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第7話「名前の重み」

竹内勇太


 深夜の職員室。ブーンというエアコンの唸り声だけが静寂を破り、一本の蛍光灯のか細い光が、俺の机の上の書類の山をぼんやりと照らしていた。


 ふと、携帯に目が落ちる。木村からの返信は、もう何日もなかった。嫌な予感が、何かがおかしいと胸の内で訴えかけてくるが、俺はそれを振り払った。(…いや、あいつがそう簡単にやられるタマかよ。)


 教師という偽りの仮面を被っていても、心の奥底では、クルセイダーとしての思考がこびりついて離れない。頭の中では、椿理香の調査、ランフレッドの脅威、そして全てが罠である可能性がぐるぐると回っていた。奴が相手なら、まあ、やれるだろう。だが、最後に血を流すのがどちらになるか、確信はなかった。


 疲労が、鉛のように常にのしかかっている。担任教師の仕事は、どんな任務よりも過酷だ。文化祭が近づくにつれて、書類は無限に増殖していくようだった。大学の授業に出る時間すらほとんどなく、そのせいで文芸部の小鳥遊(たかなし)先輩から30分も説教を食らった。


 夏休みが終わってから、まともに眠れた夜なんて一日もねぇ。


 机に突っ伏し、冷たい木目に顔を押し付ける。「クソ…少しでいいから眠りてぇ…」


 コンコン。


 ドアを叩く音に、俺はビクッと飛び上がった。夜警の、疲れきった目をした中年の警備員だった。


「先生、今夜もお仕事ですか?」と彼は尋ねた。「お顔を拝見するに、まだお若いのにお疲れのようですね。若いうちは無理も大事ですが…ボロボロじゃないですか。あまりご無理なさらないでください。」


「ご忠告どうも…もう帰ります…」俺は呟きながら、荷物をまとめた。


 夜の冷たい空気の中へ出る。誰もいない通りの静けさが、ほんの一瞬の安らぎをくれた。だが、俺の思考は壊れたメリーゴーランドだ。ランフレッド、椿、木村。全部放り出して、ソファに寝っ転がって癒し系アニメでも一気見してやりたい。疲労で体は鉛のようだ。不意に、花宮さんの顔が頭に浮かび、途端に顔をしかめた。チッ…面倒くせぇ…


 その時だった。黒い高級車が隣に止まり、そのエンジンがブーンと低く、金のかかった音を立てた。俺の本能が警鐘を鳴らす。歩みを止めず、横目でちらりと見る。視線が硬くなった。あの車には見覚えがある。


 一瞬、体がこわばった。後部座席の窓がゆっくりと開き、女のシルエットが現れる。そして、そこにいた。**あの女が。**夜の闇の中だというのにサングラスをかけ、完璧な落ち着き払った姿で。


「随分と冷たいお出迎えじゃありませんか、可愛い息子や。」


 俺の声は低く、嫌悪に満ちていた。「…何の用だ?」


 彼女は姿勢を崩さず、その顔は穏やかで優雅なまま。そして、優雅な仕草でサングラスを下げ、その黄色の瞳を露わにした。光の束のような、脅威的な光。冷たく、鋭く、切り裂くような視線。


「珍しい光景でもありませんでしょう?」彼女は軽く微笑み、その目は俺に固定されていた。「わたくしが、今のお前と全く同じ目でお前を見ているのですから。」俺の胃がぐるりと捻じれた。彼女は少し首を傾げる。「わたくしたちの瞳は、同じですわね。」


 ギリッと歯を食いしばる。「お前と話すことなど何もない。」


「あら?」


 俺が歩き続けようとする前に、彼女の声が静寂を切り裂いた。「母親が実の息子に会う権利もないとでも言うのかしら?」


 拳を固く握りしめる。返事をしてやる義理はない。ただ、歩き続けた。その時、彼女は次の餌を投げた。


「お前が関わっている酒井グループの件、わたくしが力になって差し上げてもよろしくてよ。」


 足が止まった。止まりたかったわけじゃない。だが、彼女が戯れで物を言う人間ではないことを、俺は知っていた。


 ゆっくりと、彼女の方を向く。彼女は微笑んでいた。毒のような笑みだ。そして、滑らかで皮肉のこもった声で、彼女は言った。「お前の母と、少しお話でもどうかしら?」


 俺は車の革張りのシートに座り、ドアに肘をついて手に顔を乗せた。車内は非の打ちどころなく、静かで、上質な革の匂いが洗練された花の香りと混じり合っている。贅沢。俺を苛立たせるだけの、決して心地よくはない空間だ。


 バックミラーに目をやる。運転手は、完璧なボブカットの黒髪の若い女で、その表情は真剣でニュートラルなままだった。右のこめかみに沿って編まれた三つ編みが、遠い記憶を呼び起こした。


 そして、隣には、母。いつも通り、赤を基調としたエレガントな装いだ。体にぴったりと合った長いドレス、肩を覆うコートは、やりすぎなくらい洗練されている。控えめだが高価な宝石が、手首と首を飾っていた。いつだって…完璧だ。まるで、その存在自体が、リハーサルを重ねた芝居のようだった。


 沈黙がしばらく続いた。我慢の限界に達した俺が、それを破った。


「話とは何だ?」


 彼女はゆっくりと、こちらに顔を向けた。唇に笑みが浮かぶ。「なんて恩知らずな息子でしょう…この愛する母に、抱擁の一つもないのかしら?」


 俺は目を回した。「悪魔を抱きしめる方がマシだ。」


 彼女はクスクスと、優雅に口元を手で覆いながら笑った。まるで、俺が最高のジョークでも言ったかのように。「お前はいつだって、女心を砕くのが上手でしたわね。」


 腕を組む。「単刀直入に言え。」


 彼女は、まるで頑固な子供を相手にするかのようにため息をついた。「酒井グループに関するその問題、わたくしがお前に重要な情報を提供して差し上げてもよろしくてよ。」


 一瞬黙り、その申し出の裏にある意図を探る。そして、ためらうことなく尋ねた。「見返りは何だ?」


「それがお前の、わたくしに対する見方なのかしら?裏切りの女、と?」


 俺は無表情を保った。「ああ。」


 彼女の笑みは消えなかったが、その瞳は危険な光を宿した。「お前には、わたくしが何を望んでいるか、分かっているはずよ。」


 ギリッ、と歯が鳴った。彼女が言う必要はなかった。俺はもう分かっている。「お前は、決して彼女を手に入れられない。」


 今度は、彼女は低く笑った。俺の口調を楽しんでいるようだ。「子は、親の所有物ですわ。」


 俺の目が細められた。声は低く、脅威を帯びていた。「もしフラヴィアンに近づいてみろ…俺が酒井家を根こそぎ潰してやる。」


 重い沈黙が落ちた。だが、脅威を感じる代わりに、母はさらに笑みを深めた。「ジャック、お前のそういうところ、わたくしはいつだって大好きでしたわ。」


 その名を聞いて、俺の体がこわばる。彼女は、まるで大切なものをなぞるように、指で自身の顔の輪郭をなぞりながら続けた。


「お前は小さい頃から、いつも虚ろな…死んだ瞳をしていましたわ。」俺は彼女が何を言いたいのか分かっていたが、続けさせた。「ですが、その殺し屋の本能を見せる時になると…」彼女は軽く首を傾げ、その瞳は満足げに輝いた。「お前の瞳は、いつだって命を宿すのです。」


 俺の表情は冷たいままだったが、腹の底で何かがぐるりと捻じれた。


「わたくしの容姿を受け継いだというのに…」彼女は口の端で笑った。「…その眼差しは、お前の父親そっくりですわね。」


 思わず、拳を握りしめた。一瞬、目が見開かれたのを感じる。だが、すぐに制御を取り戻し、再び目を細めた。この女…俺の反応に気づいた。いつだって、気づく。


 彼女はドアに腕を乗せ、ため息をついた。「お前の兄弟たちを守り続けてほしいのです。」


 短く、乾いた笑いを漏らす。「お前が言うと、随分と偽善的に聞こえるな。」


 彼女はただ微笑んだ。「わたくしの血統が、酒井家の名を辱めるのを見たくないだけですの。」


 俺は目を回し、再びシートにもたれかかった。車が速度を落とし、俺のアパートの前で止まる。ドアノブに手をかけ、出ようとしたその時、彼女の声が再び響いた。「わたくしは、お前の敵ではありませんわ、ジャック。」


 一瞬、立ち止まる。首を少しだけ回し、横目で彼女を見た。その口調に、親愛の情はなかった。母親として話しているのではない。ゲートのエージェントと取引をする人間の口調だ。それが、全てをさらに皮肉なものにしていた。


 ドアを開け、外へ出る。だが、閉める前に、振り返って、固い声で言った。


「ですが、味方でもありません…母上。」


 一瞬、彼女の目に違うものが見えた。彼女は笑わなかった。ただ、口の端で、皮肉っぽく微笑んだ。


 ドアを閉め、何も言わずに建物に入った。ロビーは静まり返っている。エレベーターまで歩き、ボタンを押した。その時、穏やかな声が俺を呼んだ。


「貴方がなったその姿を、嬉しく思いますわ、ジャーちゃん…」


 一瞬、体がこわばった。振り返る。運転手。酒井来海。ずっと真面目でニュートラルな姿勢を保っていた彼女が…今、優しい笑みを浮かべて俺を見ていた。


 一瞬、どう反応すべきか分からなかった。彼女は返事を待たず、踵を返して建物を出ていった。


 彼女が夜の闇に消えるまで、目で追った。唇をきゅっと結ぶと、胸が締め付けられるのを感じた。


「…来海姉…」


 エレベーターが、開いた。何も言わずに乗り込む。だが、胸の中の不快な感覚は、消えなかった。


 残りのエネルギーを振り絞って、エレベーターで七階まで上がる。鍵が錠にカチャリと音を立て、俺はドアを押し開け、アパートの静寂を期待した。だが、何かがおかしかった。リビングとキッチンの明かりがついている。「何なんだ、クソが」と低く呟き、眉をひそめる。ドサッと音を立てて鞄を床に落とし、エージェントとしての感覚が警戒態勢に入る。


 ゆっくりと進み、目を走らせる。ブレザーはまだソファに投げ出され、冷めたコーヒーの入ったカップがテーブルに置かれている。だが、バスルームのドアが開いていた。ポタ、ポタと水が滴る音が、俺を立ち止まらせた。そして、俺は見た。


 俺の妹が、黒髪をタオルで拭きながら、そのタオルが体から滑り落ちていくのも構わずに、そこに立っていた。


___________________________________________________


フラヴィアン・シルバーハンド


「お兄ちゃん、このドスケベ!」


 わたくしは体を翻し、胸を隠しましたわ。兄は、まるでトラックにでも轢かれたかのような顔で、わたくしを見ていますです。


 はぁ…兄は長いため息を一つついて、キッチンの方へ向かい始めました。


「第一に、なぜここにいる?第二に、忘れたのかもしれないが、七歳までお前の風呂の世話をしていたのは俺だ。今更見たことのないものなど何もない。」


 この子は…!


 自信に満ちた笑みが、わたくしの顔に浮かびましたわ。「美しい女性を見て、男性が興奮するのは普通のことではありませんこと?」


「第一に、自分の妹に興奮する奴がいるか?第二に、大して見るもんもねぇだろ。」


 なんですって?気づいた時には、わたくしはもう彼の後ろにいて、その肩に触れていました。愚かな兄。その肩がブルブルと震えていますです。


(シルバーハンド家にはタブーがありますわ。決して口にしてはならないタブー。酒井家の女性が美しいことは周知の事実。黒く滑らかな髪、美しい黄色の瞳、そして…そして…豊かな胸!姉上は酒井の容姿ではありませんが、体はそうですわ。見事なお胸。あの女も同じ。あの方が抱えているあの風船は、お金の次に愛しているものに違いありませんわ!)


(あの腹立たしいはるちゃんだって!あの能天気!彼女の知能は全部おっぱいにいっているに違いありません!直美ちゃんまで!普段はだぶだぶの服で隠していますが、あのスケベも巨大なメロンを持っているのです!わたくしと同じなのは、みちゃんだけ…わたくし…わたくし…どうしてわたくしだけ?!)


「お、お、お、おい、ふ、フラヴィアン!」兄の顔が懇願するように震えています。


「では、お兄ちゃん…わたくしが絶壁だと、そうおっしゃりたいのかしら?」


「そ、そ、そ、そ、そ、そんなわけないだろう!」


 ゴッ!


 わたくしは怒りを込めて、兄の腹に拳を叩き込みました。彼はわたくしの前で膝から崩れ落ちます。口から血が滴っている。


「ですが、そうお思いになったのでしょう?」


「も、も、申し訳…」


 数分後、わたくしはタオルからパジャマに着替えていました。お腹がやっと隠れるくらいの小さなTシャツに、足が自由になる短いショートパンツ。アパートの空気は涼しかったですが、わたくしはまだ先ほどの怒りの熱を感じていました。兄上はキッチンで、リビングとを隔てる低い壁の向こう側で、手際よく鍋をかき混ぜ、何か食べるものを用意しています。


 わたくしはリビングのソファに座り、軽く笑いながら足を宙に浮かせました。「竹内のおじさんが、これからはあなたと一緒に住むべきだとおっしゃいましたの、です。」


 彼は手を止め、手に持ったお玉が宙で止まります。そして、信じられないという顔で、低い壁越しにこちらを向きました。「俺と住む?ここにお前のスペースなんかないぞ。」


 わたくしは目を回し、右側にある三つのドアを指差しました。「スペースがないですって?あそこの一番奥の空き部屋は巨大ですわ、お兄ちゃん。あなた、わたくしとアレクサンダーが一緒に住みに来るのを見越して、このアパートを借りたのでしょう。彼のために部屋を分けるプラスチックの間仕切りまで買って!」


 彼は気まずそうに顔を硬くし、必要以上に速く鍋をかき混ぜながら、キッチンに注意を戻しました。わたくしは声を出して笑いました。このシスコン兄貴が、誰を騙せると思っているのかしら?


「あなたって、本当に馬鹿ですわね?いつだってお子ちゃまたちのために全てを計画する、シスコン兄貴。」わたくしはからかいながら、足をぶらぶらさせました。彼は背を向けたまま、グルルと唸ります。


 わたくしは首を傾げ、まだ湿った黒髪が肩に落ちるのを感じました。「わたくしが小さい頃、お風呂に入れてくれたのを覚えています?七歳まで、とあなたはおっしゃいましたわね。」


 彼は体の半分をこちらに向け、低い壁越しに眉をひそめました。「それがどうした?」


「あの頃みたいに、髪を乾かしてほしいのです。」そう言って、ソファに放ってあったタオルを掴み、彼の顔めがけて投げつけましたの。


 タオルが低い壁の上にゆっくりと落ち、彼は混乱したように瞬きをして、片手でそれを持った。「一人でできねぇのか?」と、彼は乾いた声で、まるでそれが雑巾であるかのようにタオルを振りながら言い返しました。


 わたくしは自信満々に微笑み、顎を上げました。「わたくしを甘やかしなさい!」


 わたくしが彼の顔を見て笑う前に、タオルが勢いよくこちらへ飛んできて、頭全体をすっぽりと覆いました。わたくしは指一本動かさず、布が視界を遮るのを感じました。それから彼の手が、タオルの上からわたくしの髪をこすり始めるのを感じます。彼は何かを低く呟いていましたが、わたくしはただ微笑んでいました。この兄は、決して変わりませんわね。


「あなた、これ、上手になりましたわね、お兄ちゃん。」わたくしは子供のように体を揺らしながら言いました。「わたくしたちが小さかった頃、あなたはとても乱暴で、髪を引っ張っていましたのに。」


 彼は一瞬手を止め、まだあのいつものお団子に結ばれた髪で、わたくしを見下ろしました。「俺も今は髪が長いからな。やり方を心得ただけだ。」と、彼は静寂を破るように、しゃがれた声で答えました。


 わたくしは落ち着きなく体を揺らし、ショートパンツが少しずり上がります。彼はいつだって、こうして気遣ってくれるのです。


_________________________________________________


竹内勇太


 俺はソファに座り、フラヴィアンの髪をタオルで乾かしていた。びしょ濡れのタオルの重みが、手にずっしりとくる。甘やかされた子供のように体を揺らす彼女を見ていると、昔のフラヴィアンの姿が重なった。濡れた黒髪で、俺がゼロの忍耐力で結び目を解こうとするたびに叫んでいた、あの小さな女の子。彼女が大人になるまであと二年しかないと分かっていても、今でさえ、彼女を女として見ることはできない。彼女は俺の妹だ。ほとんどの時間、俺はそう思っている。


 だが、椿理香のことが、不意打ちのパンチのように頭をよぎる。なぜ俺はこんなに疲れているんだ?この件は、他のエージェントに誰にでも任せられたはずだ。俺はもうナイトじゃない。今はクレリックだ。キャバルリーでの過去が一生付きまとうとしても、俺はもう騎士ではない。ゲートを自分の意志に反して去ったが、俺がしたことの全て――テロリストを倒し、ファントムを裏切ったこと――は、忠誠心からでも、クルセイダーだったからでもない。ああ、思い出した。俺がいつも戦ってきた理由は。あいつとアレクサンダーの笑顔を守るためだった。


「お兄ちゃん!」


 フラヴィアンの声が全てを断ち切り、俺を現実に引き戻した。瞬きする。「どうした?」


「ずっと話しかけてるのに、上の空じゃない!」彼女は小さなTシャツの上で腕を組みながら文句を言った。


 俺は気まずく笑い、うなじを掻いた。髪が指に触れる。「悪い。」


 彼女は目を細め、俺を指差した。「どうせ昔のことでも考えてたんでしょう、このお馬鹿さん。」


「まあ、違いないな…」俺の笑みは、より優しくなった。だが、彼女の表情が変わったことに気づいた。彼女の大きく黄色い瞳が悲しげになり、俺にはその理由が分からなかった。


「わたくしたちが子供だった頃…」彼女は低い声で始めた。「…あなたが軍人になった時…」


 俺は目を見開いた。「それがどうした、フラヴィアン?」


 彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見下ろした。「兵隊でいることは、お好きでしたの?」


 俺は立ち止まり、タオルはまだ手にあった。「好きだったわけじゃない…だが、俺にできる唯一のことだった。」


 彼女は首を振り、湿った髪が顔にかかった。「そんなことはありませんわ。あなたは、わたくしとアレクサンダーの面倒を見ることもできます。もう戦う必要はないのです。どこかへ行く必要もありません。」


 俺は混乱した。なぜ彼女は今、突然こんなことを言うんだ?何と答えるべきか分からず、俺は再び彼女の頭にタオルをかけ、顔全体を覆った。彼女はイライラしてそれを引き下げたが、文句を言う前に、俺は彼女を抱きしめ、腕をタオルの上から回した。


「お前とアレクサンダーは、俺にとって世界で一番大事なものだ。」俺は、彼女の髪に顔をうずめ、固い声で言った。「お前たちを、決して見捨てたりしない。」


 彼女は俺の腕を掴み、強く握った。「約束してくださいますか?」


「ああ、約束する。」


 彼女は顔を上げ、その目は俺の目を捉えていた。「もう二度と戦わなくていいと、約束してくださいますか?」


 俺の目に、ほとんど気づかないほどの、小さな虚ろさが浮かんだ。「ああ、約束する。」


(すまん、フラヴィアン。でも、この約束だけは…お兄ちゃんは…守れそうにない…)


_________________________________________________


花宮陽菜


 もう、フラヴちゃんたら、あたしをイライラさせるんだから!


 生徒会で何の任務もくれないなんて、どういうこと?!あたしは副会長なのよ、ただの飾りじゃないんだから!


 でも、この怒りで血が沸騰しそうになっても、胸にのしかかる重みには敵わない。罪悪感。今にも地面に沈んでしまいそうな、重い重い罪悪感。


 フラヴちゃんと直美ちゃんは、ゆうくんが本当は何者なのか知らない。正直、あたしだってよく分かってない。ただ、彼がヒーローだったってことだけ。神未来タワーでテロリストと戦った、あの人。雷のように光るガントレットと、風に舞う緑のマントで、あたしを炎の中から引きずり出してくれた。


 胸の十字架のネックレスは、今でもあの日の熱を帯びてドキドキしているみたい。でも、昨日フラヴちゃんが見せてくれた動画が、あたしの頭の中をぐちゃぐちゃにした。フラヴちゃんは何も言わなかったけど、あの黄色の瞳は…もしかして、彼女は知ってるの?


「もう…違うんだ…」


 あの時、彼はそう言った。あたしの心を掴んだ、あの眼差しで。彼はもうヒーローじゃない。戦う必要はない。でも、もしフラヴちゃんが何かを隠しているなら、彼はまたあの世界に引きずり戻されちゃうの?


 あたしは何も言わなかった。彼女が動画を見せた時も。ゆうくんから黙っててなんて頼まれてないけど…何か、この秘密は危険な気がする。そして今、あたしはここにいる。ズタズタの心で、彼を守るべきか、フラヴちゃんに全てを話すべきか、分からずに。


 その朝、キッチンから漂うコーヒーと焼きたてのパンの香りが、あたしを思考の渦から引き剥がそうとしていた。めまいを感じながら階段を降りると、ネックレスが胸元で残酷なリマインダーのように揺れる。食卓ではもうお母さんがコーヒーを淹れていた。ウェーブのかかった赤い髪、あたしが羨むほどキラキラした緑の瞳。妹の百合子は椅子の上でぴょんぴょん跳ね、赤いツインテールを揺らしながら小さな手でジャムを襲撃している。その瞳は、お母さんやあたしと同じように、興奮で輝いていた。


 沙希は、いつものように正反対。静かに、ゆっくりとトーストをかじり、真っ直ぐな藍色の髪が肩にかかっている。彼女はあたしを横目で見て、まるで心の中を読んでいるかのようだった。


「陽菜、ひどい顔してるわよ。枕と喧嘩でもして、負けたみたい」お母さんはそう言って、湯気の立つカップをあたしの前に置いた。「大丈夫?」


「うん、大丈夫だよ、お母さん」あたしは呟き、まるで命綱のようにカップを掴んだ。


 百合子は、口の端にジャムをつけながら笑った。「お姉ちゃん、例のカッコいいお兄ちゃんのこと考えてるでしょ?」


 ゴホッ!コーヒーを吹き出しそうになった。沙希は、お皿から目を離さずにフンと鼻を鳴らす。


「百合子、やめなさい。春姉は、考え事してるといつもああなんだから」沙希は、単調な声で空気を切り裂いた。「でも、きっとその人のことだろうけど…」彼女はカップを口元へ運び、小さな笑みを隠した。


 お母さんは、何かおかしいと気づいたその顔で、片眉を上げた。


「陽菜、姉妹たちが話してるその男の子は誰なの?」彼女は興味津々な笑みで、頬杖をついて尋ねた。


「だ、誰?だ、誰もいないよ、お母さん!」あたしは必死にごまかそうとしたが、裏切り者の沙希の方が早かった。


「原宿で会った、私たちより年上の人だよ」沙希は、まるで自分が主導権を握っているかのように、一口コーヒーを飲んで言った。


「誰もいないってば!」あたしは抗議した。顔が火事みたいに熱い。


「すっごくカッコいいの!いつも百合子にアイス買ってくれるんだよ!」と百合子が、今年一番のニュースであるかのように叫んだ。


「あら、あら…」お母さんはクスクス笑った。「その子、陽菜の学校の子?」


「違う!っていうか、そう…まあ、そんな感じ…大学生なの…」あたしの声が途切れた。彼が先生だなんて、言えるわけない!


「あら、陽菜が年上の男性に興味があったなんて、知らなかったわ」彼女は、小さくいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。


「春姉に同じこと言ったよ、お母さん」と沙希がコメントした。


「ああ…」お母さんはため息をついた。「それで、お父さんと会った時のことを思い出しちゃった」彼女の目は懐かしさで輝いていた。「お父さんはもうすぐ卒業って感じだったけど、私はまだ社会人になったばかり。彼は大人で、私はまだ子供だったけど、すごく不器用で、でも、すごく優しくて…」彼女は両手で顔を覆い、彼女にとっては甘い、でもあたしにとってはちょっと恥ずかしい思い出に浸っていた。


「その話、聞いたことない」沙希は、片眉を上げて呟いた。


「とにかく」お母さんは攻撃に戻った。「大学生なら、どうして『まあ、そんな感じ』なの?」


 心臓が止まった。「あ、時間!遅刻しちゃう!じゃあね、お母さん!」


 あたしは鞄を掴んで家を飛び出した。ネックレスが胸で揺れる。家族という名の尋問から、やっと逃げられた。


_________________________________________________


 空は重く、街を飲み込みそうな暗い雲で覆われていた。冬の冷たい空気が肌を刺し、一歩一歩が秘密の重みを響かせているようだった。学校では、全てがいつも通りに見えた――教室に入るまでは。そこには直美ちゃんがいた。あたしの後ろの席に座り、魁斗くんの席に座る男の子と話している。


 ゆうくんが前に、クラスメートのことをもっと知るべきだって説教してたけど…あたし、まだみんなの名前覚えてないし。でも、あの男の子は…絶対、前に見たことない!


 彼は短い、綿菓子のように輝く薄ピンクの髪をしていて、その青い瞳は、まるで教室の光を全て吸い込んでいるかのように鮮やかだった。少女漫画のイケメンみたいな笑顔で話す彼に、直美ちゃんは単調な返事をしながらも、どこか緊張しているように見えた。もしかして、他のクラスの子が告白しに来たとか?へへ、アレクサンダーくんも油断できないね!


 あたしは鞄を机に置きながら様子を窺っていると、陽気な声に不意を突かれた。「おはよ、花宮さん!」


 振り返ると、あたしの目は飛び出さんばかりだった。後ろに飛びのいたあたしを、直美ちゃんがまるで怯えた猫のように捕まえる。


「か、か、か、魁斗くん?!」


「おめでと、はるちゃん。あんた、リアクション大げさすぎでウケるんだけど」直美ちゃんは、単調な声の中に、楽しげな光を目に宿して言った。


「やっぱ、変かな?俺の髪」魁斗くんは、気まずそうに笑いながらうなじを掻いた。薄ピンクの髪が、彼の青い瞳を引き立て、今まで気づかなかった魅力を与えている。


「ううん、全然!ただ、びっくりして…ていうか、似合ってるよ!」あたしはパニックを何とか修正しようとして言った。魁斗くんは目を見開き、ピーマンみたいに真っ赤になると、机に額を打ち付けんばかりの勢いでお辞儀をした。


「すみません、花宮さん!俺、勇太先生には逆らえません!」そして、まるで化け物でも見たかのように叫びながら、廊下を走って行ってしまった。


「あいつ、一体どうしたの?!」あたしは口をぽかんと開けていると、直美ちゃんが腕を組んだ。


「あんたに気があると思われた、って思ったんじゃない」彼女は冷たい声で言った。


「可哀想に…」あたしはまだ呆然としながら呟いた。


 魁斗くんが落ち着いて戻ってくると、彼は三ヶ月近くも田舎の親戚のことで休んでいたと説明してくれた。


 その時、もちろん、あたしの馬鹿な頭が、ある繋がりを見つけた。直美ちゃんが彼と話している時のあの緊張した様子、そして二人のピンクの髪…へへ。


 魁斗くんが他の男子と話している隙に、あたしは彼女の方を向いた。「ねぇ、直美ちゃん」と始めると、彼女はもう最悪を予期して、そのオレンジ色の目でこちらを睨みつけていた。「魁斗くんのピンクの髪、あんたのと同じだね。」


 彼女は「で、何?」と言いたげに片眉を上げた。「はるちゃん、もしバカなこと言ったら、マジで窓から放り投げるからね」彼女は、目が輝きながら脅してきた。


 でも、あたしは続けなきゃいけなかった。


「二人、お似合いだと「やめて!やめて!」彼女はあたしの顔を開いた窓に押し付け、あたしは落ちないように必死に窓枠を掴んだ。


「直美ちゃん、冗談だってば!」


「放り投げるって言ったでしょ?!言ったよね?!」彼女は叫んだが、その口の端がサイコパスみたいな笑みで震えているのが見えた。


 ドーン!


 雷が空で鳴り響き、教室のドアが轟音と共に開いた。ゆうくんが入ってきた。その目はナイフのように鋭く、額には血管が脈打っている。一瞬で、教室は静まり返った。彼は教卓まで歩き、そのブレザーは少しシワになり、手に持った書類の束がわずかに震えている。彼が疲れているのが、あたしには分かった。彼は教室を見渡し――特にも、まだ窓のそばで半身を乗り出しているあたしと直美ちゃんを――そして、しっかりとした、しかし疲れた声で言った。


「お帰りなさい、田中くん。」


 魁斗くんは瞬きし、目を見開いて、どもりながら答えた。「た、ただいま戻りました、先生!」


 授業はいつも通りに進んだ。でも、昼休み?ああ、生徒会に入ってから、あたしの休憩時間は仕事の延長になった!もう、最悪…


 生徒会室では、お弁当と書類の匂いが混じって、空気が重かった。フラヴちゃんが無理やりゆうくんを連れてきていた。だって、もちろん、彼は昼休みになると姿を消すのが得意だから。そして、彼はそこにいた。片手でおにぎりを食べ、もう片方の手で書類をめくっている。まるで多機能ロボットみたい。マジで、どうやってんの?


 突然、フラヴちゃんがこちらを向き、その黄色の瞳が「爆弾投下よ」と言いたげに輝いた。「はるちゃん、今夜はわたくしの家に泊まりにいらっしゃいませんこと?です」


 ゆうくんの箸が震え、ご飯粒が一つ、彼の膝に落ちた。あたしの心臓が跳ねた。


「うん、いいけど…でも、なんで急に?」あたしは、好奇心と疑念が戦うのを感じながら尋ねた。


 彼女は近づき、顔をあたしの耳元に寄せ、まるで国家機密のように囁いた。


「それが、あなたの任務になりますの。」


 あたしの目が輝いた――ついに、あたしの価値を見せるチャンス!でも、その興奮は二秒しか続かなかった。だって…待って、どんな任務よ?


「でも、何すればいいか、全然説明してくれてないじゃん」あたしは囁き返し、現実に引き戻された。


 フラヴちゃんは身を引き、まるでアニメのワンシーンのように優雅に髪をかき上げた。彼女はゆうくんの方へ視線を送り、自信に満ちた笑みが主役の座を奪った。


「あなたはそれで問題ありませんわね、兄上?」


「好きにしなさい」彼は、氷のように冷たい声で、お弁当から目を離さずに答えた。でも…待って?


「なんでフラヴちゃんが許可を求めてるみたいになってるの?」


 しまった、また声に出して考えちゃった!


 シーン…全員が固まった。フラヴちゃんはこちらを向き、その笑みは鋭く、黄色の瞳があたしを射抜いていた。


「わたくしがお願いしたからですわ!」彼女は、優雅さと脅威が混じった声で言った。「わたくし、今は兄と一緒に住んでいますので!」


「あ…そうなんだ…」あたしの顔は、ショックで固まったミームみたいだったに違いない。でも、その時、脳が点と点を繋げた。フラヴちゃんの家に泊まる…それはつまり—


「ゆ、ゆ、ゆ、ゆうくんと住んでる?!」


「ええ!最高でしょう?」フラヴちゃんはあたしの手を掴んだ。彼女の興奮は伝染しそうで、あたしをほとんど納得させかけた。ほとんど。


「マジか…」あたしは呟いた。ゆうくんはため息をつき、まるで消えてしまいたいとでも言うように、手で顔を覆った。

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