第8話「嵐の中の心」
花宮陽菜
授業の後、フラヴちゃんがようやく計画を説明してくれた——って、何よその計画! ガーン! あたしに、彼女がゆうくんのパソコンをいじっている間、彼を足止めしてほしいって。どうやら、直美ちゃんがアレクサンダーくんから聞き出したパスワードは、基本的なロック解除用だったらしい。フラヴちゃんが血眼になって探してる「秘密」のファイルには、別のパスワードがかかってて、彼女もそれが何なのか全然分からないんだって。
というわけで、ミッションはこう。あたしがゆうくんの気を引いて、その隙に彼女がパスワードを解読する。簡単でしょ?
…って、簡単じゃないわよ!一体どんな手で気を引けって言うの?!考えただけで心臓がバクバクしてきた。
でも、いつものことながら、計画は最初からつまずいた。外は街ごとカオス。とんでもない嵐がやってきて、風は唸り、空がシャワーになったみたいに雨が降り注いでる。フラヴちゃんは「ちょっと用事ができましたの」なんて適当な言い訳を残して消え、あたしは一人、生徒会室に取り残された。(マジ、フラヴちゃん?!)
その時、彼女がどれだけ働いてるか思い知った。あたしだって書類仕事くらいはするけど、生徒会を背負ってるのはフラヴちゃんだ!彼女が昨日も今日も忙しかったせいで、山のような仕事が全部あたしに回ってきた。アレクサンダーくんがサインを求めに来たり、星野さんがどっさりと書類の束を持ってきたり…もう限界!早く家に帰って、甘い少女漫画が読みたい!
結局、星野さんの意見に同意するしかなかった。もっと人手が必要だって。宮崎くんなんて、ほとんど顔も出さないんだから、いてもいなくても一緒。まあ、彼を責めるわけにはいかないけど。
あたしが全部の仕事を終えた頃には、外の天気は相変わらずだった。昇降口に立ち、下駄箱を背にすると、目の前で世界が終わるかのような土砂降り。雨音が、終わらないドラムみたいにうるさい。星野さんとアレクサンダーくんはとっくに帰った後で、あたしは生徒会室の最終チェックと施錠をしてた。直美ちゃん、あんたのイライラ、今なら分かるよ…
(それにしても、これから光ちゃんと訓練か…うぅ、考えただけで体中が痛いよ。あの子、容赦ないんだから!早く家に帰りたいのに…)
数時間後、光ちゃんの地獄のような特訓で体はボロボロになりながら、あたしはやっとの思いで校門の前にたどり着いた。昼間なのに、分厚い雲のせいで夜みたいに暗い。フラヴちゃんの家に行かなきゃいけないけど、正直、怖かった。冷たい風が顔に当たって、頬が赤くなる。雨のしぶきが足にかかる。なぜか、その一歩を踏み出すことができなかった。
「まだここにいたのか?」
聞き覚えのある声が、すぐ後ろからした。あまりに急に振り返ったから、転びそうになる。そこにいたのは、ゆうくん。着崩した紺色のブレザー姿で、いつもの死んだ魚みたいな目でこっちを見ていた。
「フラヴィアンがこの雨の中、君を迎えに来ると思っていたんだが」
「えっと、あたしは…」言葉が喉に詰まって出てこない。
「君が来ないと、彼女も心配するだろう。君のために部屋の準備をすると言って、早く帰ったんだからな」彼の声は淡々としてたけど、どこか…心配してる?
え、そうなの?フラヴちゃん、あたしのために?
「とにかく、行った方がいい。僕のマンションの場所は分かるだろう?」彼の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。目は冷たいままだけど、なぜか温かく感じた。
「あたし…傘、忘れちゃって…」
俯きながらそう呟くと、顔が火事みたいに熱くなった。
なんであんなこと言っちゃったの?!あたしの傘、カバンの中にあるじゃん、このバカ!
「そうか…」
彼は数秒、あたしをじっと見ていた。その顔には「本気で言ってるのか?今日、雨が降るのは分かりきってたことだろう」と書いてあった。
「ちょっと待ってろ」そう言って、彼は校舎の中に戻っていった。
数分後、彼が戻ってきて、あたしの前に立つ。その手のひらには、小さな黒い傘があった。
「僕のを使え」彼の声は、柔らかかった。
ためらったけど、傘を受け取ると、彼の指先があたしの指に一瞬だけ触れた。なんでこんな嘘を…雨が降るって知ってたのに!なんでカバンに入ってるって言えないのよ?!
「あ、あなたは今から帰らないの?」目を合わせられなくて、小さな声で聞いた。
彼が答えようとした、その時。ピリリリ!
彼のスマホが鳴った。普通の着信音。アニメの曲じゃない。(え、マジ?)
「なんかアニメの主題歌か何かだと思ってたのに、普通の着信音なんて!」
やばっ、また心の声が漏れた!
ゆうくんは、まるで宇宙人でも見るかのように、無表情であたしを見た。
「これは仕事用のスマホだ。個人用のは『ファイナルファンタジーVIII』の戦闘曲にしてある」
「あ、そっか…」穴があったら入りたい。
彼は「はい」とだけ言って電話に出ると、背中を向けた。短い返事だけが聞こえる。「ええ」「承知しました」「では」。話しながらあたしの横を通り過ぎ、電話の向こうの相手に言った。
「分かりました。わたしは今から向かいます」その声は冷たかったけど、路地裏で木村と対峙した時みたいに、真剣な響きがあった。
電話を切ってスマホをしまうと、彼はあたしを見た。
「すまない、花宮さん。僕は行かないと」
そう言うと、彼はドアを抜け、雨の中に足を踏み出した。走るでもなく、文句を言うでもなく、ただ歩いていく。まるで嵐なんて存在しないみたいに。
彼が校庭の門を右に曲がり、塀の向こうに消えていくのを見ていた。雨音だけが、やけに大きく耳に響く。水たまりが、濃紺のフェンスを映していた。通り過ぎる車、傘を差して走る人々。でも、あたしの目には、消えていく彼の後ろ姿しか映らなかった。
その時、現実に**ドンッ!**と引き戻された。(あたし、バカだ!)
彼は、あたしが濡れないようにって傘をくれたのに、そのせいで彼自身が雨の中にいる!せめて、返してお詫びしないと!
タッタッタッ!
学校の周りの道を、雨の中走った。(どこ行ったのよ?!あの人、忍者か何かで、いきなり消えたりできるわけ?!)息が切れて、制服が肌に張り付く。でも、アドレナリンで寒さなんて感じなかった。
角に、傘も差さずに立っている人影を見つけた。(いた!)
全力で走る。
「ゆうく—」
その人が振り向いて…別人だった。茶色い髪の男の人が、不思議そうにあたしを見てる。
「何か御用ですか?」
「いえ…人違いでした、すみません…」
彼が去っていく中、あたしは歩道に立ち尽くした。雨水が髪を伝って、顔に張り付く。あたしって、本当にバカ…
「バカ!なんで雨の中走ってるんだ!」
こもった声が、嵐の音を切り裂いた。誰かの手に左手の傘を奪われ、バサッと開かれると、雨音が少しだけ静かになった。すぐ後ろに、温かい気配がした。
振り返ると、そこに彼がいた。ゆうくん。ずぶ濡れで、紺色のブレザーから水が滴っている。その顔は、明らかにイライラしていた。彼の目はもう死んだ魚なんかじゃなかった。怒りで、火花が散っているみたい。彼はポケットからハンカチを取り出すと、あたしの頭をガシガシと拭き始めた。
「風邪でもひきたいのか?この馬鹿」
彼の目が見れなかった。でも、彼の手が髪を拭いてくれるのを感じた。力強いけど、優しい手つき。そして、ハンカチを持つ彼の手が下りてきて、濡れた前髪を顔からそっと払いのけた。そして、止まった。ハンカチを持つ彼の右手が、あたしの顔に触れそうな距離にあった。
彼の目は、大きく見開かれてはいなかった。ただ、まっすぐにあたしの目を見つめていて、その燃えるような黄色の瞳が、まるで太陽みたいに輝いていた。あたしの心臓が、**ドクン!**と大きく跳ねた。(周りの目なんて、どうでもいい。彼がどう思うかなんて、どうでもいい!)
ゆっくりと目を閉じて、彼の方へ顔を傾けた。暗闇に包まれる直前、彼の顔が近づいてくるのが、一瞬だけ見えた。
彼の手が、あたしの顔をより強く包み込む。彼の呼吸の温かさが、どんどん近づいてくる。もっと、もっと…今…!
ゴロゴロドカーン!
地面が揺れるほどの雷が轟いた。あたしたち二人は、驚いて飛びずさる。
「な、な、とにかく、早く家に送らないと!フラヴィアンが心配する!」彼は叫ぶようにそう言うと、トマトみたいに真っ赤な顔で横を向いた。
「そ、そうね、行きましょう!」あたしも、床を見つめたまま、震える声で答えた。心臓は、まだ猛スピードで走り続けていた。
もちろん、自分の傘がカバンに入ってるなんて、もう口が裂けても言えなかった。(キス…しそうだった!)
心臓がレースカーのエンジンみたいにうるさい。最悪なことに、今、彼と同じ傘の下にいる。少女漫画の王道シーンじゃん!
彼は自分の肩が濡れるのも構わずに、あたしが濡れないように傘を傾けてくれていた。
(バカ…)
さっき、キスしかけたじゃない。
そんなに離れなくてもいいのに。もっと近くに来てよ…バカ…
___________________________________________________
ゴロゴロ!
マンションに入ると、外の世界は本当に崩壊しているかのようだった。ゆうくんは忍者のような動きで靴を脱ぎ、濡れた足跡を狭い廊下に残しながら、生死を分ける問題でもあるかのようにバスルームへ駆け込んだ。あたしはドアの前に立ち尽くし、床にぽたぽたと水を滴らせながら、靴箱とリビングへと続く廊下を眺めていた。部屋の暖かい光が、窓を叩く雨の音**トン…トン…**と対照的だった。(フラヴちゃんはどこ?)
突然、ゆうくんが戻ってきた。濡れた髪が目にかかっている。彼はあたしのほうへタオルを二枚投げた。
「乾かせ、花宮さん。僕の家で風邪をひかれるのは困る」彼の声は硬かったが、気まずそうに視線を逸らしていた。
「ありがとう…」と呟きながらタオルを受け取る。一枚は子猫柄のふわふわしたタオル—(たぶんフラヴちゃんの)—もう一枚は、彼のユーモアのセンスみたいに味気ない黒いタオルだった。
髪を拭きながら、部屋を見回す。リビングは広くて、灰色のソファ、大きなテレビ、そしてキッチンを仕切る低い壁には四角い小窓がついていた。右側には三つのドア。左がゆうくんの部屋、真ん中がバスルーム、右がフラヴちゃんの部屋。でも…あれ?
「ゆうくん、フラヴちゃんは?」
彼はピタッと固まった。その顔は「死んだ魚」から「やばい、大事なこと忘れてた」という表情に変わる。「彼女は…コンビニにでも行ってるんじゃないか。たぶん」と、首の後ろを掻きながら、明らかに即興で答えた。「僕が探しに行く。でもその前に、シャワーを浴びてこい。濡れ鼠みたいだぞ」
「濡れ鼠ですって?!」と抗議したが、彼はもうスマホを手に取っていた。まあ、シャワーはいい考えかも…
バスルームへ歩きながら、頭の中で妄想が始まった。あたし、花宮陽菜が、ゆうくんのマンションでお風呂に…彼がいるのに…
カァーッと顔が熱くなるのを感じて、頭を振った。バカなこと考えてないで、陽菜!ミッションに集中!ゆうくんの気を引いて、フラヴちゃんの計画を成功させるのよ!
でも、本気で、こんな状況でバカなこと考えないでいられるわけないじゃない!
ゆうくんは、まだスマホを見ながらあたしの思考を遮った。「フラヴィアンの服で、君に合うものがあるはずだ」彼は一瞬、あたしを上から下まで値踏みするように見て、ピタッと固まった。彼の顔が信号みたいに真っ赤になり、まるで見てはいけないものでも見たかのように床に視線を落とす。「い、いや、ジャケットとか…冬服なら…」
え?
彼の視線を追って、**カチッ!**と頭の中で何かが繋がった。彼が見てたの…あたしのおっぱいを?!うわ、陽菜、あんたって鈍すぎ!
とっさに腕を胸の前で交差させ、思いっきり唇を尖らせた。「えっち…」と呟きながら、彼を睨みつける。
「ち、違う!」ゆうくんはパニック状態で両手を振った。「そ、その…フラヴィアンは、その、サイズがかなり…小さいから!君には彼女の服は合わないかもしれない…その…差で!」彼はどもりながら、曖昧に自分の胸を指差し、顔はかつてないほど赤かった。
「『それ』が…」あたしは目を細め、さらにドラマチックに唇を突き出した。「えっち…」(マジで、ゆうくん?!自分で墓穴を掘ってるじゃない!)
「もういい!」彼は叫ぶようにそう言うと、諦めて、あたしから逃げるようにフラヴちゃんの部屋のドアへと向かった。男って、もう…
まだタオルを持ったまま、あたしは彼の後を追った。イライラする気持ちと、彼のパニック顔がおかしくて笑いたい気持ちが半々だった。
彼はドアを開けようとしたが、なぜか固まっている。「どうしたの?」と首を傾げた。
ゆうくんがゆっくりと振り返って、うわっ!その笑顔は純粋な恐怖そのもの。額に青筋が浮かび、黄色の瞳は怒りで燃え上がっている。「あのガキ…!」彼の声は、アニメの悪役みたいに低く唸っていた。怖い!
彼はスマホを取り出し、恐ろしい速さでフラヴちゃんの番号をダイヤルした。彼女が応答した途端、彼は爆発した。「フラヴィアン!どこにいるんだ?!どういうつもりで自分の部屋のドアに鍵をかけたんだ?!」
あたしは子猫のタオルを握りしめ、怖がりながらも笑いをこらえていた。フラヴちゃん、あんたって天才?それともただのクレイジー?
でも、突然、彼のトーンが変わった。叫び声は氷のような沈黙に変わり、彼の目は虚ろになった。まるで怒りのスイッチがオフになったみたいに。「そうか。分かった」と呟いて電話を切る。そして、すぐに別の番号にかけ、リビングの隅へ移動した。「頼みたいことがある」低い声だった。相手が何を言っているかは聞こえない。ただ、彼の「ああ」「うん」「そうか」という相槌と、最後に戦争に負けたような声で言った「君が頼むなら、そうしよう」という言葉だけが聞こえた。
その間、あたしは髪と体を乾かしながら、ゆうくんのあまりの激しさに動揺しないように努めていた。何の頼みごと?緊張してきた…
彼は電話を切り、スマホをしまうと、何も言わずにバスルームに入っていった。好奇心に負けて後を追うと、彼は洗濯機をいじり、次に乾燥機をいじっていた。その顔は、壁を殴りたいのを我慢しているみたいだった。「何も残してない!あのガキ、全部仕組んだな!」彼は拳を握りしめ、あのサイコパスみたいな笑みを再び浮かべた。あたしは一歩後ずさる。ゆうくん、あたしを怖がらせるのやめて!
でも、彼は深呼吸して落ち着きを取り戻すと、あたしの方を向いた。「花宮さん、男物の服でも構わないか?フラヴィアンが…ああいうことをした以上、これしか方法がない」
「ううん、全然平気」と答えた。内心はこうだったけど。(ゆうくんの服?!これって…少女漫画の最高レベルのイベントじゃない?!)
彼は頷くと、左側にある彼の部屋のドアへとあたしを案内した。
ゆうくんの部屋は…すごかった。
入ってすぐ左に巨大なクローゼット。左側の壁には大きなダブルベッドがきちんと整えられていて、窓からは嵐の灰色の光が差し込んでいた。右側にはパソコンが置かれた机—ビンゴ!ミッションのターゲット、発見!—と、整理された書類の山。でも、あたしの目を奪ったのは、カーテンの陰に半分隠れた壁のポスターだった。あの騎士…
脳がカチッと音を立てた。「あ、それ、『ダークソウル』じゃん!」思わず叫んでしまった。
クローゼットを漁っていたゆうくんが、不思議そうな顔で振り返った。「え?」
「な、何でもない!」慌ててごまかす。顔が熱い。陽菜、黙ってて!
彼はまた服を探し始め、あたしはベッドやポスター、パソコンを眺めていた…(へぇ、ここがゆうくんの住処なんだ。ちょっとオタクで、ちょっときれい好き…)
彼は灰色のシャツと黒いパンツを取り出し、あたしに差し出した。シャツを受け取って、ちらっと見る。「なんか、アニメのTシャツとか期待してたんだけどな。いかにもオタク!みたいな」
彼は眉をひそめ、例のゆうくんレーザーであたしを射抜いた。「持ってるには持ってるが、あまり着ない」
「見たい!」と興奮して言ったけど、彼の視線は「絶対に嫌だ」と語っていた。「はいはい、分かった…」あたしはシャツとパンツを黙って受け取り、敗北を認めた。
「着替えるならバスルームを使え」彼はリビングに戻りながら言った。「服を洗うか乾かすかしたければ、洗濯機に入れろ。濡れたまま持って帰りたいなら、ビニール袋に入れるなり、好きにしろ。ああ、それと、ヘアケア製品を使うなら、左側のはフラヴィアンのだ。彼女、使いすぎると文句を言うから…ほどほどにな」
「はーい…」と、あたしは感情のこもらない声で返事をしてバスルームに入った。ヘアケア製品?マジ?
ドアを閉めて棚を見る。うわっ!そこはまるで武器庫だった。クリーム、シャンプー、コンディショナー、ヘアミルク、トリートメント、フル装備!そして左側を見ると、シャンプー、コンディショナー、クリームが一つずつ、全部かわいいラベル付きであった。「これがフラヴちゃんの?!ってことは…この大量のやつ、全部彼が使ってるの?!」
マジか!ゆうくんの髪からいつもいい匂いがするとは思ってた。なんていうか、近づきたくなるような…でも、本気?!うちなんて女三人、それに髪の長いお父さんもいるのに、ゆうくん一人で家族全員分より多いってどういうこと?!あなた、一体何者なの、勇太先生?!
真顔でクリームを塗る彼を想像して、一人で笑い出してしまった。これ、意外すぎるでしょ!
彼のシャツを手に取ると、心臓がまたドキドキし始めた。(ゆうくんの服を着て…彼のパソコンにハッキングするミッションの最中に…フラヴちゃんは行方不明…)
鏡を見ると、顔が真っ赤だった。陽菜、集中!あなたは副会長なのよ、少女漫画の困ってるヒロインじゃないんだから!
でも、心の底では、今夜が普通じゃないって分かってた。
子猫のタオルを持ったまま、小さなバスタブに入ってシャワーを浴びようとした時、この場所が…コンパクトなのに気づいた。洗面台とトイレ、それにバスタブの上にシャワーヘッドが一つ。うちの、パレードができそうなくらい広いバスルームとは大違いだ。ゆうくん、よくこんなとこで生活できるね?
彼の灰色のシャツと黒いパンツはあたしには少し大きかったけど、彼の匂い—森みたいで、ちょっとミントっぽい香り—が服に染み付いてた。集中、陽菜、パニックにならないで!
シャワーを浴びて、子猫柄のタオルで湿った髪を包みながら、「服、洗濯機に入れるね」と声をかけ、制服を放り込んだ。
壁の向こうのキッチンで、ゆうくんが鍋で何かをかき混ぜていた。乱雑なポニーテールで、ただ頷くだけ。「好きにしろ」と、コンロから目を離さずに呟いた。はいはい、彼は今ロボットモードね…
あたしは周りを見回した。窓の外では、まだ雨が**タン…タン…**と音を立てている。「ねえ、フラヴちゃんはどこ?ここにいるはずじゃなかったの?」
彼は手を止め、手に持ったおたまが宙で固まった。「パーティーに行ってる」と、また鍋をかき混ぜながら、まるで世界で一番普通のことのように答えた。
「パーティー?」あたしの頭がフリーズした。「何のパーティー?」
「あいつらの誕生日だ」彼は、まるでそれが全てを説明するかのように、手を振った。
「あいつら?」あたしは完全に迷子になって、首を傾げた。
ゆうくんはため息をつくと、「本気で知らないのか?」という顔であたしの方を向いた。「フラヴィアンから聞いてると思ってた。彼女の誕生日はアレクサンダーの三日後、10月13日だ。彼は10日」
「でも…それって、まだ一週間以上先じゃない!」と、あたしは腕を組んで抗議した。「まだ10月になったばっかりだよ!」
「知ってる」彼は淡々と同意した。「だが、このパーティーはシルバーハンド家と酒井家のイベントみたいなものだ。誕生日はただの口実。イギリスの親戚が来るときに、ついでに契約を結んだりするんだ」彼は、まるで会社の日常業務について話すかのように肩をすくめた。
契約?金持ちのビジネスってこと?
あたしの好奇心は燃え上がった。「じゃあ…あなたが行かなきゃいけなかった用事って…そのパーティーだったの?」学校での、あの真剣な電話を思い出しながら聞いた。
ゆうくんはまた動きを止め、その目は一瞬、遠くを見つめた。「いや」彼の声は少し冷たかった。「僕が解決しなきゃいけない、別の問題だった」彼は鍋をかき混ぜる作業に戻ったが、空気は氷のように冷たかった。
うーん、怪しい…
満足できなくて、あたしはさらに突っ込んだ。「でも、あなたもパーティーにいるべきじゃないの?フラヴちゃんやアレクサンダーくんと一緒に」
彼はあたしを見た。その黄色の瞳は真剣で、刃物のように鋭い。「そうすべきだった。でも、できない」彼は一呼吸置いて、あたしの心臓を跳ねさせるような視線であたしを見た。「僕は自分の名前を捨てただろう?あの場所に、僕は歓迎されないんだ」
その言葉は、雷のようにあたしを撃った。名前を捨てた… あの倉庫での出来事、彼が本当は誰なのかを最終的に教えてくれた、あの日の彼の姿が頭をよぎった。ゆうくん…あなた、何を背負ってるの?
自分を抑えきれずに、あたしは聞いた。「じゃあ、電話で頼んでた『お願い』って…あたしのためだったの?」
彼は、フッと鼻で笑った。「違うよ、花宮さん。フラヴィアンとアレクサンダーのためだ。ああいうパーティーでは、いつも僕があの二人の面倒を見てた。でも、僕が出て行ってからは、姉—」彼は言葉を止め、言い直した。「ダイアナが引き継いだ。ただ、今回は彼女もエドワードも来られない。僕が何とかしなきゃいけないのは分かってたけど、今になって押し付けられるとは思わなかった。だから、斎藤に行って面倒を見てもらうように頼んだんだ」
「斎藤さん?」と、眉をひそめて聞いた。「大丈夫なの?」
ゆうくんの口元に、今夜初めての本物の笑みが浮かんだ。「斎藤には命を預けられる。だから、ああ、大丈夫だ」
*オッケー、斎藤さん、ポイントゲットね。*でも、あたしの頭はまたフリーズした。「待って、ダイアナとエドワードって誰?」
「僕の兄と姉だ」彼は、それが常識であるかのように言った。
あたしの頭の中で何かが爆発した。兄と姉?!あの日の、フラヴちゃんが言ってた?!
あたしがさらに質問する前に、ゆうくんはリビングへ行き、スマホを手に取った。「君を家に帰すためにタクシーを呼ぶ。フラヴィアンはたぶん今日帰ってこないから、君がここに泊まる理由はない」
彼はテレビをつけた。ニュースキャスターが、真剣な声で話している。「東京は巨大な台風に見舞われています。雨は明日まで続くと予想され、風が非常に強いため、全ての住民に外出を控えるよう勧告します」
ゆうくんは、スマホを持ったまま、無反応で固まっていた。あたしの心の中は?YES!ミッション続行!
静かにガッツポーズしながら、笑顔を隠そうとした。彼は窓の外を見た。雨が、ガラスを割りそうな勢いで叩きつけている。もう夜に近いし、空は炭みたいに真っ黒だった。「あ、あたし、迷惑かけないから、約束する!」と、無邪気なふりをして言った。
彼はあたしを見た。顔は真剣で、穏やかで…そして、両手で顔を覆った。その声は、純粋な絶望に満ちていた。「僕の教師生命は終わった!女子生徒が僕の家に泊まるなんて!他の先生たちはどう思うんだ?僕はもうおしまいだ!」
「落ち着いて、ゆうくん!」あたしは手をバタバタさせながら、彼をなだめようとした。「そんなに大したことじゃないって!」
「大したことじゃない?!」彼は目を大きく見開いて言い返した。「廊下で噂されるのは君じゃないんだぞ!『勇太先生、あの無責任な…』って!」彼は嫌味な先生の声を真似して、あたしは笑うべきか黙っているべきか分からなかった。結局、あたしはただ頭を下げて、敗北を認めた。はいはい、あなたの勝ち。
彼のその小さなメロドラマの後、彼はようやくシャワーを浴びに行った。別に、彼がシャワーを浴びてるところを見たいわけじゃないし。そんなこと、一瞬たりとも考えてないから!
ゆうくんがバスルームから出てきた。シャワーを浴びたばかりで、タオルを肩にかけている。うわ…
彼の髪は解かれて、肩まで落ちていた。緑のメッシュが、光の下で黒髪に混じって輝いている。こんな彼を見るのは初めてで…マジか、ゆうくん、今、完全にアニメのキャラじゃん!
彼が服について何か言っている間、あたしは催眠術にかかったように、ただ彼を見つめていた。
「花宮さん、君の服、洗濯終わったぞ。乾燥機に入れればいい。後で文句を言われないように、君がやった方がいい」彼は、あたしの視線に明らかに居心地悪そうに言った。やば、見とれてるのバレた!
「あ、うん、服を乾かす、分かった!」と、あたしは平静を装って答えた。彼は混乱して眉をひそめた。
「何を食べるか聞いてるんだ」
「えっと…カツカレー!」と、何か言わなきゃと思って口走った。
「違う。昼の残り物だ」彼はぶっきらぼうにそう言うと、コンロに向かった。
「じゃあなんで聞いたのよ?!」と、あたしは腕を組んで文句を言った。マジで、ゆうくん?!
制服を乾燥機に放り込んでからリビングに戻ると、あたしは言った。「ねえ、ここに泊まるなら…あたし、どこで寝るの?」
彼は、まだ鍋をかき混ぜながら、考えもなしに答えた。「僕の部屋で」
あたしの心臓が止まった。彼の部屋で?!彼のベッドで?!
あたしの顔はきっと衝撃的なミームみたいになってたはずだけど、あたしはあえて挑発的なカードを切ることにした。「にゃーん、先生、あたしをベッドでどうするつもり?」と、できる限りの挑発的な声色でウィンクした。
ゆうくんは、自分が何を言ったか理解した。瞬きする間に、彼はリビングのドアの前に立ち、それを勢いよく開けた。ゴロゴロ! 外では稲妻が走り、風が唸っていた。彼は、冷たくて恐ろしい表情で言った。「出ていけ、頼むから」
「待って、ゆうくん、ごめんなさい!」と、あたしはほとんど土下座する勢いで懇願した。「雨の中に放り出さないで!台風で死にたくない!」これはミッションのためじゃない、ここに泊まりたいからでもない…これは、あたしの命の問題よ!
彼はため息をついてドアを閉め、あたしは安堵の息を漏らした。もうちょっとで、びしょ濡れの寿司になるところだった…




