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第4話「帰還 」

竹内勇太


 一日。


 木村大地との一件から、たった一日が過ぎただけだ。それなのに、俺はもう獅子の巣に引きずり戻されていた。ピリピリと張り詰めた校長室の空気、ズシリとのしかかる全員の視線。そして何より、桜井さんに「何も隠すな」と問い詰めた俺自身のことを、思い出していた。


 一体なぜ、数いるエージェントの中から俺を?


 その答えが、すべてを変えた。


 開盟かいもん高校本館の最上階、五階にある校長室。そこは静寂と権力が支配する聖域で、古い茶と紙の匂いが漂っている。俺はそこに、素の姿でいた。老け顔を作るためのメイクも、伊達眼鏡もなしだ。黒髪は高く結い上げ、耳の後ろの緑のメッシュをさらし、深緑のブレザー、つまり教師用の制服を羽織っている。


 磨き上げられたマホガニーのテーブルを囲んで、他の面子が座っている。


 家政科の安藤先生。緑がかったアシンメトリーの髪型に、すべてを見透かすような鋭い黄色の瞳。午後の光の下では、彼女の薄黄色のブレザーは色褪せて見えた。


 英語科の石田先生。白髪の混じった黒髪で、ずり落ちる細縁の眼鏡を押し上げている。彼の濃茶のブレザーは、いつも窮屈そうだ。


 そして、藤先生。俺の指導教官であり、三年生の日本語を担当している。年のせいで白くなった髪と、喫煙のせいで嗄れた声が、彼の持つ僧侶のような静けさとは対照的だった。


 そして、このサーカスの座長が、桜井礼子。校長だ。彼女の緋色のブレザーは、その瞳と同じくらい鮮やかだった。顔には年相応の皺が刻まれているが、その鋭い眼光に疑いの余地はない。彼女こそ、ゲートのクルセイダー史上、最強と謳われたスカーレットその人だった。


(俺と彼女を除いて、他の三人が引退したインクイジターであることは知っていた。だが、彼らがクレリックになっていたとはな…)


 ゲートの「サポーター」だ。IT技術者から医者、資金提供者、そして今や、組織が資金援助する学校の教師まで。俺の現在のステータスは「インクイジター」だが、そう感じたことは一度もない。現場で動くのは俺の役目じゃない。俺の役割は、今も昔も変わらない。


「軍師」、だ。


「それで」俺は沈黙を破った。「なぜ私がこの『案件』に?」


 桜井さんはテーブルに肘をついた。「竹内くんに連絡を取る数日前じゃな…」彼女は俺の元指導教官に言及した。「一通のメールを受け取っての」


 俺は片眉を上げた。


「そのメールには、この学校に排除すべきターゲットがいる、と書かれておった」


 沈黙。まだ意図が読めない。


「最初はただの悪戯じゃろうと思った」彼女は続けた。「じゃが、調べてみることにした」


「座標を追跡したところ」安藤先生が、その精密な口調で引き継いだ。「メールはノートパソコンから送信されたことが判明しました。神未来タワー内部で頻繁に使用されているものです」


(それでも、時間の無駄だろうが)


「まさか、ただのメール一本で私を呼び出したと?」


 桜井さんが口を開くと、俺の表情が変わった。「神未来が、そんな情報を『漏らす』ことはない」


「なら見当違いだ」俺は思ったより棘のある声で言い返した。「私は家族と連絡を取っていない。神未来の件なら、なおさらだ」


「それは分かっている」藤先生が、いつもの穏やかな声で言った。


「はぁ?」俺は唸った。


「年上を敬え、小僧」石田先生がドスの利いた声で言った。俺は彼を睨みつけた。


 桜井さんは、低く、それでいて危険な笑い声を漏らした。「お主を呼んだのは、それが理由ではないよ、勇太くん。お主が連絡を持っていないことなど、百も承知じゃ。何せ、お主は二つの名を捨てたからのう」


 ギリッ、と歯を食いしばる。


「お主を呼んだのは、神未来の名を聞けば、儂の頼みを『断らない』と分かっていたからじゃ」彼女は笑みを深めた。「そして、この件にはお主が必要だからでもある」


「随分と自信家だな」俺は呟いた。


「口を慎め、小僧—」


「ようやく『仮面』を外して話す気になったようじゃな、勇太くん」桜井さんは石田先生の言葉を遮った。


 俺は眉をひそめた。「どういう意味です?」


「ここへ来て二ヶ月、お主はずっと『竹内勇太』を演じてきた。じゃが、それはただの偽装じゃろう? ジャック・シルバーハンド。いや…酒井ジャックと呼ぶべきかの?父親の家を捨てた今、どちらの名がより相応しい?」


 チッ…バレてやがる。


「勇太だ」俺は、硬く冷たい声で答えた。「ただの、勇太」


「おお、そうじゃったな、勇太くん!」彼女は微笑んだ。


「この案件、どうお考えで?」俺は、込み上げる怒りと苛立ちを抑えながら尋ねた。


「それは儂が聞きたいことじゃ」


 その返答に、俺のイライラは頂点に達した。


「ワイト・ガントレットの噂が真実なら、お主にはもう見当がついておるはずじゃ」と、藤先生が言った。


 花宮さんの一件、そして木村との衝突が脳裏をよぎる。漠然とした考えはあるが、確証はない。「『ターゲット』がいるというなら、メールは正しい。この学校の内部の人間だ」


「誰じゃ?」と、安藤先生。


「椿理香」


「なぜ?」


「まだ推測の段階だ」俺は嘘をついた。情報源や花宮さんの関与を明かすつもりは毛頭ない。


「調査に必要な機材は、儂が何でも用意させよう」と、桜井さん。


「それは私の専門ではない」


「分かっておる」藤先生が口を挟んだ。「お主は軍師じゃ。現場のインクイジターではない」


「彼には情報屋が要る。それも早急にだ」石田先生が言った。「我々が神未来に潜入するのは不可能だ。一人、また一人と消されるのがオチだろう」


 俺は頷いた。すぐに花宮さんの顔が浮かんだ。彼女を使って椿理香を調査させる…だが、椿理香が本当にターゲットなのか?奴らの計画は、十中八九、対象を特定して保護することだろう。だが、俺のやり方は違う。俺にとって、最善の防御とは—


「敵が我々を攻撃する前に、敵が誰かを見つけ出し、攻撃したい。そうじゃろ?」桜井さんは、まるで俺の心を読むかのように言った。


 一瞬、絶句したが、頷いた。「ああ」


「その考え、賛成じゃ」彼女は断言した。「お主は敵を見つけることに専念せよ。我々が、ターゲットが誰であれ、学校での監視と保護を担当する。かつてのナイトの作戦と同じようにな。儂がキャプテンとなり、お主が軍師となるのじゃ、勇太くん」


_________________________________________________


(一体どうやって花宮さんを椿理香に近づけさせるんだ?)


 二ヶ月。チッ…木村との一件と、あの校長室での会議からもう二ヶ月も経っている。二ヶ月、まともな作戦一つ立てられずにいた。


「お主は軍師じゃ」。桜井さんの声が、頭の中で何度も響く。


 その「軍師」が、女子生徒二人をどう接近させるか、その口実一つ思いつけずにいるとはな。


 学校は忌々しいほど平穏で、定期テストやら部活やらで、レッドファントムの脅威なんて遠い昔話のようだ。


 そんな退屈な日々の真っ只中に、また一つ、頭痛の種が増えた。


 夜は冷え込んでいた。ビュービュー と吹き付ける風が、開けたままのブレザーを揺らす。暗い通りに俺の足音だけが響き、街灯の影に吸い込まれていく。だが、俺の頭は別の問題でいっぱいだった。


(フラヴィアン…)


 まだ、どう考えるべきか分からなかった。フラヴィアンが生徒会長に立候補?フン…勇気があるのは確かだ。中学でもやっていたが、高校は別のゲームだ。あいつはその重圧に耐えられるのか?兄として、俺はあいつを応援すべきか?それとも、危険な道から守るべきか?その迷いは、俺が葬り去ろうとしていた記憶を呼び覚ます。親父に無理やり競技会に出され、分析力と戦略を磨かされた日々。俺はカリスマで勝ったんじゃない。ゲームのやり方を知っていたから勝ったんだ。盤上を、人を、操る術を。そして今、フラヴィアンが自らの意思でその世界に?


 ふぅ…ため息をつき、ポケットに手を突っ込む。まあ、あいつにとって良いことなのかもしれない。あいつが望むなら、それで…


「よう、竹内!」


 背後から突き刺さる男の声。俺がよく知りすぎている声。


 脳より先に、体が反応した。カシャッ! 瞬きする間に、チェインメイル――俺の第二の皮膚である金属合金――が起動し、腕の合金が月光を浴びて鈍く光る。指先が鋭い刃へと変形する。シュイン! 俺は振り向き、その刃の先端を、クソ野郎の喉元に突きつけていた。


 木村大地。驚きと疲労が混じった顔で、両手を上げている。


「おっと!待ってください、仲間!僕は戦いに来たのではありません!」


 一歩後ずさり、さらに高く手を上げる。


「あなたはいつもそうやって挨拶するのですか?少し失礼ですよ、知っていますか?」


 俺は奴を睨みつけたまま、刃を喉元から動かさない。


(今すぐ、てめぇの喉を掻っ切らない理由を言ってみろ!)


「それをしない理由を言え」俺は唸った。


「あなたにとって有益な情報があるからです。でも、あなたがフェアにプレーする場合だけです。」


 黙って、奴を分析する。数ヶ月前に俺の手に落ちかけた男にしては、落ち着きすぎている。チッ…こいつはただの馬鹿か、それとも何か強力なカードを隠し持っているのか。どちらにしても、厄介なことに変わりはない。


 俺はため息をつき、チェインメイルを収縮させた。シュッ。刃が指先に戻る。腕を組む。「いいだろう。話せ。だが、時間の無駄だったら、容赦はしない。」


 奴は、勝ったとでも言うように笑った。「了解しました!もう少し静かな場所はどうですか?真面目な話は、道でするものではありませんよね?」


 俺は目を細めた。「ついてこい。妙な真似はするなよ。」


 木村は笑いながらジャケットのポケットに手を突っ込み、俺の後ろを歩き始めた。こいつの目的は何だ?そして、最悪なことに、これがとてつもない頭痛の始まりに過ぎない気がした。


 その時間の公園は、シーンと静まり返っていた。黄色い街灯がコンクリートに長い影を落とし、遠くの大通りを走る車の音に混じって、冷たい風が木々の間を囁くように通り抜けていく。俺はいつものベンチに腰を下ろした。斎藤とよく座っていた、あのベンチに。まさか木村大地のような男と、この場所を共有することになるとはな。


 奴は俺の隣にどさりと座り、大げさなため息をついた。


「助けが必要です。」


 俺は前を向いたまま、無反応を貫く。「なぜ私が君を助ける?」


 木村はにやりと笑い、ベンチの背もたれに腕を乗せた。「なぜなら、僕もレッドファントムを裏切ったからです。」


 俺の体がピクッと硬直した。ゆっくりと首を回す。表情は変えない。だが、頭の中では、すでに千ものシナリオが駆け巡っていた。「…何と言った?」


「あなたは聞きましたよ」奴は俺を横目で見る。「あなたと同じように、僕もレッドファントムから抜けました。」


(そういうことか。)


 頭が高速で回転する。これはただ事じゃない。木村は組織の大物には見えないが、生きているということは、何か価値のある情報を握っているか、あるいはファントムを長期間欺いてきたかだ。どちらも、良い知らせではない。


「僕は日本人ではありません」奴は続けた。「僕の本当の名前はジェームズです。アメリカ人で、日本の血が入っています。これを使って、ここで隠れていました。」


(アメリカ人…それで合点がいく。)


 俺は答えない。あまりにも簡単に情報を明かしすぎだ。「なぜそれを私に話す?」俺は、乾いた声で尋ねた。


 木村は笑った。「あなたの信頼を得るためですよ、もちろん。」


「道理だな。」


 奴は空を見上げ、考えをまとめるように言った。「何年も、ファントムから逃げていました。傭兵として生きて、レーダーから外れる仕事なら何でも受けました。でも、ある日、違う仕事がオファーされました。」


 俺は奴をちらりと見た。「当ててやろうか。私を殺せ、と。」


「はい、そして、いいえ。」


 眉をひそめ、顔を向ける。「説明しろ。」


 木村はため息をつき、さらに深く寄りかかった。「学校に入れと。あなたを殺すためだけではありません。別の計画が進行していました。詳細は知りません。僕はただの使い捨ての駒でしたから。でも、計画を成功させるには、あるクルセイダーを排除する必要があった。」奴はそこで言葉を切り、俺を見つめた。「あなたを。」


 その情報は、鉛のように重くのしかかった。(個人的な恨みじゃなかったわけか。奴らにはもっと大きな計画があり、俺はその障害物だった。)


「あなたは彼らの邪魔だったのです」奴はそう結論付けた。


 俺はベンチに寄りかかり、曇り空を見上げた。雲の切れ間から月が覗き、街に銀色の光を投げかけている。木村が嘘をついている、大袈裟に言っていると思いたかった。だが、すべてが腑に落ちる。あまりにも、しっくりと。


「なぜ私のところへ?」


「あなただけが、僕を助けられる唯一の人だからです。」


 黙って、状況を整理する。断って、一人で調査することもできる。ゲートに引き渡して、手を洗うこともできる。だが、どちらの選択肢も最善とは思えない。木村は問題だが、盤上の駒でもある。そして、このゲームのやり方は、俺が一番よく知っている。


 俺は深く息を吸い、ポケットに手を突っ込んで立ち上がった。「私の助けが欲しいなら、私のために働け。」


 木村は目を瞬かせ、混乱していた。「はぁ? 何ですって?」


「協力してもらう。私の…いや、ゲートのために働いてもらう。」


 奴は俺を、口を半開きにして見つめていた。やがて、疲れたようにため息をつき、手で顔を覆った。「本当に最悪だ…分かりました。」疲れ切った笑みを浮かべる。「でも、言っておきますが、僕はあのエージェントのマントは着ませんよ。」


 俺は肩をすくめた。「私が着ていると思うか?」


 奴は笑った。「それもそうですね。」


 俺は背を向け、冷たい風を顔に受けながら歩き出した。「地獄へようこそ。」


 木村はため息をつき、俺の後に続いた。「ずっと前から、そこに住んでいますよ。」


 夜が俺たちの足音を飲み込み、公園の影が二人を包んだ。これは、まだ始まりに過ぎなかった。

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