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第6話「ゴミ拾い」

花宮陽菜


 休憩時間の廊下は、いつものカオスだった。でも、走り回る生徒たちの騒がしい声も、購買の揚げ物の匂いも、あたしの意識には入ってこない。あたしの頭は、もっと奇妙なこと――どうしても噛み合わないパズルのピースのことで、いっぱいだったから。直美ちゃんと、魁斗くん。


 二人は廊下の壁に寄りかかって、笑いながら話していた。


 笑いながら。一緒に。


 普段、魁斗くんのことなんて鬱陶しい虫みたいに扱ってる直美ちゃんが、身振り手振りを交えて、楽しそうに話してる。ピンクサーモンの髪が揺れて、その顔は生き生きとしていた。そして彼、あの細い眉毛に、水色の瞳の魁斗くんのジョークに、彼女が笑ったのだ。


 あたしの頭の中で、ピシッと何かが繋がった。(そう。ここが事件現場)何かが、絶対におかしい。


 放課後、あたしは逃げられる前に、一番の容疑者を捕まえた。教室でカバンを片付けている直美ちゃんの前に、腕を組んでスッと立つ。


「直美ちゃんと魁斗くん、どういう関係なの?」あたしは単刀直入に聞いた。


 彼女はキョトンと瞬きをした。「は?」


「休憩時間中、ずっと二人でこそこそ話してたでしょ」あたしは探偵みたいに目を細めた。「あんた、普段は彼のこと無視するじゃん」


「別にぃ?ただ、どーでもいい話してただけだし」彼女は、わざとらしいくらいカジュアルに肩をすくめた。


 あたしは、核心を突いた。「彼のことが好きなの?」


 直美ちゃんは、ゴホッと咳き込んだ。顔がトマトみたいに真っ赤になる。「はぁ?!あんたバカじゃないの?!縁起でもないこと言わないでよ!キモい!」彼女の声は甲高くなって、その大げさな反応に、あたしはもう少しで信じそうになった。…もう少しで。


「何なのよ、その変な憶測!」


「ただの観察結果だけど」あたしは、ニヤリと笑って返した。


「じゃあ、その観察、間違ってるから!」


「ふーん、あんたがそう言うなら」あたしは肩をすくめた。でも、疑いの種は、心の中にしっかりと根を下ろした。直美ちゃんが白状しないなら、このミステリーのもう片方の当事者から聞き出すまでだ。


 そうしてあたしは、校舎裏に隠れていた。心臓がドキドキうるさい。魁斗くんが友達と話しているのが聞こえる。ただの男子高校生のバカ話だと思っていたら、そのうちの一人がからかうように言った。


「で、魁斗。お前と高橋さんの件、どうなってんだよ?最近、やけに仲良くねぇ?」


 あたしは息を飲んだ。


 魁斗くんは、あたしが一番嫌いな、あの自信満々の笑みを浮かべた。「ああ、心配すんなって。お前らも知ってんだろ、俺が狙ってんのは花宮さんだけだってな!」


 パリン!


 世界の音が消えた。さっきまでフル回転していたあたしの頭が、シーンと静まり返る。肺から、空気が全部なくなった。


 彼が…何を…?


 その衝撃は、背筋を走る冷たい悪寒に一掃された。建物の影から、木村先生がスッと現れたのだ。完璧な灰色のスーツ、あの深緑の髪。彼は魁斗くんに手招きし、そして魁斗くんは?あたしに告白したばかりの男は、まるで忠実な子犬みたいに、彼の元へ駆け寄っていった。


 胃がキリリと痛んだ。考えるより先に、あたしは二人の後を追っていた。廊下の柱の影に隠れて、必死に聞き耳を立てる。


「……勇太先生に関する噂は…」


 聞こえたのは、それだけ。囁くような、低い声。でも、あたしの心臓を止めるには十分すぎた。噂?ゆうくんの?


 あたしは廊下の真ん中でカチンと固まった。二人の足音が角の向こうに消えていく。


 直美ちゃんと魁斗くんの奇妙な会話。魁斗くんの告白。木村先生の出現。


 バラバラだったピースが、恐ろしい形で繋がっていく。その中心には、いつもゆうくんがいる。ただの男女関係への疑いは、今や、もっと大きくて、危険な何かに変わってしまっていた。


___________________________________________________


 その日の始まりは、囁かれた毒だった。


「見た?竹内先生とフラヴィアンさん、また正門で…」


 廊下で聞こえてきた、一年生の女子二人のヒソヒソ声。


「マジ?あの先生、評判ヤバいらしいよ。なんか、プレデター的な?」


 あたしの血が、カッと頭に上るのを感じた。馬鹿どもが。二人の間を、睨みつけながら通り過ぎる。彼女たちがヒッと息をのむのが分かった。ショッピングモールの事件以来、ゆうくんとフラヴィアンさんの噂は、疫病みたいに学校中に広まっていた。最初はただの好奇の視線だったのが、今では悪意に満ちたものに変わっていた。


 そして最悪なことに、あたしの親友たちがその中心にいるように見えた。


 休憩時間、あたしのターゲットは明確だった。壁に寄りかかって、何事もないように話している直美ちゃんと魁斗くん。…いや、話しているどころじゃない。笑い合っている。普段は魁斗を空気扱いする直美ちゃんが、彼からゆうくんの情報を引き出している。朝からずっと、あたしは遠くから観察していた。「先生、今日の授業で何て言ってた?」「機嫌悪そうだった?」「誰かと話してた?」…そんな風に。そして魁斗は、哀れなことに、嬉々としてそれに答えていた。


(あいつ、利用されてる)あたしの頭の中で、ピーンと何かが繋がった。


 放課後、あたしは直美ちゃんを直接問い詰めた。「直美ちゃん」


「何よ、今度は」


「あんた、何か隠してるでしょ」あたしは腕を組んだ。「勇太先生の噂と関係あるんじゃないの?」


 彼女はギクリとして、箸を落とした。「なっ?!あんたバカ?!あちし、何にも知らないし!」声は震えていたけど、真っ赤な顔が嘘を物語っていた。


「知ってるね」あたしはスマホを取り出して、脅しをかけた。「知らないなら、カオ姉ちゃんに、あんたが裏でこっそり甘えてるって、クラスのグループにメッセージ送ってもいいんだけど?」


 彼女の顔が、赤から真っ白に変わった。「な…なんでそれを…!?」


「待って!分かった、話すから!」


 あたしは勝利の笑みを浮かべて、スマホを下ろした。


「…友美さんだよ」彼女は、観念したように呟いた。「あの人に、魁斗くんを監視しろって頼まれたの」


「魁斗を監視?なんで?」


「知らない!ただ、そうしろって!」


 友美さん…魁斗…そして木村先生。全部、ゆうくんの噂に繋がってる。まさか…木村先生が、ゆうくんが調査しに来たっていう『脅威』なの?魁斗は、その手先?だとしたら、直美ちゃんは利用されてる。そして、あたしは…ゆうくんの『情報屋』。これは、あたしのミッションだ。


「情報、どうも」あたしはそう言って、踵を返した。証拠が必要だ。


 放課後、あたしは職員室へ向かった。計画はリスキーだけど、やるしかない。あたしは最高のパニック顔を作って、ドアを開けた。


「先生!体育館で二人の生徒が、本気の殴り合いを!」


 中にいた三人の先生は、世界が終わるかのように慌てて飛び出していった。


 あたしは彼らの後ろでドアを閉め、カチッと鍵をかけた。ニヤリと笑う。これで、時間は…。


「十分てとこかしら、はるちゃん?」


 冷たく、鋭い女性の声に、背筋がゾクッと凍った。ゆっくり振り返ると、腕を組んだ高橋先生――カオ姉ちゃんが、壁に寄りかかって立っていた。


「何、企んでるの?」


 結局、あたしは全部白状させられた。噂のこと、木村先生への疑い、あたしの「ミッション」のこと。


 驚いたことに、香姉ちゃんはパソコンの椅子に座った。「あいつ、私も嫌いだから」彼女の指が、カタカタカタッとキーボードの上を飛んだ。「あのキザ野郎の化けの皮、剥がしてやりましょう」


 木村大地のファイルが表示される。年齢34歳。独身。血液型O型。普通。普通すぎる。


「時間の無駄だったか…」


 でも、何かが引っかかった。「これ、印刷して」紙を手にして、ピースがはまった。「この履歴書のテンプレート…ネットで二分探せば出てくる、一番安っぽいやつだ。名門大学出の先生が、こんな手抜きなもの使うかな?」


 カオ姉ちゃんの目に、興味の光が宿った。「…あんた、友達ほどバカじゃないかもしれないわね」


 一枚の紙を手に、職員室を出る。証拠じゃない。でも、始まりだ。キムラ先生の完璧な仮面の、最初のヒビ。


 帰り道、あたしは自分の「ミッション」の重さに押しつぶされそうだった。誰にも頼れない。直美ちゃんは利用され、友美さんは信用できない。フラヴィアンさんは…可哀想に、彼女自身が噂の最大の被害者だ。今日だって、中庭でサッカー部の男子が話しているのを聞いた。「フラヴィアンさんには近づくなって。あの新しい先生、彼女を狙ってるらしいぜ」「ああ、年下好きなんだろ、あの人」


 怒りで、息が詰まった。拳をギュッと握りしめる。これを、止めなきゃ。


 あたしは歩道の真ん中で立ち止まった。怖い。でも、ゆうくんの顔が頭に浮かんだ。あたしを守ってくれた、あの怒りと心配に満ちた顔。彼は、この全ての中心にいる。彼に近づけるのは、あたしだけだ。


(どんなカオスになっても、構わない)あたしの胸の中で、決意が固まった。明日、学校でゆうくんを捕まえる。そして、答えを問い詰める。あたしが、これを解決するんだ。


 それは、あたしのミッションだから。

___________________________________________________


 翌日、学校はもわっとした濃い霧に飲み込まれたかのようだった。空気はジメジメと重く、まるで空そのものが息を殺しているかのよう。数メートル先も見えず、校舎や木々の輪郭は、悪夢のようにぼやっと霞んでいた。遠くで雷がゴロゴロと鳴り響き、湿った土の匂いが、廊下にヒソヒソと響く毒々しい囁きと混じり合う。


 勇太先生に関する噂は、もうメラメラと手がつけられないほど燃え上がっていた。


「プレデター」と、彼らは唾を吐きかけるように言った。


「フラヴィアンさんが被害者だ」と、お腹がムカムカするほどの確信を持って繰り返した。


 一言一言がグサリとナイフのように突き刺さり、向けられる視線はすべてが非難だった。


 あたしは廊下に立ち尽くし、胸にファイルをぎゅっと押し付け、まるで霧に窒息させられているかのように心臓がキリキリと締め付けられていた。 もう手遅れだ。その言葉が、冷酷に頭の中でガンガンと鳴り響く。ゆうくんに駆け寄って、叫んで、答えを問い詰めたかったけれど、学校中がもう彼を断罪していた。あたしが近づけば、事態は悪化するだけだ。他の生徒たちの視線が——ある者は好奇心に満ち、ある者は悪意に満ちて——ずしりと鉛のように重くのしかかる。外の霧が、あたしの思考までをもぼやかしながら、そろりそろりと這い入ってくるようだった。


「あたしが来るのが、遅すぎたんだ」と、自分に言い聞かせ、目を焼くような痛みに耐えながら、必死に涙をこらえた。


 事態を収拾するチャンスは、指の間からサラサラと水のようにこぼれ落ちてしまった。


 木村先生は、あの蛇のような笑みを浮かべて、きっとこの状況を楽しんでいるのだろう。そして魁斗くんは…生徒たちの輪の中心にいて、その声はしっかりしていたけれど、彼らしくない口調で、まるで台本を読んでいるかのようだった。


「当たり前だろ?勇太先生には、いつも何か違和感があったんだ」彼の薄い青色の瞳が霧の中でキラリと光ったが、一瞬、彼はためらい、口の端がピクピクと震えた。まるで、その言葉が彼自身を傷つけているかのようだった。


 カッと、あたしの中で怒りが爆発した。椅子からガタンと立ち上がり、廊下を突き進んで、その言葉を彼の顔に叩きつけてやろうとした。でも、直美ちゃんがあたしの腕をぐいっと掴んだ。彼女のオレンジ色の瞳が、あたしの目を射抜き、真剣だった。


「はるな、やめな」彼女の声は低かったが、あたしたちを取り巻く霧のように、しっかりとしていた。


「ありえない!」と、あたしは震えながら、ほとんど壊れそうな声で言い返した。外の霧が、あたしの心臓の鼓動に合わせて、ズキズキと脈打っているかのようだった。


「はるちゃんに何ができるっての?」と、彼女は挑戦的な、それでいて心配そうな口調で尋ねた。


 あたしは口を開いたが、何も言えなかった。その時、ピーンと閃いた。話すべき相手は、魁斗くんじゃない。フラヴィアンさんだ。


 あたしはダッと走り出した。スニーカーが湿った床をキュッキュッと叩く音が響き、直美ちゃんの叫び声が背後から聞こえる中、霧が廊下を飲み込んでいく。彼女の教室にたどり着き、ドアをバーンと開けた。


「フラヴィアンさん!」と叫んだが、教室はがらんとしてほとんど空っぽだった。数人の生徒が、あたしを不思議そうに見つめる中、半開きの窓から霧が忍び込んでいた。


 教室中を見回したが——いない。


 トイレに走った。いない。保健室、食堂、職員室、校長室。どこにもいない。絶望が募り、霧の冷たい空気が肺を焼く。その時、思い出した。ゆうくんの隠れ家だ。あたしはそこへ走った。心臓がバクバクと口から飛び出しそうで、霧が濃すぎて道がほとんど見えなかった。


 彼女はそこにいた。床にちょこんとうずくまり、膝を抱えていた。黒い髪はボサボサに乱れ、泣き腫らした目で赤くなっていた。


「フラヴィアンさん…」と、あたしはかすれた声で呟いた。


 彼女が顔を上げると、その涙が、霧を切り裂く微かな光の中でキラリと光った。直美ちゃんが、ハアハアと息を切らしながらあたしの後ろにたどり着いた。彼女のサーモンピンクの髪が、額にぺったりと張り付いていた。


「マジあんた、ありえない!こんな霧の中、学校中走らせるなんて!」


 あたしが返事をする前に、刃物のように鋭い声が空気を切り裂いた。


「フラヴィアンさん、リラックスして。勇太先生はもう君を傷つけたりしないから」


 魁斗くんが霧の中からぬっと現れた。刈り上げられた髪が湿気で光り、唇には歪んだ笑みが浮かんでいた。しかし、彼の瞳は…まるで他のどこかにいたいとでも言うように、揺れていた。


 フラヴィアンさんは彼をじろりと睨みつけ、その瞳は嫌悪に満ちていた。あたしの怒りが爆発した。あたしが動く前に、彼女の手がひゅっと飛び、パーンという平手打ちの音が、湿った静寂の中に響き渡った。魁斗くんの目は、まるでそれを予期していたかのように、微動だにしなかった。彼は頬を押さえ、その顔は霧の中で青白く見えた。


「二度とわたくしに近づかないでくださいです」と、彼女は涙にもかかわらず、しっかりとした声で言った。


 あたしは彼女の腕を掴んだ。心臓がドキドキしていた。「家に帰ろう、フラヴィアンさん」


 あたしたちは走り出した。あたしたちの足音が、誰もいない廊下にコツコツと響き渡り、冷たい霧がベールのようにあたしたちを包んだ。


「陽菜さん、あなたは何を…です?」と、彼女は弱々しい声で尋ねた。あたしの手の中で、彼女の手首がぷるぷると震えていた。


「この地獄から、あなたを連れ出すの」と、あたしは止まらずに答えた。霧が、一歩一歩を重くしていた。


「でも…こんなことになった後で…です」彼女はためらい、その瞳は恐怖に満ち、霧が鏡のようにそれを映し出していた。


「心配しないで。もう、解決するように頼んであるから」と、あたしは心臓が締め付けられるのを感じながらも、自信があるように言った。


「誰に…です?」と、彼女は怯えたように尋ねた。


 あたしは一瞬立ち止まり、彼女の方を向いて、無理に笑顔を作った。「あなたなら、わかるでしょ?」


 フラヴィアンさんは、戸惑ったようにぱちくりと瞬きをしたが、彼女の唇には、霧の中に消えてしまいそうな、か弱い笑みが浮かんだ。


 校門をくぐると、安堵感は、通りを覆う濃い霧に飲み込まれた。空は暗く、街灯の光は白いベールをかろうじて切り裂くだけで、冷たい風が湿ったアスファルトの匂いを運んできた。あたしたちの前に、二人の男が、ぼんやりとした光を背に、暗い影として現れた。一人は背が高く、革のジャケットを着て、腕を組んでいた。


「そこで止まれ」と、彼は、霧にこもった雷のような、重々しい声で言った。


 ゾクッとして、心臓が速くなった。「あなたたちには関係ない」と、あたしはフラヴィアンさんを別の道へ引っ張りながら言い返した。


 しかし、別の男が背後に現れた。その顔は霧で半分隠れていた。そして、彼の隣には、魁斗くんがいた。その口は震えていたが、薄青い瞳には、何か…罪悪感?恐怖?が浮かんでいた。


「心配しないで、二人とも」と、彼は、まるで言葉が無理やり押し出されているかのように、ためらいがちに言った。「彼らはただ…正しいことをしたいだけなんだ」彼はためらった後、目を地面に落としながら続けた。


 あたしの心臓がずしんと沈んだ。「魁斗くん、あなた、何をしたの?」と、あたしは怒りで震える声で尋ねた。霧がその音を飲み込んだ。


 彼はため息をつき、その顔は緊張していた。「木村先生が、時が来たらこの人たちを呼ぶように言ったんだ…だから、そうした」彼の声は低く、ほとんど詰まっていた。彼は、何かにつかまりたいかのように、シャツの袖をぎゅっと強く握りしめていた。


 冷たい声が霧を切り裂いた。


「ここで何をしている?」


 ゆうくんが現れた。教師の制服は完璧で、ネクタイは緩められ、髪は低い位置でポニーテールに結ばれていた。彼の黄色い瞳が、まるで刃のように霧を切り裂きながら、冷静に、しかし鋭く、その場を観察した。


 男たちは、緊張したように顔を見合わせた。魁斗くんが、わずかに震える指で彼を指さした。


「彼だ」彼の声はしっかりしていたが、彼はゴクリと唾を飲み込み、目をそらした。


 リーダーは、厳しい視線で頷いた。「お前。俺たちと来い」


 ゆうくんは、何の反応も示さなかった。ただあたしたちを一瞥し、その視線はフラヴィアンさんの上で少し長く留まった後、しっかりとした足取りで路地裏へと向かった。霧が、マントのように彼を包み込んだ。 なぜ彼は抵抗しないの? フラヴィアンさんはあたしの手を握りしめ、その呼吸は不規則で、目は大きく見開かれていた。


 路地裏は、錆とゴミの匂いが霧に混じり、薄暗い光が湿った壁をかろうじて照らしていた。ゆうくんは三人の男に囲まれ、その影は、まるで捕食者のように霧の中でゆらゆらと踊っていた。


 フラヴィアンさんが、震える声で言おうとした。「待って!これは誤解です!」


 しかし、一番近くにいた、傷だらけの乱暴な男が、彼女をどんと強く突き飛ばした。彼女は倒れ、その衝撃音は霧に吸収された。


「フラヴィアンさん!」と、あたしは叫び、心臓が喉までせり上がりながら、彼女を助けるために身をかがめた。


 しかし、顔を上げると、大きな黒い影がすべてを覆っていた。鋭い目、怒りに満ちた目。腕を振り上げ、一撃を加えようとしていた。ゆうくんは、さっと素早く、正確に動いた。一発目のパンチが最初の男の顔面にバキッと決まり、その体は空中でくるりと回転し、ドサッという音を立てて倒れた。二番目の男が突進してきたが、ゆうくんはそれをかわし、アッパーカットで顎を打ち抜き、彼を倒した。三番目の男が飛びかかろうとしたが、ゆうくんは腹部を蹴り上げ、彼を地面にゲホゲホと咳き込ませた。あたりは、重苦しい静寂と、息苦しい霧に包まれた。


 感情もなく。ためらいもなく。ゆうくんの、あんなに親しみやすかったはずの瞳は、今や暗く、まるで別人のもののようだった。その瞳が、路地裏を窒息させる濃い霧を切り裂いた。あたしの体はガタガタと震え、足はガクガクし、心臓は、まるで湿った霧に押しつぶされているかのように、ギリギリと締め付けられていた。ピーン、静寂が、刃のように鋭く、あたしの頭の中で鳴り響いた。あたしはフラヴィアンさんを見た——彼女は麻痺し、涙がぽろぽろと頬を伝い、その目はゆうくんに釘付けになっていた。その目には、衝撃と、何か別のもの…安堵?恐怖?が浮かんでいた。あたしには、それが何なのか、分からなかった。霧が、彼女の感情までをも、すべてをぼやかしていた。あたしは魁斗くんを見た。彼は口をぽかんと開けたまま、その薄青い瞳は、まるで英雄を見るかのように、病的な感嘆に輝いていた。その細い眉は上がり、まるでこの光景に魅了されているかのようだった。


 そして、彼はあたしたちを見た。一瞬、彼の顔に衝撃が走った。まるで、今になって初めて、あたしが霧の向こうで、すべてを見ていたことに気づいたかのようだった。静寂は耐えがたく、起こったことの重みで空気が重く、冷たい霧が肌にまとわりついた。


 彼は、かつてあたしを騙した、あの優しい笑顔を無理やり作った。しかし、今ではそれは歪んで、無理があり、まるでそれを維持するのが苦痛であるかのように見えた。「イギリスで軍隊にいたんだ」と、彼は、まるで言葉が彼から引きちぎられるかのように、わずかに震える、落ち着いた声で言った。彼の目は、あたしたちの目を避け、霧の中に迷っていた。


 あたしの脳がフリーズした。あたしは瞬きをし、理解しようとした。軍隊? あたしはフラヴィアンさんを見た。彼女もあたしと同じくらい混乱していることを期待して。そして、彼女はそうだった——彼女の目は大きく見開かれ、口は半開きで、霧が彼女の顔に映る衝撃を映し出していた。でも、魁斗くんは?彼は、まるでその馬鹿げた言い訳が理にかなっているかのように、ゆうくんに対する病的な感嘆で、その薄青い瞳をキラキラと輝かせ、さらに興奮しているように見えた。状況は滑稽で、非現実的だったが、恐怖はまだあたしの胸を締め付け、霧がすべてをさらに息苦しくしていた。


 その時、空気を切り裂く音がした——パチ、パチ、とゆっくりとした、意図的な拍手。その音は、まるで霧にこもった脅威のように、路地裏に響き渡った。


 あたしは、心臓が止まるのを感じながら、首を回した。木村先生が、あたしたちの方へ歩いてきた。その黒いシルエットが霧の中からぬっと現れ、その完璧な茶色のスーツ、正確にとかされた髪、そして唇に浮かんだ傲慢な笑み。彼の一歩一歩は計算され、湿ったアスファルトに対する靴の音は、霧の中の時計のようだった。


「痛みを訴えずにそれをするには、少し年を取りすぎていると思わないか?」と、彼は、霧にほとんど飲み込まれそうな、残酷な楽しみに輝く目で、皮肉を込めて言った。


 ゆうくんは彼を睨みつけ、その表情は硬くなり、まだ握りしめられている拳は血に染まり、湿った髪には霧がまとわりついていた。「毎日運動している」と、彼は、まるで唸り声のような低い声で答え、その言葉は霧を切り裂いた。


 木村先生は、まるで舞台にいるかのように、芝居がかった仕草で両腕を広げた。霧が彼の周りで踊っていた。「それなら、二人だな」彼の笑みは大きくなったが、そこには、あたしの肌をぞくっとさせ、まるで霧がより深い寒気をもたらしたかのような、何か捕食的なものがあった。


「なぜここにいる?」と、ゆうくんは、より重々しい声で尋ねた。その一言一言が重く、霧の中に響き渡った。


 木村はすぐには答えなかった。彼はただ、まるで霧の向こうから獲物を睨む狼のように、ゆうくんに目を固定して、にやりと笑っていた。そして、ゆっくりとした動きで、彼はジャケットの下から何かを取り出した。通りの微かな光が、金属の表面でキラリと輝いた——銃だ。その黒い銃身が、霧の中で冷たく光っていた。彼はそれを持ち上げ、ゆうくんの胸にまっすぐ向け、その指は引き金にしっかりと置かれていた。


 路地裏は、まるで縮んでいくかのように、あたしたちの周りで霧が閉じていき、静寂は、あたし自身の脈拍が聞こえるほど重かった。ゆうくんは、木村に目を固定したまま、微動だにしなかった。その顔は、氷の仮面のようだった。しかし、彼の目には…何かがあった。恐怖でもなく、怒りでもなく、まるで以前にもこれに直面したことがあるかのような、決意があった。


 あたしは麻痺し、恐怖で動けず、何か恐ろしいことが起ころうとしているという確信が、あたしの胸を焼いていた。フラヴィアンさんはあたしの手を握りしめ、その指は冷たく、低い呻き声が彼女から漏れた。


 木村は、その声は柔らかかったが、毒に満ちて、その笑みは今や純粋な憎しみの仮面となり、言った。「ゴミ拾いだ」

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