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第7話「最初の一手」

花宮陽菜


 二週間。


 あの公園での告白から、もう二週間が経った。ゆうくんが、あの怖いくらい真剣な顔をしてから、二週間。


 あの日以来、彼とは何度か顔を合わせたけど、彼は…信じられないくらい普通だった。普通すぎた。だから、公園で別れ際に見た、あの重くて遠い目をしたゆうくんは、あたしの気のせいだったのかもしれないって。彼の「ヒーローモード」じゃなかったんだって。


 そう、信じたかった。


 でも昨日、彼から電話があった。ゆうくんが。彼、絶対に電話なんてしてこない。メッセージの返信すらろくにしないのに。もちろん、用件はあたしを心配してとかじゃなくて、彼の「スパイ」のお仕事。…ううん、あたしの仕事。


「椿テックの技術博覧会に行け」って。日本で二番目、世界で四番目に大きいテクノロジー企業。そして、運悪く、あの椿理香の実家。あたしがどういうわけか監視しなきゃいけない、二年生の先輩。


 そして今日、あたしの極秘スパイミッションが、始まる。


 ドンッ!


 鈍い衝撃で、あたしは現実に引き戻された。


(そっか…あたし、もう会場にいるんじゃん…)


 さっきの彼との会話の記憶があまりにも鮮明で、自分がどこにいるか忘れかけてた。巨大なイベントホールの入り口で、彼はあたしを待っていた。黒いスーツ姿の彼は、いつもの先生の変装みたいに、緑のメッシュを隠すように低い位置でポニーテールにしてた。でも、あたしの目には、そのスーツはオシャレじゃなくて…まるで「制服」みたいに見えた。


「彼女に接近しろ、花宮さん」彼の声は冷たかった。「午後三時にインタビューがある。それまでに、彼女に接触する方法を見つけろ」


 これは、あたしが好きなゆうくんじゃない。友達の、めんどくさがり屋なお兄ちゃんじゃない。勇太先生でもない。これは、スパイだ。あの路地裏で会った、ショッピングモールで助けてくれた、木村と戦った彼だ。


「ゆうくん…」あたしが何かを言う前に、彼はもう人混みに消えようとしていた。「その『調査』って…ただの『情報収集』じゃないよね?」


 彼は何の表情も見せなかった。


「椿さん…危ない目に遭ってるんでしょ?」


 一瞬だけ、彼は足を止めた。でも、振り返らない。


「違う」


 その一言は、あまりにも冷たくて、乾いてて、機械的で、あたしの背筋を凍らせた。そして、彼は人混みの中に消えた。


「嘘つき…」


 あたしは、一人そう呟いた。


 あたしを現実に引き戻した衝撃は、思い出じゃなくて、腕への物理的な衝撃だった。


「おーい、はるちゃん!またボーッとしてんじゃん」直美ちゃんのからかうような声が耳元でした。「ゆうくんのこと考えてたんでしょ?」


 ドキッ!


 見ると、いつものゴスロリスタイルに身を包んだ直美ちゃんがいた。サーモンピンクの髪はお決まりの赤いリボンで横に結ばれてて、そのオレンジ色の瞳が悪戯っぽく輝いている。


「なっ?!違うってば!」あたしは抗議したけど、顔が熱くなるのを感じた。


 直美ちゃんはケラケラ笑う。「はいはい。てかさー、さっきユウ先生が通り過ぎてくの見たよ」彼女は意地悪く笑いながら、あたしの向こう側にいるフラヴちゃんに視線を移した。「ね、フラヴちゃん?」


 フラヴちゃんは、まるでファッション雑誌から抜け出してきたみたいに、上品なクリーム色のドレスコートを着こなしていた。彼女もハッとして我に返ると、いつもの自信に満ちた笑顔じゃなく、どこか疲れた笑みを浮かべた。「ええ…ええ、見ましたわ、です」


(やっぱり…あたしが考えてた通りかも…)


「大丈夫かしら、フラヴィアン先輩?」星野さんが、ミニマリストでシックなグレーのカシミアセーターと仕立ての良いパンツ姿で、心配そうに尋ねた。


「ええ、大丈夫ですわ。ご心配おかけして申し訳ありません」フラヴちゃんは、無理に笑顔を作った。


「ふーん…」直美ちゃんは目を細めて、二人を分析するように見た。「あちし思うんだけど、あの子の『エネルギー』吸い取っちゃったんじゃない?」


 直美ちゃんが顎で示した先には、アレクサンダーくんがいた。いつもは無関心な彼が、シンプルな緑のTシャツとブランドジーンズ姿で、キラキラした青い瞳でコンピューター部品の展示に夢中になっている。まるで、お菓子屋さんにはしゃぐ子供みたい。


「エネルギー?」とあたしは聞いた。


「そう。いつもクールぶってるアレックスが超ハイテンションで、いつもハイテンションなフラヴちゃんが、なんか静かで考え込んでる」


「なるほど。極が入れ替わったのね、かしら」星野さんが、まるで複雑な方程式を解いたかのように言った。


「そーゆーこと!」と直美ちゃんが満足げに答えた。


 はぁ…とあたしはため息をついた。周りにはオートマタとか、最新の義手とか、ホログラムディスプレイが溢れてる。それなのに、あたしは…椿さんに近づくっていうミッションの真っ最中のはずなのに。どうしてこの四人がここにいるのよ?


(最悪…あたしの任務、失敗かも…)


「みんな、あたしちょっとトイレ!」、一番自然に見える笑顔を作って、あたしはグループから離れた。


 ミッションのためだ。椿理香を見つけなきゃ。


 人混みをかき分け、彼女を探した。そして、ついに見つけた。背中を向けて、彼女は家族――両親、祖父母、親戚――と、笑い声一つがうちの学校の月謝の十倍はしそうな人たちに囲まれていた。高そうなドレスを着て、すごくエレガントだった。


 でも、柱の影からこっそり彼女の顔を見た瞬間…あたしは立ち止まった。


 髪はブロンドのショートで、瞳はレンズのせいで鮮やかな緑色。彼女の表向きの姿だ。でも、その眼差しは…冷たくて、空っぽで、深い悲しみを湛えていた。これは、あたしが知っている椿さんじゃない。討論会でフラヴちゃんと渡り合った、あの女の子じゃない。あのバスルームで、鋭い目つきと、攻撃的だけど最高にカッコいい声であたしを脅した彼女じゃない。


(誰…誰なの、この空っぽの女の子は?)


 疑問が頭の中を駆け巡る。このミッション、ゆうくんの調査…椿さんはどうしてウィッグとカラコンなんかしてるの?あの綺麗な赤髪を、どうして隠すの?


 ショッピングモールで、あたしを攫った男の声が、亡霊みたいに響いた。


 *「人違いだ、この馬鹿!」*


(ゆうくん…嘘つき…)彼があたしを心配させないように、守るために嘘をついたのは分かってる。でも、それでも、あたしには分かる。彼女が危険な目に遭ってるって。そして何より…目の前にいるこの子が、苦しんでる。


 決意が固まった。あたしはもうやったことがある。フラヴちゃんの時みたいに。あたしが、椿さんをここから連れ出すんだ。


 最初の一歩を踏み出そうとした、その瞬間。あたしの周りの空気が凍りついた。


 ゾクッ!


 巨大なプレッシャーが肩にのしかかる。感じたことのない、でも、どこか懐かしい感覚。恐怖。


 そっと横目で周りを見ると、あるパターンに気づいた。ジャケットにサングラスの男たち。人混みに紛れて、さりげなく椿さんの家族を見張っている。見渡せば見渡すほど、彼らの数が増えていく。


(そんなことしてる場合じゃない!)あたしは自分に言い聞かせた。彼女は危険なの。ゆうくんは何かしてるはずだけど、あたしをここに送ったのには理由があるはず…あたしに何かしてほしいんだ。あたしが彼女を助けなきゃ!


「例の、神未来社の『エクソ』に対抗する新技術ですが…」と、金持ちそうな男の一人が椿さんのお父さんに尋ねた。


 椿氏が微笑む。「娘の理香が、本日の世界記者会見にて、詳細を発表いたします。」


 皆が彼女の方を向き、賞賛の言葉を口にする。椿さんの顔は無表情のままだったけど、その緑の瞳はさらに悲しげに見えた。「はい、お父様」彼女は、感情のないフォーマルな声で答えた。


 彼らが移動を始める。大人たちが先に。でも、理香は一瞬だけ、その場に残った。彼女の視線は、小さなオートマタがおどけた芸をするのを見て楽しんでいる、普通の中高生のグループに注がれていた。おもちゃ。彼女の眼差しは、あまりにも遠かった…彼女は、あの世界に属していない。


 彼女が家族を追って踵を返した、その時がチャンスだった。


 あたしは彼女に駆け寄り、ためらうことなく、その腕を掴んだ。ガシッ!


 彼女は驚いて振り返る。あたしは彼女を反対方向へ引っ張りながら、一番自信のある笑顔を見せた。


「あんたも、普通に博覧会、見たかったんでしょ?椿さん!」


「離しなさい!」彼女は、あたしの手から逃れようと、低い声で言った。でも、あたしはもっと強く握った。


「叫ぶわよ!」


「じゃあ、なんで叫ばずにあたしと歩いてるの?」とあたしは聞いた。彼女は驚いて、赤面した。注目を集めたくないのは明らかだった。「ほら、行くよ。」


「行かなければ…皆が――」


「でも、あんたがしたいことは何?」


 椿さんは、ピタッと足を止めた。彼女の目が大きく見開かれる。あたしも一緒に止まって、彼女を待った。


「わたくしは…わたくしは…」彼女はあたしを見つめた。さっきまでの空っぽの瞳に、小さな決意の火花が散った。「わたくしは、他の女の子みたいになりたいの!」


 あたしの目が見開かれ、満面の笑みがこぼれた。


「じゃあ、一緒に博覧会を回りましょ、理香ちゃん!」


 彼女はビクッとして、さらに顔を赤らめた。


「う、うん…」


 あたしは理香ちゃんを人混みの中から引っ張っていった。心臓が胸の中で激しく高鳴る。一瞬、あたしたちがただの普通の女の子みたいに楽しんでいるように思えた。空中で踊るドローンの展示を見せたり、チョコとイチゴがたっぷりかかったクレープを買ってあげたり。彼女は、小さな掃除ロボットが自分の足にぶつかって、可愛い電子音で謝った時、ほんの少しだけ微笑んだ。


 彼女はまだ心を閉ざしていて、ほとんど話さなかったけど…でも、彼女はそこにいた。あたしに導かれるまま、彼女はついてきた。そして、以前は空っぽだった彼女の瞳が、今では自分の家族が作った技術の驚異を目の当たりにして、好奇心に輝いていた。


 バイオニック義手のプロジェクトを見ていた時、あたしはつい聞いてしまった。


「理香ちゃんは、こういうの、いつも見てるんじゃないの?」


 彼女は首を横に振った。その目は、センサーの動きを真似るロボットの手に釘付けだった。「いえ…あまり家から出ないので。会社が…皆が何を作っているのか、ほとんど見たことがありません。…面白いですわ。」


 彼女の声は低く、ほとんど囁きのようだった。その一言があたシの胸に突き刺さった。彼女は、自分のお城に囚われたお姫様なんだ。


 でも、あたしたちのささやかな日常の泡は、突然弾けた。


 歩いていると、背筋に悪寒が走った。**ゾクッ!**肩越しに振り返ると、彼がいた。ジャケットにサングラスの男の一人。十メートルほど離れた場所で、携帯をいじっているふりをしながら、その目はあたしたちに固定されていた。反対側を見ると、ドリンクスタンドの近くにもう一人。


(追われてる!)ゆうくんの計画は、あたしが彼女に近づくことだったけど、この後は?どうすればいいの?


 あたしが考える前に、男の声が近くで聞こえた。「すみません…椿理香さんですか?」


 ハッ!


 理香はあたしの隣で凍りつき、顔からサッと血の気が引いた。周りの人々がこちらを見始め、ヒソヒソと囁きだした。彼女の変装は完璧じゃなかった。彼女の家族の名声は、あまりにも大きすぎた。


「理香ちゃん!」あたしは彼女の手を掴んだ。ガシッ!「こっち来て!」


 あたしは彼女をそこから引き離し、好奇の視線を向ける人々をかき分けて進んだ。


(どうしよう?!どうすればいいの?!)あたしの頭はフル回転だった。このまま路上に出たら、格好の的じゃない!人混みなら安全だと思ったのに、顔を覚えられてる!どうしよう、あたし!


 比較的人通りの少ないサービス用の廊下に駆け込み、あたしは角の物陰に立ち止まった。まだ彼女の手を握ったままだ。「理香ちゃん。」


 彼女は怯えたようにあたしを見た。


「どうしてウィッグなんてつけてるの?」


 その質問は、あたしが抑える前に口から飛び出してしまった。彼女の顔から悲しみが消え、代わりに予想もしなかった感情が現れた。怒り。その偽物の緑の瞳が、ギラリと光った。


「あなたには関係ないことですわ!」彼女は、声を荒らげ、腕を引こうとした。その声は鋭く、切りつけるようだった。


 彼女が今日初めて見せた、本物の感情だった。あたしは一歩後ずさる。「ごめん…言いたくないなら、言わなくていいから…」


 理香は深呼吸し、怒りが収まり、疲労感がその顔に戻った。「いいえ…お許しください。わたくしが…」


「ううん、大丈夫」あたしは彼女の言葉を遮った。あたしの頭の中に、一つの計画が形になり始めていた。クレイジーなアイデアだけど、多分、これが唯一の方法。「あたし、計画があるの。」


 彼女はあたしを見た。その瞳から悲しみが消え、驚きが取って代わった。


「計画?」


___________________________________________________


竹内勇太


 俺の調査の霧が晴れた、あの日。武田将吾と酒井将真という名が、一つになった日だ。


 校長室での会議は、最初から不穏な空気だった。


 ナイフで切れるほどの緊張感が、その場を支配していた。俺は公園を出た時と同じ服装で、目の前で繰り広げられる対立をただ見ていた。


「我々には、あなたが情報屋を使っているとは聞いていませんでした、桜井さん!」安藤先生の声は抑えられていたが、苛立ちは明らかだった。彼女の緑がかった髪が、薄暗い部屋の光の中でより暗く見え、その黄色い瞳は校長を鋭く見据えていた。


「しかも、元ファントムだと!」石田先生が唸り、鼻からずり落ちる眼鏡を押し上げた。彼の黒髪は、白いものが混じり始め、逆立っているように見えた。


 藤先生は、その銀色になった髪と同じく静かだったが、沈黙を破った。その声は、長年の喫煙で嗄れていた。「それは軽率じゃったな、礼子。」


 校長の桜井さんは、その緋色のブレザーと同じくらい鮮烈な視線で、動じなかった。「木村くんは、勇太くんにとって貴重な情報源じゃよ。」


 隅では、木村がスーツ姿で居心地悪そうに立っていた。彼の深い緑色の髪からは、茶色の地毛が伸び始めている。


「皆、落ち着きなさい」桜井の声は命令だった。「勇太くんが我らを呼んだのには理由がある。何じゃ、勇太くん?」


 全員の視線が俺に集まる。


「三つの名があります」俺は口火を切った。「武田将吾、酒井将真、そして椿理香です。」


「椿の娘のことは、もう聞いておる」と桜井さん。「お主は彼女が標的だと考えておるのじゃな。」


「なぜ彼女が、かしら?」と安藤先生が問うた。


「以前は憶測でした」と俺は答えた。「ですが、今は違います。武田将吾は、実は酒井将真だと、私は確信しています。」


「親戚というわけか?」と石田先生が茶々を入れた。


「ええ」俺は奴の皮肉を無視した。「将真は、俺の母方の祖父、酒井甚の弟である、酒井連二郎の息子です。数ヶ月前、交通事故で死亡したことになっています。」


「僕がその件について調べました」と木村が初めて口を挟んだ。「埋葬や火葬に関する記録はほとんどありません。家族だけの密葬だったようです。」


 俺は頷いた。「その通りだ。武田将吾は『幽霊』だ。書類も、記録もない。奴が神未来のファイルに『出現』したのは、将真が『死んだ』後だけだ。」


 重い沈黙が部屋に落ちた。


「将真は、酒井家から勘当されていました。」


「お主だけではなかったようじゃな」と石田先生がまたしても。


「俺が自分の意志で相続を放棄したのとは訳が違います」と皮肉を込めて返し、奴を黙らせた。「将真が勘当されたのは、椿テックの買収に関与したからです。」


「何ですって?」木村が純粋に困惑したようだった。


「弟から聞きました。神未来は椿テックを買収しようとしており、両社の間には緊張が走っている。そして、それは最近始まったことではない。将真は、ファントムを使って椿テック内に紛争を起こし、プロセスを早めようとしたために、勘当されたのです。」


「ファントム」という言葉に、部屋の空気が凍った。全員が、俺も含めて、木村を見た。


「おい!僕は何も知りませんよ!日本に来てまだ数ヶ月です!」と彼は両手を上げて身を守った。


「酒井家は、彼らの最大の顧客であるゲートの最大の敵、ファントムと繋がりのある人間を身内には置いておけない」と俺は説明した。


「筋は通っているわね」と安藤先生。


「では、酒井家への復讐のために、死を偽装したと?」と石田先生が尋ねた。


「それが最初の仮説でしたが、違うと思います。」


「では、お主は何を信じるのじゃ、勇太くん?」と桜井さん。


「買収の裏にいるのは連二郎です。椿テックは売却に同意しない。彼らはゲートの信頼を裏切ることはできない。しかし、もし『外部』の誰かがファントムの名を使えば…」


「…跡継ぎの娘を暗殺し、家族を深い鬱状態に陥れて会社を売却させると…そういうことかしら」と、安藤先生が暗い声で結論づけた。


 俺はただ頷いた。


「それは問題じゃ、勇太くん」と桜井さんが言った。「神未来とファントムの関与は、我らの管轄を越えておる。これはテュートニックの案件じゃ。」


「分かっています。ですが、我々の計画は神未来を追うことではありません。我々を囲む脅威…武田将吾という脅威を排除することです。」


 桜井さんは俺をしばし見つめ、そして、珍しい笑みを浮かべた。


「お主の計画は何じゃ、勇太くん?」


___________________________________________________


「こうするしかない、か…」


 ロックオンの声は、諦めに満ちていた。彼は俺の隣、即席の司令室にいた。白髪の混じり始めた黒髪に、鼻からずり落ちそうな眼鏡。戦術ユニフォームに身を包み、彼が手にしていたのは、普通の狙撃ライフルだった。俺の元チームメイト、ハンターならエクソウェポンを使っただろうが。どうやら、違うらしい。


 俺はただ、短く頷いた。目はモニターに釘付けだ。そこには、花宮さんと椿さんがクレープを食べている姿が映っていた。声は聞こえないが、そのやり取りは見ることができた。


 思考が、椿家に関する調査へと戻る。


 学校のファイルは、実は椿テックのものだった。赤髪と金色の瞳。だが、公の場の椿理香はブロンドに緑の瞳。花宮さんが言った通り、ウィッグとカラコンだ。


 その理由は、掘り下げるほどに筋が通ってきた。伝統を重んじる一族。見栄えへの執着。椿家にとってはブロンドと緑の瞳が、十九世紀に技術分野で名を上げた頃の「純粋さ」の象徴らしい。酒井家の黒髪と金色の瞳に似たようなものか。母の、フラヴィアンの、そしてもう一人、短い黒髪と穏やかな笑みを浮かべた女性の顔が心に浮かんだ。


 だが、椿家の一人が、赤い髪の「平民」と結婚して一族の「名誉」を汚した。理香の祖父だ。彼らは、家の評判を汚さないために、彼女の髪を隠している。馬鹿げている、としか言いようがない。


(奴らは、この子をまともな人間としてすら見ていない…)


 エージェントとしての俺の義務は彼女を救うこと。だが、彼女の教師として、俺は無力だ。だから、花宮さんを送り込んだ。危険なのは分かっている。だが、他に選択肢はなかった。最小限の動きで、最高の結果を得る必要がある。


(花宮さん、彼女を助けるのは、お前だ。)

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