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第4話「青春のひとコマ」

花宮陽菜


 磨かれた畳の上をあたしの運動靴がキュッ、キュッと鳴る音だけが、張り詰めた道場の空気に響いていた。一ヶ月。光ちゃんが言うところの「訓練」が始まってから、丸一ヶ月。あたしに言わせれば、それは日々の拷問、筋肉が悲鳴を上げ、プライドが虫けらのように踏みにじられる屈辱のセッション。でも、今日は…今日は違った。


 あたしも彼女も、学校の体操服を着ていた。汗と決意の匂いが、五階に隠された道場の古い木の香りと混じり合っている。


「行きますよ、花宮先輩!」


 彼女の声が静寂を切り裂き、そして**バッ!**と突進してきた。


 光ちゃんはまるで稲妻のようだった。その動きは速く、正確で、一撃一撃が痛みを約束している。でも、初めて、あたしはただやられているだけじゃなかった。パンチをブロックし、蹴りをひらりとかわし、彼女の肩にかすかな一撃を当てることさえできた。あたしの顔に、勝利の笑みが浮かぶ。


(いける!あたし、これ、才能あるかも!)


 自信があたしの胸を風船みたいに膨らませた。あたしはリスクを冒すことにした。格闘アニメで見たような、欲張ったハイキック。一瞬、彼女の驚いた顔を想像した。でも、唯一の驚きは、猛スピードで近づいてくる畳だった。


 光ちゃんは、あたしの隙を残酷なほどの効率で利用した。クルッと一回転、グイッと引かれ、世界が逆さまになる。彼女の腕があたしを解放し、あたしの体は無様に床に落ちた。


 ドサッ!


 あたしはそこに横たわり、木の天井を見つめながら、筋肉という筋肉が抗議の声を上げるのを感じていた。「あーん…もうちょっとだったのに…」と、彼女にというより、自分自身に文句を言った。


「『もうちょっと』、ですね、花宮先輩」彼女の声が上から降ってきた。楽しげなからかいが混じっている。「でも、正直、すごく上達しましたよ」彼女はあたしの隣にしゃがみ込み、オレンジ色のポニーテールが揺れる。「もう一ヶ月経ちましたから。覚えるのが早いんですね」


 その予想外の褒め言葉にあたしは力を得た。うめきながら立ち上がり、体操服の架空の埃を払う。「じゃあ、あたし、ナイトになる才能あるかもね!」と宣言し、新たな野望を強調するために空中にパンチを繰り出した。


 光ちゃんの笑顔が揺らいだ。彼女の紫色の瞳が一瞬逸れ、無理に作ったような笑みが唇に浮かぶ。「ええ…もちろん…」


 その口調で十分だった。「やめてよ、そういうの」と、あたしの声は今や単調で、何の熱意もなかった。「なんか、傷つくんだけど…」


 彼女が何かを言う前に、彼女のポケットで携帯がブーッと震えた。その変化は瞬時だった。光ちゃんの真剣な表情は消え去り、画面を見つめる彼女の顔には、耳まで届きそうな満面の笑みが広がっていた。


 あたしのゴシップレーダーが作動する。「なによ、それ?」と、意地悪く笑いながら近づいた。「『彼氏』くん?」


「勇太先生に『デート』に誘われちゃった」と、彼女は携帯から目を離さずに言い返した。


 パリンッ!


 あたしの心が粉々に砕け散る音だった。脳がシャットダウンする。(デート?勇太くんと?)


「なーんてね」と彼女は言い、ようやくあたしを見て、あたしのドラマチックな反応に呆れたように目を回した。


「じゃあ、誰よ?!」と、あたしは携帯の画面を覗き込もうと、彼女に詰め寄った。光ちゃんの細くて繊細な顔が、彼女が必死に携帯を隠そうとすると、真っ赤に染まった。


「せ、先輩には関係ないでしょ、このストーカー!」と、彼女はどもりながら、防御姿勢になった。


「関係あるもん!教えなさいよ!」と、あたしは再び彼女に迫った。


 でも、あたしは教訓を学ぶべきだった。**はぁ…**と苛立ったため息をつき、光ちゃんが動いた。あたしが瞬きする前に、あたしの足はもう床についていなかった。


 ドサッ!


「今日の訓練はここまでです!」と彼女は文句を言い、もうドアに向かっていた。あたしを再び畳の上に打ちのめされたまま置き去りにして。「先輩の好奇心は、いつか身を滅ぼしますよ、だって!」


_________________________________________________


 次の日、奇跡が起きた――授業が中止になったのだ。もちろん、教育の神様が気まぐれを起こしたわけじゃなく、学園祭がすぐそこに迫っていたから。先週には各クラスや部活の出し物も決まって、天才的な副会長であるあたしは、何が起こるか全部知っていた。まあ、あたしが興味あることだけだけどね。他はどうでもいいし、ごめん…


 そのキッカケは昨日のことだった。


 あたしは生徒会室にいた。そこは紙と整理整頓、そして星野さんの正気の匂いがする場所。彼女は書類の束を手に取り、フラヴちゃんに近づいた。


「会長」と、星野さんは落ち着いた効率的な声で言った。「一階から三階までの空き教室だけでは、全ての部活に割り当てるには足りないかもしれませんわね、かしら」


「そうですの」フラヴちゃんは自分の書類から目を離さずに答えた。「それでしたら、勇太先生にご相談なさってくださいまし。彼が顧問ですもの」


「ええ、そうしますわ」と星野さんは頷いた。


 その瞬間まで、あたしは半分心ここにあらずだった。アレクサンダーくんの隣に座って、学園祭の予算についての彼の詳細な説明を聞いているフリをしていた。スプレッドシート、数字、グラフ…うとうと… でも、「勇太先生」の名前を聞いた途端、あたしの探偵の耳がピクンと動いた。これはあたしの出番!あたしのミッション!


 アレクサンダーくんが数字の列を指差し始めた。「花宮先輩、この予算案ですが…」でも、彼が振り向いた時には、あたしはもうそこにいなかった。


 あたしは星野さんからファイルを**バッ!**と奪い取った。「ここはあたしに任せて!あたしが解決するから!」と、最高のヒロインポーズで宣言した。


 二人はあたしを見てギョッとして、目を丸くしていた。一瞬、星野さんが気絶するかと思った。でも、フラヴちゃんの唇に、悪戯っぽい、ほとんど悪魔のような笑みが浮かんだ。


「ええ、よろしいですわ♥」彼女は、あたしがゾッとするような甘さで言った。


 …というわけで、今、あたしは生徒会室じゃなくて、自分の教室にいる。準備週間中はクラスを手伝いたいってフラヴちゃんに泣きついたら、意外にもあっさりOKしてくれたのだ。アレクサンダーくんは自分の視聴覚部に逃げ込んだし、星野さんと宮崎くんがフラヴちゃんを手伝ってる。フラヴちゃんと星野さんがいれば、まあ、なんとかなるでしょ。特に宮崎くんなんて、フラヴちゃんに言われれば何でもやるだろうし…あいつはもう手遅れだ。


 クラスの子と、フリフリのエプロン――あたしたちの「ユニフォーム」――のせいでどれだけ動きにくいか文句を言いながら、あたしは二人の不在に気づいた。


 魁斗くんと直美ちゃん。


 直美ちゃんはデザイン部の準備に集中するって言ってたからいい。でも、魁斗くんは違った。ただ手伝えないって言っただけ。いつもの「ごめん」って顔してたけど、彼の目…なんかいつもと違って、彼にしては真剣すぎたんだよね。


「陽菜ちゃん、この看板、もっとキラキラさせた方がいいかな?」とクラスメイトが聞いてきて、あたしは思考の渦から引き戻された。


「当たり前じゃん!ダサければダサいほどいいんだから!」と笑って返した。


 その時だった。聞き覚えのある声が、あたしを呼んだ、いや、襲撃した。


「ハルナァァァ!」


 直美ちゃんだった。あたしが反応する前に、彼女は教室にズカズカと入ってきて、あたしのブラウスの襟を**グイッ!**と掴んで、教室の外に引きずり出した。


「ちょ、何よ?!何があったの?!」あたしはバランスを崩し、まだ装飾品でいっぱいの段ボール箱を抱えながら叫んだ。


 クラスメイトたちはただ、口をポカーンと開けて見ているだけ。親友がまるで人質でも運ぶかのようにあたしを廊下に引きずっていくのを。何が起こっているのかサッパリ分からなかったけど、一つだけ確かなことがあった。これは、絶対に厄介なことになる!


 直美ちゃんにズルズルと引きずられて、あたしは学校の階段を上っていた。視聴覚デザイン部の部室まで。あたしはまだあの段ボール箱を抱えたままで、直美ちゃんは部室のドアの前でピタッと止まると、無表情で中をじーっと見つめている。


「なーおーみーちゃん、もしかしてアレックスくんのことで助けが必要とか~~?」あたしが最高のからかい口調で言うと、彼女は**ポカポカ!**とあたしの肩を叩き始めた。「痛い!痛い!ごめんってば!」


「違うっつーの、このアホ!」と彼女は唸る。「もっと最悪なんだって」


「最悪ってどういうこと?」とあたしが聞き返すと、直美ちゃんは気まずそうに視線をそらした。その時、部室のドアが**バン!**と開いた。


「いたぞ!」


 メガネをかけた茶髪の男の子が、直美ちゃんに指を突きつけて叫んだ。「この裏切り者め!」彼は彼女に詰め寄る。


「ひっ…!」直美ちゃんは後ずさりしながら、防御するように両腕を前に出した。


 あたしはただポカーンと二人を見ていた。「誰、あんた?」


 男の子はあたしの方へ向き直った。「あんたもだ!嘘つき!裏切り者!偽善者!」


 **ガーン!**と衝撃が走る。「はぁ?!直美ちゃん、あんた何したのよ?!」


「『あちしたち』でしょ、このド阿呆!」直美ちゃんが叫び返した。「二人であいつを手伝うって約束したじゃん!」


 手伝う?何を?あたしの頭がグルグルと混乱していると、緑がかった光を反射するような白い髪に、瓶の底みたいなメガネをかけた女の子が廊下を通り過ぎていった。その瞬間、あたしの頭の中で**ピコーン!**と全てのピースがはまった。学校のサーバーにハッキングしてくれた男の子…見返りは、あの白髪の女の子と友達になるためのヒント…


「あああっ!宏くん!」


「今ごろ気づいたんですか!?」と彼は叫んだ。


「あいつ、あたしたちの『貸し』を『取り立て』に来たんだよ」と、直美ちゃんが降参したように言った。


「でも、もう手伝ったんじゃないの?」


「それが、ややこしいんだって…」


「ややこしい?!」宏くんが爆発した。「あの日から、直美先輩は僕から逃げてばかりじゃないですか!」


 直美ちゃんが何か言い訳しようとしたけど、あたしは一番残酷な真実を口にした。「だって、直美ちゃん、男の子と話すの苦手だもんね?」彼女があたしに向けた、子犬が捨てられたみたいな目…ちょっとだけ罪悪感を感じた。ほんのちょっとだけ。


「とにかく…」と宏くんが口を開き、彼の想い人――鏡さんの名前を口にしようとした。その時、当の本人がまた通りかかり、「失礼します」と蚊の鳴くような声で言って、廊下の向こうへ消えていった。


 宏くんはカチン!と凍りついた。直美ちゃんが彼の肩を掴んでユサユサと揺さぶる。「宏!宏!」、でも彼は石像みたいに動かない。


 それからしばらくして、あたしたちは――ごく自然なことのように、彼女をストーキングしながら――宏くんが彼女に話しかけるための作戦会議をしていた。「ヒント」の貸しが踏み倒された今、彼の新しい要求は「直接話しかけるのを手伝うこと」になっていた。問題は、宏くんが好きな女の子の前だと完全にフリーズしてしまうこと…


「でも、あたしたちとは普通に話せてるじゃん」とあたしが言うと、


「あちしたちのこと、女として見てないっしょ…」と直美ちゃんが返した。彼女はそれを証明するかのように、宏くんの腕を片手でぎゅっと抱きしめた。彼の顔は「迷惑」と「退屈」が混ざっただけ。あたしも反対側の腕を抱きしめてみる。同じく、無反応。でも、あたしたちが彼を鏡さんのいる方向にぐいっと向けると、彼はサッと目をそらし、顔を真っ赤にした。(なんてピュアな子なの!)


「とにかく、何か彼を助ける方法を見つけなきゃ」と直美ちゃんが言った。


「彼女と話したことあるの?」とあたしが聞くと、彼は部活のことで事務的に話した時のことを思い出し、どもりまくった自分に耐えられなくなったのか、「うわあああ!」と叫びながら床に突っ伏してしまった。


「椿さんの選挙チームにいた時」と直美ちゃんが口を開いた。「鏡さんとも少し話したけど、マジでシャイで物静かなんだよね…何に興味があるかとか、サッパリだし…」


 その言葉に、あたしの頭の中で電球が灯った。直美ちゃんが理香ちゃんのチームにいた。鏡さんもそこにいた。ビンゴ!


 二人が不思議そうにあたしを見る。


 二階の、あたしたちの教室の近く。やっとあの段ボール箱を戻した後、あたしたちはある教室に入った。そこでは、クラスがお化け屋敷の準備でガヤガヤ、バタバタと大騒ぎになっていた。生徒たちが、長い赤髪の女の子の指示で走り回っている。あたしたちは彼女の元へ向かった。


「理香ちゃん!」


 椿理香が振り向く。その緑の瞳が、あたしたち三人を上から下までじろりと見つめた。「あら、花宮さんじゃありませんこと」


 廊下で、あたしは山田宏くんの状況を説明した。理香はしばらく、この件に首を突っ込む価値があるかどうか、考えているようだった。


「その前に」と彼女は話を遮った。「わたくしを『普通の女の子』にしてくださると約束しましたわよね?」


「あー、生徒会が忙しくて…でも、見捨ててないから!」


「一日に一度しか顔を出しませんのに?」


「それだけ来れば十分でしょ!?」


「あんたの『普通』って、独裁者になること…?」と直美ちゃんがボソッと呟いた。


「椿先輩が出て行ってから、クラスの先輩たち、みんなホッとしてたっすよ…」と宏くんが同意した。


 理香ちゃんは二人を無視した。「鏡白雪さん、ですの…」彼女はあたしたちを見た。あたしは捨て犬のような目で、直美ちゃんは「早く帰りたい」という顔で、宏は純粋な同情を誘う顔で。


「…よろしいですわ!」彼女はついに言った。「お手伝いしますわ!」


 教室の中から「「「おおおおお!」」」と歓声が上がった。


「わたくしのクラスも、あなた方を手伝うように望んでいるようですし、仕方ありませんわね」


「あの、僕は別に――」宏が口を開こうとしたが、直美ちゃんがさっと彼の手を口で塞いだ。「一言も喋んな!」


___________________________________________________


(よし、作戦名『ミステリアスな女子に話しかけよう』は、壮大な失敗に終わったわね。)


 あたしたち四人は、歴史上もっともヘタクソなスパイみたいに、一本の柱の後ろに身をかがめていた。鏡白雪さんを遠くから観察する、あたしたちの哀れな監視ごっこ。


「てかさー、理香ちゃんと彼女って友達なワケ?」隣で、直美ちゃんの声がした。その一言一句から、もう飽き飽きしてるって感じが伝わってくる。


「フン」理香ちゃんは、完璧なプリーツスカートを直しながら、直美ちゃんの方を見ようともせずに言った。「彼女の能力を買ってお呼びしただけですわ。友情のためではございませんの」


「じゃあ、なんであちしたちはあんたについて来たわけ?」と直美ちゃんがため息をつく。その気持ち、痛いほどわかる。


「それでも、価値はあったでしょ!」あたしは、自分を奮い立たせるために、そう主張した。


 理香ちゃんは、物理的に見えるんじゃないかってくらい、見事な「フンッ」を返しただけだった。


「そ、それがどう僕の助けになるんですか…」隣で、宏くんが呟いた。


「ええ、簡単ですわ、山田くん」次の瞬間、理香ちゃんはグイッと宏くんの襟首を掴むと、まだ先生と話している鏡さんの方向へ彼を向け、ドンッと背中を押した。「さあ、行きなさい」


 一瞬、彼は反対方向に逃げ出すかと思った。でも、彼は行った。まるで壊れたロボットみたいにガチガチと、一歩、また一歩と…。理香ちゃんが親指を立ててウィンクすると、彼は進み続けた、そして、続けた…


「ねぇ」あたしは他の二人を見た。「あの子がそこに着くの、ずいぶん待ってない?」


「…だって、あいつ、同じ場所で足踏みしてるし」と、直美ちゃんが感情のこもらない声で答えた。


 もう我慢の限界だった。


「「「とっとと行かんかーい、このタコ!」」」


 あたしたちの叫び声が、彼の催眠状態を解いたようだった。ドキッ! 宏くんは、ついに目的地へと、最初の一歩を踏み出した。彼はもうすぐそこ、あと数メートルというところで、鏡さんがこちらに気づき、その表情が変わった。


「あれ?光ちゃん?」


 隣の廊下から、オレンジ色の髪をした少女が現れた。前は短く、後ろは活気あふれる高いポニーテール。藤堂光ちゃん。


 あたしと直美ちゃんは同時に「光ちゃん?」と言ったけど、彼女のトーンは「誰よ、このチビ」って感じで、あたしのは「あ、光ちゃんだ!」っていう、正反対のものだった。


 光ちゃんは、ちょっと怒った様子で鏡さんにまっすぐ向かった。「鏡さん、今日は部室に来るって言ったじゃない、だって!」


 すると、鏡さんのいつも穏やかで閉ざされた顔が、あたしが今まで見たこともないような、優しくて静かな微笑みに変わった。「光、名前で呼んでくれていいのよ。私たち、友達でしょう?」


 あたしの戦闘の師匠の顔が、カァッと真っ赤になった。彼女は視線をそらし、どもった。「し、し、白雪ちゃん…」


 鏡さんはくすくすと笑いをこらえ、先生に「失礼します」と断ると、光ちゃんと一緒に廊下を歩いて行った。後ろには、完全に固まってしまった宏くんが残された。


「あーあ、チャンスがパーじゃん」と直美ちゃんが言った。


「あの新入生は誰ですの?」理香ちゃんが、邪魔されたことに明らかにイライラしながら尋ねた。


「そーそー、『光ちゃん』、ねぇ…」直美ちゃんは、あたしの真似をしてからかった。


 適当な言い訳をして、彼女の嫉妬をからかい返そうとしたけど、直美ちゃんはもうあたしを無視して、廊下の真ん中で立ち尽くすあたしたちのロマンスの主人公を見ていた。あたしたち三人は彼を囲み、彼の涙、絶望、そして存在意義の危機を待っていた。


 でも、彼の顔には、だらしない笑みが浮かんでいた。


「彼女の笑顔…なんて綺麗なんだ…」


 あたしたち三人は顔を見合わせた。そして、静かで普遍的な合意のもと、この可哀想な子を彼自身の妄想の中に置き去りにして、ただ立ち去ることに決めた。


「おい、待てよぉぉぉ!」宏くんが、ついに我に返って叫んだ。


「わたくしは自分の教室に戻りますわ。文化祭の準備は、勝手には進みませんもの」と理香ちゃんは、振り返りもせずに言った。


「あちしも!デザイン部があちしを必要としてるし!」と直美ちゃんが付け加えた。


 二人は彼を通り過ぎて去っていき、あたしがこの可哀想な子と取り残された。彼女たちを呼ぶと、直美ちゃんは歩きながら、意地悪そうに笑って振り返った。「文化祭までまだ時間あるっしょ?」


「それまでには何とかなさるでしょう、山田くん」理香ちゃんは、女王様のようなお辞儀で締めくくった。


 宏くんは、完全に打ちのめされてため息をついた。あたしは彼の肩をポンと叩いた。「あんたが持ってるようなサポート、あたしも欲しいな」と、同情的に微笑んで言った。


「誰のですか?勇太先生のですか?」彼の無邪気な問いが、あたしの胃を殴った。


 あたしの魂が、**ヒュッ…**と体から抜け出そうになった。「い、いつからあんた…?」


 彼は、天気の話でもするかのように、単調で虚ろな顔であたしを見た。「デザイン部のみんな、知ってますよ。直美先輩、勇太先生のことしか話さないですから」


 ピキッ。


(裏切り者!)


 直美ちゃんが廊下を走って逃げる彼女を、あたしが鬼の形相で追いかけるイメージが、頭の中で鮮明に再生された。


「なおみぃぃぃぃぃぃぃ!」


 あたしは弾丸のように廊下を駆け抜けた。あたしを見ると、彼女は純粋な恐怖で叫び、逃げ始めた。その途中、ペンキのバケツを倒して、床に青い水たまりを作った。


「待ちなさい!!というか!廊下は走るな、ですわ!」理香ちゃんが、皮肉にも、あたしたち二人を追いかけて、これから始まるであろう喧嘩を止めようと走りながら叫んだ。

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