第2話「新しい始まり」
絶え間ない軋むような音が、薄暗い廊下に満ちていた。そこでは金属的な足音が不気味に反響し、遠くで銃声の破裂音が鳴り響いては、重苦しい空気を震わせていた。
前方で、男が逃走していた。その男のベージュ色のメタリックコートが動きに合わせて波打ち、雨に濡れたビニールを想起させた。
――クソッ…幽霊みてぇな
無表情な白い仮面が、壊れた照明の弱々しい光を捉えていた。それはまるで、冷たい亡霊の微笑のようだった。
甲高い金属音と共に、男は振り返った。マントの下から右腕の装甲が滑り出し、ハイテクのライフルが現れた――
低い轟音が炸裂し、銃口は火を噴いた。弾丸は鋭い風切り音を立てて空気を裂いた。
ミクは躊躇わなかった。
「――行く!」
彼女の眩い黄金のマントが素早く大きく広がり、彼女は突進した。跳弾が壁に当たって火花を散らし、それはまるで儚い流星群のようだった。
素早い動きと共に、彼女はマントからサブマシンガンを引き抜いた。
途切れることのない銃撃の音が、廊下に耳をつんざくような轟音を満たした。
瞬間的な閃光が辺りを照らした。男は、鈍色のコートを周囲に回転させながら、超人的な速さで後退した。歯を食いしばるほどの、見事な俊敏さだった。
努力の叫びと共に、俺は渾身の力を込めて拳を叩き込んだ――だが、奴はそれよりも更に速かった。
何かが鋭く裂ける音と共に、俺の体は衝撃を受けた。
「ぐはっ!」
防御マントが衝撃を吸収したにも関わらず、俺は三メートルほど後方に吹き飛ばされた。肺の中の空気が暴力的に押し出される。
新たな爆音が響き、ミクの援護射撃が敵の方向に炸裂した。敵はベージュ色の装甲マントで脚部を覆い、不自然な体勢で横に転がって回避した。
今だ…!
俺はミクの横をすり抜け、目標が体勢を立て直そうとするまさにその瞬間、白いガントレットを全力で振り下ろした。
鈍く重い衝撃音が響き渡り、奴の体は手すりに激しく叩きつけられた。
甲高い金属音が鳴り、ミクの精密な射撃が奴の武器を弾き飛ばした。俺もマントの下からライフルを引き抜き、白い仮面に照準を合わせた。
「…終わりだ」
俺のエルモ(戦闘インターフェース)のバイザーが視界にデータラインを展開した。
低い、抑えた笑い声が奴から漏れた。
「その緑のマントさ…ワイトの玩具によく似合う」
仮面の奥は空虚だった。だが、奴の目だけは冷たい輝きを放ち、まるで刃物のように俺を切り裂かんばかりだった――。
「手錠をかけろ、ミク」
俺はそう言った。まるでそれが俺たちのありふれた任務の一つであるかのように――いや、あるいは、俺はただ必死にそう信じたかっただけなのかもしれない。
激しい爆発が全てを揺るがした。ミクが近づいた瞬間、床が激しく震えた。廊下全体が軋み、増大する圧力の下で呻いていた。
「予想外だったか、ワイト?」
仮面の奥は空虚だった。だが、奴の目だけは冷たく輝いていた――まるで刃物のように俺を切り裂かんばかりに。
俺は下を見下ろした。
塔の基部は燃え盛る炎の地獄と化しており、爆発は飢えた獣のように階を駆け上がっていた。監視台が大きく傾き、俺はバランスを失った。
突然の残忍な衝撃と共に、奴はその隙を利用して俺の銃を払い、腹部に強力な蹴りを叩き込んだ。
俺の後方で、ガラスが粉々になる音が響き渡り、新たな爆発が窓を無数の破片へと吹き飛ばした。東京の冷たい風が、呻き声と共にその場に流れ込んだ。
奴は手すりにしがみつき、右腕がワイヤー付きのフックガンへと変形し、素早い発射音と共に上方へと射出された。
奴は上の階へと引き上げられ、姿を消した――
激しい揺れと金属が擦れる音が響き、ミクが俺を強く引き寄せ、床に開いた穴への落下を防いだ。
「私が追う!」立ち上がりざまに、俺は叫んだ。
「ワイト、一旦撤退だ!今は――」
別の耳をつんざくような爆発音があり、燃える瓦礫が天井から俺たちの上に降り注いだ。純粋な反射で、俺はミクを掴み、横へと飛び込んだ。
…視界が真っ白に染まった。
彼女が立ち上がると、彼女のエルモのバイザーに映った顔が微かに光った。アニメ風の少女――大きな青い瞳と豊かな表情。ミクが「任務中の威圧感を和らげるため」に選んだ仮想アバターだ。
…今、その瞳が劇的に見開かれていた。
「ワイト!!」
彼女の叫びが炎の轟音を切り裂いた。俺は足元の崩れゆく床を見下ろし、落下の虚無を受け入れた――
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「…また、あの夢か」
ベッドにうつ伏せになった俺は、寝返りを打って天井を見上げようとした――はずだった。長い黒髪が顔にまとわりつき、視界を遮る。
「チッ…」
窓を開け、朝の光が部屋に差し込んだ。ビルの屋上から、神未来タワーがくっきり見える。
「もう二年近くか…」
歯を磨き、髪を解いて結び、朝食を取る。普通なら当たり前の日常だが、俺にとっては全てが新鮮だった。一年半――俺は「普通」の生活に慣れようとしていた。
子供の頃から、俺の人生は国際対テロ組織「ゲート」を中心に回っていた。生きるか死ぬかの世界で育ったんだ。
「まあ、仕事以外の『表向きの生活』もあったさ」
学校には通ってた。けど成績? どうでもよかった。ゲートがどうにかして卒業させてくれたから、努力する必要なんてなかった。
友達? 何人かはいた。でもみんな仕事仲間だ。
彼女? いたにはいた…が、これもゲートの人間。
俺の人生の全てが、組織と繋がってた。
今は違う。
「第一線から退けられた今はな…『普通』を演じてる」
表向きはインクイジター。だが実際は?大学生だ。これは一時的に現役を退いたエージェントのための「社会復帰」プログラムの一環だった。訓練だと、奴らは言った。だが、ただの「普通の学生」であることが、一体何の訓練になるというんだ?観察し、交流し、疑念を抱かせない…あるいは、この平凡さこそが最も困難な試練なのかもしれない。
もちろん、本当の俺が消えたわけじゃない。外見を変え、先生に付けられたあだ名を『新しい名前』として使ってるだけ。
…ま、少なくとも道を歩いてて撃たれる心配はなくなったぜ。
あの朝も、俺はいつも通り大学へ向かった。バスに揺られ、数分歩く。生活はある程度自立してるが、学費はゲートの「支援基金」から賄われている。無論、俺だけじゃない。噂によれば、学生の約5%は元エージェントか、俺のような状況にある者たちだという。
だが、ほとんどの連中は――俺とは違う。
大学の建物が見えてきた。黒い窓が並ぶ巨大なビル。高層ビルかと思うほどだ。
ふと、肩を軽く叩かれた気がした。
振り向くと――
ポン!
そこには、水色のショートカットに輝くような笑顔、小柄な少女が立っていた。
身長はせいぜい百五十五センチ。だが、彼女の存在感は空間を支配していた。
鮮やかな水色のショートカットが肩にかかり、緑と青が溶け合った瞳は――静かな海が空を映したようだ。
ラフな格好(ゆったりしたブラウスにジーンズ、カラフルなスニーカー)なのに、全てが彼女の自然な美しさと明るさを引き立てている。
キラキラ
銀色のブレスレットが、元気な仕草に合わせて軽やかに響く。
「おはよう、先輩! ああ、やっぱりそのスタイル変わんないね~」
俺は相変わらずの全身黒づくめ。無地の黒シャツに黒ズボン。髪は黒い団子ヘアで、耳の上のサイドだけ緑に染めてる。右ピアスにジャラジャラしたブレスレット。
「おはよう、友美」
彼女は当然のように俺の横を歩き、大学の建物に入っていった。
友美は明るく、誰とでも打ち解けるタイプだ。学部は違うが、俺たちは同期で大学に入った。なのに、なぜか俺を「先輩」と呼ぶ。年上だからじゃない――俺が彼女より二年早くゲートに入ったからだ。
「勇太先輩~、交流会も参加するの?」
「…ああ。でも本当は行きたくなかったんだ。竹内さんに放課後来いって言われてさ」
「何やらされるか想像つく?」
彼女はからかうように笑った。俺が人付き合いが苦手なのを知ってる。だって俺の仕事は話すことじゃなくて――撃つことだったからな。
「人付き合いのない内容ならいいんだが…社会奉仕活動とか。悪くないかも。友美は?」
「先輩~、ゴミ拾いでもさせられると思ってるの? ふふっ」
彼女はからかうように笑った。「私は大学付属高校でソーシャルワーカーの実習よ」
「専攻に関係あるんだろ? 本気出せよ」
「励まし? うわ、相変わらず熱いね~」
ポン!
友美が軽く俺の腕を叩き、ニヤッと笑った。からかわれてるのに、その明るさが妙に落ち着く。
会話は廊下を進むまで続いた。
授業中、俺の目は黒板に留まらなかった。
あの夢がまだ頭を締め付ける。
あれから何年も経つのに――
爆発の衝撃が肌に、
誰かの叫びが耳に、
…まるで今もあの戦場にいるようだ
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授業が終わると、俺はボロボロのバッグを肩にかけ、いつもの団子ヘアで教室を後にした。緑に染めたサイドが廊下の光にチラチラと映える。竹内さんに会って「社会交流」の話を聞くべきだったが――
…正直、気乗りしねえ。
あの夢の残像がまだ頭を締め付けてた。「社会奉仕」なんて話す気分じゃなかった。
決めた。文芸部に逃げよう。
大学の建物は鉄とガラスの巨大な怪物だ。他の大学の広々としたキャンパスとは違い、すべてがこの箱に詰め込まれている。低層階は教室、中層は研究室、上層には講堂や部室が並ぶ。プールもジムも、全部が垂直に積み上がった都市みたいだ。
…オアシスは十二階だ。
低層階は教室、中層は研究室、そして最上層には――講堂、図書館、部活動のフロアが広がる。バスケコートもプールもジムも、すべてがこの立体都市に収まっていた。サッカー場と野球場だけは、数ブロック離れた屋外に追いやられている。
文芸部は十二階。課外活動用の無数の部屋のひとつに、ひっそりと存在する。
ガラッ
「文芸部」と書かれた簡素なプレートのドアを開けた。
古い本とインクの匂い。壁一面の本棚には、小説、漫画、ライトノベルがぎゅうぎゅうに詰まってる。中央の丸テーブルと、床に散らばるクッション。
…ここだけは時間が止まってるみたいだ。
中央に丸テーブル、適当に置かれた椅子。床のクッションの一角――そこが俺の定位置だった。大きな窓から差し込む光が、遠くの神未来タワーを浮かび上がらせる。
古本とコーヒーの香り。時折、ページをめくるかすかな音。
俺はクッションに座り、バッグからボロボロの文庫本を取り出した――異世界転生の冒険譚だ。
文芸部は俺の避難所だった。ここには「活動」なんてものはない。好きな本を読み、軽い感想を書き、部員と共有するだけ。
…ここの連中はみんな、俺と同じだ。
無理に話さず、物語の世界に浸れるオタクばかり。
読書に没頭していると、ドアが開く音がした。
顔を上げると、そこには百八十センチ近い大柄な男が立っていた。明るい髪を流行りのスタイルに整え、ジャケットにタイトなシャツ。まるでファッション誌から抜け出してきたような奴だ。
…文芸部には似合わねえ。
「よっ、先輩!」
奴は俺を指差し、気さくに声をかけてきた。「交流会の説明会、行かないんですか?」
「…正直、気が進まねえんだ」
俺は本を閉じ、ため息をついた。
クスクスと笑いながら、奴は丸テーブルに腰かけた。返事をする前に――
ガラッ
新たな人物が現れた。ほぼ同じ背丈の女性。深い紫の髪が揺れ、上品なブラウスにフレアスカート、アンクルブーツという装い。銀の羽根ペンダントが光る。文芸部の部長だ。
「こんにちは、先輩」
俺が挨拶すると、隣の野郎が「おっす、部長!」と叫んだ。
彼女は腕を組み、俺をじっと見つめる。
「勇太、交流会から逃げるつもりじゃありませんよね?」
「い、いや、やる気がないわけじゃ…」
俺は苦笑いしながら答えた。「ただ…ちょっと、保留にしてるだけです」
彼女は紫の髪をかきあげ、ため息をついた。
「あなたは期待されてるんですよ、勇太。怠けてチャンスを逃すわけにはいきません」
――期待?俺が?
授業もろくに聞いてないのに。反論する暇もなく――
バン!
乱れた水色のショートカットと、怒りで輝く青い瞳。友美がドアに立っていた。
「先輩っ!!」
彼女の指が俺を突き刺す。反応する間もなかった。
ズズズ…
友美は俺の黒シャツの襟をつかみ、無言で廊下へ引きずり出した。俺は無表情のまま、床を滑るように移動する。
部長と野郎は唖然と見送った。
「彼、大丈夫かな…」野郎が首をかきながらつぶやいた。
「…たぶんね」部長の声は、まるで自信がなさそうだった。
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友美に引きずられてビルを降り、仕方なく竹内さんとの面会に向かった。彼は大学の教授じゃない。あの学校の教師だ。
小さな面接室で待つ男。短く刈った黒髪に眼鏡、濃いスーツ。机の向こうで腕を組み、指を絡ませている。夕陽が背中を照らし、顔は影に沈む。眼鏡のレンズが光を跳ね返し、表情を隠す。
…相変わらずの演出家だ。
「勇太」
低い声が響く。目元だけが逆光で浮かぶ。
「お前の次の『任務』だが――」わざと間を置いて、「俺の代わりをやれ」
「は?!任務だと?学校に潜入でもするのか?あの学校にはゲートのエージェントが既に何人もいるだろうが!なんで俺なんだ!?」俺は声を荒げた。
竹内さんは少し気まずそうに視線を逸らした。「まあ、落ち着け。お前は子供の頃から心を閉ざしてただろう?ゲートは…本物の人間と関わる機会を作りたいんだ。これはお前のための…訓練でもある」
「訓練?ふざけるな!ただアンタが休暇を取りたいだけだろうが!」
竹内さんは否定も肯定もしなかった。ただ、意味ありげな笑みを浮かべただけだ。「まあ、それもあるかもしれん。だが、お前にはそこで果たしてもらう任務が実際にある。…詳細はまだ俺も知らんがな」
「待て…ゲートが俺の私生活に、ましてやこんな曖昧な任務で口を出す権利はねえ!」
「これも任務だ、勇太。命令だと思え」
「ふざけんな!」
ガタッ
椅子を蹴って立ち上がった。
「…ほらな」竹内さんは苦笑いしながら眼鏡を押し上げた。「今みたいに、俺とまともに話せる相手が…お前に何人いる?」
竹内さんはいつも直球だった。単なる教師じゃない――ゲート時代の俺の師匠だ。今は引退して、日本語教師をしている。
…クソ。
奴の言葉は正しかった。俺は仮面の裏に隠れ、求められる自分を演じる術を身につけた。あいつが教えたんだ。だが――
本当の自分で話すこと?素の性格を見せること? …それは別次元の話だ。
「とにかく、俺はもう長くは教えられねえ」竹内さんは背中の古傷をさすりながら呟いた。「歳だ。傷が疼く。だから…お前が代わりをやれ、勇太」
「分かった…授業の内容だけ教えてくれ。なんとかなる」スケジュールをこなすのは簡単だ。生徒や教師との関わりを最小限にすれば――問題なく切り抜けられる。
「心配するな、全部渡す」
「じゃあ、特に――」
「ただ、ルールがある」竹内さんが俺の言葉を遮った。「諜報スキルは一切禁止だ。お前自身で振る舞え。それに…その『代替スタイル』も封印しろ。そして…」眼鏡が光る。「…お前の勤務は月曜からだ」
「月曜⁉今日、金曜だぞ⁉」
「ああ、そうだったな。はは、悪い、悪い」奴はまるで天気予報でも話すような顔で続けた。「そうそう。お前の年齢じゃ正式な教師にはなれねえ。ゲートが望んでも、この国には法律があるからな。はは」
「どういう意味だ…?」
「変装だ、勇太」
「は⁉」
「その通り。メイク、場合によってはカツラもだ。三十歳くらいに見えるようにしろ」
…まるで簡単な買い物リストでも渡すような口調だった。
「とにかく、明るいうちに必要な物を揃えろ。
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「あのクソじじい…!」
俺は心の中で毒づいた。十代のガキのお守りなんて、どこの神様の罰ゲームだってんだ。おかげでこの俺、三十路教師の馬鹿げた変装のために、化粧品やら偽メガネやらを買い揃える羽目になった。
「社会復帰ミッション」だと?笑わせるな。公園を散歩するような楽な仕事になるはずだったんだ。学校に着いて、意味不明な古典の授業をいくつかやって、誰にも顔を見られずにサッと帰る。シンプルで、効率的。そう、俺はそう信じて疑わなかった。
だが、現実は違った。どっかの小娘が薄暗い路地裏でピンチに陥りやがって、この錆びついたヒーローコンプレックス持ちのクソ馬鹿な俺が、正義の味方ごっこをして助ける羽目になったんだ。そして、最悪なことに、あいつは…あいつは…見やがった。化粧が流れ落ちて、「おっさん」の仮面が剥がれるのを。執拗なほど、見つめてきやがった。
今じゃ、この馬鹿馬鹿しい教師の芝居に耐えるのに加えて、俺が何か隠してるって知ってる詮索好きなガキの相手までしなきゃならん。最高だ。素晴らしき「ミッション」様だよ、ったく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
学校の廊下、現在
まるで俺のうんざりした思考に呼び出されたかのように、彼女はそこにいた。花宮陽菜。廊下の真ん中に立ち、その燃えるような赤い髪は肩に滝のように流れ落ち、俺のすり減った自制心に警告を発する信号のようだった。顔に浮かべた笑顔は、「これから俺は問題を起こします」と宣言しているかのように見えた。
彼女が跳ねるように近づいてくるたびに、俺の偏頭痛が悪化するのが手に取るように分かった。例の英語の話と、それに続く変装に関する遠回しな脅迫が始まったのだ。まさに、厄介な情報を握った生徒がやりそうなこと。彼女が口を開く前から、俺の我慢は限界に近づいていた。
「おはようございます、勇太先生!」
彼女の声は、わざとらしい甘さで、早朝の俺の耳にはまるで攻撃同然だった。
俺は深呼吸をし、どうにか平静を装った。「花宮さん。古典の授業に関して何かご質問でも?」できる限り事務的で、無関心を装って俺は言った。
「実はですわ、先生」と彼女は言い始めた。その瞳が悪戯っぽく輝き、俺に最悪の事態を覚悟させた。「今私が一番困っておりますのは、別の言語なのでございますの。英語と申しますか」
やはり来たか。俺は内心で舌打ちした。
「先生は大変…ご旅行がお好きだと伺いましたわ」彼女はその言葉を不自然なほど強調した。「もしかして、勇太先生は英語もお得意でいらっしゃいますか?」俺は表情を変えずに答えた。
「ええ、花宮さん。職務上必要な程度には、英語の知識も持ち合わせております。古文教師としての学術的な必要性を満たすには十分かと」
曖昧で、事務的な返答だ。これで諦めてくれればいいが。
甘かった。
彼女の笑顔がパッと広がり、まるで特に愚かな鼠を追い詰めた猫のようだった。
「それは素晴らしいですわ!実に完璧です!」彼女は手を叩き、その喜びはほとんど触れられそうなくらいで、そして完全に俺の神経に障った。「と申しますのも、先生、私は英語の授業が是が非でも必要なのでございますの。そして先生ほど…ご経験豊富な方なら、理想的な家庭教師になってくださるでしょう!」
俺は彼女を見つめた。その馬鹿げた要求を処理しようと、頭の中がぐるぐる回った。本気で言っているはずがない。
「花宮さん、失礼ながら、英語の指導に関しましては石田先生が担当教官でいらっしゃると認識しております。私の職務はあくまで古典の範囲内に限定されておりま――」
「まあ、でも石田先生は、あまりにも…型にはまっていらっしゃいますでしょ」と彼女は俺の言葉を遮り、あたかも俺に言われたらコミカルなしかめ面をした。「それに先生は、その…随分と異なる指導法をお持ちのようですし」
彼女の視線は鋭く、まるで例の路地裏での出来事を否定してみろと挑戦しているかのようだった。
「それに」と彼女は続け、声を潜めた。俺の首筋の毛が逆立つような、内緒話のトーン。
「ある臨時教師の本当の正体についての…あらぬ噂が廊下で流れ始めたとしたら、それはそれは残念なことですわね?ご存知でしょうけれど、若者というのは、誰かさんが…おじさん風の特殊メイクの下に、実は若くて驚くほど腕の立つ人物だなんていう、良からぬゴシップが大好きなのでございますのよ」
冷たい汗が俺の背中を流れた。脅迫だ。純粋で、単純な。この小娘は信じられない。
彼女は微笑み、勝利がその顔にありありと刻まれていた。「それで、先生?私たちの英語の個人レッスンはいつから始まりますの?もちろん、先生が、我が校の尊敬すべき新任の古典教師が、実は隠し事の好きな、誰にも負けない護身術の使い手である若者だということを、学校中に知れ渡らせる方をお選びになるのでなければ、ですけれど」
クソが。やられた。そして最悪なのは?彼女はそれを知っていて、楽しんでいるということだ。