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第4話「二つの世界」

竹内勇太


 友美が選んだバーは、意外にも地獄ではなかった。


 よくある騒々しい酔っ払いでごった返す息苦しい場所とは違い、そこはもっと落ち着いた、静かな空間だった。明るくて整理された雰囲気は、おそらく人目を引かないために選んだのだろう。


 チッ…少なくとも、その点は正解だな。


 俺はカウンターに座り、指でグラスをくるくると回していた。中の琥珀色の液体が、まるで何もかも他人事のように揺れている。隣では、友美が自分のドリンクを一口飲んで、俺の好みとは裏腹に、やけにリラックスしている様子だった。


「わたしに誘われて、先輩が文句も言わずに素直についてくるなんて、びっくりだよ」彼女はいつものからかうような口調で、俺を横目で見てきた。


「少し、考える時間が必要だったんだ」俺はグラスから目を逸らさずに、として答えた。


 彼女は指で自分のグラスの縁をトントンと叩く。「何を考えてたの?わたしに無様に負けたこと?」


 俺は呆れて目をそらす。「ああ、もちろんだ。おかげで夜も眠れなかった」


 嘘だけど。


 彼女はクスクスと、鈴が鳴るように笑ったが、それ以上は追及してこなかった。俺たちの間に流れる沈黙は、気まずいものではない。もう一口飲む時間ほどの静寂の後、不意に雰囲気がガラリと変わった。


「わたしがゲートに入ったのには、理由があったんだ」彼女の声は、突然真剣みを帯びていた。


 俺は黙って、先を促した。こんな友美は珍しい。


「お母さんを探してたの」彼女はカウンターに肘をつき、自分のグラスの奥底に答えでもあるかのように、じっと見つめて言った。「わたしが子供の頃にいなくなった。でも、お母さんが何者なのかは知ってた。ただ…誰なのかが分からなかった」


 俺は好奇心に抗えず、彼女の方を向いた。


「ゲートの中じゃ、エージェントは匿名でしょ?コードネーム以外、何も分からない。だから、わたしも入れば、いつか一緒に仕事ができるかも…見つけられるかもって…」彼女は、何年分ものフラストレーションを吐き出すかのように、重いため息をついた。「でも、手がかりが全然なくて。そんな時、運命か、偶然か…とにかく、わたしは一人のカーディナルに出会ったの。アマテラスに」


 カーディナル…インクイジションの精鋭部隊。キャバルリーにとってのクルセイダーが、インクイジションにとってのカーディナルだ。頂点、か。


「彼女に鍛えられた」友美の声は、より一層強くなった。「それで、やっとお母さんの本当の手がかりを掴んだの。ゲートそのものがね。お母さんがクルセイダーだった可能性があるって知って、わたしはすぐにキャバルリーへの入隊要請を受けた。でも…」彼女の視線が再びグラスに落ちる。「…ナイトとして三年活動して、わたしは辞めた」


 彼女は、まるで痛みを伴う記憶を混ぜて溶かそうとするかのように、指でドリンクをかき混ぜた。


「で、先輩は?」


 来ると思っていた質問だ。俺は喉を焼くような感覚と共に、グラスの酒をゴクリと一気に煽ってから、答えた。


「俺は、ミスを犯した」


 友美が、黙って俺を見る。俺はカウンターに腕をつき、目の前の棚に並んだボトルの列を見つめた。色とりどりのラベルが、俺を嘲笑っているかのようだ。


「そして、そのせいでワイト・ガントレットを失った」


 重く、息苦しい沈黙が落ちた。友美はそれ以上何も聞かず、ただ俺が続けるのを待っていた。


 俺は、続けなかった。


 彼女はため息をついて、また自分のドリンクに口をつけた。「先輩って、いつも肝心なことは半分しか言わないんだから」


 俺は肩をすくめた。「言う必要のないこともある」


 彼女は一瞬黙り込み、それからフッと、嘲るような短い笑い声を漏らした。


「なんか…面白いね」


「何がだ?」


「先輩に初めて会った時、ただの一匹狼気取りの、厄介な人だと思ってた」


「そりゃどうも」


 俺の皮肉を無視して、彼女は続ける。


「でも、見てるとだんだん分かってきた。先輩って、明確な目標がないと、どうしていいか分からなくなっちゃうだけでしょ」


 ドキンッ。核心を突かれた。


 友美は指でグラスをくるくると回し、俺を見ずに言った。


「今回は、誰の命令も受けてない。達成すべき任務もない。指示を出す上司もいない。だから、ただ…彷徨ってる」


 彼女は最後の一口を飲み干し、カタン、と静かにグラスをカウンターに置いた。


「それって、どんな戦場よりも、先輩を怖がらせてるんじゃない?」


 俺は答えなかった。ただ、磨かれたカウンターの表面に映る自分の顔を見つめていた。もはや自分が誰なのかも分からない男の顔を。


 彼女はニヤリと笑い、俺の腕をツンツンとつついた。


「ねぇ、ユウタ先輩」


「なんだ?」


「もっと飲んだら?そうすれば、考えすぎも治るかもよ」


 俺はため息をつき、グラスを掴んで残りを一気に飲み干した。それで何かが解決するとは思えない。だが、今夜だけは…何もかも忘れてもいいのかもしれない。


 俺はそこまで飲んでいなかった。二杯目をようやく空けたところだ。だが友美は?友美はカウンターの上で完全に溶けていた。


 彼女は、あのベタベタと甘える酔っ払いの段階に突入していた。俺の肩に顔をうずめ、ゲームでの自分の勝利がいかに伝説的だったかを、呂律の回らない口で語っている。


「見たでしょ、せんぱぁい?ヒック。わたしの、あの、すばしっこさ!絶対捕まるなんて思わなかったでしょ!」


 俺は長いため息をつき、三杯目のグラスを半分ほど持ったまま言った。「お前、何回もやられそうになってたぞ」


「でぇも、勝ったもーん!」彼女は両腕を上に伸ばし、危うく後ろにひっくり返りそうになる。俺は慌てて彼女の肩を支えた。


「はいはい。おめでとう、偉大な戦士様」


 彼女は、赤くなった顔に不釣り合いな、得意げな笑みを浮かべた。「生徒たちも、わたしの…アクロバットに、口あんぐりだったんだから!」


 思わず笑いがこぼれた。「ああ。その後、どうやったのか質問攻めにされて、しどろもどろになってたけどな」


 友美は一瞬固まり、笑顔が消えた。そして、拗ねた子供のように腕を組んで、フンとそっぽを向いた。「そんなこと、思い出さなくてもいいでしょ」


「面白かったぞ」俺はそう言って、グラスに口をつけながら、彼女が椅子の上で必死にバランスを取ろうとしている様を眺めていた。


 やれやれだ。


___________________________________________________


 酔った友美を運ぶなんて、俺の夜の予定には全くなかった。


 彼女は俺の背中でほとんど意識がなく、さっきのバトルのことを意味不明に呟いている。俺は、ほとんど明かりのない歩道をただ進む。彼女の状態は最悪だ。俺か彼女のアパートまでは長すぎる。


 結局、選択肢は一つしか残されていなかった。


 伝統的な二階建ての家の前で立ち止まる。手入れの行き届いた小さな庭。中の明かりはまだ点いている。チッ…あの人、まだ起きているだろうな。


 はぁ…とため息をつき、ドアベルを鳴らそうと手を上げたが、ためらった。結局、俺は引き戸を叩いた。


 すぐに返事があった。落ち着いた、しっかりとした足音が近づき、ドアが開く。そこに立っていた竹内さんは、驚いた表情をしていた。


 あの人は何も変わらない。白髪の混じり始めたこげ茶色の髪、全てを見通すような鋭い目、そして常に状況を掌握している男の、あの非の打ちどころのない佇まい。だが、今はただ困惑している。


「勇太…?」彼の視線が、俺の疲れ切った顔から、俺の背中でライフルやグレネードについて何かを呟いている友美へと移った。


「酔ってる」俺は単刀直入に説明した。「このままじゃ、自分の家までたどり着けない。ここに泊めてもらえるか?」


 竹内さんは数回瞬きをして、考え込んだ。「客間はもう使われている」


「問題ない」


 彼が道を空けると、俺は中に入った。懐かしいお茶と古い木の匂いがする。家の中は、俺の記憶と寸分違わなかった。彼はリビングへ向かい、床に布団を敷き始めた。俺は友美をそっとそこに寝かせる。彼女は「…無抵抗では降参しない…」と呟き、完全に眠りに落ちた。


 *はぁ…*俺は立ち上がり、肩を伸ばす。竹内さんが、腕を組んで俺をしばらく見ていた。


「じゃあ、俺はこれで」そう言って、俺は戸口の方へ向かった。


「待て、勇太」


 俺は立ち止まった。


「ところで」彼は、かすかに笑みを浮かべて言った。「友美からの贈り物は受け取ったか?」


 今度はなんだ?


「クイーンとビショップをな」俺は振り返らずに答えた。「それがどうした?」


 彼の鼻で笑う音が聞こえた。「ハハッ!お前に似合いだ」


 俺は彼の方を向き、苛立ちが込み上げてくるのを感じた。「なんでそんなことを思いついたんだ?」


「ああ、沖縄の土産物屋であの駒を見つけて、お前のことを思い出したんだよ」


 俺の目が細くなる。「沖縄?あんた、休職中か、それとも休暇中か?」


 彼の笑みは、からかうようなものに変わった。「俺は、お前が何を言っているのか分からんな」


 このオヤジ…


 俺はまた、その場を去ろうと背を向けた。


「桜井さんが教えてくれた」彼がそう言い、俺は再び足を止めた。


「何をだ?」


「調査のことだ。それから、お前の…『教え子』のこともな」


 俺は黙り込んだ。あの婆さん…全部話したのか。


「彼女のためなら」俺は戸口を見つめたまま続けた。「最低限、俺がすべきことだった」


 竹内さんは、心から安堵したような笑みを浮かべた。「俺の弟子が、ようやく師の背中を追い始めたか…感無量だな…」


「俺は、ただの彼女の教師だ」俺は苛立って言い返した。


 彼は人差し指を振った。「いや、違う。お前が学校で教えている生徒たち、彼らにとってのお前は教師だ。あの子は違う。あいつはお前の弟子だ。お前が、俺の弟子だったようにな」


 言葉を失った。彼の言葉には、予想外の重みがあった。


「それから、お前が行く前に」彼は続け、その声はより真剣になっていた。「お前が椿理香を疑っていることも、花宮陽菜を『情報屋』として使い、あの元ファントムを敵の調査に利用していることも、俺は知っている」


 俺は拳を握りしめた。


「危険だぞ、勇太。それはお前が慣れているような『任務』じゃない」


「あんたのせいで俺はここにいるんだろうが!」と俺は食ってかかった。


 彼の顔が真剣になる。「お前は、まだ何でも一人でやろうとする。無理はするな。それと、もう一つ…花宮さんを利用するんじゃないぞ」


 その一言が、俺に突き刺さった。俺は彼の方を向き、怒りを隠さなかった。「どういう意味だ?」


「お前たちの歳の差が僅かなこと、数年もすれば、その差が無意味になることも、俺は分かっている」


「俺たちは、そういう関係じゃない!」俺は、彼の不躾な物言いに、心の底から苛立ちながら反論しようとした。


 だが、竹内さんは俺を遮った。その眼差しは、揺るぎなく、断固としていた。「今のところは、お前たちはまだ教師と生徒だ。それに、お前が兵士になるために学んでいた俺とお前の関係とは違う。お前は学校の教師なんだ、勇太。お前は、彼女という人間の成長に関わっている。そのことを、常に心に留めておけ」


 俺は一瞬、彼の言葉を頭の中で反芻しながら、立ち尽くした。戸口を見つめて。


「気をつける」


 そう言って、俺は家を後にし、再び一人、夜の闇へと歩き出した。


___________________________________________________


 竹内さんの家の戸が後ろで閉まり、その音は東京の冷たい夜に吸い込まれていった。俺は歩き続け、両手をポケットに突っ込み、頭を垂れる。だが、あの会話が頭から離れない。


 花宮陽菜…年齢…俺が、彼女に惚れる?


 *チッ…*ありえない。彼女は俺の教え子であり、任務の重要な駒だ。それ以上でも、それ以下でもない。苛立たしくて、うるさくて、予測不能。俺が我慢できる全ての要素の対極にいる。


 だが、あの老人が言ったもう一つのこと…


「彼女はお前の弟子だ」


 彼は花宮のことを言っていたのではなかった。記憶が不意に蘇り、俺を数日前の出来事へと引き戻した。


 休みは始まったばかりだったが、俺はまだ学校に通っていた。教師という偽装のためだけではない、あの子のせいでもあった。


 選挙の最終討論会の日、オレンジ色の髪と紫色の瞳の少女が廊下で俺を呼び止めた。真剣だが、明らかに恥ずかしそうな顔は、勇気を振り絞るための内なる戦いを物語っていた。


「勇太さん」彼女は、震えながらも、しっかりとした声で言った。「どうか、弟子として…私のこと、受け入れてください!」


 俺はしばらく彼女を見つめた。藤堂光。


「…考えておきます。」と、俺は答えた。


 心の底では、受け入れたくなかった。だが、彼女に対して、俺には責任があると感じていた。俺がクルセイダーとして日本で活動を始めた頃、最初に救った少女。人身売買組織から、他の子供たちと共に。


 俺はそれが嫌いだ。ゲートは世界中の孤児を集め、エージェントに仕立て上げる。ナイト、インクイジター、クレリック…何であろうと。奪われた人生を、別の人生と交換する。光がその道を辿るのを避けようとしたが、彼女は頑固だった。彼女が俺の足跡を追い、ナイト、クルセイダーになりたいと知った時…その責任が、一気に俺の肩にのしかかってきた。


「私は十二歳でエスクワイアになって」彼女はその日、獰猛な決意を目に宿して俺に言った。「そして今、やっとナイトになったんです。だから、勇太さん…わたしのマスターになってください!」


 だから…今日、俺はここにいた。学校の五階にある、即席の訓練室に。


 藤堂光は床に膝をついていた。疲れ、汗をかき、汚れている。彼女の呼吸は短く、速い。ハァ、ハァ…前が短く、後ろで長いポニーテールに結ばれたオレンジ色の髪が、顔に張り付いている。彼女の小柄な体格は、身につけている装備とは不釣り合いだ。白いタクティカルウェアと、ガントレット…あのガントレット…


「それがお前の限界か…」俺は、思案するように顎に手を当てて言った。


「わ、私…まだやれるって…」光は、喘ぎながら立ち上がろうとした。


「ガントレットはお前の体に合っているが、それでもお前にとっては大きすぎる」俺は彼女の前に屈んで言った。「大事なものなんだろうが、それを使わなければならないという意味じゃない」俺は彼女の手に、自分の手を伸ばした。「別のエクソギアを使った方がいいかもしれない…」


 ガシッ!


 俺の手が触れる前に、彼女はそれを自分のもう一方の手で覆い、俺を止めた。彼女の決意に満ちた眼差しが、俺を捉える。


「嫌だ!私はこれがいいんだって!」


 その頑固さを見て…俺は自分自身を思い出した。なぜ俺が強打のガントレット(マノープラ・デ・コントゥソン)を選んだのかを。俺は他のエージェントが使うほとんどのエクソギアには、体格も力も足りなかった。だが、小柄で俊敏であるという事実が、ガントレットでの一撃を致命的なものにした。


 はぁ…「簡単じゃないぞ」


「そうじゃないって、分かってる」彼女は痛みに顔を歪めながら立ち上がった。「勇太さんは十三歳でもうガントレットをマスターしてたんだって」


 俺は眉をひそめた。「それは間違いだ」


 光は、困惑して俺を見た。


「僕が使っていたガントレットは第六世代だ」と俺は説明した。「『ニューラル』システムが導入されたのが、その世代だ。なぜこれを着けるのに、お前がチェインメイルを着なければならないと思う?」


 彼女は自分の体を見た。白いタクティカルウェアの下で、銀色のチェインメイルが微かに光っている。ショッピングモールで、そして路地裏で木村から俺を救ったのと同じ種類の装備。


「第六世代から、装備は『思考』コマンドで使われるようになった。身体の細胞にはニューロンがあるだろ?神未来は、それらの細胞と神経系に『接続』できる装備を開発した。だから、エクソギアやチェインメイルは、ただ『考える』よりも、もっと直感的にコントロールできるようになったんだ」


 彼女はまだ何も理解していないようだった。ゴクリ。


 俺は続けた。「お前が使っているのは第七世代だ。この世代は、より使いにくくなったが、遥かに強力だ。だから、お前はエネルギーの放出をコントロールするのに、これほど苦労しているんだ」俺は一瞬、自分自身のフラストレーションを思い出しながら、間を置いた。「僕も、第七世代のガントレットを受け取った時は苦労した。でも、お前の扱い方を見ていると…」俺は小さく微笑んだ。「僕より上手くなるだろうな」そして視線を逸らす。「…まあ、まだお前にとっては荷が重すぎるかもしれないが…」


 ドカン!


 光が俺の前に飛び込んできた。その攻撃的で、決意に満ちた姿が戻ってきた。「私、やってみせるって、師匠!」


「師匠…」俺はその言葉を繰り返し、その重みを感じた。


 手を伸ばし、彼女の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。彼女は驚いて後ずさった。


「エクソギアは道具だ」俺は、より穏やかな声で言った。「だが、それを最大限に活かすには、体の一部として見なければならない。放出をコントロールし、パワーを落とし、使いたい量に集中し、張力…その全てが自動でなければならない。やろうと考えるな、やるんだ。お前が、紙くずをゴミ箱に投げるのに、どれくらいの力が必要か、直感的に分かるのと同じだ」


 彼女は俺を見つめ、その紫色の瞳は一言一句を吸収していた。


「今日はここまでだ」俺は、よりしっかりとした声で言った。「装備を片付けて、休め。明日から、放出コントロールの訓練を始める」


 遠くのクラクションの音が、俺を東京の冷たい夜へと引き戻した。


 弟子か…


 俺はこの人生から、兵士であることから、兵器であることから逃げようとした。だが、今、俺は子供に、かつての自分と全く同じになる方法を教えている。このサイクルは、悪趣味な冗談のようだ。そして、どういうわけか、俺はただ背を向けることができない。


 やれやれだ…


 俺は歩き続けた。竹内さんとの会話と、光の記憶が、頭の中で混乱した渦となって混ざり合っていた。なんて地獄のような人生だ。


___________________________________________________


 東京の夜は、街のこの辺りでは静かだった。俺は住宅街を歩き、自分の足音だけが湿ったアスファルトに響く。手入れの行き届いた家々が影のように通り過ぎていく。遠くに、俺のアパートが見えてきた。あと数分で家に着き、ソファに身を投げ出して、ようやく一息つけるだろう。


 だがその時、静寂を破る声がした。「あれ?」


 体が自動的に反応し、声の主を見るために、ほんの少し振り返る。


 短い紺色の髪の少女が、大きな、好奇心に満ちた目で俺を見つめていた。髪は少し乱れていて、実用的ながらも、どこか魅力的なカットだ。制服の上には薄手のカーディガンを羽織っている。その表情は、驚きと好奇心が混じり合ったものだった。


「あなた、ショッピングモールの時の人じゃない?」


 *ああ…*すぐに繋がった。花宮さんの妹か。


「君は、陽菜さんの妹さんだね」俺は、ここで会ったことに純粋に驚きながら言った。


 彼女は微笑んで頷いた。「花宮沙希です。あの日はありがとうございました」そして一歩前に出て、軽く頭を下げた。


 俺は首を振り、その形式的な挨拶を制した。「そんなのはいい」


 俺が再び歩き出そうとした時、彼女の後ろの家の戸が勢いよく開いた。ガチャ!


「沙希!帰り、遅いじゃない!」


 その苛立った、聞き覚えのある声に、俺は動きを止めた。クソッ…


 花宮さんが、腕を組んで、非難の眼差しで家から出てきた。結んでいない髪が、顔の周りで波のように揺れている。服装は、軽くてラフな部屋着だ。彼女の顔は少し赤らんでいた。苛立ちのせいか、それとも冷たい風のせいか。目の前の光景はほとんど喜劇だった。姉が、心配性の母親のように妹を叱っている。


 沙希さんはぷくっと頬を膨らませた。「わたしはただ話してただけだよ、落ち着いて」そして、姉に背を向けて家に入り、軽く戸を閉めた。


 *よし。ずらかるか。*俺は通りの影に紛れて、こっそりとその場を離れようとした。だが、いつものように、俺の逃走の試みは失敗に終わった。


「ゆうくん?」


 俺は再び足を止め、ためらいながら彼女の方を向いた。花宮さんは驚いた様子で俺を見て、それから近づいてきた。


「こんな所で何してるの?」


「家に帰るところだ」と、俺は簡潔に答えた。


「あっ…」


 短く、気まずい沈黙が流れる。


「ゲームのことだけど、すごく楽しかったよね?」彼女は無理に笑顔を作り、明らかに会話を続けようとしていた。


「ああ」と俺は肩をすくめた。


 また沈黙。彼女は落ち着かない様子で、自分の手をいじり、視線を逸らしている。


「もう遅い。行かないと」俺は、話がこれ以上長引く前に、そう言って話を切った。


 そして、再びその場を去ろうと背を向けた。


 クソッ…忘れるところだった。


 俺は立ち止まり、もう一度彼女の方を向いた。「花宮さん」


「は、はい?」


「数日後、椿テック主催の技術博覧会がある」俺は、任務に集中した口調で始めた。「お前が必要だ。このイベントを利用して、椿理香に近づいてもらいたい」


 彼女は何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。顔が真っ赤になり、その緑の瞳が、不意のアイデアにキラリと輝いた。


「あ、あたしもそれ考えてた!」彼女は興奮して言った。「あたしにスパイ名があったら、カッコいいかも!」


 スパイ名?こいつ、何を言ってるんだ?


「スパイ名?」と、俺は困惑して繰り返した。


「うん!例えば…スピリット・ブロッサム!」彼女は、目を輝かせて言った。「可愛くて、カッコいいと思わない?」


 はぁ…「考えておく」


 俺は、今度こそ本当に、その場を去ろうと背を向けた。だが、二歩も進まないうちに、彼女の声が俺を止めた。


 深呼吸をして、まるで世界中の勇気をかき集めるかのように、彼女は一歩前に出た。


「ゆうくん、明日、遊園地に行かない?」


 遊園地?その問いかけが宙に浮き、竹内さんの声が、冷たく、的確に、俺の頭に響いた。「お前たちの歳の差は僅かだ…だが今は、まだ教師と生徒…お前は、彼女という人間の成長に関わっている…」。あの人の言う通りだ。これ以上関わるのは、たとえグループでの外出であっても、一線を越えることになる。リスクだ。*あいつに惚れる?ありえない。*俺が許されるはずのない気晴らしだ。俺の本能が、何年もの任務で鍛えられた直感が、断れと叫んでいた。距離を置けと。任務を守るために…そして、もしかしたら、彼女から俺自身を守るために。


 俺のためらいに気づいて、花宮さんはパニックに陥った。


「でも、デートじゃないから!」彼女は、両手をぶんぶんと振って叫んだ。俺は片眉を上げた。


「ていうか、フラヴちゃんが言い出したの!それに、あたしの妹たちも行くし!アレクサンダーくんも!直美ちゃんも!みんなで行くの!」彼女は、早口で言葉をまくし立てた。「だから、デートじゃないんだって!」


 *はぁ…*竹内さんの言葉の重みは、まだそこにあった。だが、心の底では…だからこそ、行くべきなのかもしれないと思った。彼女を観察するために、理解するために。あるいは…ただ、断ることに疲れただけなのかもしれない。一人でいることに。


「…わかった」


 花宮さんは、驚いて瞬きをした。


「行く」と俺は繰り返した。


 彼女は小さく、満足そうに微笑んで、ただ頷いた。それ以上何も言わなかった。


 俺は自分の道を進んだ。歩きながら、俺の思考はいつもの場所に戻っていた。


 ジャック・シルバーハンド、ワイト・ガントレット、竹内勇太。


 今の俺は、一体誰なんだ?そして、結局のところ、そんなことは、まだ重要なんだろうか?

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