第3話「小さなシルバーハンド」
花宮陽菜
学校でゆうくんを探すのは、干し草の山から針を探すようなものだった。職員室?もぬけの殻。廊下?誰もいない。あたしはやれやれと目を回し、もう諦めかけたその時、例の新しい隠れ家を思い出した。廊下の突き当たりにある、彼が世間から逃れるために使っている廃教室だ。
半開きのドアにたどり着くと、あたしの心臓がドキッと裏切り者みたいに跳ねた。ギィ…と音を立てないようにゆっくりとドアを押し、中を覗き込む。いた。ゆうくんが、まるで怠け者の猫のように先生の机にだらっと寝そべり、足をぶらぶらさせて、火星にでもいた方がましだという顔をしていた。彼の前には、背の低い、埃っぽい光の中で金髪を輝かせた少年が、怒って指を突きつけていた。
「その無責任さは、馬鹿げていますし、全部あなたのせいですよ!」少年は叫び、腕を固く組んでいた。
あたしはドアにぴたりと張り付いて、入るべきか引くべきか迷った。明らかに厄介な喧嘩に首を突っ込むなんて、一番したくないことだった。でも、その男の子があたしに気づいた。「あの馬鹿な先生に文句を言いに来たのなら、列に並んでください!」と、彼は鋭い声で言い放った。
あたしはぱちくりと瞬きし、顔がカッと熱くなるのを感じた。「あ、あたし…邪魔したくなくて…」
ゆうくんは、長くて苦しそうなため息をつき、頭を後ろに反らした。「落ち着きなよ、花宮さん」彼は少年に鋭い視線を送った。「でも、誰かさんが叫ぶ前に、自己紹介を学ぶといいんだけどね」
少年はふんと鼻を鳴らし、不機嫌そうな顔であたしの方を向くと、こちこちに固いお辞儀をした。「アレクサンダー・シルバーハンド、一年です。はじめまして」その声からは、これでもかというほどの皮肉が滴り落ちていた。
*シルバーハンド?*あたしの脳がフリーズした。ゆうくんを見て、それから男の子を見た。金髪はフラヴィアンやゆうくんの黒髪とは全く違うし、目は…ほとんど火花を散らしそうなほど鮮やかな青色だ。彼はぴしっとしていて、いかにも真面目そうで、明らかに年下だ。ということは—
「フラヴちゃんの弟?!」あたしは、思ったよりずっと大きな声で叫んでしまった。
ゆうくんは目を回したが、口の端がにやりと上がった。「ああ、僕たちの弟だよ。分かってる、僕たちとは似てないだろ。彼は父に似て、僕たちは母に似たんだ」
アレクサンダーはさらに強く腕を組み、顔を怒りで真っ赤にした。「そうですよ、僕は目立ちたくないと言ったんです!でも、あなたが『謎の先生』になって、フラヴィアンが生徒会のスターにでもなろうとしてるせいで、今や誰もが僕にあなたたちのことを聞いてくるんですよ!」
ゆうくんは、いたずらっぽい笑みを浮かべて肩をすくめた。「ただで名声が手に入るんだぞ?君の年頃なら、僕なら楽しむけどな」
「僕の話を聞いてるんですか、それともただ僕を怒らせたいだけなんですか?!」アレクサンダーは爆発した。
ドアがギイと軋んだ。フラヴちゃんが、完璧な制服姿で、スポットライトのように輝く笑顔で入ってきた。「はるちゃん!うちの末っ子のキーホルダーちゃんに会ったのです!これは素晴らしいことです!」
アレクサンダーは目をぎゅっと閉じ、うめいた。「そんな風に呼ばないでくれ、フラヴィアン…」
フラヴちゃんは腰に手を当て、その目は純粋な悪意にキラキラと輝いていた。「アレクサンダー、ここは日本です。お姉ちゃんと呼ぶのが正しいのですよ」
「夢でも見てるのか?!」彼は叫び、顔が炎のように赤くなった。
「彼女の言う通りだよ、アレックス」ゆうくんが、全てを悪化させると分かっているような雰囲気で、髪をいじりながら言った。
アレクサンダーは彼の方を向き、目をまん丸くした。「君まで?!」
ゆうくんはすっと真面目な顔になった。「敬意の問題だよ、アレクサンダー」その声は穏やかだったが、空気をひやりとさせる重みがあった。
彼が本気で言っているのか、ただ弟をからかっているだけなのか、あたしには分からなかった。アレクサンダーは息を呑み、恥ずかしさで顔が紫色になった。「ぼ、僕…お、お、お姉…」彼は一度立ち止まり、深呼吸をして、傷ついたプライドから叫んだ。「姉上!」
死のような静寂。ゆうくんは腕を組み、見事なオウンゴールを見たかのような顔をしていた。「情けないな」
あたしは耐えられなかった。彼を腕をぱしっと叩いた。「勇太!可哀想だから、いじめるのやめなさいよ!」
彼は降参するように両手を上げ、ついに笑った。「何が?彼は輝くチャンスがあったのに、プライドのせいで見事に転んだだけじゃないか」
アレクサンダーは拳を握りしめ、床を見つめていた。フラヴちゃんは笑って彼の金髪をわしゃわしゃと撫でた。「落ち着いてくださいです、アレクサンダーくん。その練習はまた後でするのがいいです」
「その練習なんてない!僕は何も練習しない!」と彼は言い返し、身をかわした。
あたしはため息をついた。でも、フラヴちゃんの次のターゲットはすでにあたしだった。「皆さんがここにいるのです。ですから…」彼女の笑みは危険な光を帯び、あたしの胃がきゅっと縮んだ。「テストのための勉強会でもいかがです?」
あたしたち三人はぱちくりと瞬きし、ショックを受けた。「はぁ?!」
「はるちゃん、きっと楽しいことになるのです!」フラヴちゃんは目を輝かせた。「それにアレクサンダーは—」彼女は弟の抗議を無視して肩を掴んだ。「—天才なのです。あなたが赤点を回避するのを手伝ってくれるのですよ!」
「勉強は楽しくない…」あたしは出口を探しながら呟いた。
ドアがまた開いた。直美ちゃんが、まるで武器のように鍵束をくるくると回しながら入ってきた。「何やってんの?そろそろ教室閉めるんだけど」
アレクサンダーは彼女の方を向き、カチンと固まった。「誰だ、この人?」
「直美ちゃん、この1.5メートルのキーホルダーちゃんはアレクサンダー・シルバーハンド、わたくしの弟なのですよ」と、フラヴちゃんは笑いながら言った。
直美ちゃんは片眉を上げ、彼を珍獣でも見るかのように観察した。「へぇ、フラヴちゃんは卓上デコ買ったんだ?」
「僕はデコじゃない!」アレクサンダーは叫び、顔がカッと燃え上がった。「それに、身長のことで人にどうこう言うなよ!僕の方が背、高いし!」
直美ちゃんはけらけらと笑い、その反応を楽しんでいた。「うわ、キレるとカワイイじゃん」
アレクサンダーは視線を逸らし、頬を噛み、顔を真っ赤にした。ふーん?あたしの唇に笑みが浮かぶ。「面白い…」と、あたしは自分に呟いた。ゆうくんに同意を求めようと目を向けたが、彼はいつもの死んだ魚のような目で、壁のどこかをぼーっと見つめていて、状況に全く気づいていないようだった。(この人、本当に何も気づいてないんだ…)
「とにかくです!」フラヴちゃんは指をぱちんと鳴らして、話を断ち切った。「勉強する場所が必要なのです!」
「待って、あたしはまだOKしてない!」と抗議しようとした。
「私は構いませんよ」ゆうくんが、不意に、長いため息と共につぶやいた。彼の口調ががらりと変わった。「どうせアレックスに手伝えとうるさく言われていましたし、フラヴィアンがこの案を出すことも分かっていましたから」
「さすがです、先生!」フラヴちゃんは、一ラウンド取ったかのようにウィンクした。「わたくしが生徒会に立候補して、あなたが担当なら、あたしたちが合格するのを保証しなきゃいけないのです!」
ゆうくんはふんと鼻を鳴らしたが、歪んだ笑みがこぼれた。「この仕事は、とんでもない間違いだったかもしれませんね」
あたしは言葉を失った。フラヴちゃんはぱちぱちと手を叩き、輝くような顔で言った。「決定です!勇太先生のお家で勉強会をするのです!」
「はぁ?!」あたしたち三人はユニゾンで叫んだ。ゆうくんは机から転げ落ちそうになり、純粋なパニックで目を見開いていた。「私がいつ、それに同意したと言いましたか?!」
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数時間後、あたしは部屋のベッドにうつ伏せで突っ伏してた。お風呂上がりの濡れた髪のまま、下着姿で。まるで答えを教えてくれるかのように、ただ天井を見つめる。頭の中?もう、ぐちゃぐちゃ。たった一つの、でも重大な問題がぐるぐる回ってた。何を着ていけばいいの?
ただの勉強会。ゆうくんの家での。それだけなのに。
「ちょっと、落ち着きなさいよ、あたし!」
そう叫んで、**バン!**とマットレスを叩いた。
ベッドから飛び起きて、ガバッとクローゼットの扉を開ける。シンプルなのが一番?Tシャツにスカート、それでよし。でも、その時、あたしの目に"それ"が飛び込んできた。
ゆうくんがくれた、あのワンピース。綺麗で、完璧で。心臓がドキッと跳ねた。
もし、これを着ていったら…
ダメダメダメ!そんなことしたら、フラヴちゃんに次の世紀までからかわれる。直美ちゃん?ああ、彼女ならあたしを生き埋めにしちゃう。
頭をブンブン振って、その甘い考えを追い払う。「ただの勉強会でしょ、このバカ!」
でも…ほんのちょっとだけ、可愛く見られたい、みたいな?ナチュラルな感じで—
ブーッ!
スマホが震えた。心臓をバクバクさせながら駆け寄って画面を見る。フラヴちゃんからのメッセージだった。
Flavian_S: 学校が終わったら、まっすぐ向かいますです。
あたしの世界がガラガラと崩れ落ちた。制服。あの、ダサい制服で行かなきゃいけない!
膝から崩れ落ちて、「うぐぅ…」と呻いた。床に転がって、枕を掴んで顔をうずめる。
「なんであたしってこうなのぉ?!バカバカバカー!」
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放課後、あたしたちは校門の前で合流した。フラヴちゃんが言うには、ゆうくんのマンションはここから歩いてすぐらしい。メンバーはあたし、直美ちゃん、フラヴちゃん…それに、魁斗くん。
…なんでコイツがいるの?
フラヴちゃんは腕を組んで、眉間にキュッとしわを寄せている。彼女の周りの空気は、ナイフで切れるくらいピリピリしてた。あの日以来、彼のことを見るたびに一瞬ためらうのだ。
「どうして彼が来たのです?」彼女は小さな声で呟いた。
「だって、話聞いてて勝手に来ちゃったんだもん、あのバカ」直美ちゃんが呆れたように言った。
「好ましくありませんです」フラヴちゃんの目がキッと鋭くなる。
気持ちは分かる。魁斗くんがしたことは、許されることじゃない。でも、時々、彼はただの…迷子のバカみたいに見える。もちろん、それで過去が消えるわけじゃないけど…
「まぁ、見てなって」直美ちゃんがニヤリと笑った。
「え?」あたしとフラヴちゃんは彼女の方を向く。
「ほら、彼」彼女は顎で前を指した。
魁斗くんは数歩先をとぼとぼ歩きながら、ヘラヘラと締まりのない笑みを浮かべていた。そして、一人で何かをぶつぶつと呟いている。
「ちゃんと修行すれば…勇太先生、俺を弟子にしてくれるかも…」
シーン…
あたしとフラヴちゃん、そして直美ちゃんは、空飛ぶユニコーンでも見たかのように、信じられないものを見る目で顔を見合わせた。
「…」
「…」
「…」
直美ちゃんは、はぁ、とため息をついた。「でしょ?」
フラヴちゃんは天を仰ぎ、神に忍耐を求めるような顔をした。「それでも、彼を一発殴りたいですわ」
「一発だけ?」直美ちゃんがニシシと笑った。
笑っていいのか、人類を見限るべきか。ゆうくんの弟子になる妄想に浸っている魁斗くんを見て、あたしはただ一つ、確信した。この男は、もう手遅れだ。
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ゆうくんのマンションに着いた時、あたしはあんぐりと口を開けた。夕焼けのオレンジ色の空を背景に、ガラス張りのタワーがキラキラと輝いていて、まるでおしゃれなドラマに出てくるみたいだった。マジで?あの、シワシワのシャツを着て不機زعなおじいちゃんみたいな顔をしてるゆうくんが、こんなところに住んでるの?
そんなの、世界の理に反してる!
エレベーターで上がっていく間、胃がキリキリした。アパートのドアが開くと、思わず息を呑んだ。
「お邪魔します…」
あたしたちは声を揃え、おそるおそる中に入った。
そこは…完璧な空間だった。靴を脱ぐための伝統的な玄関があり、短い廊下が広々としたリビングへと続いていた。ピカピカのキッチンと、シンプルだけど上品な家具が置かれた居心地の良さそうなリビングは、低い壁で仕切られている。左手には、巨大なテレビと山のようなゲーム機が置かれた棚。あたしの目はキラキラと星になった。
「天国だ…!」
思わず声に出すと、ゲームマラソンを想像してしまった。
ピシッ!
直美ちゃんの平手が、あたしの手を叩いた。彼女は目を細めてあたしを睨む。
「夢見てんじゃないっつーの、はるちゃん。あちしたち、勉強しに来たんでしょ!」
「だって見てよ!勇太先生、これって—」
「やめなって!」彼女は腕を組んだ。「魁斗くんのがまだ集中してるっつーの!」
…グサッ。魁斗くんと比べられるなんて。あたしはがっくりと頭を下げた。その間にも、ゆうくんはもうキッチンでテキパキと何かを鍋に入れていた。
「先生、何作ってんの?」直美が疑うように尋ねた。
彼が答える前に、別の声が響いた。「晩御飯」
友美さんが廊下から現れた。ブレザーを羽織り、短い青い髪が水滴で光っている。まるで顔を洗ったばかりみたい。彼女は、ここが自分のステージだとでも言うように自信満々の笑みで通り過ぎ、キッチンへ直行した。
「手伝わなくていいよ」ゆうくんがため息をつきながら言った。
「あら、手伝いたいの」友美さんはエプロンを締めながら言い返した。「先生だけが人気者なんて、私、嫉妬しちゃうもん!」
「人気者になるためにここにいるわけじゃないんだけど」彼はボソリと呟き、呆れたように目をそらした。
「あら、そう?じゃあ、生徒たちの一番のお気に入りの座は、私がいただくわね?」彼女はウインクして、挑発するように言った。
ゆうくんはため息をついたけど、その口元にはほんの少し笑みが浮かんでいた。「好きにすればいい」
あたしたちはリビングの低いテーブルにどさっと座った。アレクサンダーくんはもうそこにいて、まるで修行僧みたいに真剣な顔で本に鼻を突っ込んでいた。彼の隣で、フラヴちゃんが質問を浴びせ始める。
「アレクス、この方程式を説明してくださいな」
…変なの。フラヴちゃんは馬鹿じゃない。去年は学年トップ10に入ってたのに。どうして新入生のアレクサンダーくんを質問攻めにしてるの?
もちろん、直美ちゃんが爆弾を投下した。「フラヴィアンさん、なんでアレクサンダーくんに絡んでんの?別に数学苦手じゃないでしょ」
*直美ちゃーーーん!*心の中で叫び、顔がカァッと熱くなるのを感じた。なんでわざわざ虎の尾を踏むの?!フラヴちゃんはゆっくりと振り向き、悪役のような笑みを浮かべた。彼女が答える前に、アレクサンダーくんが本から目を離さずにため息をついた。
「僕をからかうのが好きだからですよ」
「はぁ?」フラヴちゃんは目をギラつかせて笑った。「わたくしのことを化け物とでも言いたいの、アレクス?」
戦争が始まる前に、魁斗くんがポツリと言った。「みんな、知らなかったのか?」
「何を?」あたしと直美ちゃんは同時に言った。
「アレクサンダーくん、入学試験で首席だったんだぜ」
…致命的な沈黙。あたしと直美ちゃんは口をぽかんと開けて、固まった。だからフラヴちゃんは、あたしが彼を知ってるかもって言ったんだ!
アレクサンダーくんは顔を真っ赤にして何かを呟いた。「大したことじゃないです」
フラヴちゃんは笑いながら彼をつついた。「大したことない?じゃあ、なんでそんなに赤くなってるのかしら、天才くん?」
「うるさいぞ、フラヴィアン!」彼は拳をギュッと握りしめて言い返した。
二人が火花を散らし始めたので、あたしたちはクラクラしながら勉強に集中することにした。キッチンから漂ってくる美味しそうな匂いが、あくびと鉛筆の音に混ざっていく。やがて、友美さんが叫んだ。
「夕食ができたわよー!」
教科書を放り出す。ゆうくんと友美さんが料理を運んできた。湯気の立つカレーライス、いい香りの味噌汁、サクサクの野菜とエビの天ぷら。あたしのお腹がグーッと雷のように鳴った。お腹すいた。
食卓について、攻撃開始。「わー、勇太先生、料理上手すぎ」直美ちゃんが口をいっぱいにしながら言った。
「私は?」友美さんが眉を上げて、危険な笑みを浮かべた。
「友美さんも、もちろん!」直美ちゃんは笑いながら慌てて手を振った。
「すっげーうまい」魁斗は掃除機みたいにがつがつと食べていた。
「人間らしく食べなさい、田中」フラヴちゃんがジロリと睨んだ。
あたしはただ、自分のお皿を見つめていた。*ゆうくんが、これを作ったんだ。*カレーを一口食べる。温かくて、少し甘くて、柔らかいご飯と混ざって…完璧だ。唇をぎゅっと噛む。バカなこと考えないの、陽菜。ただの御飯でしょ。
「大丈夫ですか、はるちゃん?」フラヴちゃんが、にやにやしながらあたしをつついた。
「へっ?う、うん、すっごく美味しい!」あたしはどもってしまい、顔が燃えるように熱くなった。
「お皿をじーっと見つめて」彼女は笑った。「そんなに美味しいのですか?」
「当たり前でしょ!」あたしは大きすぎる声で答えてしまった。
ゆうくんが片眉を上げる。あたしはさっと目をそらし、恥ずかしさで死にそうだった。なんであたしってこうなの?
夕食後、あたしたちは勉強に戻った。でも、あたしの頭はプリンみたいにふにゃふにゃ。十分も同じ数学のページを睨んでいたけど、数式が目の前で踊っているだけで、まるで「お前には無理だ」ってからかわれてるみたい。
「うーん、全然わかんない…」呻きながら、開いた本の上に頭をごつんと落とした。
隣に優雅に座っていたフラヴちゃんが、命令するようなため息をついた。
「基本定理を応用するだけの問題ですわ、はるちゃん。集中してくださいまし」
「でも、してるもん!」
その時、もっと落ち着いた声が割って入った。
「ここ、微分の順序を逆にすれば…もっと分かりやすくなりますよ」
アレクサンダーくんが、自分の本から目を離さずに、あたしのノートのある一点を指差した。彼が数式の背後にあるロジックを説明し始めると、複雑だった問題が驚くほど小さな、簡単なパーツに分解されて、突然、すべてが繋がった。
「あっ…!」あたしは彼を感嘆の眼差しで見た。「すごい、アレクスくん、やっぱり天才だね!なんで二年生の範囲までそんなに分かるの!」
アレクサンダーくんは話すのをやめた。彼はゆっくりと顔を上げ、集中していた表情が消え、ぞっとするような空虚なものに変わった。彼の青い瞳から輝きが消え、不透明で冷たくなった。そして、彼の声は、何の感情も含まない、平坦なものだった。
「すみません、花宮先輩。先輩が馬鹿なだけです」
世界が止まった。鉛筆の音も、他の人の囁きも…全てが消えた。あたしは固まり、褒め言葉が喉につかえた。冷たく言い放たれたその言葉は、お腹にズンと重いパンチを食らったみたいだった。
「やめて…ください…」声が震えた。「心が、痛いです…」
その後の沈黙は、重くて気まずかった。誰も何も言えなかった。フラヴちゃんが弟に殺意のこもった視線を送ったけど、彼はもう本の後ろに隠れて、我関せずという顔をしていた。和やかだった勉強会の雰囲気は完全に壊れ、残りの時間は、単調な言葉のやり取りと、逸らされる視線の中、ただだらだらと過ぎていった。
もう夜だった。ハードな勉強会で、みんな限界だった。直美ちゃんは大きなあくびをして、床にごろーんと転がっている。魁斗?本に顔をうずめて、赤ん坊みたいによだれを垂らしてぐーすか寝ている。
「こいつ、起こした方がいいかな?」直美ちゃんが言った。
ゆうくんは腕を組んでため息をついた。「学校じゃないんだ。放っておけ」
「だよねー」直美ちゃんは呟いて、床にごろりと寝転がった。
フラヴちゃんが立ち上がり、パンパンと脚のほこりを払った。「本日はこれまでにしましょう」
アレクサンダーくんが顔をしかめた。「もうですか?」
「君もだよ、アレクス」ゆうくんが言った。
「でも、もう少し復習したかったのに!」アレクサンダーくんがむくれて抗議した。
「お姉ちゃんが『行きなさい』と言っているのですよ」フラヴちゃんが勝利の笑みを浮かべた。
「関係ないだろ!」彼は子供みたいに腕を組んでそっぽを向いた。
ゆうくんは真顔で顎に手をやった。「兄としても言う。帰りなさい」
アレクサンダーくんはうーんと唸ったが、負けを認めて荷物をまとめた。「分かりましたよ…」
フラヴちゃんとアレクサンダーくんが帰り、あたし、直美ちゃん、魁斗くん、友美さん、そしてゆうくんが残った。
「あちしもそろそろ行くわ」直美ちゃんが伸びをしながら言った。
「じゃあ、私が送っていく」友美さんはバッグを手に取ると、あたしの方を向いた。「花宮さんは、どうする?」
あたしはカチンと固まった。フラヴちゃんと直美ちゃんが悪魔のような顔でアイコンタクトを取る。
「はるちゃんはもっと勉強が必要ですから」フラヴちゃんが天使の笑顔で言った。
「そうそう、せっかくいるんだし、ね?」直美ちゃんが笑いながら付け加えた。
はぁ?!あたしが抗議する前に、二人はあっという間に消えてしまい、あたしはゆうくんと…魁斗くんと取り残された。その魁斗くんは…グオオオオッ!
地響きのようなイビキが空気を切り裂いた。本に顔をくっつけたまま、トラクターみたいによだれを垂らしている。
「あ…まだいたんだ、こいつ…」
「今のところはね」ゆうくんはボソッと呟いて立ち上がった。「タクシーを呼んでくる。もう遅いから」
彼はキッチンへ食器を洗いに向かった。あたしはその後ろ姿を、心臓をバクバクさせながら見つめていた。ここで突っ立ってるだけなんて無理!
あたしは後を追いかけた。「ゆうくん!手伝うよ!」
彼は驚いてピクッとした。「いいよ、花宮さん。たくさん勉強して疲れただろう」
「でも、夕食作ってくれたもん!手伝わせて!」あたしは一歩も引かなかった。
彼はあたしをじっと見て、それから困ったように笑った。「…分かった。そこまで言うなら」
*その笑顔!*顔がカッと熱くなったけど、あたしは決意を固めてシンクに向かった。布巾を手に取り、彼が洗うお皿を拭き始める。その沈黙は…心地よかった。水の流れる音とお皿が触れ合う音だけ。
横目で彼を見る。ゆうくんは落ち着いた、滑らかで正確な動きで食器を洗っていた。まるで達人のように。こんな退屈な作業でさえ、彼は…完璧だった。ずるい。
あたしはぼーっとしていて、彼がお皿を渡すのと同時に手を伸ばしてしまった。二人の手が、触れた。ピタッ。世界が止まった。彼は驚いて、お皿をシンクに落とした。
「ごめん」彼は何でもないように言った。
ごめん?!こっちの心臓は爆発しそうなのに、それだけ?!
深呼吸して、お皿に集中する。「これ、どこにしまえばいい?」声が震えた。
「上の棚だ」彼が指差した。
見上げる。*なんでいつも一番上の棚なの?!*つま先で立って、ぐーっと腕を伸ばす。届かない。もう一度、シンクによじ登りそうになりながら挑戦する。その時…笑い声が聞こえた。
ゆうくんが、笑っていた。あたしを見て!
「やめてよ!」あたしは顔を真っ赤にして文句を言った。
「ごめん、ごめん」彼はまだ笑いながら、あたしの手からお皿を取って、簡単に棚にしまった。「ほら」
「屈辱的…」あたしは腕を組んで呟いた。
彼は食器をしまい続けたが、奥の棚に手を伸ばした時、ぐっと身を乗り出した。突然、彼が近くなった。近すぎる。あたしの顔が、彼の胸にほとんど触れそうになった。あたしの脳が警報を鳴らす。緊急事態!
あたしはカチンと固まった。彼は最初気づかなかったけど、やがて…動きを止めた。彼の顔が赤くなる。
「あ…悪い」彼は目をそらしながら呟いた。
あたしは何も言えなかった。指が震え、布巾を握りしめる。口を開いたけど、その時—
ゴオオオオッ!
魁斗のイビキが、その瞬間を破壊した。あたしたちは二人ともほっとして、緊張が解けた。
「…やっぱり、早くタクシーを呼ばないとね」ゆうんは首筋を掻きながら言った。
「うん…」あたしは、まだドキドキと速鐘を打つ心臓を抱えながら、かろうじて頷いた。
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駅で、あたしたちは電車を待っていた。魁斗くんは、ゆうくんが疲れたようにため息をついて直した、あのバカみたいな挨拶の後に、もう帰ってしまった。今は、あたしたち二人だけ。ベンチに座って、彼は缶コーヒーを、あたしは彼が買ってくれたイチゴミルクを飲んでいた。
あたしは横目で彼を見ていた。ゆうくんは静かにコーヒーを飲み、その顔は穏やかだ。でもあたしは?まるで噴火寸前の火山みたいに、神経がピリピリしていた。二人きり。魁斗くんのイビキもない。ただ、あたしたちだけ。
気づかないうちに、あたしはベンチの端に少しずれていた。彼が眉をひそめる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃない!じゃなくて、大丈夫!」あたしはどもってしまい、顔がカァッと熱くなった。
何か言いたい。何か言わなきゃ。この沈黙はあたしを殺す気だ。心臓をバクバクさせながら彼を見て、口を開いた――
その時、彼が先に沈黙を破った。
「そういえば、生徒会のことなんだけど…」彼の声は低く、考え深げだった。
「うん、それがどうかしたの?」
彼の雰囲気がすっと変わった。肩が少し張り、その視線はカジュアルさを失い、遠くの線路の先を鋭く見つめている。彼の「スパイモード」だ。
「僕の最初の計画では、君を椿理香の陣営に入れるつもりだったんだ。彼女も会長に立候補する」
椿理香…二年生の。金髪で、人気者で、いつも誰かに囲まれている、あの。
「じゃあ、あたしに彼女を見張ってほしかったの?」あたしは単刀直入に聞いた。
「見張る、とまではいかないけどね」と彼は訂正した。「学校にいる椿理香は、君が手に入れたファイルの情報と一致しない。両親の名前、出生地…全部違う。まるで別人だ」
彼はコーヒーを一口飲んで、続けた。
「でも、同一人物である可能性は捨てきれない。むしろ、僕はそうだと思っている。ただ、調査もなしに決めつけることはできない。だから、君に彼女の選挙運動に参加してもらって、どうにかして彼女に近づいてほしかったんだ」
あたしは少し黙っていた。彼の計画は、リスキーだけど、合理的だ。
「でも、あたしはフラヴちゃんと一緒に立候補してる」あたしの新しい友人への忠誠心は、どんな秘密の任務よりも重かった。
「知ってる」彼はため息をつき、スパイモードが少し崩れた。「予想外だった。いや、心のどこかでは、フラヴィアンがそうするだろうって分かってたんだ。彼女は中学でも生徒会長だったから、今更驚くことでもない。僕が状況を読み間違えたんだ」
「あたしはフラヴちゃんを裏切ったりしない」あたしはきっぱりと言った。
彼はあたしの方に向き直った。その眼差しには、初めて見る種類の感情があった。尊敬、かな。
「君にそんなことをさせたいわけでもない。二人が接触する別の方法を考えるよ」彼は、珍しく、そして本物の笑顔を見せた。その笑顔は、あたしの心臓をドキリとさせた。「だから、僕の妹を支えてやってくれ」
その笑顔…その頼み方…
何か言いたい。言わなきゃ。この沈黙はもう限界だ。彼を見て、心臓がドキドキして、顔が熱くなるのを感じた。あたしは、口を開いた――
ゴオオオッ!
電車が轟音とともに到着し、あたしが口にした意味不明な言葉を完全にかき消した。ゆうくんは耳に手を当てて、
「え?聞こえなかった」
…カチン。あたしの勇気が、粉々に砕け散った。
「な、なんでもない!」
そう叫んで、あたしは電車に駆け込んだ。
ドアが閉まる。あたしは車両の壁に寄りかかり、自分の足元を見つめた。あたし、何を言おうとしたの?何を言ったの?頭の中がぐちゃぐちゃで、何も思い出せない。
家に帰ると、頭がまだクラクラしていた。
「お帰り、陽菜。勉強、どうだった?」ママがキッチンで鍋を混ぜながら言った。
「…うん、まあまあだった」呟きながら、自分の部屋へ向かう。
キッチンにいた沙希が、あたしをじろりと見た。「本当に何もなかったの?」
「当たり前でしょ!」早口で言い返した。
その時、世界の終わりが来た。妹の百合子がどこからともなく現れて、探偵みたいにあたしを指差した。
「お姉ちゃん、彼氏にフラれたんだ!」
あたしの魂がフワッと体から抜けた。家中の時間が止まる。ママが「あらあら」と好奇心いっぱいの声を出す。階段を降りてきたパパが、その場でカチンと固まる。
「なっ?!彼氏だと?」
「そんなんじゃない!」あたしは顔を燃え上がらせながら叫んだ。
「その年頃はねぇ…」ママは呟き、何事もなかったかのように鍋に集中し始めた。
パパは沙希を真剣な顔で見た。「お前は姉さんみたいになるなよ、分かったな?」
沙希は呆れたように目をそらした。「なるわけないでしょ」
あたしは部屋に駆け込んで、バタン!とドアを閉めた。ドアに寄りかかって、自分の腕を抱きしめる。「あああああっ!もう、恥ずかしい!」ベッドに身を投げ出して、狂ったようにゴロゴロと転がった。
ブーッ
スマホが震えた。うつ伏せのまま手に取る。ゆうくんからのメッセージだった。
**ユウタ_123:**無事着いた?
画面を見つめていると、にへへと締まりのない笑みが顔に広がった。枕をぎゅっと抱きしめ、スマホを胸に押し当てる。返信した。
**ハル〜(≧ω≦):**うん、ありがとう
すると、彼からアニメの女の子が気だるげな表情でグッドサインをしているスタンプが送られてきた。次こそ…次こそ、ちゃんと言うんだから。
ベッドに横になり、天井を見つめながら、駅でのことを思い出す。あたしは何か言った。でも、電車がそれをかき消してくれた。もしゆうくんに聞かれてたら、大惨事になってた。だって、あたしが口にしたのは、意味の通らない、めちゃくちゃな言葉だけだったから。まともな文章なんて、一つも作れなかったんだ…
あたしはため息をついて、枕を抱きしめた。ありがとう、電車様。




