、さらに驚いた。フラヴちゃんはあたしと星野さん、そして宮崎くんにクッキーを渡した。宮崎くんは義理チョコだと気づいて悲しくなるまで、三秒間幸せそうだった。でも、フラヴちゃんはアレクサンダーくんを無視した。
いつも観察眼の鋭い星野さんが尋ねた。「会長、アレックスくんが頂いていないのはなぜかしら?」彼女の声は軽かったけど、そこには鋭い好奇心があった。
アレクサンダーくんは顔も上げずにふんと鼻を鳴らした。「別にいらないし」
フラヴちゃんは、書類に目を通しながら答えた。「彼はそれに値しませんの」。その声は冷たく、アレクサンダーくんは「うるさいな、フラヴィアン」と返した。
あたしは笑ったけど、何かが気になった。
フラヴィアンが書類をめくっていると、彼女は呟いた。「あら、これは直美ちゃんからね…」あたしが反応する前に、星野さんが猫の耳が生えたみたいに、ピクンと反応したのが見えた。彼女の紫色の瞳が揺れて、アレクサンダーくんに素早い視線を送ってから、緊張した顔で目をそらした。
その時、星野さんが立ち上がり、カバンから二つのチョコを取り出した。「会長、花宮先輩」と言って、一つをあたしに、もう一つをフラヴちゃんに渡した。彼女のカバンの中には、丁寧に包まれたチョコがもっとあるのに気づいた。
(なんで他の人にはあげないの?あたしの頭の中で、ぐるぐると疑問が渦巻く。)直美ちゃんとアレクサンダーくんはここ数ヶ月で仲良くなったし、あたしはキューピッド気取りで、二人は「可愛いカップル」になるって直美ちゃんをからかっていた。でも、もし直美ちゃんが彼のことを好きじゃなかったら?それに星野さん…彼女はアレクサンダーくんの幼馴染だ。あたしの冗談、彼女を傷つけちゃったのかな?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
休憩時間が終わり、みんな生徒会室を出始めた。星野さんはいつものように最後で、ゆっくりと自分のものを片付けている。あたしは後ろに残り、心臓がバクバクと音を立てていた。「星野さん、待って」
彼女は立ち止まり、真剣だけど好奇心に満ちた目で振り返った。栗色の髪が肩にかかっている。「何か御用かしら、花宮先輩?」
あたしはゴクリと唾を飲み込んだ。手が汗ばんでいる。「あなた…アレクサンダーくんのこと、好きなの?」
星野さんは無表情になり、紫色の瞳が前髪で隠れた。沈黙が重すぎて、自分の心臓の音が聞こえるほどだった。そして、彼女は口を開いた。その声は低く、しっかりとしていた。
「花宮先輩…」
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竹内勇太
二月十四日。バレンタインデー。くだらない日だ。開盟高校の廊下はサーカスみたいになっている。女子生徒が走り回り、色とりどりの袋が揺れ、蜂の群れのように甲高い笑い声がガヤガヤと響く。
俺はこの人混みを通り抜けて、職員室に着いて、この地獄が存在しないフリをしたいだけだ。だが、もちろん、友美がすべてを最悪にするためにここにいる。
「先輩、嬉しくないんですか?」と、彼女は俺の隣で飛び跳ねながら歌うように言った。紺色の髪が蛍光灯の下で輝いている。彼女の青緑色の瞳は、まるでバレンタインが今世紀最大級のイベントであるかのように、キラキラと輝いている。「愛の日ですよ、ね?チョコレート、告白、小さなハート!」
俺は**はぁ…**とため息をつき、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ。「時間の無駄だ、友美。皆が気にかけてるフリをするだけの日だろ。」俺の声は乾いていて、「ほっといてくれ」というトーンだ。
彼女はわざとらしく唇を尖らせ、腰に手を当てて俺の前に立った。
「ひどい!じゃあ、わたしのチョコはあげませんからね!」彼女は腕を組み、怒ったフリをしている。
俺は呆れて目をそらし、眉間にピクッとしわが寄るのを感じた。「結構だ。そんな茶番はいらない」
だが、もちろん、彼女は諦めない。いたずらっぽい笑みを浮かべて、バッグから手作りのチョコレートを取り出した。バカみたいにピンクのリボンでラッピングされている。「はい、でもわたしに惚れないでくださいね?」
俺はチョコレートを受け取ると、乱暴に紙を破り、中身を一度に口に放り込んだ。抗議するように、味わうことすらせずに一気に飲み込んだ。友美はキャッと叫び、俺の腕を叩いた。「勇太先輩、野蛮人!味わって、味を感じて、愛情を感じなきゃダメじゃないですか!わたし、何時間もかけて作ったんですよ!」
俺は彼女を睨みつけた。彼女をイラつかせると分かっている、あの空っぽで冷たい視線で。「吐き出して、もう一度食えとでも言うのか?」俺の声は、彼女をムッとさせる皮肉をたっぷり含んだ、低い唸り声だ。
「あなたって、本当に怪物ですね!怪物!」彼女は指を差したが、もう笑っていた。俺はただ首を振り、廊下を歩き続けた。友美は「いたずらっ子以外のみんな」にチョコを配るんだと喋りながら、後ろからついてくる。
「今はクリスマスか?」と俺は言い返し、目は退屈に沈んでいた。
職員室のドアに着き、ガラッと開けた。一瞬の平穏を期待して…
甘かった。
俺の机は、埋もれていた。チョコレートの山に。――光る箱、リボンのついた袋、そして「あたしを見て!」と叫んでいるかのようなカラフルな包み。俺は立ち尽くし、その混乱を無反応で睨みつけた。
「なんだ、この地獄は…」俺は、言葉を飲み込みそうになるほど低い声で呟いた。
友美が隣に現れ、世界の終わりのように笑った。「見てくださいよ、先輩。モテモテじゃないですか!」
彼女は机に寄りかかり、まるで芸術作品のようにその山を指差した。高橋先生が、サーモンピンクの完璧なボブカットと、ナイフのように鋭いオレンジ色の瞳で、からかうように近づいてきた。「悪夢でしたよ、勇太くん。朝から女子生徒の軍団がドアに殺到して、中には先生方まで…あなたの秘書をやる羽目になったんです。命の借り、ですよ」
俺はふんと鼻を鳴らし、椅子に沈み込んだ。ただでさえ最悪な気分が、純粋な苛立ちで眉間に刻まれた。「どうでもいいですよ、高橋先生。」だが、俺の目はその山をざっと見渡し、裏切り者のような思考が頭をよぎった。(陽菜…あいつもこんな馬鹿げたことをするだろうか?いや…するかもしれん…)胸がドキッとして、すぐにその考えを追い払った。(くだらん。考えるだけ無駄だ。)この砂糖まみれの問題の山を目の前にして、そんなことを考えている場合じゃない。
「これ、どうしろって言うんだ…」




