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君が僕の前に現れた日 ― 代用教師は実はひみつのスパイだった!  作者: わる
第1巻 - 始まりは零点と秘密の目撃者
7/85

第7話「これはデートじゃないよ!」

花宮陽菜


 今日の出来事で、あたしの頭はもうグルグルでパンク寸前だった。ゆうくん——じゃなくて、勇太先生が——お金持ちの家の出身で、偽名で生活してるなんて、まるでプロットツイスト満載の漫画みたい。彼がただの二十歳の大学生だなんて、誰が思うのよ?


 そんなことをモヤモヤ考えながら家に帰ると、もうヘトヘトだった。


「ただいまー…」玄関で靴を脱ぎながら言うと、キッチンからはカレーの匂いがしてきた。リビングを覗くと、妹の百合子が、父さんに飛行機みたいにブーンって回されながら、キャッキャと笑ってる。テレビではバラエティ番組が流れてて、わざとらしい笑い声が響いてた。


「まだいたんだ」あたしは部屋の隅にカバンをポイッと投げながら言った。


「なんだよ、ぱぱを追い出す気か?」父さんはそう言って、百合子を揺らしながらおどけた顔をする。百合子は嬉しそうに叫んでる。


「だって、何週間も、時には何ヶ月もいないくせに、帰ってきたら数日でまたいなくなっちゃうじゃない!変だよ!」あたしは腕を組んで、プンプンしながら言い返した。


「お父さんの仕事は大変なのよ!」キッチンから母さんの声がした。鍋がガチャガチャ鳴る音で、声がかき消されそうだった。


 マジで、何の仕事してんのよ?聞いてもいつも『貿易関係』の一点張り。でも、あのボサボサの髪と、いつもふざけてる態度じゃ、貿易商人には見えないって。どっちかっていうと、映画の冒険家みたい。


 あたしはフンッとため息をついて、「お風呂入ってくる」と呟き、自分の部屋に向かった。


 部屋はいつもの通り、ゴチャゴチャ。机にはノートが散らばってて、隅には漫画の単行本が積んである。ピンクのスウェットが椅子に脱ぎ捨てられてた。制服を脱いで、ヨレヨレのタンクトップに着替えてから、お風呂場へ。蛇口をひねってお湯を出すと、ザーザーって音が心地よくて、少しだけリラックスできた。湯船にお湯が溜まってきた頃、水面に映る自分の顔が、ゆらゆらと歪んで見えた。鏡を見て、数ヶ月前に染めた紫のメッシュをいじる。うん、まだ気に入ってる。


 なぜか、昨日の倉庫でのゆうくんを思い出した。彼が緑のメッシュが見えるように、無造作にお団子にしてた髪型。なんであの人、あんな髪型が自然に見えるわけ?てか、カッコよくない?


 あたしは自分の紫のメッシュを何本か取って、彼の真似をしてみた。サイドの髪をゴムで結んで、鏡を見て、ニヤッと笑う。悪くないじゃん、陽菜。結構イケてる。ゆうくんができるなら、あたしだってできるもんね。


 湯船にザブンと浸かると、熱いお湯が筋肉をほぐしてくれた。でも、頭の中は休まらない。週末まで対面授業はないって言ったゆうくんへの怒りが、またムクムクと湧き上がってきた。マジでなんなの!あたしに倉庫で色々白状させておいて、今度は待たせる気?!


 あたしは水面に口をつけて、ブクブクと泡を立てた。その音が、浴室に虚しく響く。でも、心の底で一番気になってたのは、もっとバカみたいな質問だった。——明日、何着ていこう?


 お風呂から上がって、下着姿に頭にタオルを巻いたまま、クローゼットを開ける。そこはもう、色とスタイルのカオス。シャツ、スカート、ショートパンツ、帽子、ニーソックス。あたしはベッドの上に服の山をドサッと投げた。そこはもう、布の海。


 ピンクのブラウスに花柄の黒いスカート?いやいや、ロマンチックすぎ。デートみたいじゃん。


 白のストライプシャツにサスペンダー付きのショートパンツ?うーん、なんか写真撮影でもするみたいでキザ。


 黒の長袖シャツにショートパンツとキャップ?うん、これはカッコいいけど…カッコよすぎる?。


 鏡の前でウロウロしながら悩んでたら、いきなり部屋のドアが**バタン!**と開いた。


「はるちゃん、勇太先生とのデートってどういうこと?!」直美ちゃんが叫びながら入ってきて、あたしはキャッて悲鳴を上げて、危うくタオルを落としそうになった。


「デートじゃない!勉強するだけだってば!」あたしは胸の前のタオルをギュッと押さえながら抗議した。


 彼女は腕を組んで、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてる。「でも、はるちゃんがさっき送ってきたメッセージには『デート』って書いてあったけど?」そう言ってスマホを取り出して、あたしたちのトーク画面を開いた。「ほら、見てみな」


 スマホの画面には、あたしのトーク画面が表示されてる。

『ハル〜(≧ω≦): 直美ちゃん、週末、勇太先生とデートの約束しちゃった!』


(うわあああ!あたしのバカバカバカー!)


「ご、誤字だって!変換ミス!」あたしは顔から火が出そうになりながら言った。


 直美ちゃんは服の海になったあたしのベッドを見て、耳まで届きそうな満面の笑みを浮かべた。目が悪魔みたいにキラリと光ってる。「何着ていくか、わかんないんでしょ?へへへ」彼女はアニメの悪役みたいに近づいてくる。「はーるーちゃんっを着せ替えする時間だよん!」


 あたしが逃げる間もなく、彼女はもうあたしの服をガサガサいじって、まるでファッションショーのスタイリストみたいに組み合わせを考え始めてる。彼女に着せ替え人形にされてる間、あたしは、そういえば直美と学校の外で会うのって、何世紀ぶりだろうって気づいた。てか、うわ、めっちゃ変わったな、この子!


 全身ゴスロリだった。ドクロ柄の黒いシャツ、指なし手袋、銀色の十字架のチョーカー、シャツをインしたミニスカート、ジャラジャラと音を立てるチェーンだらけのベルト、黒のニーソックス、そして「あたし、反抗期です」って叫んでるみたいな厚底ブーツ。(絶対、背、高く見せたいんでしょ。あたしよりチビだもんね)でも、サーモンピンクの髪を蝶々のリボンで結んでるのは、小さい頃と変わらない。ゴスロリなのに、そこは可愛いんだ。


 彼女はあたしにピンクの長袖ブラウスと黒の花柄スカート、それにニーソックスを試着させた。「はるちゃん、ちょーカワイイじゃん!」って言って、パチパチと手を叩く。次に、白のストライプシャツとサスペンダー付きのショートパンツ。「オシャレじゃん?」最後に、黒の長袖シャツ、ショートパンツ、キャップ、そして、あの忌々しいニーソックス。またこれかよ?!


「ヤダ、ヤダ、ヤダー!」あたしは叫んで、服をポイポイと放り投げた。「可愛すぎる!本物のデートみたいじゃん!」


「でも、デートじゃないんでしょ?」直美ちゃんは不思議そうに首をかしげた。


「違う!勉強!べ・ん・きょ・う!わかった?!」


「じゃあ、制服で行けばいいじゃん、うけるー」彼女は肩をすくめた。


 あたしはキャップをひったくって、彼女の顔に投げつけた。「週末に制服で出かけるわけないでしょ、このアホ!」


「はいはい。じゃあさ、ショッピングモールで、あのユウさんに会った時の服着ればいいじゃん?」


「え、あれ?でも、あれは…ちょっとカジュアルすぎ…」あたしは口ごもった。認めたくなかったけど、まともな服がそれしかないみたいに思われるのも嫌だった。(でも、ゆうくんが気づいたらどうしよう?)原宿で会った時の彼のスタイルを思い出す。いつもあの黒いTシャツに、革のブレスレット、それに緑のメッシュ。彼、ほとんど同じ格好してるし。


「あの日、何着てたっけ、はるちゃん?」直美ちゃんは服をかき分けながら聞いた。


「黒いシャツと、ピンクのジャケット、それにジーパンのショートパンツ」あたしはベッドの隅を指さした。


「うわ、ダッサ」彼女は心底軽蔑したように笑った。


「ダサくない!」あたしは腕を組んで抗議した。


「はいはい、じゃあ、それ着てみなよ」


 あたしはブツブツ文句を言いながら、黒いシャツ、ピンクのジャケット、ショートパンツを着た。直美は黒のニーソックスをあたしの方へ投げた。「これも履いて。あと、キャップ!」この子、なんでこんなにキャップ好きなわけ?!


 全部着て、鏡を見る。まあ…悪くないかも。ピンクのジャケットがカジュアルな感じを出してて、紫のメッシュが全体の雰囲気と合ってる。でも、まだ自信ないな…


 キャップを直してると、ふと疑問が湧いた。「ねえ、直美ちゃん?」


「なーに?」


「あたしが勇太先生と『デート』するのって…変じゃない?」あたしはためらいがちに、彼女の反応をビクビクしながら聞いた。


「はぁ?」彼女はこっちを向いて、眉をひそめた。「てか、勇太先生って、あのユウさんなんでしょ?」


 彼女はスマホを取り出して、一枚の画像を見せてきた。それは、片方に眼鏡でダルそうな顔の勇太先生、もう片方に緑のメッシュとブレスレットのユウさんが並べられたコラージュ画像だった。完全に同一人物。


 あたしの顎がガクンと外れた。「な、なんで、あんたがそれを知ってんの?!」


「ん?数日前に気づいたんだよね」彼女は肩をすくめた。「言おうとしたじゃん、覚えてる?でも、はるちゃんがあちしのこと無視したんじゃん」


 うそ、マジか。あの時の廊下での…あの金持ち女にあたしが殺されそうな目で見られてた瞬間のことか。


「ま、とにかく!これでデートの準備はバッチリだね!」直美はニシシと笑った。


「デートじゃないって言ってんでしょ!」あたしはまたキャップを彼女に投げつけた。


___________________________________________________


竹内勇太


 クソっ…今日は花宮さんとの対面授業がある。鏡の前で、俺はギリギリと張り詰めていた。別に、彼女と会うからじゃない。俺自身の問題だ。昨日は、喋るべきじゃないことをベラベラと喋りすぎた。


「俺の名前は存在しない」だと?どこのどいつがそんなヘマをやるんだ。竹内さんのこと、自分の歳、過去…偽装を木っ端微塵にする情報を漏らしてしまった。一言一言が、致命的なミスだった。


 俺はまだ、花宮さんが『インクイジター』——ゲートの『インクイジション』と呼ばれる部門のエージェントである可能性に囚われている。これまでの授業、彼女の接近、バカげた質問の数々…すべては、彼女の意図を探るための俺なりのテストだった。だが、彼女はあまりにも分かりやすく、不器用で、素人すぎる。質問はストレートだし、反応は大げさだ。


 桜井さんから渡された資料には、彼女や彼女の家族についての記載は何もない。だが、これだけ分かりやすいと、疑わない方がおかしい…


 本物の『インクイジター』なら、もっと巧妙で、人を操る術に長けているはずだ。自分の言葉に躓くような、ただのガキじゃない。だが、もしそれが戦術だとしたら?俺に油断させ、警戒を解かせるための。ゲートは過去にそういう偽装を使ったことがある。この仮説は捨てきれない。


 彼女の馴れ馴れしい、「友達」になろうとするやり方は、学生時代の記憶を呼び起こす。青い長い髪の少女…彼女の目は思い出せないが、屈託のない笑顔は、俺の胃をギリリと締め付けた。あの時、気づかなかった警告。まさか、花宮さんが彼女と同じタイプだとでも言うのか?いや、くだらん。なぜ俺はこんなことに固執している?


 俺はハァ…と深くため息をつき、髪をガシガシと掻いた。「落ち着け。あいつがゲートと繋がっている理由はない。誰もがお前みたいに、厄介な過去を背負ってるわけじゃない」そう自分に言い聞かせようとする。


 だが、鏡を見ると、あの倉庫での一瞬がフラッシュバックする。花宮さんと対峙した、あの時。彼女の瞳にあったのは、ただの好奇心じゃなかった。心配?それとも、俺の動揺を誘うための揺さぶりか?クソっ…判断がつかん。


 俺は喋りすぎたのか?竹内勇太という偽装は完璧じゃないが、ここまで自分を晒したことはなかった。彼女は今、俺をどう思っている?逃亡者か?狂人か?チッ…しくじった。


 彼女が誰かに何かを話す可能性を考えた。高橋さん——あの無害そうな女子生徒——にではなく、点と点を繋げられる誰かに。可能性は低いが、ゲートの目はどこにでもある。俺の言葉が間違った耳に入れば、俺が対処できる範囲を遥かに超える問題になりかねない。


 俺は反射的に、緑色のシャツを手に取り、袖を通した。鏡に映る俺の顔は疲れていて、目の下の隈が緊張を物語っている。部屋は相変わらずだ。散らかったベッド、書類が山積みの机、閉められたブラインド。忘れられたマグカップから、冷めたコーヒーの匂いが微かに漂ってくる。


「あいつは、本気にしていないかもしれないな」独り言を呟き、胸の重荷を軽くしようとする。だが、疑念は消えない。なぜ、俺は彼女に警戒を解いた?誰かを信用するなと、ましてや過去を明かすなと、俺はそう訓練されてきたはずだ。なのに、なぜ花宮さんを傷つけるとか、怖がらせるという考えが、こうも俺の神経を逆撫でするんだ?一体どうなっている…


 俺はベッドの端に腰掛け、手で髪をグシャグシャとかき混ぜた。無視できない葛藤が、腹の底で渦巻いている。俺の受けた訓練は、彼女を容疑者として扱えと命じている。彼女のしつこさ、答えを掘り出す能力…すべてが怪しい。だが同時に、彼女をそうやって断じるのは、間違っていると感じる。彼女は学生だ、エージェントじゃない。俺が間違っていないと分かっていても、罪悪感がまとわりつく。こんなものに、気を散らされている場合じゃない。今日の授業に集中しろ。ただの授業だ。それ以上でも、それ以下でもない。


「考えすぎか…」俺は呟き、立ち上がってネクタイを締め直した。


 ベッドから立ち上がり、機械的な動きで身支度を終える。ネクタイを締め、ブレザーを羽織り、罪悪感を無理やりに振り払おうとした。そして、鏡を見て、ギクッと凍りついた。


「チッ…なんだこれは…なぜ俺が学校の制服を着ている?」


 俺は思考にどっぷり浸かるあまり、そのミスに気づかなかった。緑のブレザー、チェック柄のネクタイ——教師の格好だ。俺はため息をつき、ブレザーをバサッと脱ぎ捨てた。「…油断しすぎだ」


 顔を手で覆い、気合を入れ直す。黒いジャケット、グレーのTシャツ、濃い色のジーンズに着替えた。髪をお団子に結び、緑のメッシュを隠す。今日の俺に、原宿の「ユウさん」の要素は一切ない。偽装と偽装の間に繋がりが生まれるのはリスクだ。バックパックを掴み、中身を確認する。ノート、ペン、携帯。よし。


 俺はもう一度鏡を見て、背筋をピンと伸ばした。「準備完了だ」と呟く。だが、心の中では、準備など程遠いと分かっていた。今日の授業はテストだ。花宮さんの緊張を、俺は読み取られてはならない。もし彼女が『インクイジター』なら、俺のどんな些細なミスも見逃さないだろう。もしそうでなければ、俺は教師の仮面を被り続け、余計な質問を避けなければならない。任務は、自分の正体を守り、生き残ること。だが、罪悪感は消えない。制御できない重荷だ。彼女を疑うのは必要悪だが、なぜこれほどまでに、間違っていると感じるのか?


 …考えすぎか。俺はもうエージェントじゃない。クルセイダーでもない。これは、ただのくだらない任務のための偽装だ。今の俺は竹内勇太だ。望むと望まざるとにかかわらず…


___________________________________________________


 今日、授業で指定した場所は、大学の近くにあるカフェだ。学校からも俺のアパートからも数分の距離にある。普段からよく利用している場所だ——教師という偽装を保つには、目立たず、理想的な環境だからな。チッ…面倒なことだ。


 だが、家を出た瞬間から、胸にズシリと重たい嫌な予感がしていた。いつものことだ。エージェントの偏執病——そう自分に言い聞かせようとするが、勘というものは、滅多に外れない。


 カフェに着くと、花宮さんはもう窓際の席に座っていた。午後の光が彼女のテーブルを照らしている。隣の椅子にはカバンを置き、テーブルの上には教科書やノートを散らかしていた。彼女なりに整理されているカオス、といったところか。勉強に集中しているように見えるが、頬がポッと赤いのは、ただの緊張だけではなさそうだ。


(一次分析:緊張している学生。あるいは、見事な演技か)一つ一つのディテールを記録する。不器用な態度は、まだ偽装の可能性がある。『インクイジター』である可能性は消えていない。


「ごめん、待たせたかな」俺は彼女の向かいの椅子を引きながら、僕としての声色で言った。


「ううん、遅れてないよ。あたしが早く来すぎただけ」彼女はそう答えたが、その笑顔はどこか無理しているように見えた。何かを証明しようとしているのか。くだらん。


 俺はテーブルに山積みになった教材に目をやり、教師の仮面を被ったまま、含み笑いを漏らした。「ずいぶん準備がいいんだね」


「本気だって言ったでしょ!」彼女は腕を組んで、少し挑戦的な口調で言い返した。はいはい、分かったよ。いちいち突っかかってくるな、面倒なやつめ。


 俺はバックパックから大学の教科書を何冊か取り出してテーブルに置き、勉強を始めた。任務は二つ。普通の学生という外見を保つこと、そして、より重要なのは、花宮さんを観察することだ。


「あれ?あたしのためだけの授業じゃなかったの?」彼女は首をコテンと傾げ、純粋に不思議そうな顔をした。


「僕も勉強しないと。君と同じで、試験があるんだ」俺はニュートラルな口調を保って答えた。


「へぇ」彼女は口元を隠し、笑みをこらえた。「そういうところ、ゆうくんも普通の学生さんみたいだね!」


(ゆうくん…まだその呼び方か。挑発だな。警戒を怠るな)「僕も学生だよ、君と同じさ」俺はそう言って目を細め、彼女をじっと見つめた。その呼び方は馴れ馴れしすぎて、まだ不快感がまとわりつく。意図的なのは間違いない。


 数分間、沈黙が続いた。それぞれが自分の教材に集中する。彼女が何かしらの揺さぶりをかけてくるのは分かっていた。だから、彼女のために模擬試験を用意しておいた。これで僕の勉強時間を確保し、彼女を観察する時間が稼げる。案の定、模擬試験が終わるとすぐに、彼女は俺の注意を引こうとしてきた。


 俺は模擬試験を添削し、彼女が「thought」のような基本的な単語の発音でさえつまずくたびに、内心でため息をつきながら、辛抱強く間違いを指摘してやった。ついでに、彼女の反応を試すため、さりげない挑発を混ぜてやった。彼女がムッとして目をそらす仕草は、ほとんど予測通りだったが、確信が必要だった。これはただの苛立つティーンエイジャーか、それとも巧妙に作られた仮面か?


「じゃあ、『read』の過去形は…」俺は彼女のノートに書かれた単語を指して尋ねた。


「うーん… readed?」彼女はためらいがちに答えた。


 俺はピタッと動きを止め、我慢できずにため息をついた。(どこからそんな発想が出てくるんだ…)「花宮さん、『read』の過去形はスペルは同じだが、発音は違うんだ。'ed' はつかない。どこで習ったんだ、それは?間違った翻訳でも読んだのか?」


 彼女は眉をひそめ、何かモゴモゴと呟いた。俺が彼女の練習用にノートに短い文を書いていると、その時、ゾクッと感じた。


 背筋を悪寒が駆け上る。外の何かが、俺の注意を引いた。見るべきじゃないと、俺の訓練がガンガンと警鐘を鳴らす。だが、見てしまった。クソっ…


 通りの向こう側、まるで彫像のように立ち尽くす、黒い長い髪の少女。シンプルだがエレガントな白いドレスを着ている。目は閉じられているが、あの皮肉な笑みは、見間違えるはずがない。心臓がドクンと鈍い音を立て、手から鉛筆がポロリと滑り落ちそうになった。


「チッ…げっ…」抑えようとする前に、声が漏れた。


「ゆうくん、どうしたの?」花宮さんが、不思議そうに首をかしげて尋ねてきた。


「何でもない!」俺はあまりにも早く答えすぎた。ミスだ。その失敗の重みが、ズシリと圧し掛かる。彼女はもう疑っている。


「窓の外、見たでしょ。何かあるの?」


 彼女が振り向く前に、俺の体は反射的に動いていた。手を伸ばし、テーブルの上にある彼女の手を掴む。不必要な接触、リスクだ。無理やり俺の方を向かせる。「見るな!」


 彼女はパチクリと瞬きし、驚いた。「なんで?外に何があるのよ?」


「いいから…勉強を続けろ」俺は彼女の手を離し、ノートを指差した。どうにかしてコントロールを取り戻そうとする。「いいか、ここに集中しろ。『He has read the book before』。声に出して読んでみろ」


 花宮さんは俺の緊張を分析するように、目を細めた。だが、彼女が何かを言い募る前に、空気を切り裂く音がした。


 コンコン。窓を叩く音。


 俺の呼吸が止まった。誰かなんて、見る必要もなかった。だが、俺の本能が裏切った。振り向くと、そこに彼女がいた。ガラスの向こう側。目は閉じたままだが、その微笑みは今や穏やかで、静かですらあった——そして、その方が何倍もタチが悪かった。


「げっ!」と、花宮さんが彼女を見て叫んだ。チッ…来たか。


 彼女は椅子から飛びのき、ショックで目を大きく見開いている。「なんで彼女がここに?」と、答えのない問いを自分自身に呟いている。


 外の少女は、俺たちの反応を楽しむかのように首をかしげた。そして、ゆっくりと、目を開いた。体中を、氷のような冷気が駆け巡った。


 カフェのドアがカランと音を立てて開き、彼女は、まるで目に見えない重りを引きずるかのように、静かに入ってきた。彼女の視線は、即座に俺の視線と絡み合い、その微笑みは、刃のように鋭く研ぎ澄まされた。


「随分とお早いですわね、勇太さんです」彼女は、まるでそこが自分の所有物であるかのように、俺たちのテーブルまで歩きながら言った。


「フラヴィアン…」俺は、苛立ちと警戒が混じった声で、その名前を呟いた。こいつが現れる可能性は考えていた。だが、今、ここでじゃない。


「わたくしのことをよくご存知です。わたくし、驚きが大好きですのですよ」彼女はそう答え、許可もなしに俺の隣に腰を下ろした。(相変わらず、図々しい女だ。ムカつく)その声は軽いが、鉛のように重い意図が込められていた。


 花宮さんは、好奇心と不安の間で揺れ動きながら、彼女をじっと見つめている。彼女が口を開く前に、何を尋ねるかなど、分かりきっていた。


「あら、失礼いたしましたです」フラヴィアンは、大げさなほどフォーマルな仕草で胸に手を当てた。「わたくし、フラヴィアン・シルバーハンドと申しますです。そして、あなたは花宮陽菜さんでいらっしゃいますねです」


 花宮さんはパチクリと瞬きし、不意を突かれた。「あ、はい。あたしは花宮陽菜です。初めまして」


「お会いできて、光栄の至りです!」フラヴィアンは、計算された熱意で言い返した。「ぜひお会いしたいと思っておりましたの。あなたのことは、それはもう、よく伺っておりますです」


 俺はフンッと鼻を鳴らし、窓の外に視線を逸らした。フラヴィアンは、耐え難いほど鬱陶しい。彼女は花宮さんの方に身を乗り出し、その瞳を悪意でギラつかせた。「ご存知かしらです?わたくし、勇太さんとは、もう何年ものお付き合いですのよ」


「そうなの?」花宮さんは、俺の方をチラリと見て尋ねた。


「ええ、ええ。それはもう、長いですわ。彼は少々…難しい方ですけれど、魅力もおありですわよね、そうは思いませんことです?」


 花宮さんは神経質そうに笑い、俺は無意識に答えていた。「まあ、そうだな…」


 俺はフラヴィアンが会話を支配するのを無視しようとしたが、我慢の限界は、彼女が「うっかり」俺のコーヒーカップにガツンとぶつかった時だった。熱い液体がテーブルと俺の膝にこぼれ、俺は椅子がガタンと音を立てるほど、素早く立ち上がった。


「フラヴィアン!」叫び声が漏れた。クソっ、冷静さを失った。


「あら、まあ、勇太さん!わざとではないのです、誓ってです!」彼女は、俺を余計に苛立たせるだけの、偽りの無邪気さを浮かべて言った。


「わざとじゃない、だろうな…」俺は皮肉を込めて呟き、ナプキンで服を拭った。


「お着替えになってくださいな、勇太さん。台無しです」フラヴィアンは、まるで俺の母親でもあるかのように、首を振って言った。


 俺はチッと舌打ちし、苛立ちながらトイレに向かい、二人を後にした。一歩一歩、彼女がここにいる理由を突き止めなければならないという確信が、頭の中でガンガンと響いていた。手遅れになる前に。

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