第6話「秘密の正体もう...じゃない」
花宮陽菜
もー、木曜日で、また曇り空。学校はもう「早く土曜日になれー」って、なんだかソワソワした雰囲気でさ。
廊下は週末の予定でみんなザワザワ、ガヤガヤしてるし、スニーカーを引きずるキュッキュッて音もやまないし、ホントうんざり。
で、最初の授業で、いきなり新しい人が教室にスッと入ってきたの。紺色のブレザーにプリーツスカートっていう、うちの制服をきっちり着こなして。
その子が教壇の前に立つと、チョークを手にして黒板にサラサラと「友美」って書いた。そしてクルッとこっちを向いて、ちょっと頬をプクッと膨らませながらも、キラキラした目で言ったの。
「あの、私の名前は葉志友美です!読み方は…えっと、《トモミ》じゃなくて、《ユミ》ですから!間違えないでくださいね!もし間違えたら…その…プンプンしちゃいますからっ!」
って、最後にちょっと拳をキュッと握って見せたけど、顔はポッと赤くなってる。何この子!ちょっと面白いかも!
友美さんは背が低くて、髪はショートで深みのある青色。動くたびにサラサラ揺れて、瞳は青と緑が混じった感じで、まるで南国の海みたい。うわー、キレイ。
「えっと、新しく社会奉仕活動の補助員として来ました。皆さん、よろしくお願いします!」そう言って、今度はちょっとホッとしたみたいにニコッと笑った。
ふーん、補助員ねぇ。名前の読み方には厳しいみたいだけど、なかなかいいじゃない。なんて、あたしはノートに適当な落書きをカキカキしながら考えてた。
その友美さん、自分のことは「先生」じゃなくていいって。まあ、インターンみたいなもので、先生たちの雑用を手伝うんだって。ていうか、スカート履いてるし。
直美ちゃんのお姉ちゃんで物理の先生の高橋香織先生、カオ姉ちゃんがいつもマジメぶってスラックス履いてるのとは大違いだ。
男子の先生はブレザーとスラックスが必須だけど、ネクタイとかシャツ、靴は自由らしい。で、竹内勇太先生は、もちろん期待を裏切らないっていうか、ズレてるっていうか…
他の先生が大体黒か紺のスラックスなのに、あの人だけ深緑のパンツ。シャツも薄緑で、チェックのネクタイはどっかのアニメから飛び出してきたみたい。絶対、自分を何かの主人公だとか思ってるんだって!あのオタクが!プンプン!
授業が終わると、直美があたしを廊下にグイッと引っ張り出して、目をキラキラさせながら言った。
「はるちゃん、あちし、ちょーヤバいネタがあるんだけど!」って、もうピョンピョン跳ねてるし。
でも、ロッカーの近くでピタッと立ち止まった途端、アレ?って顔。
「あれ…なんだっけ?ド忘れしちゃった!てへぺろ!」
マジか、直美ちゃん?!あたしは思いっきりジト目になった。
「はぁ?忘れたんなら、どうでもいいことだったんじゃないの?」腕を組んで言ってやった。
「うーん、そうかもぉ」なんて、あちしの顔見てケラケラ笑ってる。「でもマジで…学校の誰かの話だったはずなんだけどなー」デザイン部のゴシップでしょ、どうせ。フンッ!
トイレ行くって言って、そそくさとその場を離れた。で、廊下をテクテク歩いてたら、階段の近くで友美さんと勇太先生が話してるのを発見!
もちろん、あたしはソッコーで近くにあった文化祭のポスターの影にサッと隠れて様子をうかがったわよ。探偵ごっこ、ドキドキするし楽しいし!
友美さんはペコッとお辞儀して、「じゃあ、また後で、先輩!」って言って、パタパタと階段を降りていった。
せんぱい?!先輩って、え、何それ?!頭がカチンとフリーズしたんですけど!
そしたら、もう一人、誰かいるのに気づいた。長い黒髪の女の子。たぶん隣のクラスの子だ。あのお金持ちのお嬢様でしょ?制服にもなんか上品なスカーフ巻いちゃってさ。
その子と勇太先生が、なんか昔からの友達みたいにクスクス笑いながら話してる。はぁ?!あの無愛想な勇太先生が、あんなに楽しそうに?!いつもスマホでアニメでも見てるのかと思ってたのに!もう、わけわかんない!イラッ!
お昼休み、あたしのミッションはただ一つ。勇太先生の「秘密基地」を突き止めること!
学校の奥まった廊下の、あの角よ。右に行けば教室がいくつかあって、左は体育館への出口。正面には、なんかグルグルしてる階段。その階段の脇に、古い物置があって、その扉はギィ…って音を立てそうに錆びついてる。で、その隣、階段の下の薄暗いところに、彼がいつも隠れてる苔むした低い壁があるのよ。
着いてみたら…シーン…もぬけの殻。あの野郎、あたしから逃げるために新しい隠れ場所でも見つけたわけ?
まあ、いいや。あたしはいつものように地面にドカッと座り込んで、壁に寄りかかってスマホを取り出した。最近お気に入りの少女漫画でも読んで、気分転換しよっと。
あまりに夢中になってて、誰かがススッと近づいてくるのにも気づかなかった。
「おや、漫画ですか」
すぐ後ろから、ヌッと声がした。
「ビクッ!うわあああああああ!」
もう、心臓がドクンッて口から飛び出るかと思った!スマホもポロッと落としそうになるし!見れば、勇太先生が、いつもの心底つまらなそうな顔で、でも口元だけはニヤッと笑って立ってる。この…!音もなく近づいてくるとか、ホント性格悪い!
「なかなかいい仕返しでしょう?」先生は腕を組んで、あたしをからかうことすら面倒くさそうに言った。「はぁ、驚かせただけで、別に」みたいな。
「せ、先生こそ、何してるんですか!」あたしは胸を押さえながら、まだバクバクしてる心臓を落ち着かせようとした。マジで寿命縮んだ…!
「別に何も?当然でしょう」彼は例の秒で消える半笑いを浮かべると、すぐにいつもの無表情に戻って、あたしの隣に(もちろん、あたしがバイ菌か何かみたいに距離を置いて)腰を下ろした。緑色のブレザーは腕に畳んである。「休憩中に漫画とは、余裕ですね」
「べ、別にいいじゃないですか、時間つぶしです」スマホをギュッと握りしめて、顔がカァッと熱くなるのを感じた。「あたしは…軽い話が好きなんです」 あんたとは違うのよ!あんたは絶対、血なまぐさいバトルものとか、そういうのでしょ!あと、ロリコン…あの日のスマホの画面、絶対忘れないんだから!
「ええ、それは人気があるようですね。あの、髪型が個性的なキャラクター…なかなかいいセンスだと思いますよ」彼はふと、何か言いかけたけど、すぐにわざとらしい咳払い**コホンッ**をして、気まずそうに言った。「いえ、忘れてください、花宮さん」
「センスって、何がですか?」あたしは首をコテンとかしげた。もっと聞きたい!
「いえ、何でもありませんよ」彼はプイッとそっぽを向いて、退屈そうな顔にイライラが混じってる。何なのよ、この人、変すぎでしょ?!そんな怪訝な顔したって、あんたのその万年不機嫌フェイスが面白いわけじゃないんだからね!ただ、ミステリアスだから気になるだけなんだから!チッ!
あたしがもっと突っ込もうとした瞬間、別の声がした。
「あ、見つけた!」
友美さんだった。短い青い髪に、あのトロピカルオーシャンみたいな瞳。ブレザーにプリーツスカート姿で、廊下の角からひょっこり顔を出して、ニコニコしてる。
「先輩、いきなりいなくなるんですから!」そう言って、勇太先生を指さした。
また先輩?!あたしはもう、頭の中が「?」でいっぱい。勇太先生は、友美さんに例のジトーッとした視線を送った。完全に「お前、余計なこと言うなよ」って顔してる。
友美さんは、あ、ヤバいって感じでピクッとして、慌てて口走った。
「ち、違います!あの、大学で一緒だったんです!」
勇太先生は、もう諦めたのか、これ以上ないってくらい面倒くさそうに、「ええ、彼女は私の卒業した大学の後輩です」とだけ言った。後頭部をポリポリ掻いてる。完全に気まずい空気。
友美さんは必死にコクコク頷いて、手まで「そうそう!」みたいにパタパタ振ってる。あたしを説得しようとしてるのか、自分に言い聞かせてるのか。もう、この茶番、何なのよ、ホントに。
「へえ、お二人って、結構仲いいんですね?」あたしはニヤニヤしながら言ってやった。だって、面白そうじゃない?
友美さんは、ハッとしたみたいに固まって、それから急に目がキラリと光った。あたしには分からない、何かを察したみたい。
「ええ…まあ、そんな感じですかね!」彼女は意味ありげに笑った。
勇太先生は、もう完全に「無」の境地。床の一点を見つめて、魂が抜けたみたいにシーン…としてる。
「じゃあ、私は職員室に戻りますので。邪魔しちゃ悪いし」友美さんは一歩下がった。
勇太先生は、最後の力を振り絞って、友美さんに殺意のこもった視線を送った。彼女はそれに気づいてか気づかずか、すぐにスタスタと廊下の向こうに消えていった。教室の方へ。ホント、何だったの、今の…
彼は一つコホンと咳払いをすると、いつもの不機嫌フェイスで言った。
「それで、花宮さん、何か用ですか?」
「用って、別に…」あたしは首をかしげた。
「はて?わざわざ私の隠れ場所まで来て、何か緊急の用件があったのでは?」彼は顔も向けずに、横目でチラッとあたしを見た。ムカつく!プンプン!
「ち、違いますよ…!ただ、その…」何しに来たんだっけ、あたし?探偵のつもりだったのに!
「人恋しかった、とか?」彼はそう言ってあたしを遮ると、またあの半笑いを浮かべて、でもすぐに消した。そして顔をそむけた。何か後悔してるみたい。
え、何、この人、エスパー?!心臓がドキドキうるさいんだけど!
なんなのよ、今日のこの人、変すぎでしょ?!あたしは話題を変えようとした。
「先生、今日こそ教えてくださいよ!放課後、いつも何してるんですか?」
「いえ。まだ興味ありませんね、あなたに話すのは」彼は冷たい視線をあたしに投げた。うわ、キッツー…
「えええ?!なんでですか?!ケチ!」
「興味がないからです…」彼は少し間を置いてから言った。「ですが、そういえば、明日の午後はいつもの用事はありませんので、学校に残っていますよ」
その口調には、何か真剣な響きがあって、あたしは次の質問をゴクッと飲み込んだ。
「すみません、花宮さん、少し急ぎますので」彼はそう言ってスッと立ち上がり、不機嫌オーラを全開にした。
あたしは呼び止めようかと思ったけど、やめた。うん、その方がいい。
その日、夜の補習はなくて、先生からのメッセージもなし。竹内勇太先生、あんた一体何を隠してるわけ?!
帰り道、あたしの頭の中はぐるぐるだった。先生のこと、友美さんの「先輩」呼び、あのお嬢様…それに、直美の「ちょーヤバいネタがあるんだけど!」っていう言葉が、ずっとリフレインしてた。
もう、謎だらけで爆発しそう!
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次の日の朝、あたしはベッドからガバッと起き上がった。メラメラと燃える一つの使命感とともに!昨日からずっと、胸のあたりがモヤモヤして、時々キュッてなる…この変な感じの正体を、今日こそ突き止めてやる!
もー! 勇太先生のこと、なんか気になるけど、同時にすっごくムカムカする!頭の中がグルグルして、わけわかんない!
昼休みが来たとき、あたしは教室をダッとロケットみたいに飛び出して、先生を見つけようとした。でも、廊下で見つけたのは、くだらない噂話ばっかり。マジで、こいつら他にやることないの?!イライラする!
廊下をテクテク歩いてたら、ヒソヒソ声が聞こえてきた。勇太先生が「若い子が好き」だとか、「要注意人物」だとか言ってる生徒たちの声。(うわ、キモッ!マジ最悪!何なのあいつら、口に石鹸でもギュウギュウに詰め込んでやろうか!でも…あたしに何ができるっての?授業は秘密だし、先生を庇うなんてガラじゃないし…別に、あの人に助けなんていらないだろうけど!)それでも、そういう陰口は、腹の底からムカムカしてきた。
で、隣のクラスのドアにチラッと目をやったら、噂の原因がすぐに分かった。いた、例の勇太先生が。またあの長い黒髪のお金持ちのお嬢様と話してる。彼女の方はすっごく嬉しそうにケラケラ笑って、何年も前からの友達みたいに身振り手振りで話してる。(なんなのよ、あの馴れ馴れしさ!なんであの子はあんなに平気なの?!)胸がズキッて痛んだ。なんか、すっぱいものでもゴクンと飲み込んだみたいに。…落ち着け、陽菜。あんたには関係ないことなんだから。
あたしが一人でイライラしてたら、いきなり直美が横からひょっこり現れた。「はるちゃん、思い出した…思い出したんだって!昨日言おうとしてたヤバいネタ!」
直美ちゃんがそのくだらないゴシップをペラペラ喋り出す前に、あたしはパッと彼女の口を指で塞いだ。視線は勇太先生に釘付け。何か、何かがあの人、すっごく引っかかる。その時だった。あたしはジッと見てしまった。彼のポニーテールに、茶色い髪に混じって隠れてる…一本の…緑色のメッシュ?!み、緑?!なんで?!
あたしの頭、完全にフリーズ。プツンって音がしたみたいだった。
一瞬で、いろんな映像が頭の中でグルグルとフラッシュバックした。原宿で会った男の子、あの特徴的な緑のメッシュの入ったお団子頭、勇太先生の嘘の歳、彼の声…声も同じ!
ピコーン! 全部、全部繋がった!あいつだ!あの時の男は、ずっと勇太先生だったんだ!騙されてた!裏切られてた!あたし、バカにされてたんだ!
考えるより先に、体がズンッと動いてた。あたしはまるで暴走する戦車みたいに、彼に向かってズンズン歩き出した。心臓がドクンドクンうるさくて、廊下の音なんて何も聞こえない。お嬢様がまだいたけど、そんなの知ったこっちゃない。完全無視。
勇太先生の腕をガシッと掴むと、彼は「何だ、この状況は?」って顔であたしを見た。
「先生、体育の先生が倉庫から重い箱を運ぶの手伝ってほしいって。あなたの助けが必要なんです!」質問される隙も与えずに、一気にまくし立てた。
彼の顔を見ないようにプイッとそっぽを向いて、「いいから、ついてきてください」と言った。
彼をグイグイ引っ張っていく途中、ゾクッとして背後を振り返った。さっきのお嬢様が、まだそこにスーッと立ってて、あたしの魂を見透かすような、真剣な目でこっちをジーッと見ていた。やば、ちょっとやりすぎたかも。あの女、絶対あたしを怪しんでる!でも、もう後戻りはできない!
あたしは勇太先生を体育館の近くの、スポーツ用品を保管してる古い倉庫まで連れて行った。そこはもう、お約束って感じの場所。ギィィ…って鳴りそうな錆びたドア、ホコリと古いゴムの匂い、色褪せたバレーボールがゴロゴロ詰め込まれた棚、絡まったネット、そして無造作に積まれた段ボール箱。高い場所にあるクモの巣だらけの小さな窓から、光がゆらゆらと弱々しく差し込んで、全体的に薄暗い。
完璧な学園ものアニメのシチュエーションじゃん。ここで二人きりになって、何かの拍子にチュッてキスしちゃう展開とか…ないない、ありえない!この人と?!キモい!
体育の先生が、生徒会のための備品が入った箱が必要だって言ったの。先生は腕を組んで、あの心底面倒くさそうな顔であたしを見た。
「それは嘘でしょう?一体なぜ、彼が自分で取りに来ないんですか?それに、あなたは生徒会役員でもない」
「知りませんよ!文句があるなら、先生に直接言ってください!」あたしはイライラして言い返した。いちいち面倒くさい人!
「まったく…」彼はこれ見よがしにハァーッとため息をついて、棚の方へスタスタと歩いていった。
彼が存在しない箱を探している隙に、あたしはちょっとセクシー(のつもり)な声で言ってみた。
「ねえ、先生」あたしは言った。「ここって、なんか…危ない雰囲気しません?アニメとかでよくある、こういう倉庫で、ドアがガチャッて開かなくなって、二人きりになっちゃう、みたいな」あたしはわざとらしくクスクス笑って、挑戦的に彼に一歩にじり寄った。「そうなったら、どうします?先生。何か…しちゃいます?」
彼はピタッと動きを止めた。そして、ゆーっくりと振り返った。その時の彼の視線に、あたしは背筋がゾクゾクッと凍った。いつもの退屈そうな瞳じゃなくて、まるで研ぎ澄まされたナイフみたいに、冷たくて鋭い光をギラリと放っていた。見えない一線を、あたしが越えてしまったのが分かった。
ヒュッ…と喉が鳴った。あたしの勇気は一瞬で氷みたいに溶けてなくなった。やばい、やりすぎた。この人、本気でプンプン怒ってる…!
「私は殺人罪で逮捕されるでしょうね、花宮さん」彼は、冗談とは思えないほど真剣な声で言った。こ…この人、マジで言ってる?!怖っ!「今すぐ、そのドアから離れていただけますか」
あたしはゴクッと唾を飲み込んで、言われた通りにドアからそろそろと離れた。でも、心の中ではガッツポーズ。あたしは、あたしがいたかった場所にいたんだから。彼の、背後に。
彼が棚の一番上の重い箱に手を伸ばして、腕が完全に上がって、無防備になった瞬間…
チャンス!あたしは先生のポニーテールのゴムをシュッ!と引き抜いた。彼の茶色い(そして緑の!)髪が、肩にサラッと落ちる。
「花宮さん、一体何を…?」彼はまだ箱を抱えたまま、呆れたように言った。
あたしは彼の髪の両サイドを掴んで、ササッと素早く彼の頭の上でお団子を作った。そして、息をハッと呑んだ。違う…全然違う。
スマホのインカメラを起動して、パッと彼の顔に突きつけた。画面に映ったのは、紛れもなく、原宿で会った「ユウさん」だった。彼は自分の顔を見て、目をカッと大きく見開いて、ほとんど叫ぶように言った。
「な、何?!」
「ずっとあなただったんじゃない、この嘘つき!」あたしは彼の顔をビシッと指差して叫んだ。
「ま、待て、これは—」彼がオロオロと何か言おうとしたけど、その勢いにあたしはバランスを崩して後ろによろめいた。彼はあたしを支えようとして、持っていた箱を落としてしまった。箱が彼の胸に**ドンッ!**と落ちた。
「いたっ…」彼はうめいたけど、その声には皮肉が混じっていて、なぜかいつもの面倒くさそうな顔は崩れてなかった。
「すみません、先生!大丈夫ですか?」あたしは一応、心配するフリをした。
「大したことはありません。あなたは?」
「あたしも、別に…」
「そうですか、それなら—」
「なんで今まで黙ってたんですか、このバカ!」あたしは彼の言葉を遮って叫んだ。彼が支えようとした手を離したから、あたしはそのままドシンと床に尻もちをついた。
彼は胸のあたりをさすりながら、皮肉たっぷりの笑い声を上げた。
床に膝をついたまま、いつものダルそうな顔で、彼は尋ねた。
「どうして私が叱られているんでしょうか?」はぁ?!まだ言うか、この男!
「あなたが何も教えてくれなかったからでしょ、この嘘つき!」
「理由がなかったと言ったはずですが…」
「それでも!」彼は立ち上がり、深くため息をついた。ハァーッ…
「正直に言うと、花宮さん…これ以上、面倒なことになるのは避けたかっただけです」
あたしは言葉を失った。彼は…正直に言ってるみたいだったけど、頭がグルグルして混乱する。すると、驚いたことに、彼は話を続けた。
「僕は君の友達だと思っている。友達に嘘はつきたくない。だから…改めて自己紹介をさせてもらうよ」え、僕?!急にどうしたの?!
彼は手で顔をゴシゴシとこすり、年上に見せるためのメイク——偽物のシワを濃く見せるための薄いシャドウ——を落とした。眼鏡をシャツの襟に引っ掛け、髪を無造作なお団子に結ぶと、倉庫の薄暗い光の下で金色にキラキラ輝く黄色い瞳を持つ、ずっと若い顔が現れた。胸がドクンと変な音を立てたけど、無視。集中、集中よ、陽菜!
「僕の名前は竹内勇太じゃない。本当の名前は…まあ、存在しないようなものだ。とりあえず、ユウタとだけ呼んでくれ。歳は二十歳で、日本語学科の大学生だ。イギリス人というわけでもない。母が日本人で、父がイギリス人。彼の文化の作法で育ったけど、生まれも育ちも日本だ」
待って…じゃあ、あの噂、本当だったの?!職員室とかでヒソヒソ話されてた『新しい先生はイギリス人』ってやつ!だからあたし、英語を教えてもらおうと必死に追いかけたのに!ただの噂だと思ってた…まさか、マジだったなんて!
「えええ?!名前が『存在しない』ってどういうこと?!あんた、どこの漫画の主人公よ?!」あたしは眉をひそめて聞いた。
「それは…話すと長くなる」彼は気まずそうに首筋をポリポリ掻いた。「とにかく、僕がここにいるのは、竹内さんにこの学校に放り込まれたからだ」
「竹内先生?」
「ああ。竹内さんからインターンの話を持ちかけられたんだが、彼が休職するなんて一言も言っていなかった。ここに来てみたら、僕の『インターン』は、代用教員になることだった…あのクソジジイ、僕を騙しやがったんだ」
あたしはブハッと吹き出してしまった。マジで?!騙されて先生になったの?!
「人の不幸を笑うな」彼はダルそうにボソッと呟いた。「思春期のガキの相手なんて、面倒なだけだ」
「ちょっと、どういう意味よ!」あたしが文句を言うと、彼はフッと乾いた笑い声を漏らした。
「あなたと竹内先生って、結構仲いいのね?」あたしはニヤニヤしながら言った。
「竹内さんは僕の師匠だ。僕が知ってることのほとんどは、あの人から教わった」彼は床に目を落とした。その瞳はどこか虚ろで、重い記憶にズシリと引きずられているように見えた。空気が重くなったので、あたしは慌てて話題を変えた。
「じゃあ、名前が存在しないなら…なんで『ユウタ』なの?」
「…昔の名前を捨てたんだ」彼は床に座り直し、あたしも彼の前に脚を組んで座った。「家出みたいなものさ。苗字を捨てて、名前も『変えられた』。しばらく竹内さんの世話になって、一人でやっていけるようになった」
「『変えられた』ってどういうこと?」と首をコテンと傾げる。
「ある日、銭湯でのことだ。周りの連中が竹内さんにしつこく絡んできて、僕の名前や、息子なのかとか、色々聞いてきたんだ。彼は僕の名前が日本のものじゃないと言って、僕に名前を尋ねた」彼の口元に、その記憶を慈しむような、小さな笑みが浮かんだ。「洗礼名を言いたくなくて、偽名を考えてる時、たまたま目の前ののれんに『ゆ』のひらがなを見つけて、思わず『ユウ』と口走ってしまった。そしたら彼が『タ』を付けて…ユウタ、と。それ以来、僕はユウタになった。いつの間にか竹内ユウタになったが、それもただの偽名だ」
「じゃあ、なんで『ユウ』なの?」原宿でのことを思い出して、あたしは聞いた。
「ユウ?」彼は眉をひそめた。
「うん、ショッピングモールで、サイトさんといた時」
「ああ、ユウはあだ名じゃない。サイトが君の前で僕をユウタと呼ぶのを避けたかったから、彼がとっさにユウと呼び始めただけだ」
「じゃあ、『ユウ』はあたし専用ってことね!」あたしは勝ち誇ったように笑った。
「いや、ユウという名前の人には、よくあるあだ名だが…」彼はダルそうに視線を逸らした。「学校で使わなければ、どうでもいい」
「本気で言ってる?ユウゆう!」
「くん?」彼は顔をしかめた。
「そうよ?それとも、オッサンの方がいい?」
「どっちでもいい」彼はやれやれとばかりに目を回し、あたしはそれを見て笑った。
「お父さんの文化で育ったって言ったわよね」あたしは思い出した。「『作法』って言葉も使ったし」
「それがどうした?」
「つまり、ゆうくんは、貴族みたいな、お金持ちの家で育ったんでしょ!」
「君の推理力は恐ろしいな…」彼は半分感心したように笑った。「ああ、その通りだ」
「じゃあ、お父さんが教えた作法で自己紹介してみてよ!」あたしはワクワクしながら言った。
「えっ?」彼は目を丸くした。「それ、必要か?」
「もちろん!お願い、ゆうくん!」あたしは手をパンパンと叩いて催促した。
「い、いや、それは、その…」彼はタジタジになって、顔が赤くなった。うわ、照れてる!
「照れてるでしょ、ゆうくん!」あたしはゲラゲラ笑いながら叫んだ。
彼はさらに顔を赤くして、一歩後ずさった。「いや、その…うちは、少々複雑な作法がある家で…」彼は顔を隠すようにそっぽを向いた。
「大丈夫だって、ゆうくん。そんな顔されると、もっと見たくなるじゃない!」
「はぁ…分かったよ。早く始めれば、早く終わる…」彼は観念したようにため息をついた。
二人で立ち上がる。ゆうくんは赤くなった顔のまま髪をかきあげ、その表情はいつものダルさと、見てるこっちが笑いそうになるくらいの気まずさでごちゃ混ぜだった。(うわ、本当に照れてるんだ。先生のこんな顔、超レアじゃない?)「分かりましたよ、花宮さん」彼は消え入りそうな声でボソボソと呟いた。「やります…でも、あまりからかわないでくださいよ?」彼はもう一度ため息をついて、肩をまっすぐにすると、まるでスイッチが入ったかのように、スッと雰囲気が変わった。
彼は左腕を背中に回し、右足で一歩前に出ると、手のひらを上に向けて、まるで古い舞踏会みたいに洗練された仕草で手を差し出した。「お許しを、麗しの花宮様。この手をどうぞ」その口調は重々しく、英国貴族のようにフォーマルだったけど、どこかふざけた響きがあって、笑いをこらえているようにも聞こえた。
あたしは首をかしげた。「は?何それ、本気?」 うわ、マジで貴公子みたいじゃん。薄暗い光の中で、金色の瞳がキラッとしてるし…
あたしは何も考えずに、自分の手のひらを彼の手にベタッと乗せた。彼は少し眉をひそめたけど、あたしが驚くほど優しい手つきで、あたしの手をそっと滑らせ、指先だけを支えるように持ち直した。あたしの顔がカァッと熱くなった。うわ、あたしの間違いを直す仕草、なんてスムーズなの…何回もやったことあるみたい。
すると、彼の表情が真剣になった。本当に、真剣に。さっきまでのふざけた輝きは消え、彼の金色の瞳は深く、厳かで、あたしの瞳をじっと捉えて離さない。彼は上半身を傾け、サラリと髪が顔にかかる。そして、あたしの手を唇へと運び、その肌に、軽やかで、でも確かなキスを落とした。「わたくしはユウタ。英国の由緒ある貴族の跡継ぎでございます」彼の低い声には、あたしの胃がキュンとするような重みがあった。「お会いできて、光栄の至りです、麗しの花宮様」 うわわ…この若い顔とキザなポーズ…おとぎ話の王子様みたい。なんでこんなことできんの、この人?!
あたしの顔はボーッと燃えるように熱くて、心臓の音が彼に聞こえちゃうんじゃないかと思った。あたしは完全に魅了されて、その瞬間に囚われていた。ホコリっぽい倉庫の薄暗い光が、彼の顔の輪郭をクッキリと浮かび上がらせる。
でも、その時、現実がガツンと戻ってきて、あたしはプッと吹き出してしまった。その笑い声は倉庫中に響き渡り、歪んだ棚にコダマした。「マジで、ゆうくん?!本当にそんな貴族ごっこやってたの?!」あたしはお腹を抱えて笑い転げた。まだ手の甲に、彼のキスの熱が残っているような気がした。「昔の映画の騎士みたいだったよ!」
彼はあたしの手を離し、フンッと鼻を鳴らした。顔はまた真っ赤で、いつものダルそうな表情が全力で戻ってきていた。(うわ、そんな風に慌ててると、ちょっと可愛いかも) 「見たか?だから私はこの茶番が嫌いなんだ!」彼は首筋をポリポリ掻きながら、もう諦めたような声で文句を言った。「めちゃくちゃ面倒だったんだ。父のパーティーで、金持ちの婆さん一人一人に、このサーカスをやらなきゃならなかった。気が狂いそうだったよ」
あたしは宝石ジャラジャラのオバ様たちに囲まれてる彼を想像して、さらに笑った。「可哀想なゆうくん!おば様たちの餌食にされる貴公子様!あんた何、ロードかなんかなの?」あたしは笑い涙を拭いながらからかった。
「まあ…そんなところだ」彼は気まずそうに首を掻いた。
「え?どういうこと?冗談だと思ってた!」
「英国の古い貴族の家系でな。封建騎士とか、そういう類の」彼はまだ顔が赤いけど、あたしが疑ったことにムッとしたみたいだった。
「マジで?!」あたしの目はキラキラ輝いた。
「ああ…フェンシングの訓練も受けた。ヨーロッパのものだけじゃなく、色々な剣をな。剣のコレクションと甲冑一式があるが、全部父の家だ」
「見せてよ!」
「無理だ。イギリスにあるし、あそこに戻るという選択肢は…ない」彼はそっぽを向いた。その声には、重い響きがあった。「もう何年も家族とは話していない。彼らの金もコネも使わない。自分の力だけで生きている」
空気がズンと重くなったので、それ以上は聞かないことにした。彼も、色々背負ってるんだな。「じゃあ、ゆうくん、メイク直そっか。そんな顔で出歩けないでしょ」あたしは空気を変えようと、彼のまだシワのない顔を指さした。
「そうだな」彼がポケットから小さな化粧ポーチを取り出すと、あたしはそれをサッとひったくった。
「今日は時間あるんだから、ちゃんと対面授業してもらうからね!」あたしはウキウキしながら、彼の顔にまたあの偽物のシワを描き足していった。
彼は立ち止まり、目をパチクリさせた。「本気か?」
あたしがコクンと頷くと、彼はため息をついた。「分かった、それなら…」
「お気に入りの生徒からのお願い、断れないよね!」
「誰が君がお気に入りだと言った?」彼はいつものダルそうな顔で、片眉を上げた。
「え?違うの?」 まさか、あのお嬢様?!
「私のお気に入りの生徒は、一年生の宮崎白郎くんだ」彼はそう言って、また目を閉じた。「とあるバレー漫画の主人公に似てるんだ。彼みたいに、高校からバレーを始めたらしい。応援したくなるじゃないか」
「あ…そっか…」あたしは思わず、ホッと息を漏らした。
あたしたちは倉庫から出た。ユウタ先生は、眼鏡をかけ、メイクも元通り、「先生モード」に戻っていた。これで一件落着、まるでハッピーエンドの少女漫画の最終回みたい。
でも、あたしは知らなかった。学校のどこかで、誰かがあたしたちを見ていたなんて。
しかも、それが、あの黒髪の、あたしがまだゾクッとするような視線を向けてくる、あのお嬢様だったなんて。
彼女、これを見て、一体どうするつもりなんだろう?