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第2話「そんな単純なことじゃない…」

竹内勇太


 二年か…神未来タワーのテロ事件から、もう二年。


 アニメでよく見る場所だが、現実では常に立ち入り禁止の、学校の屋上。


 俺は、その日の午後遅く、地平線の彼方に見えるあのタワーを眺めていた。昨日の技術博覧会での混沌とした任務が、二年もの間、必死に心の奥底に封じ込めてきた記憶を掘り起こしてしまった。今日、あのテロの日の苦い思い出が蘇る。焼け付く金属の匂い、ガラスが砕け散る音… ガシャーン!… なぜ今になって蘇ってきたのかは分からない。だが、不意に声が俺の思考を遮った。


「まだ過去を引きずってんのか?」


ドンッ


 振り返ると、斎藤が俺の後ろに現れ、金属製の手すりに寄りかかっていた。夕日が彼の明るい茶髪に反射し、まるで金髪のように見える。その茶色の瞳は、オレンジ色の光の下で、ほとんど赤みがかった強い輝きを放っていた。


 彼もまた、タワーに目をやった。


「なあ…時々思うんだよ。」彼はため息をついた。「もし俺がそこにいたら、もしかしたら何かが違ったかもなって。」その表情に感情はなかった。


「お前にとって都合のいい慰めの言葉と、俺が本当に思うこと、どっちが聞きたい?」と俺は尋ねた。


「両方だ。」


「もしお前がそこにいたら…たぶん、大して変わりはなかっただろう。」


「はっ、それが慰めかよ。じゃあ、本心を聞かせろ。」


「俺が本当に思うのは、結果は同じだっただろうってことだ。でも…もしお前みたいな奴がもう一人…そうだな、クルセイダー級の奴がいたら—」


「クルセイダー?」彼は俺の言葉を遮った。「ドラグーンの連中だけじゃ不十分だったって言いてえのか?」


「そうじゃない。だが、もしお前がそこにいたら…」俺は肩をすくめた。「たぶん、お前も俺も、今ここにはいなかっただろうな。」


 斎藤は笑い、一瞬目を閉じた。ハハッ!「そうかもな。もし俺がお前の道を選んでたら、今頃まったく違う場所にいただろうな。」


「あるいは死んでたか」と俺は付け加えた。


「あるいは死んでたな…」彼は同意し、微笑んだ。


 しばらく沈黙が続いた。


「…でも、せめてお前が—」


「クルセイダーになってたら、か?」彼は再び俺を遮った。「ふざけんな!自分の親父に実力を証明したかったのはお前だろ。俺はあんな地獄を経験する気はねえよ。」そのからかうような口調に、俺は思わず笑ってしまった。


 斎藤とは子供の頃からの付き合いだ。俺の憂鬱を冗談に変えられるのは、こいつだけだ。


 会話が続く前に、声が俺たちを呼んだ。「時間だ。」


 石田先生だった。英語教師の。その顔にはすでに初老の気配が漂い、短く逆立った髪には白髪が混じり始めていた。


「ああ。」


「おう。」俺たちは、ほとんど同時に返事をした。


 校長室の空気は、ナイフで切れるほど張り詰めていた。俺、斎藤、木村、石田先生、安藤先生、藤先生、そしてもちろん、桜井さん。


 斎藤が単刀直入に切り出した。「で、昨日の報告は?」


 全員の視線が俺に集まった。


「技術博覧会での任務は、想定通りには進みませんでした。」俺は、自分でも感じるほど冷たくプロフェッショナルな声で始めた。自然と一人称が変わる。「私は、敵が意図的にターゲットの暗殺に失敗した可能性があると考えています。これは、テストです。『スピリット・ブロッサム』の…即興の判断のおかげで、ターゲットである椿理香の身柄は無事確保できました。」(クソッ、あのコードネームを口にするだけでも馬鹿馬鹿しい。)「その過程で、エージェント『シロイ』が『スピリット・ブロッサム』を保護する際に負傷。大学の医療施設で治療中ですが、命に別状はありません。」


「リーダー格の、エクソギアを装着した女とドローンの一機は逃走しました」と俺は続けた。「しかし、奴らは何かを残していきました。撃墜されたドローンの残骸から、データパッドを一つ。そして、そこにはデジタル署名が。」


カチッ


 俺はスクリーンに画像を投影した。一つの名前が、そこに輝いていた。


 マルセル・ランフレッド。


シーン…


 重い沈黙が部屋を支配した。俺の体が強張り、奥歯を噛みしめる。ギリッ…その動揺は、見過ごされなかった。


「勇太?どうしたんだ?」斎藤が真剣な声で尋ねた。


 桜井さんも気づいていた。「その名前に聞き覚えがあるのかね、勇太くん?」


 俺は目を閉じ、体勢を立て直してから答えた。


「私、斎藤、そして桜井さんを除いて…皆さんは元インクイジターですよね?」俺の視線が、藤、安藤、そして石田先生の上を滑った。「私の経歴については、すでに目を通していると思いますが。」


 三人の教師は、視線を逸らさずに俺を見つめている。俺はため息をついた。「ならば、私がレッド・ファントムの元エージェントだったこともご存知のはずだ。」誰も目を逸らさない。「マルセル・ランフレッドは…私がファントムになった時の師匠でした。」


ゴクリ…


 室内の緊張が、肌で感じられるほどになった。


 木村が後頭部を掻いた。「つまり…僕が理解するに、この男は…」


「極めて危険です」と私は断言した。「これで全てが変わります。ランフレッドが関わっているのなら、ターゲットは椿テックだけではない。これは個人的な問題だ。彼は、より大きな目的がなければ動きません。」


 緊張がさらに増す。斎藤が片眉を上げた。「俺は知らなかったぞ。」


「話す理由がなかったからだ。」俺は腕を組んだ。「今までな。」


「レッド・ファントムが黒幕ではないと、すでに察しはついていました」と、俺は独り言のようにつぶやいた。


 藤先生が眼鏡を押し上げた。「なぜそう思うんじゃ?」


「ファントムはメディアや報復など気にしません。奴らはやりたいようにやる。つまり…」俺はわずかに身を乗り出した。「もし奴らが本気で椿理香を殺すつもりで狙っていたのなら…彼女はとっくに死んでいます。」


 部屋は再び沈黙に包まれた。


 石田先生が沈黙を破った。「では、私たちはどうするのです?椿理香とメディアにとっては、昨日の件はただのコンベンションでの事故に過ぎない。彼女は自分が置かれている危険に全く気づいていない。」


「そして、それこそが、昨日の失敗が意図的だったと私が信じる理由です」と、俺は一人一人を見つめながら断言した。「あれはテストだった。ランフレッドは危険人物です。私が知るほとんどのことは…彼が私に教えた。彼がこれほど初歩的なミスを犯すはずがない。捕らえた男たちはただの傭兵、使い捨ての駒です。ランフレッドは、もっと大きなゲームをしている。昨日の攻撃は、我々の防御を測るためのもの。本当の一撃は、別の時に来る。」


 安藤先生が眉をひそめた。「では、その『別の時』とはいつになるのかしら?」


 俺はため息をつき、手で髪をかき混ぜた。「100%確信を持っては言えません。唯一確かなのは、彼が政治的な影響と混乱を最大化するために、最も注目が集まる瞬間を選ぶだろうということです。しかし…相手がランフレッドなら、彼は急がない。埃が収まるのを待ち、我々が安全だと油断するのを待つでしょう。」俺の声は低くなった。「なぜなら…それが、私が彼の立場なら取る戦略だからです。」


 沈黙が再び部屋に落ちた。今回は、誰もそれを破ろうとはしなかった。数秒後、桜井さんが再びわずかに身を乗り出した。


「勇太くん、だが、椿理香がターゲットであり続けると、本当に確信しているのかね?」


 俺は腕を組み、真剣な眼差しを保った。「全ての状況が彼女を指しています。企業間の戦争、攻撃の手口…全てが。問題は、彼が再び攻撃してくるかどうかではなく、いつ攻撃してくるか、です。」


 誰かが何かを言う前に、石田先生が突然立ち上がった。「ならば、私自身が調査します。」


 だが、桜井さんが手を上げて彼を制した。「それは、勇太くんと木村くんに任せなさい。」


 石田先生はその場で固まった。彼の目がわずかに細められる。そして、低い声で、彼は独り言を始めた。


「…悔しい。」部屋の全員が彼に注目した。「羨ましくもある。腹立たしい…」


「私が校長の、一番のお気に入りであるべきなのに。」部屋が凍りついた。


「何年もの間、竹内が一番だった。しかし、彼が引退した。ついに、私の番が来たのだと。私が教師の中で最も尊敬され、最も影響力を持つ存在になるのだと。だが…」彼は俺をまっすぐに見た。「…君が現れた。」俺は反応できなかった。「そして、君は教師たちの注目を奪っただけでなく…生徒たちの注目までも奪っていった。」


プッ…


 緊張した沈黙が場を支配した。すると、安藤先生が大きく咳払いをした。ゴホンッ。木村と斎藤は必死に笑いをこらえている。藤先生は手で顔を覆ったままだ。安藤先生は純粋な嫌悪の視線を送っている。そして桜井さん…彼女は微動だにしなかった。石田先生は、混乱して瞬きをした。


「…私、声に出てましたか?」その衝撃は、まるで殴られたかのようだった。


「…すみません?」俺の声は、かろうじて出た。


 斎藤が俺の肩に手を置き、笑いをこらえながら言った。「気にするなよ。」


 まだショック状態のまま、俺はつぶやいた。「…友達になりかけてると思ってたのに…」


 石田先生が口を開きかけたが、桜井さんがその空気を断ち切った。彼女は木村の方を向いた。


「あなたはこの任務に不可欠です。」 木村は姿勢を正した。「もしランフレッドの動きを阻止できれば」 彼女は続けた。「私はあなたが勇太くんと交わした契約の、こちらの義務を果たしましょう。」


「承知しました。」 彼はドアに向き直った。「僕が調査し、彼の次の手を突き止めます。」


 桜井さんはそれから斎藤に注意を向けた。「そして、あなた。」 彼は次に何が来るかすでに分かっていた。「その時が来たら—」


 しかし斎藤は手を上げて彼女を遮った。「心配いりません。」 彼は微笑み、腕を組んだ。「俺は引退したかもしれませんが、一生ものの任務を授かりましたから。」


 桜井さんは片眉を上げた。「その任務とは?」 斎藤は躊躇わなかった。彼は再び俺の肩に手を置いた。「こいつがヘマをしないように見張ることです。」


 私の表情がわずかに引きつった。「…本気か?」


「間違いない。」


 俺は腕を組んだ。「で、一体誰がお前にそんな任務を与えたんだ?」 斎藤はただ微笑んで肩をすくめた。


「誰だと思う?」


 俺の表情が和らぐ。正面を向き、静かにつぶやいた。「…兄上。」


 桜井さんはブレザーを直した。「会議は以上です。」


 一人、また一人と、教師たちが部屋を出ていき、私は自分の思考と共に、一人取り残された。


 静寂が空間を満たす。俺はテーブルに肘をつき、両手で顔をこすった。ランフレッド…ゲートにいた頃に学んだことがあるとすれば、盲目的に計画に従うことは死に繋がるということだ。もし、本当のターゲットが彼女ではなかったら?もし、攻撃が内部から来るものだとしたら?もし、本当のターゲットが、俺自身だとしたら?ランフレッドのことだ、俺をターゲットごと始末するためにこの件に乗ったと考えてもおかしくない…


 それは避けたい考えだったが、無視はできなかった。ランフレッドは几帳面だ。もし彼が俺の邪魔に気づいていたら…この戦いは、直接対決なしには終わらないだろう。そして、記憶が蘇った。


 何年も前。提灯だけで照らされた薄暗い道場。ニス塗りの木と汗の匂いが空気に染み付いている。俺は長い刀を握りしめ、息を切らしていた。目の前には、マルセル・ランフレッド。完璧な構え。冷たく、感情のない目。彼はゆっくりと刀を上げ、正確に位置を決めた。「もう一度だ。」


キン!


 俺は攻撃した。間違いだった。


ドサッ!


 衝撃は速く、容赦なかった。俺が反応する前に、正確な蹴りが俺の胸を捉え、畳の上に叩きつけた。彼は俺を見下ろし、その影が俺の視界を覆った。「お前は躊躇しすぎる、小僧。戦闘が始まる前から精神が負けているのなら…立つ必要すらない。」


 俺の息は荒かった。頭を振り、その記憶を追い払う。あの頃から…俺の人生は、まったくもって混沌そのものだった。


 ファントムになって二重スパイをやり…それからクルセイダーになる。だが結局、俺は別の道を選んだ。そして、レッド・ファントムを裏切った…


 思考が混沌に沈んでいた時、声が俺を現実に引き戻した。「おい、勇太。」


 顔を上げると、斎藤が戸口に寄りかかり、両手をポケットに入れ、いつもの怠惰な表情を浮かべていた。


「なんだ?」と、疲れ果てて尋ねた。


 彼は口の端で笑った。「ただの教師で、ここまで打ちのめされた奴は初めて見たぜ。」


 俺は長いため息をついた。こいつは、何も分かっていない。


___________________________________________________


ヒュー…


 夜は涼しかった。夏が終わり、空気は数週間前のような湿っぽくまとわりつく重さを失っていた。校舎の間を吹き抜ける冷たい風は、秋の訪れを告げる最初の知らせだった。


 俺と斎藤は、校舎の外の通路をゆっくりと歩いていた。コンクリートの床に、俺たちの足音が低く響く。コツ、コツ…頼りない街灯が黄色い光だまりを道に落としていたが、キャンパスの大部分は薄暗がりに沈んでいる。


「もうすぐ冬だな」斎藤は腕を組み、白い息を吐きながら言った。「だんだん寒くなってきた。」


「ああ…」と俺はつぶやき、ポケットに両手を突っ込んだ。


 俺はまだ自分の考えに沈んでいた。だが、斎藤はいつものように、俺が長く沈むことを許してくれない。


「おい、なんで友美ユミはいなかったんだ?」彼の問いに、俺はハッと我に返った。


「何がだ?」


 彼は俺を横目で見た。「だから、お前らの会議に友美がなんでいなかったのかって聞いてんだよ。」


 俺は眉をひそめた。「なんであいつがエージェントだったって知ってる?」


 彼は軽く笑った。ハハッ「お前…休暇中にあんたたち二人がバーチャルリアリティのゲームで見せたあの立ち回りを見たら、気づかない方が無理だろ。」


 俺はため息をつき、無造作な団子頭を手でかき混ぜた。「痛いとこを突くな。」あの忌々しいゲームめ…


「でも、実を言うと」と彼は続けた。「あいつが元エージェントだってことは、もう知ってた。」


 俺の視線が鋭くなる。「…なんだと?」


 斎藤は口の端で笑い、視線を前に向けた。「俺がまだゲートにいた頃、一度だけ『リヴァイアサン』に会ったことがあるんだ。」


 俺の体が、一瞬、強張った。「その時、偶然あいつの顔を見ちまってな。」


 俺の表情が硬くなる。彼は俺の方に顔を向けた。


「だから、大学でお前と一緒にいるのを見た時…点と点が繋がるのは時間の問題だった。」


 俺はしばらく黙っていた。「…ずっと知ってたのか?」


 彼は低く笑った。「ああ、センパイ。」


 俺の額に青筋が浮かんだ。ピクッ「じゃあ、それも知ってたのか?」


 彼は頷いた。俺は目を回し、腕を組んだ。「最高だな。これで、あいつまで俺をセンパイと呼び始める。」


 斎藤は片眉を上げた。「待て、お前、あいつに話したのか?」


「当然だ。」俺は肩をすくめた。


 斎藤は眉をひそめる。「なんで信用したんだ?」


 俺は即座に答えた。「俺はあいつを信用してるからだ。」


 斎藤は待った。「…だが、お前自身は信用してない、と。」


ドンッ!


 彼は俺の肩を殴った。俺はすねを蹴り返す。「この野郎…!」


「自業自得だ。」二人は笑いながら距離を取った。


 頭の中が心配事でいっぱいでも、斎藤がそばにいると、見えない重荷が軽くなるように感じた。まだまだ問題は山積みだ。だが、少なくとも、こいつがいれば、少しは気が楽になる。


 俺の思考はまた彷徨い始めたが、いつものように、斎藤が俺を現実に引き戻した。


「おい、勇太。」


「ん?」俺は彼を見た。


 彼は、まるで何でもないことのように、さりげなく、しかし鋭い質問を投げかけてきた。


「花宮さんはどうなんだ?」


 俺の表情が、一瞬で固まった。


「…あいつがどうかしたか?」


 斎藤は笑った。俺が動揺したのを、彼は見逃さなかった。そして、俺がこの会話から逃げられないことも分かっていた。


 彼は、その話題を離さなかった。ポケットに両手を突っ込み、俺をイラつかせるのを楽しんでいる、あの顔で隣を歩き続ける。「で?」


 俺はため息をついた。「で、なんだ?」


 彼の口の端が上がった。「彼女の『告白』の後、花宮さんとの関係はどうなんだ?」


 俺は目を回した。「別に気にしてない。」


 斎藤は片眉を上げた。「へぇ、そうか?」


「ああ。」俺は腕を組んだ。「フラヴィアンが友人たちと出かける時に、俺を無理やり連れて行くから、時々花宮さんにも会う。だが、特別なことは何もない。」


 斎藤は鼻を鳴らした。フンッ「特別じゃない、だと?」


 俺は考え込み、そして、数日前の出来事が不意に頭に浮かんだ。


 記憶は鮮明だった。フラヴィアンに引きずられて、混雑した書店にいた時のことだ。彼女と花宮さんは興奮して、棚から棚へと飛び回っていた。俺はただ、早くこの状況が終わることだけを願っていた。その時だ。花宮さんが、一番上の棚にある漫画に手を伸ばそうと、小さな脚立に乗っているのが見えた。彼女は背伸びをしすぎ、脚立が揺れ、バランスを崩した。


あっ!


 俺の体は、頭で考えるより先に動いていた。素早い動きで、彼女の腰を掴み、落下を防いだ。一瞬、時が止まった。近い。近すぎた。彼女の顔が数センチ先にあり、その緑色の瞳が驚きで見開かれている。腕に、彼女の心臓がバクバクと速く打つのが伝わってきた。


クソッ、面倒な…


「大丈夫か、花宮さん?」俺は、彼女を立たせながら、できるだけ平坦な声を保とうとした。


 彼女は何も言わなかった。ただ、トマトのように真っ赤になり、「は、はひ…」とかろうじて聞き取れる声でどもると、残りの時間ずっとフラヴィアンの後ろに隠れて、俺と目を合わせようともしなかった。


 俺は現在に戻り、斎藤を見た。「見たか?特別なことなんて何もない。あの日以来、あいつは俺の顔をまともに見ようともしねえ。」


 彼は笑った。「それは、あいつがお前に怒って避けてるんじゃなくて…恥ずかしくて避けてるんだ。お前のことが好きなんだよ、この朴念仁が。」


 俺は肩をすくめた。「どうでもいい。」


 斎藤は立ち止まり、俺をじっと見た。「そして、お前も彼女のことが。」


 その断言に、俺は不意を突かれた。沈黙が落ちる。そして、その沈黙が、答えだった。


 彼は軽く微笑んだ。「じゃあ、何が問題なんだ?」


 俺は苛立ちまじりのため息をつき、ついにその問題を口にした。「彼女は生徒だ。そして俺は、彼女の教師。…越えられない一線がある。」


「教師『代理』だろ」と彼は訂正した。「お前の任期には、終わりがある。年度が終われば、もう問題ないじゃないか。な?」


 俺は口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。真実は、もっと複雑だった。


「いや…」俺はつぶやき、視線を逸らした。「そんな単純なことじゃない。」


 斎藤は俺をしばらく見つめ、俺がそれ以上話さないことを悟った。彼は話題を変えたが、その声はもっと真剣だった。「問題を言えば…俺は、お前が友美と何かあるのかと思ってたぜ。」


 その話題転換に、俺は現実に引き戻された。即座に首を振る。「ない。絶対にない。」


 斎藤は片眉を上げた。「本気か?」


「ああ。」俺はため息をついた。「友美は、近すぎる友人だ。近すぎて、そういう対象としては見れない。」


 斎藤は笑った。「じゃあ、彼女はフリーか…」


 俺は嫌悪の表情を浮かべた。「お前、結婚してるだろうが。」彼は肩をすくめた。「お前らが抱えてる問題は知ってるが、それでも既婚者だ。」


 斎藤は一瞬立ち止まった。そして、静かな声で訂正した。「『だった』、だ。」


 俺はその場で凍りついた。「…なんだと?」


 彼は後頭部を掻き、ため息をついた。「(めぐみ)が離婚を切り出したんだ。」


 俺は言葉を失った。「もう一ヶ月になる。」


 彼は、俺を直接見ずに、前を見つめた。「前に言えなくて、悪かった。」


 俺は何かを言おうとしたが、何も思いつかなかった。一瞬の後、俺はつぶやいた。「だが、まだ一緒に住んでるんだろう…」


 斎藤は俺を遮った。「あいつの家族がまだ知らないからだ。」


 俺は唇を噛んだ。恵の家族…伝統的な日本の家だ。最初から、二人の結婚を認めていなかった。


 *離婚となれば、彼女を苦しめる理由が増えるだけだ。それでも…それでも、斎藤は彼女を守っている。*俺は深く息を吸った。


「今のところは、アパートを共有してる」と彼は続けた。「でも、あいつが落ち着くまでだ。」


 短い沈黙の後、彼は無理に笑った。「アパートはあいつに残して、俺が出ていくつもりだ。」


 俺は何かを言おうとしたが、彼は遮った。「郊外に、ワンルームの安アパートでも探すさ。」彼は笑った。


 俺は、一緒に笑うことはできなかった。ただ、胸の中に空虚感が広がっていくのを感じた。結局、俺たちは別れた。彼は俺とは反対の道を進んだが、完全に離れる前に、口の端で笑いながら振り返った。


「おい、勇太。」俺は顔を上げた。「お前が主導権を握らなきゃ…他の誰かが横からかっさらっていくぜ。」俺は眉をひそめた。


「…どういう意味だ?」


 彼は肩をすくめ、再び背を向け、歩き始めた。そして、振り返らずに、楽しそうな声で付け加えた。「ああ、それと、これは任務の話じゃねえからな!」


 俺の顔が、即座に引きつった。「うるせえ、斎藤!」


 彼の笑い声が、夜の通りに響き渡りながら遠ざかっていく。俺は**チッ**と舌打ちをして、自分の道を進んだ。

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