第3話「秘密の正体」
竹内勇太
ザザッ…
東京の夜、冷たい風が首筋を刺す。背中のバッグには竹内さんの押し付けた教材がぎゅうぎゅうに詰まって、俺の不満を代弁するみたいにガサガサ揺れてやがる。臨時教師の初日前日、こんな時間に「開門前に来い」だと?ふざけんなよ、断れるわけねえだろ。
…帰ったら、あの呪術バトル漫画の続きをぶっ通しで読みたいぜ。
授業後の“解放時間”だけが俺の救いだ、なんて思いながらため息を吐く。けど、現実は桜井校長との「ちょっとした打ち合わせ」。ゲートの任務より面倒くせえ気がする。
学園はまるで日常系アニメのセットだ。白亜の塀に囲まれた敷地、瓦屋根の校舎、でかい窓、桜の並木――今は花がねえけど、春になったらベタな青春アニメのOPみたいになるんだろうな。大学のコンクリートジャングル――高層ビルに人工芝、埋め込まれた体育館とは正反対。どっちも俺には居心地が悪いことに変わりねえ。
「桜井礼子・校長」と刻まれた金色のプレートが、木のドアでピカピカ輝いてる。軽くノックすると。
「どうぞ」
重厚で、でもどこか温かい声が響く。
ガチャ…
緑茶の香りと古い本の匂いが鼻をくすぐる。桜井礼子の声、重厚で、でもどこか温かい。ドアを開けると、部屋は完璧だ。革表紙の本がぎっしり詰まった書棚、ピカピカのマホガニーの机、でかい窓からは神未来タワーが遠くでニヤニヤと俺を嘲笑ってる。クソ、なんで俺の人生はあのタワーと縁が切れねえんだ?
桜井礼子が、歳を感じさせるのに鋭い雰囲気で立ち上がった。白髪混じりの短い髪、皺が刻まれた顔、赤いブレザーに黒の幅広パンツ。ヒールのカツカツって音が、まるで戦場のドラムみたいに響く。年食ってるけど、この婆さんの存在感は絹に隠された日本刀だ。
「勇太くん、座ってちょうだい」
彼女が指差す椅子には、湯気の立つ緑茶が待ってる。賄賂か?罠か?俺は背筋を伸ばして座るけど、頭の中じゃあの呪術バトル漫画のクライマックスがリピート再生中だ。
桜井さんはゆっくり腰を下ろし、紅茶のカップを手に取る。茶道の師匠みたいに香りを楽しんで、一口飲む。そしたら――その視線が俺をブッ刺した。(レーザーかよ、この眼光!)胃がキリキリ締まる。竹内さんと同じ威圧感、でもなんかもっとヤバい計算高さが潜んでる。
「勇太くん、君の《偉業》にはいつも感心させられるわ」
落ち着いた声。でも、裏に何か企んでる気配。(偉業?ゲートの話か?それとも先週の兵士長フィギュアの衝動買いがバレたか…?)
彼女の声は落ち着いてる。でも、なんか裏に企みが潜んでる気配。
俺は平静を装って答えた。「先生の功績の方がずっと凄いですよ。そんな風に言っていただけるなんて光栄です」
桜井さんはニヤリと、ほとんど冷笑みたいな笑みを浮かべて、カップをテーブルにコトンと置いた。「私のなんて、君の足元にも及ばないわよ」
そう言って、右に顔を傾けて窓の外をチラッと見る。神未来タワーが灰色の空にキラキラ輝いてる。バレてる…あの日のこと。当然か。背筋がゾクッと凍る。あのタワーでの戦いは決着つかず、勝ちでも負けでもねえ――血まみれの引き分け。傷は今も疼くぜ。
「まあ、過去の戦いをほじくり返す気はないのよ」
彼女は指を組んで、机に置く。「私はね、人の本質を《傷口に指を突っ込んで》見抜くのが得意なの」
「確かに便利な才能ですね」
平静を装って答えたけど、内心じゃ(おい、俺をビジュアルノベルのキャラみたいに解剖すんなよ!)って叫んでる。
クスクス…
桜井さんが低く笑う。楽しげなのに、どっか脅迫的な響きだ。「勇太くん、君の任務はゲートが決めたんじゃないのよ」
俺の姿勢がガクッと崩れ、心臓がドクンと跳ねる。任務?何だよ、そのクソ陰謀…?
彼女は指を組んで、ゆっくり続けた。「私と竹内さんが提案したのよ」
「で、でも…なんでそんなことを?」
必死に動揺を隠そうとしたけど、声が少し震えちまった。
「竹内さんは君を本気で心配してる。この仕事は君が自分自身を見つめ直すチャンスだって。彼の言葉を借りれば…君がゲートを出てから今まで――」
ここで彼女は一呼吸置き、俺の魂をブッ刺すような視線を向けてきた。
「君は本当に自分で選んだことをした?それとも、ただ竹内さんの指示に従っただけ?《兵士が上司に従うように》」
ゴクッと唾を飲み込む。こいつ、マジだ…「そういうわけじゃないと思いますが…」
声がかすれて、まるで防御態勢に入ったみたいだ。
「ふふ、じゃあ、もっと分かりやすい例を言う?」
彼女は前のめりになって、目がギラッと輝いた。「君はただ彼の言うことに従っただけ。《子供が父親の命令に従うように》ね」
ズキッ!鋭い痛みが胸を突き刺す。目の前が一瞬、赤く染まる。この野郎…!
ハッ…ハッ…
呼吸を忘れ、机の下で拳をギュッと握りしめる。血がザワザワと騒いで、鼓膜をドンドン叩く。どこまで知ってやがる?親父のこと?過去のこと?
「まあ、素晴らしい眼光ね!」
桜井さんが心底楽しそうに笑う。皮肉じゃねえ――マジで楽しんでる。子供の頃から、俺の目は「死んでる」「感情がない」って言われてきた。けど、こういう時だけは違う。鋭く、燃えるような怒りの瞳。――あの男女から受け継いだ唯一の遺産だ。
「失礼しました。怒らせるつもりはなかったのよ」
「いえ、気にしないでください。へへ、ただあの有名な『眼光』を見たかっただけですよね?」
必死に平静を装って返すけど、内心(クソ、不愉快だ)。こいつ、竹内さんレベルの厄介者だ。絶対この二人、共謀して俺をハメようとしてるぜ。
「ふふ、冗談はこれくらいに」
彼女はパンッと手を叩いて空気を変えた。「勇太くん、竹内さんの希望は伝えたわ。私の方は――君に調査を頼みたいのよ。まだ何が起こってるか正確には分からないけど、あなたのような人物が必要なの。でも、今はただの代理教師として働いてもらうわ」
「え?」
頭がグチャグチャだ。調査?朝ベッドから起きるのだってやっとだぞ…
「具体的な任務は後でね。まずは教師として働いてもらうわ。ゲートが本気なら、年齢制限なんて法律をすり抜けることだってできたでしょうけど、今回はゲートの名義じゃないから…変装が必要よ」
「はい…その件は承知しています」
竹内さんに押し付けられたあのバカみたいなカツラとダテメガネを思い浮かべながら答えた。
すると、桜井さんは笑みを保ったまま、急に目をギラッと鋭くした。
「もう一つ。変装は法律や生徒のためだけじゃない。君の《正体》を知ってるのは、私と竹内さんだけよ――勇太くん」
「その理由は?」
答えは分かってた。でも、あえて聞かずにはいられなかった。
「勇太くん、君は《功績》だけでなく、《過去》でも有名よ。この学校には元関係者が多いの――教職員にも生徒にも。君の経歴は…歓迎されないかもしれないわ」
ピンときた。ゲート時代、俺の《ワイト》としての過去は、誇れるもんじゃねえ。ゲートには三つの主要部門があった。表向きは《支援部門》、《情報収集部隊》、《戦闘部隊》。でも、奴らは皆、国際コードネームで呼び合ってた。
《クレロ》――政治と資源管理の聖職者たち。
《インクイジション》――拷問と暗殺のプロ。
《キャバルリー》――俺の所属した戦闘集団。こいつはさらに二つに分かれる。
《ナイト》――影で動く特殊工作員。
《クルセイダー》――《エリートナイト》の中でも組織の最大の破壊力として作られた、最前線で敵を殲滅するプロフェッショナルたち。
俺はクルセイダーだった。しかし、あの真未来タワーでの一件以来、俺は第一線から外され、今は「インクイジション」のはずだった……少なくとも、そうなることを期待していた。大学での1年半の「訓練」は、一体何のためだったんだ? 最大7人のチームで動き、他部門とは一切関わらねえ。連絡は隊長経由のみ――それが鉄則だ。俺は作戦立案者としてチームを仕切ってた。ほとんどの奴にとって、俺はただの噂――《真未来タワー》でしくじった「あの任務」の名前でしかねえ。だから、他のエージェントの情報も噂や伝聞レベルだ。多くの者にとって、俺はただの《ワイトガントレット》――『タワーで失敗した男』だ。
桜井は椅子に深くもたれ、まるでハンターみたいな好奇心を目に浮かべた。「史上最年少の《クルセイダー》がどんな手腕を見せるか…興味深いわ」
その声は柔らかいけど、期待にギラギラしてる。
俺は一瞬、言葉に詰まった。その称号の重さに押し潰されそうになりながら、ボソッと呟いた。「…期待に応えるのは難しいかも。だって、それを求めてるのは歴代最強の《クルセイダー》ですから」
彼女は儚げな微笑みを浮かべた。唇が、満足と懐かしさが混じった曲線を描く。一瞬、彼女は威圧的な校長じゃなく、輝かしい戦いの日々を懐かしむベテラン戦士に見えた。
「様子を見ましょう、勇太くん。様子を見ましょう」
そう言って、彼女はプロの顔に戻った。「とはいえ、君には拒否する権利があるわ。無理強いはできないけど…ぜひ考えてみて」
右手をスッと差し出し、選択を委ねるように微笑んだ。提示するかのように。
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あの会話の後――桜井の婆さん、たぶん正しかったんだ。俺はまだ「兵士」みたいに命令に従って生きてるのかもしれねえ。拒否したい気持ちはあった。けど、結局受けちまった。
…これも『兵士』の性か?
いや、今回は違う。自分で選んだんだ、って言い聞かせる。
授業、大学、マンガ――そして繰り返し。面倒なことは一切なし。初日は…まあ、《耐えられる》範囲だった。ガキ共がギャーギャー騒ぐ中で真面目な教師を演じるのが「耐えられる」って呼べるなら、の話だが。
一年生と二年生を担当し、ムズムズして死にそうなカツラとダテメガネで過ごした。大学にも行かなきゃいけねえ竹内さんの「傑作」だ――「日本語学科がいい」なんて勝手に決めやがって。だから、午前は学校で教師、午後は大学生に戻る。
現実逃避の日々だ。文学部の片隅でライトノベルに没頭し、人間関係をシャットアウト。
…海賊の冒険話を待ってるだけの頃の方が、よっぽど単純だったぜ。
ゲートを離れてから、俺は本名を捨てた。「勇太」ですら、偽名に近い。
父はイギリス人、母は日本人――ハーフだ。日本で育ったが、母ちゃんはほとんど家にいなかった。だから、紅茶と時間厳守にうるさいイギリス人父ちゃんの影響で今の俺ができた。自然と身についた英語と、乱れた列を見るとムカつくクセもな。
変装時の名前は《竹内勇太》――イギリス育ちの日系人で、仕事で日本に来たという設定だ。
…こんな嘘、誰が考えた?
竹内さんの苗字と俺の偽名を組み合わせるなんて…もっとマシなネタ考えられなかったのか?
ゴトゴト…
木曜日。週末が目の前なのに、竹内さんにバーに引きずり出された。(もちろん、『あの日常系アニメ』を一気見したり、12時間ぶっ通しで寝たりするより優先すべきことだよな)なんて皮肉を頭で呟きながら、足を引きずって店に向かう。
場所は渋谷の路地裏、隠れ家みたいなバーだ。歪んだ木の看板と赤い提灯がユラユラ揺れる入口。中に入ると、焼き鳥と酒の匂いがムワッと鼻をつく。木のカウンターには、サラリーマンたちが上司や締め切りの愚痴をボヤいてる。隅の小さなテレビじゃ野球中継が流れ、口ひげのマスターが狭い厨房に向かってガミガミ怒鳴ってる。
竹内さんはもう来てて、バーの椅子にだらしなく座ってやがる。花柄のワイシャツに白い半ズボン――まるで「中年の危機に陥った観光客」そのもの。一方、俺は大学時代からの「アングラ」スタイル――破れたジーンズ、黒T、革のブレスレット、緑のストリーク入りのポニーテール――で、隣に座ると完全に異星人だ。
…なんで俺はこんなとこに来なきゃいけねえんだ?インスタントラーメンと静かな夜が欲しいだけなのに。
「勇太、ここに座れ!」
竹内さんがバーの席を指差し、でかい声で笑う。文句を言う暇もなく、アイツはマスターに酒を注文しやがった。「こいつにも一杯!」
「…そんなに飲めねえんだよ」
ゴクリ…
俺は微積分の試験でも受けるような顔で椅子にドサッと腰を下ろした。これまで飲んだ酒、全部コイツのせいだ。
「お前の『ファン』の話、聞いたぜ」
竹内さんが杯をグイッと飲み干し、客が振り返るくらいデカい笑い声を上げやがる。
「俺の…『ファン』?」
渋々酒を一口。喉がジリジリ焼ける。はぁ?誰だよ…文学部の後輩で、俺の『鬼殺し漫画』をパクろうとした子か?
「ああ、花宮さんだよ」
アイツは目を細めてニヤニヤ、俺のグラスを勝手にまた満たしやがった。俺は内心、苛立ちが募った。こいつ、ずっと知っていたのか?
「ああ、怒ってるのか、勇太?心配するなよ」竹内さんは俺の苛立ちを面白がるように高らかに笑った。「別に、初日に生徒に正体バレて脅迫されたわけでもないだろ?」
「黙れ、このクソジジイ!」
「ああ、だが、お前は本当に彼女を教えるべきだぞ」竹内さんは何か企んでいるような笑みを浮かべた。
「…なんでだよ?」
俺は目をギュッと細めた。コイツ、絶対なんか企んでる。
「さあな、運命かもよ。へへ」
アイツはまた杯をグイッと傾け、世紀の傑作ギャグでも披露したみたいに笑い転げた。
運命?ふざけんな。
俺は目をグルッと回した。大学で友美を紹介された時も、同じ「運命」ってセリフを吐いてた。そしたら、アイツはゲートと繋がってた。花宮も?いや…まさか関わってるわけねえ。…それとも?
思考が酒でボヤける。桜井さんから渡された分厚い生徒名簿が頭をよぎる。全員の経歴、ゲートとの関わり…花宮の名前はなかったはずだ。いや、あったか?記憶がグチャグチャだ…クソ、酒のせいだ。
「お前、マジで酒弱えな!」
竹内さんが背中をバシンと叩き、飲んでた酒が喉に詰まりそうになる。
「弱えよ!お前のせいで!」
グラスをガッと押しのけながら啖呵を切りった。帰りてえ。布団に潜り込んで、変装教師も“ファン”も頭おかしい上司も全部忘れたい。
…あの巨人漫画のどの巻を読み返すか悩んでた頃の方が、どんだけ楽だったか。